むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ジョン・ダウランド

2005-06-29 00:33:00 | 音楽史
66637Dowland
LACHRIMAE or Seaven Teares
 
Peter Holman
The Parley of Instruments Renaissance Violin Consort

ジョン・ダウランド(1563-1626)は若い頃にフランスに滞在した。帰国後、リュート奏者として名声を得たが、彼が望んだ宮廷リュート奏者の地位は与えられなかった。それはフランスでカトリックに改宗したことが原因とされている。1595年に再び大陸に渡り、ドイツやイタリアを歴訪し、ローマではマレンツィオと会っている。1598年から1606年まではデンマークのクリスティアンIV世に宮廷リュート奏者として仕えた。この頃になると、ダウランドの名声はヨーロッパ中に広がった。エリザベス女王に仕えるという彼の望みは果たせなかったが、1612年にジェイムズI世の宮廷リュート奏者となった。

ダウランドはリュートの名手であり、その作品は当然のことながらリュートの独奏曲が多い。しかし、彼のリュートの独奏曲は即興的な要素が多いため、印刷・出版はされず、様々な手稿譜で流布された。その一方で、彼の歌曲は4巻の歌曲集にまとめられており、画期的な楽譜レイアウトとあわせ、その後のリュート歌曲のモデルとなった。

彼もまた、マドリガルやパヴァーヌ、ガイヤルド、アルマンドなどの舞曲など当時の様々な音楽スタイルを取り入れて楽曲を作っているが、 Semper Dowland semper dolens(ダウランドは常に嘆いている)と言うように、16世紀末の流行としてのメランコリーが全体を貫いているのを特徴としている。しかし、ダウランド自身は陽気な人だったそうだ。


カルロ・ジェズアルド

2005-06-28 22:43:00 | 音楽史
gesGESUALDO
O DOLOROSA GIOIA
 
Rinaldo Alessandrini
CONCERTO ITALIANO

カルロ・ジェズアルド(1566-1613)は、ナポリ近郊の名家に生まれた。最初の結婚をしてまもない1590年、妻の不貞を知った彼は、愛人と同衾しているところに踏み込み、二人を殺害した。この事件のあと、しばらく自分の領地にひきこもっていたが、1594年にエレオノーラ・デステと再婚し、フェラーラ公国へ行くことになった。

フェラーラ公国はフィレンツェとヴェネツィアの間にあり、15世紀後半のエルコーレI世からアルフォンソII世まで、芸術愛好家の君主が4代続き、16世紀にはイタリア宮廷文化の中心となっていった。君主たちはオブレヒトやジョスカン、ウィラールト、チプリアーノ・デ・ローレ、ルッツァスコ・ルッツァスキ、ルカ・マレンツィオといった名だたる音楽家やアリオスト、タッソーといった優れた詩人たちを招いたし、アルフォンソII世は1580年に、ルッツァスキの指導のもと、高度な歌唱力を持つようになった「コンチェルト・デッレ・ドンネ」という声楽団体を結成した。技巧的で実験的な詩と音楽の融合という、当時の最先端芸術としてのマドリガーレはフェラーラ公国において洗練と退廃の極みに達した。

ジェズアルドはフェラーラ公国でタッソーやルッツァスキの知己を得たことにより、特異な音楽的才能を開花させ、複雑なリズム、不協和音や半音階を多用するマドリガーレをさらに極端なものにし、死や苦悩、不安や絶望などがからみあう凄惨な音楽をつくりあげた。

マルシリオ・フィチーノの「音楽=精気理論」によれば、思考や想像にたえず(血液の気化したものである)精気を利用し、消耗させると、残りの血液は濃密で乾燥した黒いものになるという。この状態は人を憂鬱質にさせる。憂鬱性の体液から生じる精気は純粋で熱く、敏活で引火性があり、異常なほどの精神の高揚をもたらすかと思うと、火が消えたように極度の鬱状態、無気力状態を招く。このため、精気を健全な状態に保つには葡萄酒と芳香性の食べ物、香気と純粋で明澄な空気、それに音楽の3つが必要だとフィチーノは言う。
→D.P.ウォーカー「ルネサンスの魔術思想」(平凡社)
 第1部 第1章フィチーノと音楽 (一)フィチーノの音楽=精気理論

なかでも音楽が最も重要なものとされるが、もともとメランコリックな気質の持ち主だったというジェズアルドが音楽に没頭したのは、育った環境によるものだけではなく、憂鬱質を治療するためだったとしたらどうだろう。恐怖や罪悪感にとらえられて、できれば思い出したくないようなことを音楽に託して繰り返して表現することで、抑圧を開放し、カタルシスを得るというような、心理療法的効用をジェズアルドは期待したのだとしたら。とはいえ、フィチーノが考える音楽は協和した響きを持つものであり、それがプラトン的な調和と結びつくというわけだが、ジェズアルドのように半音階や不協和音に満ちた音楽をつくり続けることは、かえって精気を撹乱し、鬱状態を促進してしまうことになったのかもしれない。

コンチェルト・イタリアーノのこのアルバムにはジェズアルドのマドリガーレの他に、フランドル楽派の末裔フィリップ・デ・モンテやジェズアルドの音楽の師であったというポンポニオ・ネンナ、そしてジェズアルドが強く影響を受けたルッツァスコ・ルッツァスキの作品が収録されている。



ルカ・マレンツィオ

2005-06-25 17:18:12 | 音楽史
marenzioLUCA MARENZIO
Madrigali a quattro voci Libro Primo 1585
 
Rinaldo Alessandrini
CONCERTO ITALIANO

マドリガーレはイタリア語のマードレ(母)に由来し、イタリア語で歌われる世俗歌曲をさす。14世紀にもマドリガーレはあったが、16世紀のマドリガーレはそれとは違い、詩人と作曲家の共同作業によってつくられていた世俗曲としてのフロットラに高度な対位法的技法を加えたものである。16世紀半ば頃になると様々な作曲上の実験がなされ、マドリガーレは最も進歩的な楽曲形式になっていくが、歌われる詞も高い文学性を持つものになり、詩と音楽が対等に、そして緊密に結びついたマドリガーレは古典的な教養を持った貴族たちを満足させた。

ルカ・マレンツィオ(1553-1599)は、主にローマで活動した、マドリガーレの最も優れた作曲家の一人であり、言葉と音楽が緊密に結びつくことによって様々な情感を表現したり、情景を音の動きによって視覚的に表現する、いわゆる「音画法」を確立した。これは、例えば詩の中にある上昇や高さを意味する言葉には上昇する旋律や上行跳躍進行をあてたり、悲しみや苦痛には不協和音や下降旋律をあてたり、波をあらわすのに波打つような音型をあてたりするというようなもの。不協和音や半音階、転調が多用されることにより、均整の取れた旋律に歪みが生じてくる。また、対立や矛盾を際立たせるために長音階と短音階が用いられるようにもなった。歌詞が持つ意味や感情を伝えるために、対等に諸声部がからみあうポリフォニーから、和声的低音部と複数の独唱声部を持ったものへと変化していく。

「マドリガルの構造は、断片に砕かれ、新たな音の修飾音型によってふたたび、だがそれと定かに認められる中心を欠きながら、浮遊し、漂い消えゆく情動反映のうちにつなぎ合わされる。大胆な和音と向こう見ずな転調は驚くほど<近代的>な響きを持っている。ポントルモの新しい色彩の半音階法はマレンツィオの半音階法に酷似している。両者とも<サトゥルヌス的>タイプとしてもそっくりである。ポントルモが最初の<呪われた画家> peintres maudits の一人であったとすれば、マレンツィオは最初の<呪われた音楽家> musiciens maudits の一人であった」
(グスタフ・ルネ・ホッケ「文学におけるマニエリスム」第四部芸術的虚構としての人間18.音楽主義 マドリガル音楽)


ジョヴァンニ・ガブリエーリ

2005-06-23 03:07:09 | 音楽史
gabGIOVANNI GABRIELI
Symphoniae sacrae II
ANDREW PARROT
The Taverner Choir
London Cornett & Sackbut Ensemble

ジョスカンの弟子であったアドリアン・ウィラールト(1490-1562)は1527年にサン・マルコ大聖堂の聖歌隊長に任命された。彼は35年間その地位にあったが、そのあいだフランドル様式をイタリアの音楽家に伝えるとともに、5つのドームを持ち、ギリシア十字架型をしているこの大聖堂の構造上の特徴を活かし、聖堂内に小編成の合唱隊を分散的に配置するという実験をおこなった。これがヴェネツィア楽派の特徴である複合唱形式の始まりである。交互に歌うことで立体的な音響効果を得ることができ、全員で歌うことで空間内を音で埋め尽くすこともできるこの形式によって、より劇的で祝祭的な音楽が可能になった。

ジョヴァンニ・ガブリエーリ(1557-1612)は、この複合唱形式を発展させその頂点に導いた音楽家で、楽器と声の強力な音響体を組織し、堂々とした音楽をつくりあげた。彼は1586年から死ぬまで、サン・マルコ大聖堂のオルガニストとして活動した。様々な楽器の音色を活かした色彩感と華麗さ、音の強弱、高低などのコントラストの強調、多層的な音楽空間の創出など、彼の音楽にはもはや古典的な均整感はなくなり、滑らかな旋律の流れも分断されていることから、反古典主義的な音楽におけるマニエリスムであるとされる。



ヴィクトリア

2005-06-22 01:15:47 | 音楽史
victoriaVICTORIA
REQUIEM
 
Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548-1611)は、1565年にフェリペ2世から奨学金を受けてローマに留学した。
当時のスペインは植民地政策によって未曾有の発展を遂げていた。イタリアとの結びつきも深まり、国王フェリペ2世は国内の音楽家に奨学金を与え、ローマに留学させていた。ヴィクトリアは1571年にはコレジウム・ロマーヌム(ローマ学院)の楽長となり、前任の楽長であったパレストリーナに師事することになった。その後、1575年に聖職者になり、1583年にスペインに帰国すると、マドリッドのデスカルサス・レアレス修道院の司祭、楽長、オルガニストとなり、死ぬまでその地位にあった。

ヴィクトリアは16世紀スペインが生んだ最大の音楽家であった。彼はパレストリーナゆずりのポリフォニーの技巧とスペイン的な神秘性を融合させた音楽をつくりあげた。不協和音を大胆に用いた劇的な表現は、しばしば同時代の画家エル・グレコと比較される。

ヴィクトリアのレクイエムはスペインのマリア皇太后の死に際して作曲されたもので、数あるレクイエムの中でも屈指の名曲とされている。重く引きずるような低音部と高く昇天していくかのような高音部のコントラストが見事である。


クリストバル・デ・モラレス

2005-06-21 00:20:52 | 音楽史
moralesCristobal de Morales
Missa Mille regretz and motets
 
 
CHANTICLEER

クリストバル・デ・モラレス(1500頃-1553)は、スペインのセビリアに生まれ、セビリア大聖堂の少年聖歌隊員となり、音楽家としてのキャリアがスタートした。スペインにはフランドルから多くの音楽家がやってきており(ジョスカンの弟子であるニコラ・ゴンベールは1526年にスペインに来て、カール5世の宮廷礼拝堂の歌手としての活動を始めた)、高い水準の教育を受けることができた。
モラレスはアビラ大聖堂の楽長、ブラセンシア大聖堂の楽長を歴任し、1535年にローマ教皇庁の聖歌隊員となった。ローマには10年ほど滞在するが、教皇パウルス3世の庇護を受け、音楽家として名声を得ることとなった。

彼の音楽はフランドル楽派のポリフォニーとスペイン的な情感が融合したもので、洗練された表現はパレストリーナにも影響を与えたと言われる。
1545年にスペインに戻るが、「音楽におけるスペインの光」と称されたほどの名声のわりには、あまりいいこともなく、不遇の晩年を送った。

「ミサ・ミル・ルグレ」はジョスカン作とされるシャンソン「ミル・ルグレ」のパロディ・ミサで、1536年カール5世(カルロス1世)のために作曲されたといわれている。この国王は「ミル・ルグレ」を好んでいたようだ。原曲の哀感が全体に反映したこのミサ曲はモラレスの代表曲となっている。


オーランド・ギボンズ

2005-06-20 23:26:00 | 音楽史
gibbonsORLANDO GIBBONS
Tudor Church Music
 
Philip Ledger
The Choir of King's College, Cambridge

オーランド・ギボンズ(1583-1625)は、オックスフォードに生まれた。音楽一家という環境で育ち、十代前半にはキングス・カレッジの合唱隊に入った。1606年に王室礼拝堂のオルガニストになり、ジェームズI世のプライベートな鍵盤奏者として活動した。1622年にはオックスフォードから音楽博士の称号をもらい、ウェストミンスター寺院のオルガニストとなり、音楽家として最高の名誉を得たものの、1625年、若くしてカンタベリーで死去した。

タリスやバードがときに非合法的な活動をしてまで、カトリックの信仰を捨てなかったのに対し、ギボンズの生涯は英国国教会とともにあった。宗教音楽の分野ではカトリックのミサ曲に相当するサーヴィス、モテトゥスに相当するフル・アンセム、そして独唱と合唱が交替であらわれ、オルガンや弦楽器の伴奏がなされるヴァース・アンセムを作曲し、世俗音楽の分野では、マドリガル、そして器楽合奏曲や鍵盤曲などをつくった。オルガニストとして活躍した彼は「最良の指」と讃えられるほどで、当時流行していたパヴァーヌやアルマンドといった舞曲を取り入れた楽曲やファンタジアなどは、大変な人気だったという。

ギボンズはグレン・グールドが愛した音楽家で、グールドはギボンズとバードの楽曲をグランド・ピアノで演奏したアルバムを残していて、その対位法的書法においてチューダー朝の音楽家たちをバッハの先達としてとらえている。グールドはギボンズの本領は声楽曲にあったとしているが、フィリップ・レッジャーのアルバムはギボンズの声楽曲の魅力をあますところなく示している。


ウィリアム・バード

2005-06-19 20:54:00 | 音楽史
byrdWilliam Byrd
THE THREE MASSES

Peter Phillips
THE TALLIS SCHOLARS

ウィリアム・バード(1543-1623)もまた、宗教改革の大きな動きに翻弄された音楽家だった。1572年に王室礼拝堂の楽員となり、タリスの影響を受けながら音楽活動を展開した。エリザベス1世から音楽的才能を高く評価され、タリスとともに楽譜の出版・販売の独占許可を受けたりもした。バードは、大陸の通模倣様式を完全に自分のものとしたイギリスでは最初の音楽家であり、彼の登場によってイギリス音楽はフランドル楽派と肩を並べるほどの水準に達した。声楽曲ばかりでなく、弦楽合奏曲や鍵盤音楽なども数多く作曲し、イギリス音楽の父と讃えられた。

当時のイギリスにあって、音楽家としての頂点を極めたバードだったが、カトリックである彼は、密かにカトリックの神父とも通じ、秘密のミサにも参加していた。1580年頃からカトリックへの弾圧が厳しくなると、ロンドンを離れ、晩年はピーター卿の屋敷に隠遁する。バードのミサ曲はその頃の作品といわれ、彼の宗教的心情がこめられたものである。

バードのミサ曲はキリエやクレドにも曲をつける、イギリスの通作ミサとしては異例のもの。






トマス・タリス

2005-06-18 17:55:00 | 音楽史
8333082Thomas Tallis
The Lamentations Of Jeremiah
 
 
The Hilliard Ensemble

トマス・タリス(1505-1585)は、ドーヴァーの修道院でオルガニストをしていたが、1534年にヘンリー8世が首長令を発布し、ローマ教会から分離すると、その修道院は閉鎖させられることとなり、タリスは職を失った。しかし、何度か職を転々としながらも1543年に王室礼拝堂の楽員となり、死ぬまでそこで活動することとなった。

この時期のイギリスは英国国教会とカトリックの間で揺れ動き、宗教的には不安定であった。ヘンリー8世のあとのエドワード6世は1549年に信仰形式統一令を出し、英語の祈祷書を採用し、ラテン語による典礼は廃止された。しかし、エドワード6世は短命であり、その後即位したメアリ1世はカトリックに回帰し、反対派を次々に処分した。その圧制ゆえメアリ1世の治世は5年ほどしか続かず、エリザベス1世が1558年に即位すると、また英国国教会に戻った。エリザベス1世は宗教については和解政策を取り、カトリックにも寛容だったため、英語によるアンセムやサーヴィスだけでなく、ラテン語による音楽も用いられた。タリスは生涯のうち、この4人の君主に仕え、そのたびスタイルを変えて適応していた。

「エレミアの哀歌」はカトリックの典礼で朗読されるもので、預言者エレミアが、自分の言葉に耳を貸さず、不信心に陥ったエルサレムのありさまを嘆くものだが、タリスによる「哀歌」は第1章の第1節から第5節に曲をつけたもの。英国国教会では「エレミアの哀歌」を朗読するこのような典礼は廃止されたので、この曲はカトリック信者の秘密の集会のために作られたものではないかと言われている。

ヒリアード・アンサンブルの演奏は、低音を強調し重々しいものになっている。



ジョン・タヴァナー

2005-06-17 02:01:40 | 音楽史
gimellcdgim004John Taverner
Missa Gloria Tibi Trinitas

Peter Phillips
The Tallis Scholars

ルネサンス音楽はダンスタブルから始まったにも関わらず、イギリスは1455年から1485年までの間、いわゆる「ばら戦争」の内戦状態にあり、音楽の発展は著しく停滞してしまったが、チューダー朝の成立によって戦争が終結すると状況は大きく変わり、貿易や工業が急速に発展し、国力が充実してきた。ヘンリー8世の治世にはイタリアから雇われた宮廷音楽家が60人を超え、16世紀半ばにはイギリスの音楽文化は頂点に達する。

ジョン・タヴァナー(1490/5-1545)はダンスタブルとタリス(1505-1585)の間にあって、極めて重要な音楽家である。彼はオルガニストでもあった。1526年にオックスフォードのカーディナル・カレッジの音楽監督になったが、異端者として投獄されてしまう。すぐに釈放されたようだが、1530年にはオックスフォードを去り、以後は音楽を捨てたと言われている。
「ミサ・グローリア・ティビ・トリニタス」は宗教改革前のイギリス・カトリック音楽の典型的なスタイルで、重唱部分とフルコーラス部分とのコントラスト、拡張されたメリスマなどが特徴である。この曲のベネディクトスの後半である「イン・ノミネ・ドミニ」の部分は、独立したかたちで独奏や器楽合奏用として多くの音楽家によって編曲されることとなった。