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シェーンベルク

2007-12-24 01:55:50 | 音楽史
Schoenarnold schoenberg
Streichquartette Ⅰ-Ⅳ
 
Dawn Upshaw(s)
Arditti String Quartet

アーノルト・シェーンベルク(1874-1951)はウィーンに生まれた。正式な音楽教育は受けずに独学ではあったが、8歳からヴァイオリンを始め、10歳で初めて作曲を試みた。15歳のときに父を亡くしたため、シェーンベルクは銀行に勤務するようになったが、音楽への情熱は途絶えることはなかった。19歳のときにアマチュアの楽団である「ポリヒュムニア」にチェロ奏者として参加し、そこで楽団の指揮をしにやってきたツェムリンスキーと出会い、シェーンベルクはツェムリンスキーから音楽理論を学んだ。21歳になったシェーンベルクは音楽の道に進むことを決意し、銀行を退職、労働者の合唱団を指揮するなどの仕事を始め、1898年には最初の作品である歌曲がウィーンで初演される機会を得たが、これが大きなスキャンダルを巻き起こした。後年、シェーンベルクは「そしてその日以来、スキャンダルが決してなくなることがなかった」と語った。
1901年、シェーンベルクはツェムリンスキーの妹マチルデと結婚、ベルリンに移り、生活の安定のためにヴォルツォーゲンの「ブンテス劇場」やキャバレー「ユーバー・ブレットル座」の座付作曲家として活動した。
20世紀初頭のベルリンでは、パリのモンマルトルにあるようなカフェ文化を持ち込もうと、いくつかの文芸キャバレーが誕生し、ヴェーデキントやビーアバウム、ヴォルツォーゲンといった作家たちがそこで活躍した。この頃に作曲されたシェーンベルクのキャバレー音楽「ブレットルリーダー」は、ビーアバウムが編纂した「ドイツ・シャンソン集」のなかから歌詞が選ばれている。シェーンベルクにとってはキャバレー音楽も芸術音楽も本質的な違いはなく、同じ方法論で作曲されており、「ブレットルリーダー」に収められた楽曲も、リズム・和声・対位法の綿密な構造体となっている。シェーンベルクの文芸キャバレーでの「道化」や「エロス」の経験は「月に憑かれたピエロ」や「期待」といった作品へ実を結ぶことになる。
1902年、シェーンベルクはリヒャルト・シュトラウスと出会い、彼の紹介によりシュテルン音楽院の教授職を得たが、一年ほどでウィーンに戻り、1904年、30歳のとき、ツェムリンスキーとともに「創造的演奏家協会」を設立した。この協会の名誉会長はグスタフ・マーラーであった。シェーンベルクはこの頃から個人的に音楽を教えるようになり、ウェーベルンやベルクといった弟子を持った。
1907年にシェーンベルクはリヒャルト・ゲルシュトルから絵を学び、表現主義的な作風の絵画を制作するようになり、生計を立てるために画家に転向しようと思ったほど熱中した。ゲルシュトルを介して表現主義者との交流も生まれるが、妻のマチルデがゲルシュトルと関係を持ち、家を出てしまう。翌年、マチルデは家に戻るが、ゲルシュトルは自殺してしまうという、悲劇的な結末を迎えることとなった。「弦楽四重奏曲第二番」には、この痛ましい事件が暗い影を落としていると言われる。
1910年、シェーンベルクはウィーン王立音楽演劇アカデミーの非常勤講師となったが、生活は良くならず、翌年再びベルリンへ向った。その途中に立ち寄ったミュンヘンでカンディンスキーと出会った。ベルリンに着いたシェーンベルクは再びシュテルン音楽院で教えた。

<ahref="http://muragimo.blogzine.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2007/12/24/gpc_work_midsize_495.jpg" onclick="window.open(this.href, '_blank', 'width=224,height=157,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">Gpc_work_midsize_495シェーンベルクと出会ったカンディンスキーはその著書「芸術における精神的なもの」においてシェーンベルクについて言及し、シェーンベルクは1911年のカンディンスキーが主催した「青騎士展」に絵画を出展した。また1912年に刊行された「青騎士」にはシェーンベルクの論考「歌詞との関係」とシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクそれぞれの歌曲の楽譜が掲載された。カンディンスキーは遠近法といった従来の技法にとらわれず、また具象的な外界の対象を描くことなく、いかに「内的必然性」から美や形態を生み出し得るかを模索し、色彩とフォルムだけの純粋絵画に到達した。シェーンベルクは調性を離れ、調性なしでいかに形式的な統一性を得られるかを模索し、十二音技法に到達した。シェーンベルクとカンディンスキーの出会いは絵画と音楽で同時並行的に起こった、新しく創造的な芸術運動の出会いであった。

1913年、ウィーンで初演された「グレの歌」でシェーンベルクはようやく大成功を収めることができたが、翌年、第1次世界大戦が勃発し、シェーンベルクも兵役にとられることとなった。第1次大戦後の1918年、シェーンベルクは同時代の音楽を良質な演奏で提供することを目的とした「私的演奏協会」を設立、この演奏会では批評家の入場は禁止され、ブーイングはおろか拍手さえも禁じられた。
1923年にシェーンベルクは数年前から具現化しつつあった十二音技法による作品を完成し、弟子たちにこの新しい音楽技法を説明した。この年、妻マチルデが肝臓癌で死去、翌年再婚したシェーンベルクはベルリンに行き、1925年にブゾーニの後任としてベルリン芸術アカデミーの教授となった。
1933年にナチが台頭するとユダヤ人教職排除宣言がなされ、シェーンベルクはベルリン芸術アカデミーをやめ、ベルリンを出てパリを経由し、ニューヨークへ渡った。翌年、健康上の理由からロサンゼルスに移り、そこでジョン・ケージと出会い、音楽の個人教授をするようになった。1936年からはUCLAの教授となり1944年まで教えたが、1951年に死去した。

シェーンベルクの音楽的発展は一般的に次のような三つの段階に区分される。

1.ロマン主義の時代(1896-1908)
シェーンベルクは最初はヴァーグナーやリスト、マーラーやR.シュトラウスのような後期ロマン派の様式で作曲した。それらは文学的素材にインスパイアされ、官能的で情緒的な主題を持ち、半音階を多用した大規模な音楽であったが、すぐに後期ロマン派的な大規模な音楽から室内楽に転じた。

2.自由な無調時代(1908-1912)
1908年からシェーンベルクは主調音を避けるようになった。ひとはこれを無調と呼んだが、無調は非=音楽を意味することから、シェーンベルクはそう呼ばれることを拒否した。無調の探求は調性の危機から生じたが、それはカデンツ(不安定から安定を導く運動の図式)からの解放によって、不協和音程を協和音程から解き放つ。このことによって調性に基づく和声のシステムは崩壊した。
不協和の解放には次のような2つのタイプがある。

1.不協和音を不協和音として認識し活用する(R.シュトラウスやストラヴィンスキーによる)
2.協和音・不協和音の区別をなくしてしまう(シェーンベルクによる)

シェーンベルクは主題や動機を調性的な求心性を持たないように構成しただけでなく、主題に基く形式それ自体を放棄した。この時期のシェーンベルクは絵画に強い関心を持ち、表現主義の影響を受け、作者の内面の震動というべきものを既成の法則や形式や理論を一切介在させず、直接響きにしようとした。深い絶望や恐れ、不安といった心理的感情や緊張に満ちた内的葛藤などを音の強弱のコントラストや極端な高音、あるいは音色の変化によって表現した。
シェーンベルクは次のように言っている。

「音楽家が彼の思想を表現するために、調性を用いねばならないという理由は、物理的にも美学的にも存在しない。唯一の問題は、調性を用いることなしにどうやって形式的統一性と自己完結性を得ることが出来るかである」(シェーンベルク「信念と洞察」)

従来のソナタ形式においては、主調での主題の回帰には必然性があった。主題の回帰を促進するのはトニックの安定性によるものであったが、無調ではトニックに代わるものが見つからない限り、主題に回帰する必然性はない。トニックのない状態の中で、音楽は支えを得ることが難しくなり、そこでは調性に代わるような求心性を見出すことはできなかった。シェーンベルクは調性から解き放たれたときに「小品」や「「テキスト」といった限定的な要素によって作品の統一性をかろうじて維持した。

3.十二音技法時代(1923-1951)
調性を用いることなしにどうやって形式的統一性と自己完結性を得ることができるかという問いに対する答として、1912年から1923年の間にシェーンベルクは十二音技法を完成させた。
十二音技法の原理とは次のようなものである。

1.半音階の12の音を任意の順序に並べて音列を作る
2.音列の12の音は同等に扱われる。調性の場合のように主音に関係づけられるのではない
3.協和音と不協和音の原理は放棄される 不協和音は解決や予備が不要となり、完全に解放される
4.統一は水平と垂直という2つの面に織り込まれる12音によるセットあるいは音列によって行なわれる
5.ひとつの12音音列から48通りの形が得られる。基本形、反行形、逆行形、逆行の反行形の4つの形態があり、4つをそれぞれに半音ずつずらして移調した11の移置形がある

これらは12の音を垂直面でも水平面でもあらゆる形で平等に使うルールであり、十二音技法の音楽において、音列を選択するためのルール群は全面的に操作可能なものとして形式化されている。これらのルール群は人工的なものであり、任意に変更可能なものである。シェーンベルクはこの十二音技法によって、古典的な調性の成功を支えていた原理を新しいやり方で再発見し、従来の調性を新しい調性に鍛え直そうとしたのであったが、これにはいくつかの問題点があった。まず、音列概念が曖昧であること、次に音列が音高の組織化しかしないこと、そして作曲者たちによって十二音技法についての考え方が違うことである。こうした問題点を踏まえ、十二音技法のルール群が、後年の作曲家たちによってさらに整備されていった結果、音高、音価、音の強さ、音色をセリー化するトータル・セリエリズムの音楽が生み出された。これは音列より高次の構造である群や集合へ向かうが、形式的合理化が進めば進むほど感覚的な整合性はおきざりにされる結果となった。

シェーンベルクの音楽について、アドルノは次のように書いている。

「シェーンベルクの音楽は、最初から能動的かつ集中的な共同遂行を要求する。すなわち、同時的進行の多重性に対するもっとも鋭い注意、次に何が来るかいつもすでに分っている聴き方というありきたりの補助物の概念、一回的な、特殊なものを捉える張りつめた知覚、そしてしばしばごく僅かの間に入れ換わるさまざまな性格と二度と繰り返されないそれらの歴史を正確につかむ能力などを、それは要求する」

グレン・グールドはシェーンベルクの和声的発展には本質的に三つの段階があるとしながらも、それは、調性、無調、十二音といった区分ではないとして、一般的な区分をしりぞけた。
グールドによれば第一段階のシェーンベルクは、どんなに近接していようと離れていようとふたつの和音があればそれらを関係づけることのできる仲介役としてのリンクを準備しており、
第二段階のシェーンベルクは、接続リンクとしてのこのリンクの役割を放棄してしまって、リンクの持つ、たっぷりと緊張を孕んだありようの方をそれ自体として利用しようとする。サスペンスを孕んだ仲介役はついに自律性を獲得してソレ自身ヲ目的トシテ活動するに至る。この自律性の方が、仲介役の潜在的解決能力より優先してしまうという。そして第三段階のシェーンベルクは、不協和な掛留音の役割を最小限に抑える。このような最小限の結合構造を使って、新しい三和音に相互関係が生まれているような印象を与えるように不協和音を配置することをグールドは「低出力不協和音結合」と呼び、シェーンベルク晩年の調性回帰について次のような見解を示す。

「アメリカ時代に顕著なと言われるシェーンベルクの保守主義とは、実は調性的技法の革新的な使用法だったということになるんだ。まさしく十二音技法を追求したがために調性的技法に行き着いた。つまり、それがあったからこそ準調性的体制の範囲内で調性的語法を再使用することになったわけだ」

→グレン・グールド「グールドのシェーンベルク」(筑摩書房)
→船山隆「シェーンベルクのキャバレー音楽」(ユリイカ1984年6月号「特集=表現主義」所収)
→佐野光司「表現主義の日々」(ユリイカ1984年6月号「特集=表現主義」所収)
→カンディンスキー/マルク「青騎士」(白水社)
→ジャン=ジャック・ナティエ「音楽記号学」(春秋社)
→矢向正人「言語ゲームとしての音楽」(勁草書房)
→テオドール・W・アドルノ「アルノルト・シェーンベルク」(ちくま学芸文庫「プリズメン」所収)