那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

教条主義の危うさ、武士道のことなど

2013年08月20日 | 世直しのためにどうすべきか

主権回復を目指す会よりメルマガがありました。


『虐日偽善に狂う朝日新聞』(酒井信彦 日新報道)
http://nipponism.net/wordpress/?p=23469

        水道水(言論メディア)に猛毒(虐日偽善)を注入するテロリスト

          <酒井信彦が朝日新聞の虐日とその精神構造を解明>
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朝日新聞と言えば、私が学生時代だから37年ほど前になるが、ウンザリしたことがある。新聞の再販制度を頑なに守る一方で(再販制度とは独禁法の例外で、値引きしない制度。例えば販売店ごとに値引きするとか、売れ残った新聞を翌日半額で売る、という普通は当たり前のルールを違法とすること)、農家に対してルサンチマンの典型のような社説が書かれていた。

要約すれば、「農家は減反政策の助成金で遊んで暮し、何台もの車を所有している」というもので、この程度の人間が社説を書いているのかと呆れた記憶がある。私の叔母には2人兼業農家がいるが、夫は都市部に出稼ぎに行き、残った奥さんは日焼けで真っ黒になるほど働いて一生懸命子供たちを育てていた。減反制度を一番拒否したのは農家自身で、それを推進したのは政府だった。確かに複数の車は保有しているが、作業のために軽トラックは必須であり、農家を継続するために跡取りの子供に車を買って説得する、というのが実体だった。跡取りもまた農業だけでは生活が出来ないので別の仕事に出るためには乗用車が必要だった。

朝日新聞の社員といえば相当の高給取りでアッパークラスに属する筈だが、こういう現実も知らず、再販制度(諸外国では廃止されている)を死守しながら、こうして農家を攻撃し、農産物の自由化となって農家が潰れ、僻地の商店街がゴーストタウンになり、農家は建設土木関係の作業員に転職したが、これも公共事業の予算縮小で所謂「地方の地方」は原爆が投下されたかのように活気を失った。こういう現実を知らずよく社説が書けるものだと思う。

農産物の自給率が40%以下などという先進国は他に無い。自然災害や外交の駆け引き等により、いつ輸入がストップするか分からない、などというのは常に脅迫を受けているのと同じで、国防の面から見ても日本を守るためには自給率が120%程度あるのは当然のことだろう。農本主義は国策の第一に置かれるべきものである。

ところで、前回のブログで原理主義の危うさを指摘し、思想体系は閉じず、開放系である必要を訴えたが、今日は教条主義の危うさについて簡単に触れたい。

あるマルクス主義者との議論の中で、「武士道」という褒め言葉を使ったら「封建制度の中の搾取階級で許せない」との返答だった。また、私の親友が酒場を経営し始めたときに、「遅れた世代の新左翼」の一人が「経営者は搾取階級だから許せない」と同じ反論をしたことがある。全く金太郎アメのような硬直した頭である。

だったら一生アルバイトで暮すのが正しいのか?アルバイトの多くは大企業の下請け労働者ではないか? 自営業や中小企業は労働組合すら存在しない一番苦しい経営者である、という実態が分からないのだろうか?

また武士道=身分差別=搾取階級=男尊女卑、と言った発想は単純な勉強不足で http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai1.htmにあるように、

西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)という人物でした。迫田は城下でも有名な気骨ある武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けています。
 ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました。
 虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指しています。
 つまり、「役人が農民に過剰な税を課すことは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。
 この句には「国の根本をなすものは農民である」という、迫田の信念が表れているような気がします。
 西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。また、迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。

こういう気骨と慈悲の心が武士道の武士道たる所以である。

また、武士の夫婦が外出するとき、主人は手に荷物を持たず、後ろから歩く妻が荷物を持っている姿は映画やテレビドラマなどでもおなじみだが、これは男尊女卑でもなんでもない。武士は軍人であり、いつ敵が物陰や後ろから切りつけるか分からない。そういう時に男が荷物を持っていると、刀を抜く前に荷物を捨てる必要がある。その1秒に足りない瞬間に斬られてしまう。だから妻は、敵が現れたら声を出して危険を知らせると同時に手荷物を敵に投げつける。それでひるむ瞬間に夫は敵を斬り倒す。そういう2人1組のチームプレイが必要とされていた。徳川270年の平和な時代に自然と形骸化されていっただろうが、本来はそういう命がけのチームプレイを夫婦で行っていたのであり、食事のときに夫には一品多くおかずが出るが、それをそっと妻に分け与えるマナーがあった。現代には見られない夫婦愛である。

同様に武士は人通りを歩くときには決して大声で話さなかった。目に見えないところから敵が近づく音や気配に対する勘が鈍くなるからである。こういう事実は「使ってみたい武士の作法」という本を読めば直ぐに分かることなのに、史実よりも自分の固定観念や先入観を優先させるのが教条主義の最大の悪弊である。

私はよく「100%思想が同じということはあり得ない」「最終的には人柄である」と言うのは、右翼でも左翼でも、様々な宗教団体でも、個々の人柄次第で世界観、人生観が全く異なり、この部分で理解し会えば思想の違いは副次的問題になるからだ。私の代表する微笑禅の会は、あえて非宗教としており、宗派を問わず会員になれる、という規約を作った理由の一つは原理主義や教条主義の悪弊に陥らないためである。

我執を捨てる、つまり「自分を勘定に入れない」ことが禅で強調されるのは、自分の固定観念や先入観を優先させず、教条主義に陥らず、君子は豹変すの元の意味の通りに、より優れた思想や、より正確な情報があればそれを取り入れる自在さを重視するからである。

実はこのブログを書く前、日本共産党の綱領を暫く読んでいた。共感する面もあり、共感できない面もあるが、実践において社会主義国家が全て自己疎外に陥り、独裁と粛清を繰返してきたのは、多分「性悪説」(フロイトなどの)や、唯識論における末那識、阿頼耶識(真妄和合識)の理解が欠如しているからだと感じた。簡単に言えば「人間は人間にとって狼である」という根本的な無明への認識が甘く、性善説が前提になっているとしか思えなかった。

だからと言って共産党を罵倒するつもりはさらさら無い。国家権力には健全な批判政党の存在は必須であり、今の日本から共産党が消えたら、と思うとぞっとする。

繰返すが、この未曾有の国難のとき、内部分裂を避け、憂国の志のある人間が打ち解けて手を結ぶには、原理主義を捨て、教条主義を捨て、思想体系を閉ざさず開放部分を残し、人柄を通して理解しあうことだろう。これ以外により優れた方法があれば私は躊躇せずそれを取り入れるつもりである。

深夜を過ぎたのでこれで失礼します。

 



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