むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ストラヴィンスキー

2007-09-25 21:52:47 | 音楽史
AgonSTRAVINSKY
Three Greek Ballets Apollo Agon Orpheus
Robert Craft
London Symphony Orchestra
Orchestra of St Luke's


「彼はN.A.リムスキー=コルサコフから秩序の方法を受け継いで、それを自分用に変形する。リムスキーのテーブルの上では、インク瓶やペン軸や定規が官僚臭を現している。ストラヴィンスキーでは、秩序が人をおどかす。それは外科医の道具箱だ。
仕事と一しょくたになり、仕事を着込んで、老ぼれのちんどん屋のように作品を身に飾ったこの作曲家は、身の周りに音楽の皮を厚くして行くので、彼と部屋とはもはやひとつにすぎない。モルジュにおける、レイザンにおける、パリの彼の住居のプレイエルにおける、ストラヴィンスキーを見ることは、殻の中の動物を見るようなものだ。ピアノ、太鼓、メトロノーム、シンバル、五線引き、アメリカ式鉛筆削り、譜面台、平太鼓、大太鼓などが、彼を引き延ばす。それらはパイロットの座席であり、映画が千倍にも拡大して見せてくれる時の、交尾期の昆虫を蔽うている武器だ」(ジャン・コクトー「雄鶏とアルルカン」)

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)はペテルブルク近郊のオラニエンバウムに生まれた。9歳からピアノを学び、十代後半からは音楽理論も学んだが、音楽院には入学せず、大学では法律を学んだ。22歳のときにリムスキー=コルサコフと出会い、彼のもとで作曲と管弦楽法を学び、ストラヴィンスキーは音楽の道に進むことになった。1908年に作曲した「花火」がロシア・バレエ団のディアギレフに認められたことがきっかけで、ロシア・バレエ団の音楽を担当するようになると、1910年に「火の鳥」、その翌年に「ペトルーシュカ」、そして1913年に初演がスキャンダルを巻き起こした「春の祭典」をあいついで作曲し、ストラヴィンスキーは前衛的な作曲家として注目されることとなった。しかし、ロシア・バレエ団の天才舞踊家ニジンスキーとの関係はうまくいかなかったようで、ニジンスキーはその手記のなかでストラヴィンスキーのことをずるがしこく、冷たい男であるとし、「ストラヴィンスキーはよい作曲家だが、人生について考えない。彼の作曲は目的を持っていない」と書き記している。

エリック・サティはストラヴィンスキーについて「こと音楽に関する限り、かつて存在したなかで最も傑出した天才のひとりである」と絶賛し、パレストリーナやモーツァルトにも比肩し得るとして、その音楽の特徴について次のように書いている。

「ストラヴィンスキーの音楽の特徴のひとつは、音の響きの「透明さ」にある。純粋な巨匠たちの作品につねに見出されるあの特徴である。巨匠たちは自作の響きのなかにけっして「残り滓」を残さない」 

「ストラヴィンスキーがその音楽的能力の豊かさをあますところなく私たちに見せてくれるのは、「不協和音」の使い方においてである。そこでこそ彼は真に本領を発揮し、私たちを広大な知的陶酔におとし入れる」

「彼の作曲法は新しく&大胆である。オーケストラの使い方が「ぼやけている」ことはけっしてない。「オーケストラの穴」と「もや」を避けながら――後者は船乗りに負けないほど多くの音楽家を破滅におとし入れる――彼は自分の望む方向に突き進む」

「ストラヴィンスキーのオーケストレーションが、深く的確な楽器編成から生み出されるということである。彼の「オーケストラ曲」はあげて、楽器の音色を基盤に構築されている」

ストラヴィンスキーの創作活動はそのスタイルの変化において次の3つの時期に区分される。
1.ロシア時代(1910-1918)
2.新古典主義時代(1918-1950)
3.セリー時代(1951-1971)

ロシア時代においては、リムスキー=コルサコフ的なエキゾティズムと色彩感あふれる管弦楽、幾つかのブロックを組み合わせたキュビスム的な構造、鋭い輪郭を持った旋律、二つの調を重ね合わせる複調、不協和音、絶え間なく変化し続ける拍子、原始主義的な荒々しさなどを特徴とし、ロシア・バレエ団のために書いた「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」といったいわゆる三大バレエ音楽が代表的な作品である。この頃の作品を通じてロシア音楽の諸要素は多くのモダニストの共有するところとなっていった。
20世紀の音楽はそれまでの音楽の既成概念を覆す試みがなされたが、シェーンベルクによる「調性」の破壊と未来派による「楽音」の破壊と並んで特筆されるのはストラヴィンスキーによる「拍子の一定性」の破壊である。

そして1918年からストラヴィンスキーは新古典主義に転向した。この新古典主義は、ロマン派以前の音楽が備えていた客観性や明晰さに回帰するもので、音楽からロマン主義的な主観性や感情を排し、均整の取れた形式や合理的な手法を重視する。そしてこの年、ジャン・コクトーは「雄鶏とアルルカン」を書いた。
ストラヴィンスキーの新古典主義は「兵士の物語」やペルゴレージの作品をアレンジした「プルチネルラ」から始まる。これらの作品は様々な音楽様式がコラージュのように引用され、並列され、耳慣れた素材を用い、引用とアレンジだけで作曲する試みであった。しかし、そこには巧妙なパロディ化がなされてもいる。ストラヴィンスキーの新古典主義は単なる懐古趣味ではなく、音楽史の終焉を見つめながら、進歩的歴史観と独創性を否定し、既知のものを微妙な文脈のずらし方によって換骨奪胎することで独自性を生み出そうとするものであった。
ストラヴィンスキーは、古典主義とロマン主義に結びつけて秩序と無秩序、普遍主義と個人主義、服従と不服従といった対立概念を論じた。「普遍主義は必然的に既成の秩序への服従を定める。その理由は十分納得のいくものである」とストラヴィンスキーは言い、あるひとつの様式、個々人の表現を総括する時代の集団的な表現を通してのみ、芸術家は、「ひとつの文化を構成しているこの伝統の束」に参与することができると考えた。ロシア時代に自らも破壊に加担した秩序を再構築するためにストラヴィンスキーは古典主義を見い出したのである。

ジャンケレヴィッチはストラヴィンスキーの新古典主義への転向について次のように書いた。

「のちにストラヴィンスキーが『春の祭典』のアジア趣向、『ペトルーシュカ』のロシア主義、『結婚』の民俗調を否認するとき、それはムーサたちを支配するアポロに到達するためだった。ギリシアには、たしかに、この音楽家は民族舞踊のリズムあるいは民謡を認めず、遍在と理想境とから成り立っている現状離脱を求める」

しかし、このようなストラヴィンスキーの新古典主義はアドルノによって批判されることになる。「シェーンベルクの進歩」そして「ストラヴィンスキーの復古」は、19世紀のヴァーグナー派とブラームス派の論争さながらに展開されていくことになる。

「彼らはかつて彼らの青春を充たし、彼らの魅力の種であったものに、多少とも公然と背を向けてしまったのであった。彼らの復古主義的な試みは、二三の改宗したシュールレアリスムの画家たちのそれと同じように、文化哲学的な思惑から新音楽の概念そのものと手を切ってしまっている。彼らは永遠の音楽という幻を追っているのである」

シェーンベルクの死後1951年からストラヴィンスキーは音列(セリー)技法を用いた作品を書くようになり、ウェーベルンを「音楽的対象と我々自身の間の新しい距離の発見者 音楽的時間に対する新しい尺度の発見者」として賞賛するようになった。この転向については1948年にシェーンベルクやウェーベルンの信奉者でもあったロバート・クラフトと出会い、彼をアシスタントにしたことも影響したかもしれないが、シェーンベルクの十二音技法がウェーベルンや彼の後継者たちによって、ひとつの集団的な音楽現象となり、様式の普遍主義を備えていたことが認められたということがあった。

ブークールシュリエフは次のように書いている。彼はストラヴィンスキーの変化の中に様式上の秩序を求める根源的な要求があるとし、そこにストラヴィンスキーの統一性を見い出した。

「ストラヴィンスキーが音列の原理の中に、彼自身の相変わらぬ要求にも開かれた、新しい領野を認識していたということである。その要求とは、様式上の秩序を求める根源的な要求であり、彼にとっては作曲ということであるこの想像力の力を自由に行使することのできる、厳密な約定の網の目を設定する――あるいはあらかじめ設定しておく――必要である」

ストラヴィンスキーの音楽はしばしばピカソの絵画との類縁性について語られる。例えばブーレーズは次のように言っている。

333_1939_cccr「画家たちと音楽家たちの照応関係は、20世紀においていっそう顕著であるように思われる。
ストラヴィンスキーとピカソとの並行関係はひとつの典型である。彼らは緊密なやり方で一緒に仕事をしはしなかったが、『プルチネルラ』は舞台における共同作業の一例としてあらゆる人々の記憶に刻み込まれている。まったく同様に『ラグタイム』の表紙は完全な共生のモデル例である。ロシア・バレエ団の残したイメージがあまりにも強烈であり、あまりにも強力だったので、彼ら二人の名は、いわば接合されてしまっている。それも、ストラヴィンスキーの有名なバレエ音楽『狐』、『春の祭典』、『花火』、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『夜うぐいすの歌』、『結婚』が、他の画家たち、ラリオーノフ、リョーリフ、バルラ、ゴロヴィーン、ブノワ、マティス、ゴンチャローヴァとの共同作業で実現されたにもかかわらず、である。ストラヴィンスキーとピカソにおいては、同じ時期における彼らの軌道の根本的な類似性を否定することが不可能だからだ。『春の祭典』と『アヴィニョンの娘たち』の間には、同じ態度、同じ視点が観察される。もっと後になって、『プルチネルラ』は新古典主義の始まりを画しているが、そうした新古典主義はストラヴィンスキーにもピカソにも同じようにはっきりと認められる。もっと以前では音楽史や絵画史から「引用された」モデルの同じような扱い方が見い出される。明らかにドラクロワから出発したピカソは、『放蕩児の遍歴』の作曲に際して『ドン・ジョヴァンニ』を念頭に置いていたストラヴィンスキーと比べられる」

それでは、ストラヴィンスキーの音楽と文学の類縁性はどこに見い出せるか。例えばエズラ・パウンドは「ストラヴィンスキーは、ぼく自身の仕事の面でいろいろと学び取ることができる唯一の現存する音楽家である」と言い、T.S.エリオットは「春の祭典」を聴きに行き、それについて次のように書いている。

「ストラヴィンスキーの音楽が永続的なものか短命なのかどうか、ぼくにはわからない。しかし、その音楽は、踊りのステップのリズムを、自動車の警笛のけたたましい音や、機械類の騒々しい音や、車輪のきしる音や、鉄や鋼を打ちつける音や、地下鉄の轟音や、さらには現代生活の他の野蛮な叫び声と化しているように思われる。しかもこれらのどう仕様もない騒音が音楽と化しているのである」

エリオットのストラヴィンスキー体験は彼が「荒地」に着手する直前のできごとであった。「過去と現在、古代と現代とを重置する方法、つまり神話や伝説や古典からの断片的な引用や引喩のコラージュによって構成され」た「荒地」はキュビズムや映画のモンタージュ技法との類縁性が指摘されることが多いが、ストラヴィンスキーの音楽からも深い影響を受けたと見ることもできる。

 四月は残酷きわまる月だ
 リラの花を死んだ土から生み出し
 追憶に欲情をかきまぜたり
 春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
 (T.S.エリオット「荒地」西脇順三郎訳)

エリオットが「伝統と個人の才能」を書いたのは1919年のことであった。

「祖先から後世へ伝えるという伝統のただ一つの形式が、すぐ前の世代に属する人たちの残した成果をめくらめっぽうにさもなければおそるおそる守ってそのしきたりに追従することだとすれば、「伝統」はきっと力を失ってしまう。こういうたくさんの単純な流れがほんのしばらくのあいだに砂の中に埋もれてしまうのをわれわれは実際に見てきたが、新しい変わったものはくりかえしよりもましである。伝統というものはこれよりはるかに広い意義を持つものだ。伝統を相続することはできない、それを望むならば、たいへんな労力を払って手に入れなければならない。伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることを続けたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものであるといってよい歴史的意識を含んでいる。この歴史的意識は過去が過去としてあるばかりでなく、それが現在にもあるという感じ方を含んでいて、作家がものを書く場合には、自分の世代が自分の骨髄の中にあるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体とその中にある自分の国の文学全体が同時に存在し、同時的な秩序をつくっているということを強く感じさせるのである。この歴史的意識は一時的なものに対する意識でもあり、永続的なものに対する意識であり、また一時的なものと永続的なものとをいっしょに意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。またその歴史的意識によって作家は時代の中にある自分の位置、自分の現代性をきわめて鋭敏に感じることができるのである」

ストラヴィンスキーは1939年からアメリカに渡り、大学で教鞭を取りながら、機会があれば自作の指揮や演奏をしていた。1969年にはニューヨークに移り、その2年後の1971年に死去、ヴェネチアに葬られた。

「「イゴール・ストラヴィンスキー」彼はゆっくりと読んだ。「確かに、そうだ」同じようにゆっくり読んで、サクソン人が言った。「彼は、この墓地に葬られることを望んだらしい」アントニオが応じて、「優れた音楽家だが、時折、その楽想に非常に古めかしいものが感じられる。彼は有りふれた題材に想を求めた。たとえばアポローン、オルペウス、ペルセポネー、……。こんなことが、いつまで続くのだ?」「彼の『オイディプース王』を知っている」とサクソン人が言った。「第一幕の終わりの、グローリア、グローリア、グローリア、オイディプース・ウクソル! という個所はわたしの音楽にそっくりだと聞いた」「それにしても、ラテン語のテキストに基づいて異教的なカンタータを作るという妙なことを、なぜ思いついたのだろう?」とアントニオが言った。ゲオルク・フリードリッヒが、「当地のサン・マルコ寺院でも彼の『聖歌』が歌われたとか。つまり、われわれがとっくに捨てた中世風のメロディーが、いまだに聞かれているわけだ」「前衛と呼ばれている音楽家が、過去の楽匠たちがやったことに強い関心を示しているということだな。時にはそのスタイルを蘇らせようとさえしている。そういう意味では、われわれのほうがモダンでもある。わたし自身は、百年前のオペラや協奏曲がどんなものだったか、そんなことは、これっぽちも気にならない。自分の才能と感覚にしたがって、わたし自身の音楽を作る。これで十分だと思っている」(アレッホ・カルペンティエール「バロック協奏曲」)

→ジャン・コクトー「雄鶏とアルルカン」(「ジャン・コクトー全集4」東京創元社所収)
→「ニジンスキーの手記」(現代思潮社)
→「エリック・サティ文集」(白水社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)
→Th.W.アドルノ「不協和音」(平凡社ライブラリー)
→ブークールシュリエフ「ストラヴィンスキーの統一性」
 (ユリイカ1978年8月号特集=現代音楽)
→ピエール・ブーレーズ「クレーの絵と音楽」(筑摩書房)
→富士川義之「音楽と神話 パウンドとエリオット」
 (現代思想臨時増刊総特集=1920年代の光と影)
→T.S.エリオット「伝統と個人の才能」(「文芸批評論」岩波文庫所収)
→T.S.エリオット「荒地」(「世界文学全集48世界近代詩十人集」河出書房新社所収)
→アレッホ・カルペンティエール「バロック協奏曲」(サンリオSF文庫)


ヴィシネグラツキー

2007-09-15 13:38:22 | 音楽史
WyschIvan WYSCHNEGRADSKY
24 PRELUDES Op.22 INTEGRATIONS Op.49
 
Henriette PUIG-ROGET(P)
藤井一興(P)

20世紀初頭のロシアの前衛的な音楽家たちは調性音楽からの脱却と新たな音素材の確立をめざしてさまざまな実験をおこなった。スクリャービンの音楽を広く知らしめることに功績のあった当時の音楽学者レオニード・サバネーエフも「音楽が独自の音楽素材を刷新して初めて、新しいイデオロギーを表現することができる」と主張していた。騒音の導入や新しい記譜法、合成和音などによるシステマティックな作曲法などとともに、半音のさらに半分の音程である四分音などの微分音を用いることによって和声を拡大する音楽的実験もマチューシンやルリエーなど、当時の前衛的な音楽家たちが深い関心を寄せたものであり、1923年にはゲオルギイ・リムスキー=コルサコフによって「ペトログラード四分音音楽協会」が組織された。

ニコライ・クリビーンは1908年に「生の基盤としての自由芸術―調和と不調和」を書いた。彼は1908年に印象派グループを組織し、翌年解散した後に1910年に発足する「青年同盟」の結成に貢献、以降は「青年同盟」の周辺で活動した。1914年にイタリア未来派のマリネッティをロシアに招いたのはクリビーンであった。
クリビーンは神智学やスクリャービン、あるいはカンディンスキーが主張していた音と色彩の関係論に関心を抱いていた。彼は人間の生は「調和と不調和の相互関係の戯れおよび両者の闘争によって条件づけられている」とし、次のように書いた。

「私は自分の研究にもとづいて、音楽の音階におけるのと全く同様に、スペクトルにおける、色階における協和性と不協和性を決定することが可能だと確信した。
こうしたことを前提として、私はスペクトルにおける隣接色の結合と、音階における隣接音の結合が、生および芸術に対して持つきわめて特殊な意味に注意を促してきた。ちなみに私が階調というのは、間隔のせまい階調のことである……
そこで次のように言えるだろう。つまり、私が「密接な結合」と呼ぶこうした現象、およびそうした密接な結合の操作によって、あらゆる種類の自然像および主観的経験の像を、絵画や音楽や他のあらゆる芸術部門において描き出すことが可能である、と」

またクリビーンは「自由な音楽」と題された論考も書いた(これは1912年に発行された「青騎士」にも掲載された)。そのなかでクリビーンは従来の全音階や半音階よりもさらに感覚の狭い階調である微分音の使用によって、着想に完全な自由が与えられ、音楽の描写力が拡大し、自然の音を真似たり、人間の心の動きを描写することがより完全にできると主張した。

「自然の音楽――光、雷、風のざわめき、水のたてる音、鳥達の歌――は、どんな音を選ぼうと自由だ。ナイチンゲールは、現在の音楽の楽譜どおりに啼くばかりでなく、自分に心地よいあらゆる啼き方をする。
自由な音楽は、自然の音楽や自由の芸術すべてと同じく自然の法則にしたがう。
自由な音楽の芸術家は、ナイチンゲールと同じく、全音と半音に限定されることはない。1/4音や1/8音もつかい、音を自由に選択して音楽にする」

「狭い結びつきの振動、その進行、そのさまざまな演奏によって、光や色や生きとし生けるものの描写が、通常の音楽の場合よりはるかに容易に可能となる。抒情的気分の獲得も、もっと簡単になる。
狭い結びつきによって、さまざまな特別の色彩面から成る音楽的な形象も創造され、これらの色彩面は、新しい絵画に似て、流れゆく和声とひとつに溶け合う」

こうした微分音を用いた音楽を生涯をかけて追求したのがイヴァン・ヴィシネグラツキー(1893-1979)であった。
ヴィシネグラツキーはペテルブルクに生まれた。彼が音楽に関心を抱いたのは17歳の頃で、大学では数学や法学を学びながら、銀行家でアマチュア音楽家でもあった父親から手ほどきを受けた後、1911年にペテルブルク音楽院に入学し、ニコラス・ソコロフの下で、和声学と作曲、管弦楽法を学んだ。ソコロフを通じてスクリャービンの音楽を知り、それに深く影響を受けたヴィシネグラツキーは、「宇宙の意識」に表現を与えようと試みた。1916年から1917年にかけて作曲されたオラトリオ「存在の一日」は「人間の意識ががもっとも原始的な形式から宇宙の意識という最終段階へと成長することの反映を意図」したものであった。ヴィシネグラツキーにとって、このような意識の発展を音楽的にとらえるために和声を拡大することが必要となり、四分音や十二分音といった微分音を用いた作曲を試みることになった。1918年の「四つの断片」作品5はその最初の作品である。
ロシア革命後の混乱を避けるため、ヴィシネグラツキーは1920年にパリに亡命した。1922年から1923年の間はベルリンに滞在し、数人の仲間と共同研究を進めながら四分音ピアノの試作をおこなったりもした。この共同研究は1926年に中断され、ヴィシネグラツキーはパリに戻ったが、四分音ピアノの開発には引き続き取り組んで1929年に完成した。1934年には1オクターヴ内にある24の音を体系的に使用した「24の前奏曲」作品22を作曲し、1967年にはトーン・クラスターを多用した「アンテグラシオン」作品49が作曲された。
ヴィシネグラツキーにはメシアンのような支持者もいたが、彼の作品が演奏される機会も生前は少なかった。

→J.E.ボウルト編著「ロシア・アヴァンギャルド芸術」(岩波書店)
→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社) 
→カンディンスキー/マルク編「青騎士」(白水社)


ロスラヴェッツ

2007-09-14 16:21:39 | 音楽史
HamelinRoslavets Piano Music
 
 
 
Marc-Andre Hamelin(P)

RosceROSLAVETS
Complete Music for Cello and Piano
 
Alexander Ivashkin(Vc)
Tatyana Lazareva(P)

ニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)はウクライナに生まれた。1886年からクルスクの音楽学校で音楽の勉強を始め、幼い頃から地元のローカルバンドでヴァイオリンを演奏していた。1902年からモスクワ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、バイロンの詩劇に基くカンタータ「天国と地獄」で銀メダルを獲得した。1912年に音楽院を卒業してからロスラヴェッツはロシアの前衛芸術家たちと交流するようになり、マレーヴィチとも親交を結ぶ。1915年と1916年にはロシア未来派の雑誌に楽曲が掲載され、ロスラヴェッツはモソロフやルリエーとともに、前衛的な音楽家として知られるようになった。1917年のロシア革命後はウクライナの音楽院で指導的な役割を果たし、1924年にモスクワに戻ってからは国立出版局で「音楽文化」という雑誌の編集に携わり、ACM(現代音楽協会)の中心的な存在の一人としても活動した。
1927年の革命10周年を記念するセレモニーではカンタータ「十月」が演奏されるなど、ロシア革命を歓迎し、革命とともに歩んでいたはずのロスラヴェッツであったが、スターリンの台頭以降はRAPM(ロシア・プロレタリア音楽家協会)からブルジョワ的であるとか、反革命的であるとか、あるいは人民の敵であるとして攻撃されるようになった。1930年にそれまでの芸術活動を自己批判するよう強要され、モスクワを追われたロスラヴェッツは、タシケントでウズベク国立劇場の指揮者兼作曲家やウズベク放送局のディレクターを勤めた。1933年にモスクワに戻ってからも放送局のプロデューサーや軍楽隊やジプシー・アンサンブルの指導者といった重要でないポストをあてがわれ、不遇のままその生涯を終えた。

ロスラヴェッツはスクリャービンの後期様式の影響を受けながら独自の音体系を確立するに至った。それは「合成和音」と呼ばれ、十二音技法に類似していることからロスラヴェッツは「ロシアのシェーンベルク」と呼ばれたこともあった。この合成和音について高橋悠治は次のように書く。

「かれの命名した合成和音(Synthetakkord)とは、平均律の十二半音についての二進法的(イエスかノーの)決定である。唯一の十二音和音の部分集合として、八音以上から成る合成和音の表が作成され、選ばれた和音は移置によって変型される。後には移置される音度の集合が、合成和音自体と対応するという方法がとられる」

また、高橋悠治はロスラヴェッツについて、スクリャービンと対比させながら次のように書く。

「作曲家ではなくて音響組織家と自称したロスラヴェッツは、スクリャービンのように神秘主義イデオロギーや、特定の和音への偏愛を持たなかった。一見スクリャービンと区別しにくいピアノ曲でも、音響に対してはより客観的であり、多彩である」

ロスラヴェッツはこの合成和音に作品の全和声構造を決定させた。この新しい音体系は明晰で合理的なものであり、ロスラヴェッツはこの音体系によって音楽の源泉をインスピレーションに求める観念主義をのりこえようとした。ロスラヴェッツは「創造行為とは、何か神秘的な『トランス』でも『神からの』『啓示』でもなく、『無意識のもの』(意識下にあるもの)を意識した形にするために、人間の知性を最大限に集中させた瞬間である」と考えていた。

→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)
→高橋悠治「ことばをもって音をたちきれ」(晶文社)



アルトゥール・ルリエー

2007-09-11 17:32:18 | 音楽史
LourieARTHUR LOURIE
STRING QUARTETS/DUO
 
 
UTRECHT STRING QUARTET

アルトゥール・ルリエー(1892-1966)はペテルブルクに生まれた。ペテルブルク音楽院でピアノと作曲を学んだ。旧弊なアカデミズムに飽き足らず、ドビュッシーやスクリャービンの音楽に影響を受けつつ、実験的な音楽をつくるようになった。ルリエーは前衛的な芸術家たちと密接な交流を持ち、アレクサンドル・ブロークの友人としてアクメイズムにも通じていたし、ロシア未来派のグループにも加わり、彼らの雑誌に寄稿したり、マヤコフスキーやアフマートヴァの詩に音楽を付けたり、フレーブニコフの舞台のための音楽を担当したりした。
Figlou 
ルリエーは1914年にピアノ曲「ジンテーゼ」を作曲した。この曲は高度な半音階的作品で、十二音それぞれに体系的な同等性を与えるまでには至っていないものの、十二音技法の初期の例とされている。その翌年には「大気のかたち」を作曲した。この曲は、ピカソに献呈されたことからも示されるようにキュビズムの影響を受け、その楽譜はページ全体にテンポの示されていない断片をいくつか配置したもので、図形楽譜を用いた最初の例とされている。

ロシア革命後、ルリエーは教育人民委員会の音楽部門の責任者となったが、ベルリンを訪問した1921年にそのままロシアへ帰らずに亡命した。翌年からパリに移り、そこでストラヴィンスキーと交流するようになった。この時期からルリエーはロシア音楽のルーツをさかのぼるなど、次第に前衛的な作風から新古典主義的なものへと音楽のスタイルを変化させていった。ユダヤ人であったルリエーはナチの台頭を機に、1941年からアメリカ合衆国に渡り、1966年プリンストンで死去した。

→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)



ロシア未来派の音楽

2007-09-09 21:27:23 | 音楽史
FutuRussian Futurism
 
 
 
 
 
Photo_3SOVIET AVANT-GARDE 1
 
 
 
Steffen Schleiermacher(P)

「後進国は先進諸国の跡を追わざるをえないが、しかし事物を同一順序にしたがってうけとりはしない。歴史的立ちおくれの特権は――かかる特権が事実存在する――一連の中間的段階全体を飛びこえ、すでに用意されているものはすべて特定の日付に先んじて採用することをゆるし、それどころか、むしろそうすることを余儀なくさせる。蛮人たちは、とつぜん彼らの弓と矢をすてて銃をとる」(トロツキー「ロシア革命史」)

トロツキーはこのような発展の諸段階の集合、個々の段階の結合、古い形態とより現代的な形態とのアマルガムのことを「複合的発展の法則」と呼んだ。19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアでは、ネオナショナリズム、象徴主義、原始主義、アクメイズム、未来派など、様々な芸術運動が興り、1917年のロシア革命に先駆けて、それまでの芸術を覆していく芸術革命が急速に進み、様々な実験が試みられたことによって、ロシア芸術は一挙に前衛に躍り出ることになった。

こうした芸術運動の思想的背景にはソロヴィヨフの哲学がある。彼は対立するものを総合していくことで、その先にユートピア的な理念を見、芸術を、物質界を精神界の不滅の世界に参加させることのできるものととらえた。芸術家たちはそれを受け、芸術は生活と対立するものではなく、生活そのものを創造するものであると主張するようになった。そして、このような芸術観は社会主義リアリズムにおいても受け継がれていくのである。

それでは、この19世紀末から20世紀初頭にかけての芸術運動にあって、音楽はどのような位置づけがなされてきたのであろうか。象徴主義においては、音楽はすべての芸術の最終目標とされていた。しかしながら、この場合の音楽は極めて理念的なものであり、芸術の一形式としての音楽のことでは必ずしもないのであって、このことは象徴主義の理念を音楽で表現しようとしたスクリャービンに対し、象徴主義の文学者ベールイがむしろ嫌悪の念を抱いていたということからも示される。そして象徴主義から未来派へという流れの中で、音楽はその位置を視覚芸術へ譲り渡すことになった。ロシアの芸術革命は絵画芸術の革新から始まり、未来派の詩人フレーブニコフは「言葉が絵画のあとを追って大胆に歩み始めることを望んでいる」と言った。

ロシア未来派が「社会の趣味への平手打」と題された宣言とともに活動を開始したのは1912年。この宣言に署名したのはブルリューク、クルチョーヌイフ、マヤコフスキー、フレーブニコフの4人であった。過去を拒否し、アカデミーやプーシキンを象形文字よりもわかりにくいとして顧みず、自由に派生した言葉で辞書の語彙を拡大させ、言葉の新しい未来の美を見つけ出そうとしたロシア未来派は、「理論的深化という抽象的で内面的な面と、アクションという具体的で外向的な面とを合せもっており、この二面性はそのまま無意識とテクノロジーの二極性に通じていく」。「現在」の即興性と同時性に依拠しながら、異質なマチエールを組み合わせ、衝突させることで新しい芸術を志向した。そして1913年にオペラ「太陽の征服」が生み出されたのであった。
このオペラは、クルチョーヌイフが台本を担当し、マチューシンが音楽を担当し、マレーヴィチが舞台装置と衣裳を担当し、ペテルブルクの前衛的な画家集団である「青年同盟」とモスクワの「ギレヤ」グループの合同により、ペテルブルクのルナ・パルク劇場で上演され、無調音楽と不条理な詩と立体未来主義のアマルガムとして重要な作品である。マチューシンはこのオペラの中心主題を「飛行機を含むテクノロジーの擁護」であり、「古いロマン主義と饒舌を嘲笑する深い内的な内容を持っており……美としての太陽についての古くさい常識にたいする勝利である」と述べた。そして、マレーヴィチはこの仕事を通じて、対象を持たない自立した芸術としてのシュプレマティズムへと歩を進めることとなった。
ロシア未来派は「技術の完成が人間のすべての欠陥を取り除いてくれると信じた。この運動は主としてその極端な激しさによって騒ぎを引き起こした。物体を破壊したり歪曲することによって、彼らはそれに新しい完成された形式を与えようとした」のである。ロシア未来派が与えようとした新しい形式とは、大石雅彦によれば「既成の秩序を否定しそれに等価物として自らを対置するもの」である。

「等価物は既成の秩序にはノイズや無規律なものとみえ、秩序の外部と映る。しかし、等価物は独自の表現秩序を持っており、ふつうそれは既成の秩序よりも未整序で広範なものである。既成の秩序を限定エコノミーとするなら、等価物のそれは一般エコノミーということになる。たとえば、ロスラヴェッツ、オブーホフ、ゴリシェフ、ヴィシネグラツキイの実験音楽は調性音楽に慣らされた当時の人々の耳には連続した雑音としか聞えなかったものの、それらにしても、十二音技法、絶対和声、四分音システムといった分節体系を備えていたのである」(大石雅彦「ロシア・アヴァンギャルド遊泳」)

1915年のスクリャービンの死に前後して、スクリャービンの音楽に影響を受けながら、新しい音楽を生み出そうとする音楽家が現れた。代表的な音楽家にルリエー、ロスラヴェッツ、モソロフ、ヴィシネグラツキー、オブーホフ、ゴリシェフらがいるが、彼らはスクリャービンの「神秘和音」を旋法的にも扱うところから十二音技法的な音体系を作りあげたり、音体系を微分音の領域にまで拡大したり(ゲオルギー・リムスキー=コルサコフによって四分音音楽協会が1923年に設立された)、電子音を用いたり、図形楽譜を試みたりした。また、イタリア未来派のような騒音芸術も実践され、1922年の10月革命5周年を祝う演奏会では、カスピ海艦隊から霧笛や大砲、機関銃や飛行機などが「楽器」として供給されたという。

しかし、こうした前衛的な芸術は1924年に革命の指導者レーニンが死去し、1927年にスターリンが台頭するに至って、前衛的な音楽家が属するASM(現代音楽協会)がRAPM(ロシア・プロレタリア音楽家協会)からブルジョワ的であると非難され、次第に攻撃と抑圧の対象となっていった。そして1934年に開かれた第1回全ソ作家大会で「形式において民族的、内容において社会主義的」という、いわゆる社会主義リアリズムが義務的規範であるとされるに至り、ロシアの前衛芸術は闇に葬られることとなった。

「一九三〇年頃から、ソ連音楽ではモダニズムの源泉が枯渇し始めていた。ロースラヴェッツやモソローフのような作曲家が、RAPMの攻撃を受けていた。ロースラヴェッツは扇動宣伝の歌曲を書いて身を守ろうと試みたが、一九三一年から三三年にかけてレニングラードやモスクワの音楽界から姿を消し、タシケントでウズベク国立劇場の指揮者兼作曲家やウズベク放送局のディレクターとして年月を過ごした。一九三三年にモスクワに戻ったが、放送プロデューサーや、軍楽隊講師、ジプシー・アンサンブル指揮者といった重要でない仕事に就いた。モソローフの場合はもっと悪かった。彼は一九三七年と三八年に強制労働の宣告を受けたが、結局流刑に減刑された。彼はモスクワやレニングラード、キエフなど大都市に住むことを禁じられ、民謡研究に専念した。
 民謡研究や重要でない官僚ポストは、一九二〇年代に活発だったモダニスト作曲家たちの典型的な転出先だった」(F.マース「ロシア音楽史」)

→L.トロツキー「ロシア革命史」(角川文庫)
→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)
→大石雅彦「ロシア・アヴァンギャルド遊泳」(水声社)
→水野忠夫「ロシア・アヴァンギャルド未完の芸術革命」(PARCO出版)
→ユリイカ1983年1月号「特集=ロシア・アヴァンギャルド」(青土社)