むらぎものロココ

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テオレマ

2005-02-03 01:18:17 | 映画
teoremaテオレマ(Teorema)
1968年イタリア
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:テレンス・スタンプ、シルヴァーナ・マンガーノ、マッシモ・ジロッティ、アンヌ・ヴィアゼムスキー、ニネット・ダヴォリ 他

 
 
パゾリーニは前作「アポロンの地獄」でオイディプスの悲劇を題材に、ふたつのテーマを提示した。ひとつは「自然」と「文化」の決定的な裂け目であり、もうひとつは神意と人間意志の間にある深淵である。「テオレマ」はそれらの問題をを引き継ぎ、旧約聖書の「エレミヤ書」からの引用によって預言者とその言葉を聞き入れない者たち(神なきブルジョワジー)との間の深淵を示唆するとともにブルジョワの家庭を舞台にし、その家族が再び元には戻れない決定的な状況を描いた。その一撃を加えるのはテレンス・スタンプが演じる訪問者である。

冒頭のシーンで、経営者が工場を労働者に譲ったことに関してインタビューが行われる。資本と経営の分離、経営の民主化といった労使協調路線が進むなかで、労働者もまたブルジョワ化されていく。従来の資本家対労働者といった単純な図式での階級闘争が無効となったとして、ではどうするか。友人としてブルジョワ社会の中に入り込み、互いに信頼しあえる関係を作るように見せかけながら、ブルジョワが無防備になったところで回復不可能なダメージを与え、労使協調が幻想にすぎないことを示すこと。それは労使協調を逆手に取ったマキャベリズム的な戦略による階級闘争の先鋭化である。

平穏な日々を送るブルジョワ家庭にニネット・ダヴォリが演じる郵便配達夫がある日一通の電報を持ってくる。そこには「明日着く」とだけ記されていた。翌日になり、多くの知人たちにまじって、見知らぬ一人の男があらわれる。彼は自然に受け入れられ、いつのまにか家族の中に入りこむ。この訪問者はやがて家族のそれぞれと新たな関係を作る。息子ピエトロは同性愛を体験し、娘オデッタは処女を捧げ、母ルチアは不倫をする。訪問者に欲情したことを恥じてガス自殺をしようとしたことから、おそらく禁欲的な生活を送っていたと思われる女中エミリアは神への愛に恍惚となり脱自するに等しい体験をする。父パオロは病床で介護される(このとき、訪問者によって膝を抱えあげられたところは性交時の体位を思わせる)。家族のそれぞれが抑圧されていたものを訪問者によって引きずり出され、それによってブルジョワの道徳観、秩序はいともたやすく破られてしまう。このようにして訪問者は家族を根本から変え、父パオロを中心とした今までのブルジョワ的な抑圧的関係を断ち切る。

トルストイ「イワン・イリイチの死」が示唆するもの。
パオロと訪問者はイワンと彼の下男ゲラーシムの関係に重ね合わされ、それは労使の協調を意味するだろう。しかし、それはブルジョワ側の幻想に過ぎなかった。パオロはこの訪問者がゲラーシムでないばかりか、還元不可能な過剰な存在であり、自分の父親としての権威を失墜させ、なにもかも破壊する存在であることに気づく。

このような訪問者をどうとらえるかが問題となるが、パゾリーニによれば訪問者は「具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類を誤った安泰から抜け出させる冷酷な神の、エホヴァの使者」であるという。しかし、この訪問者は他にいくつものとらえかたが可能であるだろう。ヘルメスであり、革命家であり、創造と破壊、贈与と簒奪をもたらす両義的な存在としてのトリックスターである、というように。さらにひとつの手がかりとして訪問者が読んでいるランボーの詩集がある。アルチュール・ランボー。理論的な錯乱によって詩人は見者(預言者)でなければならないといった男。「私は他者である」と言った男。そもそもこの訪問者は、ランボーの「イリュミナシオン」の悼尾を飾る「Genie」(天才とも守護神とも訳せる)のようではないだろうか。この詩からいくつか引用してみると、

「彼は愛だ、再び発明された完璧な尺度であり思いも及ばなかった驚くべき理智である愛なのだ。そしてまた、永遠だ。つまり、持って生まれた数々の資質によって愛されている機械なのだ。」

「『ひっこむがいい、それらの迷信、それら古くさい肉体、それらの世帯、それらの年令。そんな時代は崩れ去ってしまったのだ』」

「女たちの怒り、男たちの陽気さ、またこの罪のすべてを償いもしないだろう。彼がおり、愛されておれば、それは済んだことなのだ。」

「彼の肉体! 夢に見た解放だ、新しい暴力によってよぎられた優雅の粉砕だ。
彼の日よ! 高鳴り動く苦しみの、更に激烈な音楽のなかでの絶滅。」

「彼はおれたちすべてを知り、おれたちすべてを愛して来た。この冬の夜、おれたちは知ろうじゃないか、岬から岬にわたり、ざわめき荒れる極地から館にわたり、群衆から岸辺にわたり、まなざしはまなざしへと通じ合って、力も表情もくたくたになりながら、彼を呼び、彼を眺め、また再び彼を送り出すことを、また、潮の下をかいくぐり雪の砂漠の丘にも登って、彼の眼力、彼の息吹、彼の肉体、また彼の日に、つき従って行くことを。」
(粟津則雄訳)

また、訪問者がパオロとオデッタとともに庭でくつろいでいるときにパオロから何を読んでいるのかと尋ねられて読み上げる一節は「愛の砂漠」という散文詩の最後の一節である。

「ぼくには彼女が、そのふだんの生活に立ち戻っているのがわかった。あのやさしいふるまいがもう一度起こるには、星をひとつ作るよりもひまがかかるということも。彼女は戻って来なかった。決して戻って来ないだろう、-ぼくのところへ来てくれるとは予想もしていなかったとぼくは思うが-ああしてやって来てくれたほれぼれするあの女は。ほんとに今度は、世界中の子供たちをあわせたよりもっとひどくぼくは泣いた。」(粟津則雄訳)

これは訪問者がいつかいなくなってしまうことを示唆するもので、そのことを感じたオデッタはあわてて部屋にカメラを取りに行き、訪問者を写真に撮る。

再び郵便配達夫があらわれ、一通の電報をもたらす。それを見た訪問者は「明日出発する」と言う。それを聞いた家族は訪問者に向かって、彼と出会ったことで自分がどれだけ変わったかを告げる。次の日、訪問者は家族の前から去っていったが、彼がいなくなったあと、二度と元の状態に戻れなくなった家族はそれぞれがバラバラになり、崩壊へと進んでいく。

今までの平凡さが壊れ、秩序を奪われ、違う自分に気づいたと言うピエトロは家を出てアトリエを借りる。そこで抽象画の創作に没頭するが、訪問者との思い出の色である水色を使ってアクションペインティング的なものを描く。自嘲的な芸術論を独語しながら、自分の描いたものに小便をしたりする。自然のミメーシスとしての再現性を放棄した抽象画は絵画そのものを問う自己言及的なものになったが、その一方で、秩序や計画性に基づく制作であることをやめ、予測不能なもの、偶然性、従来の基準では図れないものを描こうとする。一緒にフランシス・ベーコンの画集(「十字架の下の形体の三枚のエチュード」)を見るなど、ピエトロは訪問者の影響を強く受けるが、ランボーに衝撃を受けた若い日のパゾリーニの面影をそこに見ることができるように思う。

すべてに興味がなく、自分の空虚さを偽りの価値で埋めてきたことに気づいたと言うルチアはブルジョワの貞淑な妻であることを捨て、訪問者の面影を求めて男漁りの日々を送るが、それは彼女をどんどんみじめにしていく。最後に彼女は教会に救いを求める。

オデッタは失墜した父の代わりを訪問者に求めたが、その彼がいなくなってしまったので彼女は訪問者との思い出に生きるために未来を捨て、まるで写真のように動かないカタレプシー(死とオルガズム)に陥り、そのまま精神病院に収容される。

パオロはすべてを奪われた。今まで信じてきた秩序や未来、所有の観念は破壊され、アイデンティティーを回復することは不可能となった。イワン・イリイチのように虚飾に満ちた人生を最後の最後で肯定し、死を乗り越える境地に至ることもできなかった。パオロは工場を労働者に譲り、駅で全裸になって最後は荒野を叫びながらさまよう。自然に回帰することの不可能さ。裸体の彼はまるで頼りなく、その叫びは無力な赤子が泣いているようであり、訪問者を求めているようでもある。

エミリアは故郷の農村に帰り、ひとつところに座ったまま、草を食べる。農村の人々が物珍しげに集まるが、そこで奇跡を起こす。奇跡を奇跡とする農村の素朴な信仰心と、奇異なもの、異端なもの、合理的な説明ができないものを隔離、排除してしまうブルジョワ社会との対比。最後エミリアは涙で泉を作る(エレミヤ書は涙の記述にあふれている)といって工事現場に自らを埋める。

パゾリーニは「テオレマ」において「異議をさしはさむことができないと同時に理性的な分析からすりぬけてしまう聖なるものの存在」を示したという。政治、宗教、精神分析学、文化人類学、文学、芸術といった多様な側面からブルジョワの抑圧的なモラルを試練にかけ、のっぴきならない状況へと追い込むこの映画は、そこから聖なるものへの、また崇高さへの跳躍を試み、見る者を挑発するパゾリーニの預言である。


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1 コメント

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楽天ブログのトラックバック全部消されてしまった... (SEAL OF CAIN)
2011-06-17 20:42:05
http://sealofcain.blog101.fc2.com/blog-entry-840.html
申し訳ない。
ホント楽天には頭来たよ。
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