むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

クロード・ル・ジュヌ

2005-06-16 20:24:00 | 音楽史
le_jeune_02Claude Le Jeune
Le Printans

Paul Van Nevel
Huelgas Ensemble

クロード・ル・ジュヌ(1528頃-1600)は多才な音楽家であった。シャンソン、ラテン語のモテトゥス、ミサ、あるいはファンタジア、イソリズムやホケトゥスを用いた古いスタイルの音楽、マドリガーレの音画法、複合唱形式など、様々な音楽を試みた。
彼はカルヴァン派の新教徒であったため、弾圧を逃れ各地を転々としていたが、1589年にアンリ4世が即位してから彼に仕え、パリに暮らすようになった。

「春」はル・ジュヌの代表曲でもあるシャンソン集で、当時、ピンダロスやホラチウスなどのギリシア・ラテンの古典文学を規範としながら、新しいフランス語の詩を生み出そうとしていたピエール・ド・ロンサールを中心とするプレイアード派の一員でもあったジャン・アントワーヌ・ド・バイフのテクストに曲をつけたもの。バイフは1570年に「詩と音楽のアカデミー」を創設し、古代人のやりかたに基づいた互いに「韻律的な」詩と音楽の復活をめざした。つまり、古代の流儀で整えられた韻文にモノディーの音楽をつける、いわゆる vers mesures a l'antique 。詩人と音楽家は一体で親密な関係を持ち、こうしてつくられた音楽は魂を調和の取れた状態にし、真の恍惚状態をもたらすとされた。このような思想の背景にはマルシリオ・フィチーノのネオ・プラトニズムがあるが、この思想はフランスとイタリアの文化的接点としてのリヨンにおいて、イタリア文化を吸収したリヨン派の詩人たち、とりわけモーリス・セーヴと、後にプレイヤード派に合流したポンチュス・ド・ティヤールを経由してバイアスがかかったかたちでパリに流れ込んだのだった。ル・ジュヌもこのアカデミーに関わり、詩と音楽を改革する運動の一翼を担った。

フランス語にラテン語の韻律を導入し、それをリズムの長短に置き換えることによって拍子が頻繁に変化するこのシャンソン集はオリヴィエ・メシアンをして「音楽史上最も美しいリズムの記念碑」と言わしめた。

ウエルガス・アンサンブルのこのアルバムは「春」全39曲のうち12曲を収録したもの。

→D.P.ウォーカー「ルネサンスの魔術思想」(平凡社)
第二部 第四章十六世紀におけるフィチーノ魔術 (三)プラトン主義者-ジョルジ、ティヤールとラ・ボドリー、ファビオ・パオリーニ



クレマン・ジャヌカン

2005-06-15 14:37:00 | 音楽史
janequinCLEMENT JANEQUIN
Le chant des oyseaulx


ENSEMBLE CLEMENT JANEQUIN

クレマン・ジャヌカン(1485頃-1558)は、ボルドー近在で僧職についた。1534年にはアンジェ大聖堂で聖歌隊の教師をつとめ、1550年にギーズ公の礼拝堂の楽長となった。

ジャヌカンは250あまりのシャンソンを残した。シャンソンはフランス語による世俗歌曲のことだが、中世の頃は単旋律が主であったシャンソンもルネサンス期にはフランドル楽派の影響下でポリフォニーによるものがつくられるようになった。ジャヌカンの代表的なシャンソンとして知られる「鳥の歌」も通模倣様式によっている。また、この曲は鳥のさえずりを擬音的に模倣しながら、それを口実として裏に性的な意味を仕組んでもいる。

16世紀頃のシャンソンはフランス語の韻律をリズムの長短に置き換え、拍子が頻繁に変化するようなものになっていくなど、リズムを強調する、または舞曲的なものに向かう傾向があった。こうした躍動感とリズム感にあふれた音楽に乗せて歌われる、ときに卑俗ですらある詞は、当時台頭してきたフランスの市民階級の生活感情を反映したものである。

ジャヌカンと同時代を生きたもうひとりのクレマンであるクレマン・マロやモーリス・セーヴといった詩人たちが、時代遅れの頑迷な人間たちに抗い、自由と歓喜、贅沢や快楽を詩によって称揚したのと同様、ジャヌカンのシャンソンも活き活きとして楽しく、遊戯性に満ちていて、世界をさかさまに見る「さかしまの賦(コントルブラゾン)」などによって、それまでの硬直した価値観を軽やかにひっくりかえすのだ。

アンサンブル・クレマン・ジャヌカンの演奏は、その技巧を駆使し、ジャヌカンのシャンソンの持つ遊戯性と風刺性とその裏に実は隠されているユマニストとしての誠実さを余すところなく示している。




パレストリーナ

2005-06-14 01:26:00 | 音楽史
170276PALESTRINA
Missa pro defunctis/Motets
 
 
CHANTICLEER

ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525頃-1594)は、ローマ楽派を代表する作曲家である。パレストリーナは通称で、彼が生まれた町の名前である。彼はフランドル様式を自分のものとし、さらに完全で洗練されたものにした。パレストリーナ大聖堂のオルガニスト兼聖歌隊長、サン・ピエトロのジュリア礼拝堂楽長、システィーナ礼拝堂の聖歌隊員、コレジウム・ロマーヌムの楽長など様々な要職を歴任しながら1571年に再びジュリア礼拝堂に戻り、楽長として死ぬまでその地位にあった。彼は世俗曲はほとんどつくらず、100を超えるミサ曲、350を超えるモテトゥスなど残し、「教会音楽の父」として讃えられ、彼の葬儀にはローマ中の聖歌隊が参加したと伝えられる。

1545年から1563年にかけて、宗教改革の流れに抗してトレント公会議が開かれたが、そこでは教会音楽に関わる多くの事項が修正されることになった。例えば、声楽家と器楽奏者を増員することを禁止したり、ミサ曲に世俗曲の旋律を使用することを禁止したり、複雑なポリフォニーを禁止したり(歌詞が聴き取れるように、ラテン語の抑揚を崩さないために)というように、音楽表現をより純化し、シンプルなものにするように要請された。

パレストリーナの音楽はこうした要請に応えるようにしてつくりあげられたもので、フランドル楽派の通模倣様式を継承し、半音階を避け、音の不自然な跳躍が旋律にあらわれないようにし、あらゆる音が滑らかに流れるようにした。彼のスタイル、つまり教会旋法に基づく滑らかな旋律と三和音を基調とした和声という、音楽の線的な流れ(ヨコ)と和声的な要素(タテ)を対位法によって完璧に調和させることはいわゆる「パレストリーナ様式」として声楽的対位法の模範とされた。

シャンティクリアのこのアルバムは「レクイエム」と連作モテトゥス集「ソロモンの雅歌」からの抜粋など、ミサ曲とモテトゥスを収録したもの。



オルランドゥス・ラッスス

2005-06-13 23:31:22 | 音楽史
lassus_05ORLANDUS LASSUS
Missa Osculetur Me

Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

オルランドゥス・ラッスス(1532-1594)には、少年の頃、あまりに声が美しかったせいで、3回も誘拐されたという逸話がある。彼は少年の頃からイタリアに行き、長く滞在していた。そのため、オルランド・ディ・ラッソとイタリア名で呼ばれることもある。1556年からはミュンヘンの宮廷で活動するようになり、1563年には宮廷楽長の要職に就く。

ラッススは宗教曲、世俗曲問わず、当時のあらゆるジャンルにわたって膨大な量の作品を残しており、その数は2000を超えると言われる。彼は通模倣様式を継承しただけでなく、ヴェネチア楽派の複合唱や言葉と音楽が緊密に結びついた音画法、ジェズアルドを想起させる半音階なども取り入れた劇的な表現へ向かったが、フランドル楽派の最後の巨匠はルネサンス最後の巨匠でもあり、やがてバロックへと至る音楽の転換期のさなかにいた。
この超人的な音楽家も60歳を過ぎた頃には鬱状態になり、その才能も枯渇したかに見えたが、最後に「聖ペテロの涙」を作曲する。これは教会音楽と世俗音楽であるマドリガーレを統合した「宗教的連作マドリガーレ」であった。

タリス・スコラーズの演奏による「ミサ・オスクレトゥル・メ」は複合唱によるミサ曲であり、そのダイナミズムと美しさにはただただ圧倒される。


ハインリヒ・イザーク

2005-06-12 20:49:56 | 音楽史
isaacHeinrich Isaac
Missa de Apostolis

Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

ハインリヒ・イザーク(1450頃-1517)は、1485年にフィレンツェに行き、メディチ家に仕えた。ロレンツォ・デ・メディチの子どもたちの音楽教育をしたり、ロレンツォの詩に曲をつけるなど、ロレンツォにはかなり気に入られていたようだ。ロレンツォの死後はいったんフィレンツェを離れ、ハプスブルク家の宮廷作曲家となり、ヨーロッパ各地を移動するが、1515年にはフィレンツェに戻り、その地で没した。

イザークの作曲活動は多彩にして多作であった。彼は1年分のミサ固有文を教会暦の順に作曲し「コラリス・コンスタンツィヌス」全三巻にまとめた。これに彼の通常文によるミサ曲を合わせれば、1年間の典礼すべてをイザークの曲だけを使って行うことができる。
また、フランス語によるシャンソン、イタリア語によるフロットラ、ドイツ語によるリートなど、世俗音楽にも多くの作品を残し、とりわけドイツ音楽のその後の発展に残した功績は非常に大きいとされている。イザーク以前に、ドイツ語のテクストに本格的に曲をつけた音楽家はいなかったからだ。イザークのまいた種はバロック期に開花することとなる。

タリス・スコラーズのこのアルバムは「使徒たちのミサ」と5曲のモテトゥスが収められている。



ピエール・ド・ラ・リュー

2005-06-11 11:20:50 | 音楽史
la_ruepierre de la rue
messe"L'homme arme"・requiem

dominique visse
ensemble clement janequin

ピエール・ド・ラ・リュー(1460-1518)は、マクシミリアン一世、その息子フィリップ・ル・ボーらに仕え、ハプスブルク家の宮廷でテノール歌手として、あるいは作曲家として活動した。彼もまたフランドル楽派の代表的な音楽家であるが、ジョスカンの影にかくれてしまったせいか、研究も遅れていて、その生涯や音楽にはまだまだ謎が多いようだ。
ラ・リューの音楽は低音域が拡張され、深みが増している。また、技巧的にはカノンにすぐれ、「カノンの王」と称されていたジョスカンを多分に意識し、「ミサ・ロム・アルメ」ではジョスカンを超えるべくその技巧を見せつけた。また、1506年にフィリップ・ル・ボーの死に際して「レクイエム」を作曲したが、これはラ・リューの名曲として多くの録音がある。

アンサンブル・クレマン・ジャヌカンのアルバムは現在は廃盤のようだ。ドミニク・ヴィスのエキセントリックな技巧は世俗シャンソンでは効果的でも宗教曲には違和感が生じるとして、好き嫌いの分かれる演奏ではあるが、敬虔さを求めないのであれば特に問題はないと思われる。




ヤコブ・オブレヒト

2005-06-10 14:16:00 | 音楽史
obrechtJacob Obrecht
MISSA MARIA ZART

Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

ヤコブ・オブレヒト(1457/8-1505)の没後500年にあたる2005年は、それを記念した様々な催しがあるようだ。オブレヒトもまた、フランドル楽派を代表する音楽家であり、生前はジョスカンと並ぶほどの名声を得ていたという。むしろ年下のオブレヒトのほうが、ジョスカンよりも早く名声を得ていたようだ。

オブレヒトはカンブレ、アントワープ、ブルージュなどで要職を歴任した。1504年にフェラーラ公国の招きを受けたが、そこでペストにかかり1505年に没した。彼は当時のフランドルの音楽家たちのようにイタリアで職を得、そこに長く滞在したことはなかった。その理由としては、当時の音楽家はまず、歌えなければならず、作曲の技能は二の次であったことが挙げられる。オブレヒトは歌手ではなかったのだ。

「ミサ・マリア・ツァルト」は演奏時間が1時間を超える、最も長いミサ曲として知られる。時間を忘れ、穏やかにゆったりと流れるこの音楽に全身をひたすこと。



ジョスカン・デ・プレ

2005-06-09 20:36:39 | 音楽史
JosquinJOSQUIN
Missa Pange lingua, Missa La sol fa re mi
 
Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

ジョスカン・デ・プレ(1450-1521)もまた、若い頃にイタリアに滞在した。1459年から1472年までミラノ大聖堂の聖歌隊員であったし、ガレアッツォ・スフォルツァの宮廷でも活動していた。1486年から1494年まではローマ教皇庁で活動し、1500年頃に故郷のフランドルに戻った。マルチン・ルターに「ほかの作曲家は音に支配されているが、彼だけは音を支配している」と言わしめたこの音楽家は、ルネサンス期最大の音楽家として生前から現在に至るまで称賛され続けている。

ルネサンスの音楽様式を完成させたジョスカンの作品は生前から数多く出版され、広く愛唱されていたという。その様式は声部が互いに模倣しあうもので、いわゆる通模倣様式と呼ばれる。当時、作曲家の創意はメロディをつくることにではなく、与えられた旋律をいかに処理するかにあり、ジョスカンは和声・リズム・対位法の処理において高度な技法を駆使したが、作為を感じさせることなく、むしろ自然なものと感じさせた。また、彼は音楽と歌詞の意味をより緊密に結びつけた。このことはのちのマドリガーレにおける音画法や劇的な表現を準備し、さらにはオペラへとつながっていく。

ジョスカンはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)とほぼ同年であり、ともに盛期ルネサンスを代表する芸術家である。ジョスカンの通模倣様式がオケゲム的なポリフォニーの、聴覚的には情報過剰な状態を整理、抑制するものであったのと同様に、レオナルドが絵画の技法として生み出したスフマート(ぼかし)は、すべてを明確に描いてしまうことによる、視覚的には情報過剰な状態を整理、抑制するものであり、ルネサンス期の音楽と美術において、この二人のスタイル・技法は相似した意義と価値を持っているとの指摘もある。
→田村和紀夫・鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)「イタリア・ルネサンスの美術と音楽」

「ミサ・パンジェ・リングァ」はジョスカン晩年の作品であり、通模倣様式の典型である。タリス・スコラーズのアルバムはこの曲の決定盤として不動のもの。カップリングされた「ミサ・ラソファレミ」は、私にまかせろ(Lascia fare mi)と言うばかりで、給料を払ってくれないアスカニオ・スフォルツァへのあてつけであるとのこと。



ヨハネス・オケゲム

2005-06-07 01:19:45 | 音楽史
0724356121928OCKEGHEM
Requiem, Missa Mi-Mi


The Hilliard Ensemble

ヨハネス・オケゲム(1410頃?-1497)は、フランス王室礼拝堂の歌手として、パリ・ノートルダム大聖堂の参事会員として、フランスの三代の王に仕え、晩年はサン・マルタン修道院の財務官となった。

彼はブルゴーニュ楽派を継承したフランドル楽派の最初期の巨匠であり、その作品は高度な技法を駆使し、ポリフォニーのそれぞれの声部が対等で、独自の旋律とリズムを持っているのが特徴で、各声部は癒着することなく、くっきりと浮かび上がるよう緻密に計算されている。濁りがなく透明感のあるその音楽は極めて美しいが、四声のポリフォニーで、それぞれの声部が独立して動くというのは、情報量としてはいささか過剰であり、聴き分けることが容易ではないため、主流にはならなかった。主流となったのは、その後ジョスカンによって確立された通模倣様式である。

オケゲムの「レクイエム」は現存する「レクイエム」としては最も古いものとして有名である。ヒリアード・アンサンブルは精密な演奏で各声部を際立たせ、音楽の構造を明確に示している。


ギョーム・デュファイ

2005-06-05 03:23:48 | 音楽史
dufay_003GUILLAUME DUFAY GILLES BINCHOIS
Ballades Rondeaux Lamentation

Dominique Vellard
ENSEMBLE GILLES BINCHOIS

単純なものから複雑なものに向かうという直線的な進化というものはない。天動説から地動説へというコペルニクスの転回も、地動説を採用した方が簡単な計算で天体の運行を表わすことができるからであったことを思い出だせばいい。

ルネサンス建築がゴシックの大聖堂に比較すれば単純、単調であったように、ルネサンスの音楽もそれ以前の音楽、特に中世末期のアルス・スブティリオールと呼ばれる複雑な音楽に比較すれば単純であるが、この中世の音楽からルネサンスの音楽へという変化においては、音楽が思念的なものから実際に聴くものとして考えられるようになったこと、それまで周辺的な存在であったイギリスの音楽に今までの音楽を活性化する新しい響きを感じ取ったこと、そして音楽を聴くことや演奏することによって心が動かされ、幸福感を感じることを肯定できるようになったということが重要である。

ギョーム・デュファイ(1400-1474)はカンブレ大聖堂の少年聖歌隊員から音楽家としてのキャリアをスタートさせているが、たびたびイタリアにも行き、ローマ教皇庁の聖歌隊員としても活動した。そこではイタリアの音楽だけでなく、様々な諸芸術を見たり学んだりして、単純な形態の幾何学的な配置により、部分間が調和し、全体が統一され、シンメトリックな構造を持つことによって成立するルネサンスの新しい美的感覚を養ったに違いない。
中世からの教会音楽とダンスタブル経由のイギリス音楽、そしてイタリアの音楽。これら様々な音楽が彼の中で出会い、融合し、やがてルネサンスのグローバル・スタンダードとなるような音楽様式をつくりあげていくことになる。甘美な響きを持つ3度音程の使用、低音域の拡大、全声部の同質的統一(和声感覚の強まり)、ミサ曲の楽章間を全体的に統一する循環ミサ(楽章の冒頭動機を統一するものと定旋律に基づいて全楽章を構成するものとがある)などなど。
また、世俗曲を定旋律とすることもおこなわれたが、ホイジンガの「中世の秋」によれば、このことは人々の生活全体が宗教に包みこまれたことにより、日常生活が聖性の高みに持ち上げられると同時に聖なるものが日常の領域に押し下げられることにもなり、聖と俗の境界が次第に曖昧になっていったことを示すものである。
デュファイの通作ミサにおける代表作としては「ミサ・ロム・アルメ」が挙げられるが、これは「ロム・アルメ」というフランスの世俗歌を定旋律に用いたものである。
また、デュファイの世俗曲はバンショワの作品ともあわせてブルゴーニュ・シャンソンと呼ばれ、憂いを帯びた、どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出す音楽である。