むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ボッケリーニ

2005-12-24 21:23:58 | 音楽史
1951334_pBOCCHERINI
QUINTETTES AVEC CONTREBASSE

Chiara Banchini
ENSEMBLE415


ルドルフォ・ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)はイタリアのルッカに生まれた。父親はチェロ・コントラバス奏者であった。
この父親とルッカの大聖堂の楽長であったフランチェスコ・ヴァスッチからチェロの手ほどきを受け、幼少時から音楽の才能を示したボッケリーニは13歳でデビューした。1757年からはローマに行き、ジョヴァンニ・バティスタ・コスタンツィのもとでさらに音楽を学んだ。ルッカに戻ってからは地元の楽団で活動し、その後、ウィーンの宮廷楽団で活動するようになった。1764年にいったんルッカに戻るが、この頃にミラノのサンマルティーニの下で演奏活動もおこなった。1766年の父の死後、ヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレディと組んでヨーロッパ中を演奏旅行してまわり、1768年にパリで大成功をおさめ、このことがきっかけでパリのスペイン大使からマドリッドに来るように依頼された。1769年からスペインのドン・ルイスの宮廷に作曲家・チェロ奏者として雇われ、ドン・ルイスが死去する1785年までマドリッドに滞在した。その翌年からフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のベルリンの宮廷に雇われ、多くの室内楽作品を生み出した。このフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死後はマドリッドに戻り、年金で生活するようになったが、貧窮のうちに過ごし、妻子の死、また自らも病気がちで公の場に出ることもままならなくなり、忘れられた存在となって死去した。

ボッケリーニは生前、チェロ奏者として有名で、歴史上最高のチェロ奏者とされている。彼の室内楽作品はチェロ・パートが目立っていて、高い演奏技術が求められ、メロディを受け持つだけでなく、時にはヴァイオリンよりも高い音を出すこともある。

ボッケリーニの室内楽は弦楽三重奏が66曲、弦楽四重奏が100曲、弦楽五重奏は141曲、シンフォニアは30曲ほどある。しかし、生前から彼の楽譜は改竄され、原典版に近いものを探すのは現在でも困難だという。また、スペイン市民戦争のときにも多くの楽譜が焼失してしまったという。

ボッケリーニの音楽についてアンナー・ビルスマは次のように語っている。

「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチコチ、小さな時計がチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は"静か”で、誰も動いてはいない……」

ボッケリーニの音楽は同時代のハイドンのように主題を展開させなかったことを批判されたり、音楽的構造の弱さを「ハイドン夫人」と揶揄されることもあったが(「ハイドン夫人」のあだ名については、ボッケリーニがハイドンの音楽を愛し、しばしば演奏していたことからつけられたという説もあり、悪妻で名高いハイドンの実際の妻がボッケリーニに嫉妬し、彼に平手打ちをくわせるためにわざわざマドリッドまで行ったというエピソードもある)、現在ではその繊細で明るく、精妙な響きを持つ音楽は高く評価され、ボッケリーニは18世紀の重要な作曲家とされている。

→鈴木秀美「ガット・カフェ」(東京書籍) 
「ボッケリーニの音楽 The Great Clock Shop」



ヴァンハル

2005-12-18 20:21:25 | 音楽史
vanhalVANHAL
SYMPHONIES


CONCERTO KOLN

ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739-1813)は、農家の息子としてボヘミアに生まれた。幼い頃から音楽の才能を示し、オルガン奏者、聖歌隊長、ヴァイオリン奏者の職を得た。このときの演奏をシャーフゴッチ伯爵夫人に見出され、1761年、ウィーンに行くことになり、ディッタースドルフに学んだ。その後、ブルク劇場のオーケストラの職を得た。1769年頃にオペラを学ぶためにイタリアに行ったが、そこでグルックと出会い、影響を受けた。
ウィーンに戻ってから、ヴァンハルは精神障害のために楽長職に就くことができなかったと言われているが、作曲に専念したいがために、それを口実に定職に就くことを拒んだとの見方もある。いずれにせよ、ヴァンハルはこれといった定職もなく、作曲と音楽教師で得られる収入だけで生活した。その意味で、フリーランスとして成功した最初の作曲家とも言われている。
彼は70曲を超える交響曲を作曲し、協奏曲やオペラ、室内楽や鍵盤作品などあわせて700曲ほどの作品が残っているが、フリーであったために多数の作品を出版しなければならなかったこと、精神障害というわりには創作のペースが衰えなかったことから、やはり精神障害は彼の偽装であったのではないかと思われる。

彼の音楽は古典派初期を代表するものであり、イタリア、ドイツ、チェコの要素がうまく融合した魅力的な旋律とリズムと主題のコントラストを特徴としている。
彼の短調の交響曲は「疾走する悲しみ」の系譜としてハイドンとモーツァルトの間に位置している。聴く者の肺腑をえぐるこのような情調はモーツァルトの天才のみがなせるものとして語られることが多かったが、ヴァンハルの短調の交響曲の存在は、このような見方を相対化するものである。


ディッタースドルフ

2005-12-15 01:33:30 | 音楽史
ditterDITTERS VON DITTERSDORF
SINFONIAS AFTER OVID'S METAMORPHOSES

Bohumil Gregor
Prague Chamber Orchestra

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739-1799)は、オーストリア宮廷歌劇場付きの仕立て屋の息子としてウィーンに生まれた。1761年にウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者となり、1763年にはグルックとともにイタリアへ行き、そこで新しい音楽を吸収するとともに、ヴァイオリンの名手としての名声を得た。1765年にはミヒャエル・ハイドンの後任としてハンガリーのグロスヴァルダインの楽団の楽長となり、1770年から1795年までシャーフゴッチ家に使え、ブレスラウの宮廷楽長として活動した。1772年にはマリア・テレジアから貴族の称号を与えられ、ディッタースドルフを名乗るようになった。1780年頃からはウィーンを中心に活躍し、1786年にはオペラ「医者と薬屋」で大成功を収めた。ディッタースドルフは劇場のマネジメントもしており、高い収入を得ていたが、その額はグルックやモーツァルトの比ではなかったという。興味深いエピソードとして、ディッタースドルフは親交のあったハイドン、モーツァルト、そしてヴァンハルと一緒に弦楽四重奏を演奏したというのがある。

当時の音楽家として頂点を極めたディッタースドルフではあったが、1795年のシャーフゴッチ伯爵の死後、最大のパトロンを失った彼はどうにか食いつないでいける程度の年金で暮らすことを余儀なくされ、幸せな晩年を過ごすことはできなかった。音楽家としても忘れられ、楽譜の出版もされなくなってしまった。こうした状況の中で彼は自作の整理と死の2日前まで自伝の執筆を続けた。

ディッタースドルフには20曲あまりのオペラと100曲を超えるシンフォニアをはじめ、室内楽など様々なジャンルで数多くの作品があるが、長い間演奏されることもなく眠ったままとなっていた。オヴィディウスの「変身物語」を題材としたシンフォニアも本来は12曲であったものの半分が散逸してしまった。この、オヴィディウスの「変身物語」で語られる情景や雰囲気、気分などを音楽的に表現しようと試みたシンフォニア集は、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」のような標題交響曲の先駆的な作品として知られている。


J.C.バッハ

2005-12-14 02:19:20 | 音楽史
jcbachJ.C.Bach Sinfonias Op.6,9,18
Overture"La calamita"

David Zinman
Netherlands Chamber Orchestra

ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)は、J.S.バッハと2番目の妻アンナ・マグダレーナとの間の子で、ライプツィヒに生まれた。父J.S.バッハが亡くなったのがヨハン・クリスティアンが15歳のときだった。彼は21歳年上の兄カール・フィリップのいるベルリンに行き、そこで当時最先端の音楽文化に触れた。1754年頃にはイタリアに行き、マルティーニ神父に対位法を学び、ミラノではサンマルティーニからの影響も受けた。1760年からミラノ大聖堂でオルガン奏者として活動し、宗教音楽をいくつか作曲した。そしてプロテスタントからローマ・カトリックに改宗した。
ヨハン・クリスティアンはオペラに強い関心を持ち、バッハの一族では唯一オペラを作曲した。彼の作曲したシンフォニアはイタリア的な3楽章形式で、第3楽章にメヌエットを置いた4楽章形式のものではなかったことも含め、彼は何よりもイタリア音楽から強い影響を受けており、ラテン的な感性を持っていた。
1760年、トリノで「アルタセルセ」を上演したことがきっかけとなって、ヴェネツィアやロンドンから招かれるようになったヨハン・クリスティアンは、1762年にロンドンに行き、それから20年もの間、彼はイギリスで最も人気のある音楽家となった。1763年にヴィオラ・ダ・ガンバ奏者で作曲家でもあるカール・フリードリヒ・アーベルと出会い、シリーズでジョイントコンサートを開催するようになったが、このコンサートは大好評で、ロンドンで最も重要な音楽イヴェントとなった。また、ヘンデルの後継者として王室の音楽教師も務めるようになり、女王とその子どもたちに音楽を教えるとともに、王がフルートを演奏するときには伴奏をした。

ヨハン・クリスティアンとモーツァルトとのつながりは音楽史的に重要で、1764年に彼はロンドンで当時8歳のモーツァルトと出会い、一緒にハープシコードを弾いたり、フーガを作ったりするなど、親密な関係を持った。イタリア的な伸びやかな旋律や暖かく、センシティヴなオーケストレーションなど、若い頃のモーツァルトの楽曲にはヨハン・クリスティアンからの影響が強く感じられる。二人はパリで再会するが、その数年後、ヨハン・クリスティアンの死を知ったモーツァルトは「ピアノ協奏曲K.414」をヨハン・クリスティアンに捧げた。


ヨハン・ショーベルト

2005-12-13 01:42:39 | 音楽史
schobertBOCCHERINI FIELD SCHOBERT
KLAVIERKONZERTE

Eckart Sellheim(Pianoforte)
Collegium Aureum

ヨハン・ショーベルト(1730頃-1767)は1760年頃からパリで活動するようになった。1763年頃にパリを訪れたモーツァルトが彼の演奏を聴き、多大な影響を受けたことが知られている。ショーベルトの音楽は高度な技術に裏打ちされた情熱的で奔放な表現力を特徴としていて、華やかなテクニックが当時の聴衆に喜ばれ、またたくまにピアニスト、作曲家としての名声をかちえた。しかし、ショーベルトがパリに来る前の経歴については詳しいことはほとんど知られていない。ただ、彼が人気の絶頂期に毒キノコによる中毒で死んだということだけは彼を語るうえでは欠かせないよく知られたエピソードである。
ショーベルトはヴァイオリン伴奏付きのクラヴィーア・ソナタを数多く書いたが、コンチェルトも書いていて、憂いを帯びた緩徐楽章が印象的である。

音楽とキノコといえば、ジョン・ケージが思い浮かぶ。辞書に music と mushroom が隣り合わせになっていることからキノコに興味を持ったという話があるが、キノコが1本1本まったく違ったもので、分類から逃れていく汲み尽せないものであることから、常に自分を新しくし続けること、常に新しくあり続ける音楽といったものを導き出したケージも、毒キノコを食べて死にかけた経験があったという。



ヨハン・シュターミッツ

2005-12-11 00:31:16 | 音楽史
stamitzJohann Stamitz
Symphonies Vol.1

Donald Armstrong
New Zealand Chamber Orchestra

ヨハン・ヴェンゼル・アントン・シュターミッツ(1717-1757)はボヘミアのネメツキー・ブロートに生まれた。シュターミッツはオルガニストであった父から音楽の手ほどきを受けた。1728年にはイエズス会のギムナジウムに入り、1734年頃にはプラハの大学に入学した。1743年にマンハイムの宮廷オーケストラの第一ヴァイオリン奏者として活動、1745年頃にはコンサートマスターになり、指揮をするようになった。1750年には音楽監督としてマンハイムのオーケストラを指導した。1754年にパリに行き、コンセール・スピリチュエルに出演した。彼の音楽はパリ、ロンドン、アムステルダムで出版された。

シュターミッツはナポリ派のオペラ序曲から発展したシンフォニアを急-緩-急の3楽章形式からメヌエットを加えた4楽章形式にし、現在の交響曲の土台を築いただけでなく、プファルツ選帝侯カール・テオドールの宮廷オーケストラをヨーロッパ最高のオーケストラに育てた。このオーケストラを中心に活動した音楽家たちをマンハイム楽派と呼ぶ。

18世紀中頃になると、音楽は教会や貴族の社会から市民社会へ開放されるようになり、「わかりやすさ」や「快さ」が求められるようになった。楽譜も通奏低音のように数字だけではなく、弾くべき音をすべて記すようになり、華やかな旋律とシンプルな伴奏による、わかりやすく演奏も容易な音楽になっていった。この時代は対位法を駆使したポリフォニックで複雑な構造を持つ音楽は、人工的で自然の美を損なっていると批判されるようになった。

シュターミッツの音楽は最弱音から最強音に至る音の強弱の大きなコントラストやクレッシェンド、打ち上げ花火風の主題、トレモロ奏法などを特徴としている。当時の美学者シューバルトによれば「雷のようなフォルテ、瀑布のようなクレッシェンド、穏やかな川の流れのようなディミニュエンド、ピアノは春の息吹」と形容されるものであった。音量の強弱による効果と様々な楽器を重ね合わせることによる色彩感の効果により、ダイナミックな表現が可能となったのである。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
第十一章 バッハ・ヘンデルの後継
→田村和紀夫、鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
第3章 古典派-人格の表現としての音楽-


グルック

2005-12-08 22:18:51 | 音楽史
gluckGluck
Don Juan Semiramis
Ballet Pantomimes
Bruno Weil
Tafelmusik

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は、ボヘミアの貴族であるロブコヴィッツ家に仕える林務官の息子として生まれた。14歳のときに家を出てプラハに行き、オルガン奏者として活動をし、プラハ大学で勉学に励んだ。1736年にはミラノに行き、宮廷のヴァイオリン奏者として活動した。この頃、サンマルティーニのもとで対位法や作曲を学んだ。
グルックの最初のオペラ「アルタセルセ」は1741年に完成し、上演された。それをきっかけとしてグルックはヴェニスやトリノなど各地に招かれるようになった。1745年にはロンドンやドレスデン、ハンブルクなど、ヨーロッパ各地を訪れた。結婚をした1750年頃からグルックはウィーンを活動の拠点とするようになり、王室や貴族からも厚遇された。

ドゥラッツォのもとで宮廷歌劇場の仕事をするようになり、数々のコミック・オペラを手がけるようになっていたグルックは、1761年から台本作家のカルツァビージや振付師のアンジオリーニとコラボレーションし、「ドン・ファン」や「オルフェオとエウリディーチェ」を生み出した。これらの作品はブルク劇場で上演された。
1773年には音楽教師として仕えていたマリー・アントワネットに従い、パリで活動するようになった。翌年「アウリスのイフィゲニー」が上演されたが、これをきっかけにイタリア・オペラ派とフランス・オペラ派とのあいだで論争が繰り広げられた。グルックは初期の作品をパリの観客のために改訂し、次々と上演していき成功を収めたものの、健康がすぐれずウィーンに戻り、その数年後に死んだ。

グルックはオペラの改革者として知られている。
オペラはもともと古代ギリシャ悲劇を再現しようとして生まれたものであり、モンテヴェルディの第二作法がそうであったように、音楽は言葉に従属するものとされた。しかし時代がくだってナポリ派になると台本は軽視され、オペラはカストラートやプリマドンナがその技巧を見せつけるためのものになり、、作曲家は歌手の下僕になっていた。これには歌、旋律を中心とする音楽観が主流をなしてきたという背景があった。その一方でバレエや芝居が中心で音楽はそれらを助けるために用いられるフランスのオペラがあった。このため、イタリア・オペラとフランス・オペラのどちらが優位にあるかが何度となく論争の対象となっていた。
グルックの時代になると、和声的な形式が充実し、転調や色彩感によって、ダイナミックに感情を表現できるようになり、従来のように歌手の技巧に依存しなくてもよくなった。グルックのオペラ改革とは「歌劇から名歌手の至上権を剥奪して和声的な発展を蔵する形式を創造し、そこから生まれる感情の進展を歌劇の根底」とするものであった。グルックは1769年に出版された「アルチェステ」の序文において、リトルネッロや歌手の装飾的なアリアを音楽の流れを損なうほどに乱用することを避け、物語の状況表現を通じて、音楽を、詩に役立つという本来の役割に制限するよう記し、清澄で簡潔で、造形的な音楽の創造を目指した。そこでは旋律も全体の音楽組織の一部分であり、グルックは音楽全体の構造のバランスを重視したのであった。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫) 第十三章 グルック
 



C.P.E.バッハ

2005-12-05 20:57:33 | 音楽史
cpebachCPE BACH SYMPHONIES


Gustav Leonhardt
Orchestra of the Age of Enlightenment

バロックと古典派の間の一時期を一般的に「前古典派」と呼ぶ。この時期を1740年から1770年にかけてとすることもあるが、もとより明確に区分できるものではなく、J.S.バッハの息子たちの世代と考えるのがわかりやすい。パウル・ベッカーは、J.S.バッハが死去した1750年が大きな区切りであるとし、J.S.バッハ(祖父)とモーツァルト(孫)の間の父親の世代を前古典派ととらえている。この時代は先代の残したものを守り、次の世代のために準備をするという、教育者の時代であったという。しかし、この時代を単なる過渡期として軽視してはならないのであって、19世紀に至るクラシック音楽の土台は、この時期に築かれたといっても過言ではない。この時代からバロックの典型的な対位法や通奏低音が排されるようになり、歌うような主旋律が中心となったよりシンプルで感覚的な音楽になっていった。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)は、J.S.バッハの最初の妻であったマリア・バルバラとの間の子としてヴァイマールに生まれた。兄にヴィルヘルム・フリーデマンがいて、彼はバッハの兄弟中、最も才能があると言われながらも大成せずに終わった。カール・フィリップの名付け親はテレマン。

カール・フィリップは父から音楽を学び、15歳の頃から教会などで父親と一緒に演奏会に参加するようになった。ライプツィヒの大学やフランクフルトの大学で法律を学び、コレギウム・ムジクムなどで音楽活動もし、父親の作品を上演したり、大学の祝典や結婚式の音楽を演奏したりもしていた。また、この頃、オルガンやハープシコードを教えたりもしていたという。

1738年に法律の学位を取得した後、同年からフリードリヒ大王に仕えるようになった。大王は音楽愛好家として芸術を庇護し、宮廷での音楽活動も活発におこなわれていたが、1756年に七年戦争が勃発すると、大王は軍事力の増強に力を注ぐようになり、音楽から離れてしまった。この頃からカール・フィリップと大王との関係はうまくいかなくなっていった。

かねてから転職先を探していたカール・フィリップに転機が訪れたのは1768年、名付け親であるテレマンが死去し、その後継者としてハンブルクの音楽監督となったのである。この職はドイツで活動する音楽家にとっては羨望の的ともいえる要職であったが、5つの教会のための音楽や都市で行われる様々なイベントのための音楽を手がける激務であり、カール・フィリップはテレマンほど超人的な活動をすることはできず、しばしば他の者の音楽を用いたので、そのことで最初は非難されたこともあったようだが、しかし、次第に名声をかちえ、生前は父のJ.S.バッハよりも高い名声を得た。鍵盤奏者としてもヨーロッパ中にその名を知られていた。

カール・フィリップの音楽は「多感様式」と呼ばれる。これはテンポや雰囲気がめまぐるしく、そして激しく変化し、フランス的なロココ様式の繊細さとは違う、ダイナミックな情感を表現するもので、文学でいうシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)に対応するものとされる。彼の音楽はとりわけハイドンに多大な影響を与えていて、サンマルティーニからの影響は否定したハイドンではあったが、カール・フィリップから影響を受けたことは認め、賛辞を惜しまなかった。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
「第十一章 バッハ・ヘンデルの後継」
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
「第四章 ウィーン古典派と啓蒙のユートピア」



サンマルティーニ

2005-12-04 01:05:00 | 音楽史
sammartiniGIOVANNI BATTISTA SAMMARTINI
SYMPHONIES AND OVERTURES

Roberto Gini
Orchestra da Camera Milano Classica

ジョヴァンニ・バティスタ・サンマルティーニ(1700頃-1775)はミラノに生まれた。彼の父親はオーボエ奏者で、フランスからミラノに移住してきた。サンマルティーニは父親から音楽の手ほどきを受けた。兄ジュゼッペも音楽家であり、主にロンドンで活動した。
サンマルティーニはその生涯をほとんどミラノで過ごしたが、1720年頃には教会のオルガニストとして、あるいは宗教音楽の作曲家として有名になっていた。それ以後は、シンフォニアの作曲家として知られるようになった。彼の音楽は歌うような旋律と軽快なリズムによる明るさが特徴となっている。
サンマルティーニは交響曲の始祖の一人として、バロックから古典派への橋渡し的な存在として重要である。彼はグルックの師であったし、J.C.バッハやハイドンに影響を与えた。また、ボッケリーニは彼の指揮下で演奏したことがある。

交響曲はオペラの序曲として用いられたシンフォニアを起源とする。アレッサンドロ・スカルラッティらのナポリ派のオペラで用いられた急-緩-急という三部構造を持ったいわゆるイタリア式序曲がオペラとは独立して演奏されるようになったのである。サンマルティーニの交響曲は急-緩-急の三楽章形式であるが、やがてマンハイム楽派によって、メヌエットが加えられ、四楽章形式が一般的になっていく。


J.J.フックス

2005-12-03 14:30:17 | 音楽史
fuxFUX
Sonate e sinfonie

Lajos Rovatkay
Capella Agostino Steffani

ヨハン・ヨゼフ・フックス(1660-1741)は農家の息子としてオーストリアのヒルテンフェルトに生まれた。若い頃の記録は残っていないが、1680年にグラーツのグラマースクールに入学し、1683年にはインゴルシュタットの大学に在籍したとされている。その後、イタリアで作曲を学び、オーストリアに戻ってきたのは1695年頃、その翌年にはウィーンのスコットランド教会のオルガニストとなった。そこでの活動が認められ、1698年からレオポルド1世の宮廷で活動するようになった。1705年からは聖シュテファン教会のカペルマイスター、1713年からカール6世の宮廷の副楽長に就任、その2年後には楽長となった。
フックスには「パルナッソスへの歩みあるいは作曲規則の手引き」と題された(GRADUS AD PARNASSUM Sive MANDUCTIO AD COMPOSITIONEM MUSICAE REGULAREM)という著作がある。これはパレストリーナ様式に基づくとされる対位法の教則本であり、ラテン語で書かれており、1725年に出版された。師と弟子の対話形式で音楽の理論と実践が記述されたこの本は、時代遅れの厳格な法則を守る保守的なものとして批判を受けたりもしたが、1742年にミツラーによってドイツ語に翻訳され、この翻訳はバッハの書棚に架蔵されていたし、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといったウィーン古典派の作曲家たちもこの本で対位法の勉強をした。
「パルナッソスの歩み」はその後の音楽の教則本に踏襲されて現在に至るが、パレストリーナ様式に基づくとされながらも実はそうではなかったこと、フックスの厳格対位法が音楽の文法的な知識しか伝えない、実際の作曲には役に立たないものであることなどが指摘されている。とはいえ、バロック末期からその後のウィーンを中心とする音楽文化と大作曲家たちにフックスが影響を与えたことは確かである。
彼の死後、その音楽のほとんどは忘れられ、「パルナッソスの歩み」の著者として人々の記憶に残った。フックスの再評価は、モーツァルトの楽曲を成立年代順に整理したことで知られるルートヴィッヒ・フォン・ケッヘル(1800-1877)が400曲ほどの作品をジャンルごとに整理し、1872年に作品目録を出版してからのこと。

→ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
 「第二章 テキストとしての音楽と作品としての音楽」