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正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(8)

2019-11-06 17:30:39 | 道元論
 趙洲の「狗子仏性」についてこれから論じていくことにする。「狗子還有仏性也無」という問いに対して、趙洲はあるときは無と答え、あるときは有と答えている。

 そこで、まず無と答えた場合についてみてみることにする。

 道元は「狗子還有仏性也無」という問いを「鉄漢また学道するか」という意味に取っている。ここでの問題は文字通りに狗子の仏性の有無を論じるのではなく、学道ということについて論じているのである。

 趙洲はこの問いに「無」と答えている。この無は、対立をこえた無でもあり、有無の対立においての無でもありうる。言葉の上からではどれも同じようである。しかし、これらの無がいつかすべて対立をこえた無となるであろう、真の無になるだろうということがここで示されているのである。

 この「無」という答えを受けて、また問いがなされる。

  「一切衆生、皆有仏性、狗子為甚麼無。」

 この問いを道元は「一切衆生無ならば、仏性も無なるべし。狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生」と取っている。ここでは、有と無との関係が形式論理学的にとらえられているのである。それはつまり、常識的な段階にとどまっていることを意味している。であるからこの無は有無の有である。そこで趙洲は「為他有業識在」と答える。業識というのは二元論的な意識のことである。これがあるのでは存在の真のありかたをみることはできない。したがって、仏性をとらえることもできないということになる。

 次に、趙洲が「有」と答えた場合についてみることにする。

 ここでの有は「仏有」であり、これは趙洲有であり、狗子有であり、つまり仏性有である。ここでは学道においてこの仏有を学ぶことが重要であるということが示されているのである。

 この「有」を受けて、「既有、為甚麼却撞入這皮袋」という問いがなされる。こう問いかけた僧は、この「有」を「仏有」としてではなく、「今有」、「古有」、「既有」のどれかと考え、「既有」であるならば、どうして皮袋に撞入するのかと問うているのである。この僧は抽象的な「既有」が現実の存在である皮袋に入り込むことができないはずだということを理解しているのであり、それゆえに趙洲に問いかけているのである。

 ここで趙洲は「為他知而故犯」と答えている。

 道元はまず、「既有」と皮袋との関係について、このことを「不死人」と皮袋との関係としてとらえる。つまり、「不死人」という現実を離れた存在であっても、普通の人間と見分けがつかないということを言っているのである。つまり、撞入這皮袋ということが、必ずしも知而故犯、すなわち「しりてことさらおかす」であるというのではなく、「既有」を知っていたがゆえに、趙洲のいう「仏有」をとらえることができなかったということを言っているのである。

 道元は、故犯ということを「この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん」と言っている。つまり、何も隠されているものがない解脱の生活を覆い隠してしまうことが、故犯であると言っているのである。そして、このことを撞入と言っているのである。趙洲のいう「仏有」をかえって「既有」としてとらえて覆い隠してしまうということを言っているのである。

 それでは、このようなときは解脱することができないのであるか、道元は以下のように言う。

  「脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。」

  「半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること、日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。」

 仏道を学ぶ際には、いろいろと間違えてしまうこともあるが、だからといって解脱できないということはないのであり、迷いの中にあっても、修行を続ければ必ず解脱することができるのである。

 業識によって支配されることも、知而故犯の生活も、ともに現実であり、ここから始めるほかはないのである。このことを直視して、仏法に全自己を投げ出して修行することが重要なのである。

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