Robert Musil(1880-1942)
ロベルト・ムージル「特性のない男」(松籟社)
●生体解剖保存法
「高度の厳密さと極端な分解、数学的な定式化の無限定の交換と、不定形なものあるいは定式化されないものの追求」
(ブランショ「来るべき書物」)
細分化するイロニー。
「思考は語を概念に分節する。そして結合している予感の塊を思考は分解する。それは細分化のイロニーである。われわれの戦術とは、いたるところで諸要素をばらばらにし、その各部分のどこにも、世界が再び現れるのを是が非でも回避することにある」
(ジャンケレヴィッチ「イロニーの精神」)
物体を諸要素に分解すること、現実を生体解剖すること。
ドゥルーズはそのべケット論「消尽したもの」において、先のブランショの一節を引用している。「一切の可能性を排除しないために何もしないこと、またそうすることによって一切の可能性を尽くしてしまう」べケットとムージルの交感。遠くにダンテのベラックヮがじっとうずくまっている。
可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)。
デュナミスとは力、強さを意味し、エネルゲイアは行為を意味する。アリストテレスにおいて運動(キネーシス)は可能態から現実態への移行であり、それは多様な可能性を持っている質料(ヒュレー)が一つの性質を現実に持つ、すなわち形相(エイドス)を得るということであり、こうしてそれは完成態(エンテレケイア)となる。可能態にとどまることは、特性を持たないままにとどまること、完成することを拒否するということだ。常に別の何かになりうる能力を担保するため「いまだ……ない」状態にとどまる。これがムージル的「力への意志」である。
「イロニー的人生とは、したがって純粋の否定であり、相対性である。それはどこにも停止せずに、個々の現実の間をさまよう。イロニーの富は、ある特定の像を選び取るのを拒否することにほかならない。イロニーは敵にも味方にも同じように悪戯をし、皆を裏切ったために、気紛れな行動をしながら、孤独で、痩せ衰え、醒めきっている」
(ジャンケレヴィッチ 同上)
イロニーが陥る危険から逃れるためか、半ば唐突に現れる愛という主題。これによって、現実的なものに先立つ可能的なものに優位性を与えることが現実の浄化ともなり、ここに千年王国と呼ばれるユートピアが提示されることになる。イロニーが先鋭化し、あらゆる幻想を呵責なく嘲笑すればするほど、繊細なまでに愛の再生を支援する。
しかし、この愛が成就することはない。
「不思議だね、この瞬間にも多くの人間が生死を賭けて戦い、動物たちが互いに襲いあい、無数の活気ある仕事が営まれているんだからね」
(ムージル「特性のない男」)
死体解剖保存法という法律を見つけたとき、ドゥルーズを介してムージルとベケットの交感を見つけたとき、ジャンケレヴィッチとムージルがイロニーにおいて結びついたとき、私もわくわくしました。
これを書いた時点では私なりの「発見」のつもりでしたが、
その後ハイデガーの「ニーチェ」の中に、アリストテレスと
ニーチェを関連付けた箇所を見つけてがっかりしました(笑)。
ムージールの現実感覚とニーチェの実存感覚とアリストテレスのエネルゲイア意識が相互につながっていると、私もこの頃思いいたりました。