むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

アントン・ブルックナー

2006-12-29 05:04:25 | 音楽史
BrucknerAnton Bruckner
SYMPHONIE NR.9
 
Eugen Jochum
Berliner Philharmoniker
 
アントン・ブルックナー(1824-1896)はオーストリアのアンスフェルデンで生まれ、教師でありオルガン奏者でもあった父親から音楽の手ほどきをうけた。ブルックナーは父親の仕事を手伝いながら、自分も父親と同じく教師になることを望んだ。13歳のときに父親が死去したのを機に、ブルックナーは聖フローリアン修道院に入り、聖歌隊に入隊し、オルガンやヴァイオリン、音楽理論を学んだ。その後、教師となったブルックナーはオーストリアのいくつかの村で教師やオルガン奏者の仕事に就いたが、21歳のとき聖フローリアン修道院に戻り、オルガン奏者となった。1851年までその仕事を続けながら、ミサ曲など宗教音楽の作曲をするようになった。
ブルックナーは1856年にリンツ大聖堂のオルガン奏者となり、この仕事を12年間続けた。この頃からウィーン音楽院の教授で有名な音楽理論家であったジーモン・ゼヒターのもとで対位法を学び、1861年からはリンツ歌劇場のオットー・キツラーから管弦楽法を学ぶようになり、この勉強はブルックナーが40歳になるまで続けられた。1865年にミュンヘンでヴァーグナーの「タンホイザー」や「トリスタンとイゾルデ」を知り、新しい和声法がもたらす音楽的な効果に衝撃を受けた。このときブルックナーはヴァーグナーと初めて会う機会を得た。翌年にはベートーヴェンの「交響曲第9番」を聴き、強い影響を受けた。
そしてブルックナーは1868年にウィーンに出て、ゼヒターの後任としてウィーン音楽院の教授となり、オルガンと音楽理論を教えるようになった。この頃、ブルックナーはパリやロンドンでオルガンの即興演奏を披露し、オルガン奏者として高い評価を得た。1875年からはウィーン大学の講師もするようになり、この講義には学生だったマーラーがいた。1878年にはウィーンの宮廷楽団のメンバーになった。
このウィーン時代にブルックナーは交響曲の作曲に没頭するようになったが、彼の交響曲は、粗野であるとか、無意味であるとか、あるいは演奏不能といわれ、しばしば演奏を拒絶されるなど、激しい批判に晒された。とりわけ、1873年にブルックナーが「交響曲第3番」をヴァーグナーに献呈し、ヴァーグナー協会に入会してからは、ヴァーグナー派とブラームス派との対立に巻き込まれ、反ヴァーグナー派でウィーンの楽壇に強い影響力を持っていたハンスリックから、ことあるごとに酷評を受けることになった。これに耐えかねたブルックナーはハンスリックに自分を批判することをやめさせるよう、皇帝に嘆願したと言われている。
ハンスリックも最初はブルックナーを好意的に評価していたように、ブルックナーの交響曲は実際はブラームスと同様、絶対音楽であった。ハンスリックがブルックナーを批判するようになったのは、ブルックナーがヴァーグナー派に寝返り、自分を裏切ったと感じたせいもあったかもしれないが、ブルックナーの交響曲が次第に大規模になり、ハンスリックの理解を超えてしまったということもあっただろう。この常軌を逸した音楽に対しては、ブルックナーの支持者さえも、そのまま演奏したのでは聴衆の理解を得られないと考え、省略したり編曲したりして演奏したほどであった。
毀誉褒貶に晒されながらも、ブルックナーの評価は1880年頃から安定してくる。「交響曲第7番」や「テ・デウム」が成功を収め、1890年には「交響曲第8番」を初演した。ブルックナーは1891年にウィーン音楽院を退職し、「交響曲第9番」に取り組んでいたが、最終楽章を完成させることなく1896年に死去した。

ブルックナーの交響曲はベートーヴェンの「交響曲第9番」とヴァーグナーの和声の影響を受けたもので、スケルツォにはオーストリアの農民のダンスが生かされている。とはいえその音楽は全く個性的なものであり、次のような特徴を持つ。

・第1楽章が弦楽器のトレモロから始まるブルックナー開始
・楽想が変化するときにオーケストラ全体を休止させるブルックナー休止
・オーケストラ全体でユニゾンをおこなうブルックナーユニゾン
・一つの音型を繰り返し音楽を効果的に盛り上げていくブルックナーゼクエンツ
・(2+3)あるいは(3+2)の5音音型によるブルックナーリズム

フルトヴェングラーはブルックナーの音楽について次のように語っている。

「ブルックナーはあらゆる意味で後期ロマン派の芸術的方法論の遺産の継承者であると言ってよろしい。彼はすでにもう全面的に、音楽の世界が細部的センセーションに、個別的な刺激の中に解体してゆく時代のただ中に立っていました。彼はこの時代の音楽的方法を、どこでどうぶつかろうと、手当たりしだい、なんの逡巡するところなく適用して憚るところありませんでした。それをことさら回避しようとするような態度は微塵もありません。―しかもなお彼は、彼であるところのあるがままの本質を崩しませんでした。彼の周囲の世界を見渡してみても、あのリヒャルト・ワグナーによって、全然これとは別の目的のために創案された音の世界と和声法とを、自分自身の目的のために自由に駆使するだけの力を持っていたのは、ブルックナー一人であったように思われます」

また、フルトヴェングラーはブルックナーを「時代からはみ出て外に立っていた」音楽家と言い、「ただ永遠なるものを思念し、不滅者のためだけに創作した」と言った。ブルックナーの交響曲には様々な版がある。この中には彼の友人たちが修正を加えたものだけでなく、ブルックナー自身による改訂もある。同じ作品を何度も書き直したこともブルックナーの大きな特徴であるが、フルトヴェングラーはこれをブルックナーの音楽の本質に関わることとして次のように語っている。

「ブルックナーの場合は、まるで一つの作品が、彼にとって内面的に永久に完成しえないかのような印象を与えます。まるでこの無辺無限の拡散的な音楽の本質の中には、自分自身をのり超え、つき抜ける仕事は永久に完成できない、永久に「決定的」になることができない、と言ってでもいるかのように」

Bruckner_4マーラーはブルックナーのことを「半分は神、半分は馬鹿」と言ったという。フルトヴェングラーもまた、ブルックナーについて「彼に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪いとって、我々人間的世界の中へ持ち込み、我々の世界に植えつけること」であったとして、ブルックナーをプロメテウス的な存在として見るとともに、「強壮な逞しい単純性と高次な精神性との混血」であると言っている。それは普遍妥当なるものへの意志に貫かれているとするが、フルトヴェングラーは真の普遍妥当性について次のように語っている。

「真の「普遍妥当性」は、上と下との間になんの合一しがたい対立もなく、国民的=卑俗なものの中に、神のような自然の高貴な恵みが盛られているところ、至高また崇高なものの中に、芸術家が愛する大地の母胎を、足下に失わないでいるところ、―ただそこにのみ普遍なるものが存在しているのです」

そして、ブルックナーの音楽こそ、「単純を求める意志、純潔さと偉大さ、表現の逞しさを今日の人間のものとなしうることを示し」たとし、ブルックナーを讃えた。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)
→テオドール・W・アドルノ「マーラー」(法政大学出版局)


ヨハネス・ブラームス

2006-12-23 03:47:40 | 音楽史
HetzelBRAHMS
Violin Sonatas
 
GERHART HETZEL(vn.)
HELMUT DEUTSCH(pf.)


ヨハネス・ブラームス(1833-1897)はハンブルクで生まれた。彼の父親はコントラバスやホルンを演奏する音楽家で、ブラームスはこの父親からピアノやホルン、チェロなどの手ほどきを受けた後、エドゥアルト・マルクスセンから本格的なピアノのレッスンを受けた。このレッスンを通じて、ブラームスはピアニストとして優れた技術を獲得するとともに、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといった古典派の音楽を愛するようになった。
ブラームスの家庭は裕福ではなかったので、彼は生活のためにレストランや居酒屋でピアノを弾いたり、通俗的な音楽を作曲したりして稼がなければならなかったが、民謡や通俗音楽を演奏したこのときの経験はその後のブラームスの音楽にも流れ込んでいる。ブラームスは教会音楽からジプシー音楽まで、彼の時代のあらゆる音楽語法を活用し、それらを自らのスタイルにおいて統合した。
1853年、ブラームスはハンガリーのヴァイオリニスト、レメーニイの伴奏者として演奏旅行をしたが、そのとき、ワイマールでリストと会う機会を得た。リストはブラームスの音楽を例によって初見で弾いてみせ、かなりの関心を示したが、それ以上のことはなかった。その後に長年の友情で結ばれることになるヨアヒムやシューマン夫妻にも会った。ブラームスとの出会いは、シューマンに10年ぶりにペンを執らせた。「新しき道」と題された評論でシューマンはブラームスを絶賛した。

「今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人、しかも段々と脱皮していって大家になってゆく人でなく、ちょうどクロニオンの頭から飛び出したときから完全に武装していたミネルヴァのような人が、忽然として、出現するだろう。また出現しなくてはならないはずだと。すると、果して、彼はきた。嬰児の時から、優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が」

ブラームスがシューマンに示したのはピアノ曲や歌曲、そしてヴァイオリン・ソナタや弦楽四重奏曲であったが、シューマンはブラームスの演奏や音楽にすっかり魅了され、大きな期待を寄せた。

「今後、彼の魔法がますます深く徹底して、合唱やオーケストラの中にある量の力を駆使するようになった暁には、精神の世界の神秘の、なお一層ふしぎな光景をみせてもらえるようになるだろう」

リストやヴァーグナーの「新ドイツ楽派」の、感傷と官能性で膨張した音楽に共感できなかったシューマンは、音楽に再び均衡と節度をもたらす存在としてブラームスに望みを託した。それはブラームスに重くのしかかったが、彼は1868年に合唱を伴った「ドイツ・レクイエム」で成功を収め、1876年には構想に20年あまりを費やした「交響曲第1番」を完成させた。古典的な管弦楽法を固守したこの交響曲はハンス・フォン・ビューローに「ベートーヴェンの10番目の交響曲である」と言わしめた。しかし、このように古典主義的な態度に徹しながらも、ブラームスならではの個性は、主題を種々の楽器に割り当てるオーケストレーションや「交響曲第3番」にみられるような、オクターヴにわたる幅広い旋律や低音楽器を強調したオーケストレーションによる暗い色調に現れている。
また、ブラームスの音楽はすべてにおいて室内楽的な性格を持っているとされる。それは、音楽の充実を規模の拡大にではなく、高密度な表現に求めた結果であった。彼の音楽の特徴として、いわゆる「網目のような楽節」と呼ばれるものがある。これはパウル・ベッカーによれば「対位法様式に依って、和声の各声部の細緻を極めた網目が織られ、旋律が織り重ねられる結果、楽句は目のつんだ圧縮されたものとなり、その中に主題と和声とリズムとが交錯し、縺れ合ってゆく」ものである。このような和声を編み絡めていく手法で、ブラームスはJ.S.バッハと結びついている。

ブラームスは1857年にデトモルトの宮廷で音楽教師となり、1862年にはウィーンに行き、ジングアカデミーの指揮者となった。この頃、ヴァーグナーに批判的な立場で論陣を張っていたハンスリックと会う。ハンスリックはそれまで支配的であった感情美学を批判し、「音楽の内容とは鳴り響きつつ運動する形式である」として音楽が劇的もしくは標題的な観念で束縛されることを拒否する絶対音楽を標榜した。こうした考え方は20世紀のフォルマリズムにつながっていくものであるが、その根源はやはりロマン派であり、例えばホフマンの次のような音楽論とも呼応する。

「音楽を独立の芸術として取り上げるならば、いつも器楽曲のみを念頭において問題にすべきだろう。器楽曲は他の芸術の援助も混入も一切拒否して、音楽芸術にしかない独自のものを純粋に表現しているのである。この音楽こそあらゆる芸術のうちでもっともロマン的なもの―唯一純粋にロマン的な芸術と言ってよいだろう。―オルフェウスの竪琴は冥府の門を開いたのである。音楽は人間に未知の国を開いて見せてくれる。そこは人間を取りまく外部の感覚世界とはいささかの共通点もない世界で、人間は言葉で説明できる感情を棄て去って、名状しがたいものに帰依する」(E.T.A.ホフマン「ベートーヴェン・第5交響曲」)

ハンスリックの批判に対してリストやヴァーグナーも反論を展開し、この論争は19世紀末まで続くことになる。ハンスリックは、オペラを作らず、標題のついた作品もほとんど作らず、音楽以外のものを表現しようとしなかったブラームスを絶対音楽を体現する作曲家として支持したため、この論争はヴァーグナー派対ブラームス派というかたちで、あるいはブルックナー派対ブラームス派というかたちで、革新と未来を擁護する立場と伝統を重んじる立場との対立となって、ときには互いに中傷しあうまでになった。

しかし、保守的とされるブラームスが革新的な音楽家でもあるとしたのがシェーンベルクであった。彼はブラームスの晩年の音楽を「発展的変奏」と呼んだ。これは核となる楽想(基礎形態)から主題や旋律を発展させる原理であり、基礎形態が多様性や新しさを生み出しながら、まるで成長するように変化していくことをいう。シェーンベルクはこれを18世紀以来の西洋音楽を支える原理と考え、その典型をブラームスに認めた。これはゲーテのいう植物の継時的メタモルフォーゼ、すなわち葉が次第に萼、花弁、果実、種子になっていくことと結びつくが、ゲーテを介してウェーベルンの音楽につながっていく。

1872年から75年にかけて、ブラームスは好楽家組合の指揮者として活動し、そこで16世紀から19世紀にわたる音楽を演奏した。この頃からウィーンに定住し、1879年にはブレスラウ大学から名誉博士号が贈られた。またC.P.Eバッハやクープラン、シューマンやシューベルト、そしてショパンといった作曲家の楽譜の編纂もし、死ぬまでの20年間は指揮者としてヨーロッパ各地を回るなど精力的な活動を続けていたが、クララ・シューマンの死の翌年、肝臓ガンで死去した。

フルトヴェングラーはブラームスについて、「時代に対立することによって現代の危機を体験した最初の人」と言った。


→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→「ドイツ・ロマン派全集9 無限への憧憬」(国書刊行会)
→エドゥアルト・ハンスリック「音楽美論」(岩波文庫)
→カール・ダールハウス「音楽史の基礎概念」(白水社)
→ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「自然と象徴」(冨山房百科文庫)
→ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)


リヒャルト・ヴァーグナー

2006-12-17 20:51:20 | 音楽史
TristanRichard Wagner
TRISTAN UND ISOLDE
 
Karl Bohm
Bayreuther Festspiel
 
 
レヴィ=ストロースはギアナのアレクナ族から採集された神話に出てくる「毒」と「人間と動物との結婚」というモチーフに着目し、これらが「文化のまっただなかに自然的な力を挿入し、自然と文化のあいだに、一種のショートをおこさせて、そこに玉虫色のあやしい混合体をつくりあげてしまう」ものとして機能していると言い、さらにこの神話に結びついている「虹」と虹が原因で引き起こされると言われている「病気」をあわせて「半音階的なもの」と呼ぶことで、音楽と神話が人間の精神のなかで近いところにあることを示した。
半音階は全音階のように安定したインターバルで分離されている音と音の間を短いインターバルを持った別の音で埋めていくものであり、これによって一種の中間状態をつくり、流動的に揺れ動く状態を実現する。このような半音階は人間の自然としての情動に直接結びつくことができる。

ロマン派の時代になると、音楽家の関心は無限の流動体としての和声とあらゆる色彩の混合体としての管弦楽に向かった。自由な転調によって和声は分解され、旋律も同様に解体されて半音階や多彩な音色によって和声のなかに溶けこんでしまうようになった。バロックの時代には低音が、古典派の時代には旋律が、それぞれ音楽の中心を担っていたのだったが、ロマン派に至って音楽の中心は和声の響きとなった。こうして音楽は、客観的に構築されるものから言葉にならない様々な感情がないまぜになった情動や現実を超えた理念や詩情を表現する媒体になった。このようなロマン派の和声法を最も効果的に駆使し、聴衆を陶酔の渦に巻き込んだのがリヒャルト・ヴァーグナーであった。
ヴァーグナーはロマン主義の理想であった諸芸術の統一を「楽劇」というかたちで企てた。それは「形象化された音楽の行為」と呼ばれ、音楽における和声の転調や旋律の進行、リズムの躍動を音が演じる行為=劇と考え、舞台上の諸情景は音楽の具体化であるとする。音楽と舞台、あるいは和声と演技は本質的に同一のもので互いに不可分のものであり、彼の「楽劇」はいわば音楽の視覚化となる。それ自体劇的な要素を備えた彼の音楽は、リストの半音階的手法や主題変容の技法、あるいはベルリオーズの色彩豊かな管弦楽や固定観念をより発展させたものである。

ヴァーグナーはショーペンハウアーの音楽観にも影響を受けた。ショーペンハウアーは芸術を理念の再現と考え、それを存在の根源である意志の客観化ととらえた。しかし、諸芸術のなかで音楽だけは抽象的で、具体的な事物を模写しないため、音楽は意志を直接的に客観化するものであり、それゆえに音楽の作用は他の芸術よりも力強いとした。彼によれば意志は一方では理念に客観化され、他方では音楽に客観化されるのだが、理念と音楽には並行関係があるという。その関係は例えば音楽の和声を構成する4つの音は、低い順に鉱物、植物、動物、人間に対応するといったものである。
ショーペンハウアーにとって、音楽はそれ自体が自立した存在だから言葉と結合する必要性はないと考えたが、ヴァーグナーは「音楽動機の運動や形成や変化は、類推的にドラマと似ている、そればかりではなく、イデーを表現しようとするドラマはただ運動し、形成し、変化する音楽動機によってのみ、完全にはっきりと理解される」として、音楽と言葉が結合することを正当化している。

ヴァーグナーには総合芸術を論じた「芸術と革命」、「未来の芸術作品」、「オペラとドラマ」といった著作がある。ヴァーグナーは古代のギリシャ悲劇を範とし、すでに分化してしまったあらゆる芸術を総合することによって、最も完全でただそれだけが真であるような芸術作品を創造することを目指した。そのときに基準となる芸術は詩と音楽であり、ヴァーグナーは詩を男性、音楽を女性とし、両者の婚姻によるドラマの生殖作用を説き、音楽はドラマの効果を高める手段であるとした。この企ては、16世紀に人文主義者のサークルであるカメラータがギリシャ悲劇の復興を目指してつくりあげたはずのオペラが今では堕落してしまったとして否定し、それを乗り越えるとともに、ヴィンケルマンの古典主義とドイツ・ロマン派による「新しい神話」の系譜に連なるものであった。ヴィンケルマンは古代ギリシャを模範とすることで、源泉としての自然に回帰することを主張し、その思想はルソーとともに啓蒙主義的な進歩思想を揺るがすほどの影響を与えた。ドイツ・ロマン派はシュレーゲルを典型とするが、現代の文学においては古代において神話がそうであったような中心点が欠けているとの認識に立ち、「新しい神話」を精神の最も奥深い深みから汲み上げて形成しなければならないとした。神話は機知と類似していて、全てを結合し、また変形するものであり、これこそが神話の内的生命であり、方法であると言った。そしてシュレーゲルは「新しい神話」を観念論に求め、これを革命に結びつけたが、ヴァーグナーも古代ギリシャへの遡及を単なる復古ではないと主張した。

「しかしながら復古ではなく、まさに革命こそあの最高の芸術作品をわれわれに再び与えることができるのである。われわれが眼前に有する課題は、すでに一度解決されたそれよりも無限に大なるものである。ギリシャの芸術作品が一個の美しい国民精神を包含していたとすると、未来の芸術作品は、国民性の一切の限界を超越した自由な人類の精神を包含するべきである。未来の芸術作品中の国民的本性は、妨害的な制限ではなくて、個性的多様性の飾りであり、魅力でありさえすればよい。それゆえにわれわれは、ただギリシャ文明だけが再び作るようなものとは全然ちがったものを創らなければならない」(ヴァーグナー「芸術と革命」)

総合芸術の企てとは、かつて自明なものとして人々に共有され、ある時代、またはその社会を支える現実的な基盤としての精神を再び、そして新たに生み出そうとするものであったが、この総合芸術が、自然と文化の間をショートさせることによって生み出された「玉虫色のあやしい混合体」であったとしたらどうか。ニーチェは処女作「悲劇の誕生」において、生成激動するディオニュソス的原自然の生命に帰一して生きること、根源的な故郷である自然へ回帰することだけが健康なドイツ文化を回復させることができるということをヴァーグナーに仮託して説いたのだったが、バイロイト祝祭劇場で「ニーベルングの指環」の実演に触れて以降、それまでの態度を覆し、ヴァーグナーを攻撃する側に回った。ニーチェは「ヴァーグナーは音楽を病気にした」と言った。そしてヴァーグナーを純粋な者を誘惑する俳優であるとし、嘘つきでさえあると言った。しかしながら、ニーチェのヴァーグナー批判はむしろヴァグネリアンであった過去の自己に向けられたものであり、ヴァーグナーをドイツ化する俗物たちに向けられたものであった。

ハイデガーによれば、総合芸術とは文字どおり、各種の芸術は相並んで実現されるべきではなく、ひとつの作品の中に結集されなくてはならないものであるが、そこにはさらに、芸術作品は民族共同体の祭典であり、すなわち「宗教そのもの」であるべきだという意味も含まれているという。しかし、ハイデガーはヴァーグナーの楽劇を現実には音楽が芸術の本体になったものとし、それを「すべての堅固なものを解体して、流動的な軟弱なもの、暗示を受け易いもの、もうろうと漂うものへ融かしこみ、節度も法則も限界もなく、透明で明確なものを欠き、ひたすらに沈んでいく途方もない夜」であるとして、次のように述べる。

「ヴァーグナーは、芸術をもういちど更めて絶対的な要求にしようとするわけであるが、しかしその絶対者は、もう今となっては、ただまったく無規定なもの、単なる感情へのまったき解消として、虚無の中へ縹渺と暮れ沈んでいくものとしてしか経験されなくなっている。してみれば、ヴァーグナーがショーペンハウアーの主著を四度も精読して、そこに彼の芸術の形而上学的な認証と解明を見出したのも不思議ではない」(ハイデガー「ニーチェ」)

こうしてハイデガーはヴァーグナーによって感情的陶酔の刺戟や情動の充溢こそが生の救済だと信じられた総合芸術の試みを結果的に挫折したものであると結論づけるのだが、そこには芸術を単なる感情状態から理解し評価する芸術観があるとし、それが感情状態を野蛮化して放恣な感情の沸騰や亢奮にしていくとした。ハイデガーはヴァーグナーがディオニュソス的なものの単なる亢進とその中での漂蕩を求めたのに対し、ニーチェはむしろディオニュソス的なものの抑制と造形を求めたとして両者の差異を指摘する。また、ショーペンハウアーが美的状態を意志を停止させること、あらゆる努力を沈静化すること、純然たる休息、もはや何事も意志しなくなって無感動に漂っていることとしたのに対し、ニーチェはそれを陶酔による自己超出、形式創造の力に求めたとした。ニーチェの言うように「ヴァーグナーの音楽は泳ぐこと、漂うことであって、歩くこと、舞踊することではない」としたら、「玉虫色のあやしい混合体」をうまくコントロールし、ヴァーグナーを「人類の理想への旅の終点」とするのではなく、いかに陶酔の呪縛から逃れ、離脱するかが課題となるだろう。

1885年にマラルメはヴァーグナーについてエッセイを書く。マラルメにとってヴァーグナーは「悪気のない、輝かしい勇敢さで、詩人の務めを横取りしようとする存在」であった。

「他ならぬ詩のなかに、宇宙の諸々の事物のあいだの相関関係を映し出し、諸々の事物の純粋な概念を現前させる力を求めている現場に、ヴァーグナーの音楽は、まさに求められている力を誇示しながら出現した。それは詩にたいする挑戦であり、詩人の義務と権能にたいする侵犯である。こうして音楽が詩から奪いとった富を詩のほうにもう一度奪いかえすべく、マラルメは音楽にたいして反挑戦を開始することになる」(菅野昭正「ステファヌ・マラルメ」)

マラルメの「書物」。宗教的な儀式、演劇的な性格、宇宙と等価につりあうような書物の構想。全20巻、4部構成。「操作者」1名を含む25名が「書物」に参加。各巻は24の倍数である384ページを含み、4部に分割される。その4部が対合されて96ページの第5部が生まれる。「操作者」が紙片をよみ、ついで8名ずつの3つのグループに分かれた参加者がそれぞれ順に朗読を繰り返す。

リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)はライプツィヒで生まれた。幼少期のヴァーグナーは、「魔弾の射手」に夢中になり、歌劇場での練習の帰りに家の前を通りかかるウェーバーを畏敬の念をもって眺めていたというエピソードが示すように、音楽に関心がないわけではなかったが、ピアノの基礎的な練習になじめず、むしろギリシャ・ラテンの古典文学やシェークスピアに親しみ、それらを手本とした大悲劇を構想するなど、文学に関心を寄せていた。
ヴァーグナーが音楽に本格的に目覚めたのは、ベートーヴェンの音楽を初めて聴いた15歳のときからだった。ライプツィヒ大学の学生時代は、放埓な生活を送った時期もあったが、トマス学校の合唱指揮者をしていたヴァインリッヒと出会い、彼のもとで対位法などの音楽理論を学び、半年ほどで習得、1833年頃から指揮者として活動を始め、ヨーロッパ各地を転々とした。パリでは不遇の生活を余儀なくされるが、この頃の経験を題材に「ベートーヴェンまいり」や「パリに死す」などの小説を発表するなど、雑誌へ寄稿をするようになった。1843年からドレスデンでザクセン王国の宮廷劇場指揮者として活動するが、1849年にドレスデン蜂起の主犯格とみなされ、追われる身となった。リストの尽力でスイスのチューリッヒに亡命し、数年間の逃亡生活を続けるが、その間、総合芸術について論文を書いて出版した。
1872年、ヴァーグナーはバイロイトに移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けてバイロイト祝祭劇場の建築を始めた。この劇場は1876年に完成し、「ニーベルングの指環」全曲が初演された。1882年には最後の作品である「パルジファル」が完成し、バイロイトで初演した。その後、ヴァーグナーはヴェネツィアへ向かい、翌1883年、滞在中のヴェネツィアで心臓発作のため死去した。

→ワアグナア「ベエトオヴェンまいり」(岩波文庫)
→ワーグナア「芸術と革命」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)
→ニーチェ「悲劇の誕生」(岩波文庫)
→ニーチェ「偶像の薄明」(角川文庫)
→ハイデガー「ニーチェ1」(平凡社ライブラリー)
→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」(中央公論社)
→筑摩世界文学大系48「マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボー」(筑摩書房)
→今道友信編「精神と音楽の交響」(音楽之友社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→中沢新一「虹の理論」(新潮文庫)
→信太正三「永遠回帰と遊戯の哲学」(勁草書房)
→菅野昭正「ステファヌ・マラルメ」(中央公論社)