趙洲の「狗子」に続いて、次は長沙の「蚯蚓」である。
「竺尚書とふ、『蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審、仏性在阿那箇頭。』
師云、『莫妄想』
書云、『争奈動何。』
師云、『只是風火未散。』」
「蚯蚓斬為両段」について道元は、「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず」と言い、「両頭俱動」について、「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」と言っている。
まず、ここで明らかになることは、蚯蚓が本来的に孤立しているわけではないということ、そして、切れたからといって二つになったということはできないということである。つまり、分別心でとらえたならば、切れた蚯蚓は二つになっていると見えるが、実はこのどちらも蚯蚓であることにはかわりがないのである。「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」というのがこのことを示している。
そして「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」といって、「両段は一頭」ということを定と智の関係としてとらえている。
黄檗と南泉の問答で、「定慧等学、明見仏性、此理如何」というのがあり、ここで道元は定学と慧学を分けることなくただ定慧等学と言っている。
そして道元は、この問いを「仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭」と言い換えてみる。
ここでは、分別心でとらえられないものを分別し、そのうちのどれが正しいのであるかといった、偏った見性を否定しているのである。だからこそ、長沙は「蚯蚓に有仏性」とも「蚯蚓に無仏性」とも言わず、「莫妄想」と言ったのである。
次に、「風火未散」についてであるが、これは仏性は分別できないこと、そして定と慧というように、二つのものを別々にみるのではなく、同時に把握することが求められているのである。つまり、「有仏性」と「無仏性」の同時把握ということになるだろう。この同時把握ということを道元は次のように展開している。
「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。」
いかなるときにも仏性は現前しているということが明らかに示されている。このことを「ほとけ法をとく」あるいは「法ほとけをとく」とも言っている。
先に、「風火の動著する心意識」を仏性とすることを否定しているのであるから、「風火未散」が仏性の現前であることは容易にみてとれる。風火未散であるということは、仏が法を説いていることであり、未散風火であるということは法が仏を説いていることである。ここで「無常のみずから無常を説著・行著・証著せんは、みな無常なるべし」という道元の言葉を想起する必要がある。これは、真の自己となったものは、真の自己の法を説くということであり、この真の自己というのは仏ということであるだろう。諸存在が諸存在そのものとなったとき、それは説として現れる。この説を道元はどのようにとらえているのか、「説心説性」に以下の記述がある。
「おほよそ仏仏祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり、いはゆる心生種種法生の道理現成し、心滅種種法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。」
そして、
「性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず、仏性といふは、一切の説なり、仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは、参学にあらず、無仏性を参学せざらんは、参学にあらず、説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。」
以上のことから明らかになるように、仏性は性であり、これは一切の説である。ここでいう一切は、有と無とを同時に把握するということである。そしてこの説という時節において、心と性とは別々のものではない。しかし、ここでいう心も、性も、現象界を離れた根本原理というようなものではなく、存在が真に存在していること、現成していることをいっているのである。
真理というのはまさに説であり、存在みずからがみずからを説くということであり、それがすなわち現成ということであるならば、真理は表されなければならない。否、すでに表れている真理を道取しなければならないのである。それによって、自己が自己であることが示されるのである。禅において問答が重視されるのはこのゆえである。この場合、古則に依存して形式的に言葉のやり取りをしたところで意味がない。ここで道取ということが問題となる。それは当然に、言語の問題でもある。道元が言語をどのようにとらえていたかを、この道取の考察によってみてみることにしたい。
「竺尚書とふ、『蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審、仏性在阿那箇頭。』
師云、『莫妄想』
書云、『争奈動何。』
師云、『只是風火未散。』」
「蚯蚓斬為両段」について道元は、「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず」と言い、「両頭俱動」について、「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」と言っている。
まず、ここで明らかになることは、蚯蚓が本来的に孤立しているわけではないということ、そして、切れたからといって二つになったということはできないということである。つまり、分別心でとらえたならば、切れた蚯蚓は二つになっていると見えるが、実はこのどちらも蚯蚓であることにはかわりがないのである。「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」というのがこのことを示している。
そして「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」といって、「両段は一頭」ということを定と智の関係としてとらえている。
黄檗と南泉の問答で、「定慧等学、明見仏性、此理如何」というのがあり、ここで道元は定学と慧学を分けることなくただ定慧等学と言っている。
そして道元は、この問いを「仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭」と言い換えてみる。
ここでは、分別心でとらえられないものを分別し、そのうちのどれが正しいのであるかといった、偏った見性を否定しているのである。だからこそ、長沙は「蚯蚓に有仏性」とも「蚯蚓に無仏性」とも言わず、「莫妄想」と言ったのである。
次に、「風火未散」についてであるが、これは仏性は分別できないこと、そして定と慧というように、二つのものを別々にみるのではなく、同時に把握することが求められているのである。つまり、「有仏性」と「無仏性」の同時把握ということになるだろう。この同時把握ということを道元は次のように展開している。
「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。」
いかなるときにも仏性は現前しているということが明らかに示されている。このことを「ほとけ法をとく」あるいは「法ほとけをとく」とも言っている。
先に、「風火の動著する心意識」を仏性とすることを否定しているのであるから、「風火未散」が仏性の現前であることは容易にみてとれる。風火未散であるということは、仏が法を説いていることであり、未散風火であるということは法が仏を説いていることである。ここで「無常のみずから無常を説著・行著・証著せんは、みな無常なるべし」という道元の言葉を想起する必要がある。これは、真の自己となったものは、真の自己の法を説くということであり、この真の自己というのは仏ということであるだろう。諸存在が諸存在そのものとなったとき、それは説として現れる。この説を道元はどのようにとらえているのか、「説心説性」に以下の記述がある。
「おほよそ仏仏祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり、いはゆる心生種種法生の道理現成し、心滅種種法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。」
そして、
「性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず、仏性といふは、一切の説なり、仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは、参学にあらず、無仏性を参学せざらんは、参学にあらず、説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。」
以上のことから明らかになるように、仏性は性であり、これは一切の説である。ここでいう一切は、有と無とを同時に把握するということである。そしてこの説という時節において、心と性とは別々のものではない。しかし、ここでいう心も、性も、現象界を離れた根本原理というようなものではなく、存在が真に存在していること、現成していることをいっているのである。
真理というのはまさに説であり、存在みずからがみずからを説くということであり、それがすなわち現成ということであるならば、真理は表されなければならない。否、すでに表れている真理を道取しなければならないのである。それによって、自己が自己であることが示されるのである。禅において問答が重視されるのはこのゆえである。この場合、古則に依存して形式的に言葉のやり取りをしたところで意味がない。ここで道取ということが問題となる。それは当然に、言語の問題でもある。道元が言語をどのようにとらえていたかを、この道取の考察によってみてみることにしたい。
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