むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ベルリオーズ

2006-05-26 23:35:35 | 音楽史
45835HECTOR BERLIOZ
Symphonie fantastique, Op. 14
 
John Eliot Gardiner
ORCHESTRE REVOLUTIONNAIRE ET ROMANTIQUE


ルイ=エクトール・ベルリオーズ(1803-1869)はフランスのグルノーブル近郊にあるラ・コート・サン・タンドレに生まれた。文化的な環境に育ち、幼少の頃から古典文学や音楽に親しんだ。父親は開業医で、息子にも医者になって欲しいと願ったため、ベルリオーズは大学で医学を学んだが、長くは続かなかった。オペラや演劇に熱中し、音楽への思いを断ち切れなかった彼はパリ音楽院で作曲を勉強、ローマ大賞を1830年に受賞し、ローマへ留学した。女優ハリエット・スミッソンへの狂おしいまでの想いやマリー・モークとの婚約が破談になったりといったこの時期の恋愛体験は、ベルリオーズの創作の源泉となった。

ベルリオーズの音楽はパリではあまり歓迎されなかった。数々の興行の失敗で借金もかさみ、生活の糧を得るために彼は新聞や雑誌に音楽批評を書くようになったが、音楽批評家としての活動は30年あまり続いた。1840年頃になると、イギリスやドイツでは指揮者としての名声を得たが、パリで認められたのは晩年になってからで、フランス学士院の会員に選ばれたのは1856年のことであった。

ロベルト・シューマンは「ベルリオーズの交響曲」という評論で次のように書いた。

「しかし、果たして器楽曲に思想や事件をどの程度まで叙述できるか、という難問については、多くの人があまりむずかしく考えている。もちろん作曲家は何かを表現したり、記述したり、描写したりしようと、あらかじめ腹に一物あって、ペンと紙を用意するものと信じたら間違いであるが、さればといって、外部からの偶然の影響や印象をあまり軽視するのもよくない。無意識のうちに、音響的印象のかたわらに観念が働き、耳とならんで眼が動くことはよくあることで、この常に働いている器官は、音響のさなかにいて、ある種の輪郭を固めてゆき、その輪郭が音楽の進むにつれて次第に凝縮して、判然たる形象を形成するにいたることはありうることだ。音響がそれと共に生まれた思想や形像と親近な要素をたくさん含んでいればいるほど、また作品がより詩的な、または造形的なものを表現していればいるほど、また一般にその音楽家がより幻想的に、より敏感に把握していればいるほど、その作品は、ますます人の心を高めたり、引きつけたりする」

ベルリオーズの代表作「幻想交響曲」はいわゆる標題音楽を確立した作品として知られている。ロマン主義の時代は文学が楽想の源泉となるなど、音楽外の概念に基づいて音楽がつくられた時代であったが、これは古典主義的なソナタ形式を解体した後の形式原理として音楽外的なテクストに依拠するというものであり、ピアノ小品などの警句的で凝縮された作品が数多く作られたが、ベルリオーズは交響曲というジャンルにこうした原理を適用し、楽章間の紐帯として固定楽想を用いた。これはのちにワーグナーの楽劇におけるライトモチーフへと発展した。
「幻想交響曲」はすべての楽章に標題がつけられ、阿片をのみすぎた若い芸術家が奇妙でグロテスクな一連の夢を見るというベルリオーズ自身によるプログラムがあり、器楽のドラマとして構成された。そこにはトマス・ディ・クインシーの「阿片常用者の告白」からの影響が見られる。ディ・クインシーによれば、阿片をのむことで「空間の観念と時間の観念とが、両方とも強く影響され、建物とか風景と云つたやうな物が、肉眼で見るのが困難なほど、廣大な大いさで示され、空間は膨張して、名状し難い無限の範囲まで拡大され」るし、また、ボードレールによれば「五感が互いに影響を与えあい、音は色彩を帯び、色彩には音楽が生まれ、メロディーやハーモニーは算術的機械に変貌する」のだそうだ。

ベルリオーズの音楽は、当時としてはあまりに衝動的でグロテスクなものであり、常軌を逸したものであった。彼は自己の情熱的で衝動的で誇大妄想的な性質をドラマティックな管弦楽に投影した。これはベートーヴェンの後期のように抽象的・普遍的な観念ではなく、具体的な対象を持つ標題的な観念であり、個人的・主観的な内的な経験の表現であった。この人間的な感情の表現を際限なく拡大していこうとする荒れ狂った音楽は、色彩に満ちた管弦楽の技法とともに、後期ロマン派のワーグナーやマーラー、あるいはリムスキー=コルサコフやチャイコフスキーといったロシアの音楽家に多大な影響を与えた。

ベルリオーズは「音楽家では全然ない――絵画の手法を使っている」と評され、自身も「音楽における楽器法は絵画における色彩法に相当する」といった記述を残しているが、実際のところ、ベルリオーズは当時の画家や色彩理論にはほとんど関心がなかったと言われている。音楽と絵画に共通する法則については、「絵画の音楽」を志向したドラクロワが、次のように示している。

「音楽におけるハーモニーは和音形成のみから成るのではなく、和音の関係、すなわちその論理的な進行や和音の聴覚的反照とでも言うべきものから成っているのです。ところで、絵画も同じ法則に則っています。あの青いクッションとこちらの赤いカーペットを例にとりましょう。この二つを並べてみるのです。そうすると、二つの色が接するところで両者がたがいに奪い合うのがお分かりでしょう。赤は青みを帯び、青にはうっすらと赤味がかかり、まん中にすみれ色が生じます。絵を極彩色で満たしたっていいのです。そうした極彩色を結びつける反照がありさえすれば、趣味が悪いというそしりを免れることができるのです」

絵画と音楽の相互にある影響関係については、例えばニコラ・プッサンが旋法の原理を絵画に適用したように、「ある感情に基づく気分を伝達するのに、描かれた人物の身ぶりによる表現ではなく、絵画の様式そのものによっても、つまり抽象的な方法によっても」可能であるとして、プッサンは19世紀のドラクロワとほぼ同じ考えを17世紀に主張していた。

Photoロックスパイザーによれば、ベルリオーズが影響を受けた画家はジョン・マーティンであった。マーティンは建築的もしくは劇的パノラマや大惨事の幻視を描いた画家で、彼の作品は栄華と豪奢と罪悪の都市であったバビロン的なイメージに満ちている。数々の珍しい打楽器や新しい楽器が導入され、増強されたベルリオーズの巨大なオーケストラはまさにマーティン的な大変動の印象を与える。

「オーケストラによって生み出される無数の楽器の組合わせの中に、調和と色彩の豊さならびに多様性、それからもちろん、いかなる芸術表現形式にも見られないような文化の富裕さが見出されよう。……休息しているときオーケストラは微睡んでいる大海原を思わせ、興奮しているときはさながら熱帯の嵐である。ときには爆発することもあるが、そういうときのオーケストラは火山そのものである。オーケストラの奥深くには原生林のざわめきと謎めかしい音が隠されている。場合によっては勝利を喜ぶ人、はたまた悲しみに打ちひしがれた人の激しい感情表出が聞かれる。沈黙は恐怖心を惹き起こす。またオーケストラの圧倒的なクレッシェンドがますます激しい叫び声をあげ、めらめらと燃え上がる炎の中にすべてを呑み込むのを目にすると、いかなる反逆者といえども身震いを禁じ得ないだろう」

→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→トマス・ディ・クインシー「阿片常用者の告白」(岩波文庫)
→エドワード・ロックスパイザー「絵画と音楽」(白水社)
→田村和紀夫/鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽の友社)



フランツ・シューベルト

2006-05-22 02:09:02 | 音楽史
SchubertSCHUBERT
DIE SCHONE MULLERIN, D.795
 
Peter Schreier(Tenor)
Andras Schiff(Piano)


フランツ・シューベルト(1797-1828)はウィーンの郊外に生まれた。彼の父親は教師で、生活は豊かではなかった。シューベルトは父や兄から音楽の手ほどきを受けたが、驚くべき才能を示したため、7歳の頃から教会のオルガン奏者であったミヒャエル・ホルツァーのもとで音楽の教育を受けることになった。11歳のときに寄宿制神学校(コンヴィクト)の奨学金を得、宮廷礼拝堂の聖歌隊に入ることができ、サリエリから音楽教育を受けるとともに、学校の楽団でヴァイオリンを演奏する機会や指揮をする機会を得た。声変わりしてコンヴィクトを離れてからは父の学校で教師となり、1814年から1817年の間勤めた。この頃からすでにシューベルトの創作活動は盛んになり、交響曲やミサ曲、オペラやリートなど様々なジャンルにわたり数多くの作品を生み出した。教師を辞めてからは、友人のフランツ・フォン・ショーバーの食客となり、以後、1818年と1824年にエスタハージの宮廷で音楽を教えたほかは、定職に就くこともなく、友人たちから献身的な援助を受けながら作曲に専念する生活を続けた。
友人たちの集まりは「シューベルティアーデ」と呼ばれ、そのなかでは詩人や芸術家や芸術のアマチュアたちが集まって詩の朗読や文学談義をしたり、シューベルトが自らの作品を演奏したりした。

シューベルトについてロベルト・シューマンは次のように言う。シューマンはシューベルトの最後の交響曲「グレート」や最後の3つのピアノ・ソナタを発見し、紹介したことでも知られる。

「シューベルトは、最も細かい感情や思想から、外界の事件や生活の境遇についても、音を持っていた。人間の念願が幾千という形をとるように、シューベルトの音楽もまたそれと同じくらい多様を極めている。彼の眼に映ずるもの、彼の手にふれるものはことごとく音楽にかわる。彼が石を投げると、話にきくデウカリオンやピーラのように、たちまち生ける人間が踊りだす。彼はベートーヴェン以後の最も卓越した音楽家であり、すべての俗人根性の敵として、最も高い意味において音楽を行なった。」

シューベルトは古典主義からロマン主義へ橋渡しをした音楽家とされる。彼のロマン主義的な傾向を示すものは600曲を超えるリートや数多あるピアノ小品で、これらはメランコリックで夢想的、感傷的な気分の音楽となっているが、とりわけリートをロマン主義音楽を代表するジャンルとして確立した功績は大きい。シューベルトによって、リートは主観的な感情の直接的な表現にとって理想的なものとして、ロマン主義のあらゆる要素が含まれるものになっていった。ピアノによる伴奏は歌詞の持つ雰囲気や意味内容に広がりを与える重要な役割を担うようになり、ここにおいて言葉と音楽が極めて密接に結びつくようになった。

→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)



ウェーバー

2006-05-20 22:39:00 | 音楽史
738Carl Maria von Weber
DER FREISCHUTZ

Carlos Kleiber
Staatskapelle Dresden


カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)は、リューベック近郊のオイティンに生まれた。モーツァルトの妻であったコンスタンツェは彼の従姉にあたる。ウェーバーは劇団を持っていた父親とともにに幼い頃からドイツ・オーストリアを旅して回った。9歳の頃からザルツブルグやミュンヘン、ウィーンでミヒャエル・ハイドンなどの音楽家たちから正式な音楽教育を受け、音楽的才能を開花させた。1804年にブレスラウ歌劇場、1813年にはプラハ歌劇場、1817年からはドレスデンの歌劇場で指揮者、ピアニストとして活動した。当時のドイツにあった歌劇場ではイタリア・オペラの上演が中心であったため、イタリア人音楽家が重用され、支配的であったが、ウェーバーは劇場の運営を徹底的に改革し、モーツァルト以来のドイツオペラの伝統の再興のために尽力した。グルックやモーツァルトのほか、ドイツ語に訳されたフランス歌劇を上演することでイタリア派に対抗した。1821年には自作の歌劇「魔弾の射手」を初演し、大成功を収めた。このことがきっかけとなって、ウェーバーはコヴェント・ガーデンからオペラを依頼され、「オベロン」を作曲したが、すでに健康を害していたウェーバーは、「オベロン」を上演するためにロンドンに行き、そこで帰らぬ人となった。

「魔弾の射手」はドイツ・ロマン派オペラの記念碑的な作品である。このオペラはフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」あたりから始まるナショナリズムの出現や民族の本質を探ろうとする歴史意識の高まり、中世への強い関心とともに、民話や民謡を採集し、民衆の活力を讃えるような動きが活発化した時代を背景に、生まれるべくして生まれた最初のドイツ国民歌劇という特別な地位にある作品なのである。
中世の伝説や民話が、森が持つ神秘性や魔術的な要素と自然の驚異が強調されたファンタジックな世界、懐かしく親しみやすい民謡調の旋律とドラマティックな効果を生む色彩感豊かなオーケストレーション。これら「魔弾の射手」が持つ特徴はその後のドイツ・ロマン派オペラに受け継がれていった。

若い頃には油絵をよく描き、細密画や彫刻もしていたというウェーバーは、夕方の光の移り変わりを伝えるために画家が用いている色彩効果に対応するような音色の配合を探し求めていたと言われているが、彼の絵画的で巧みなオーケストレーションは、ベルリオーズやワーグナーのみならず、ドビュッシーやストラヴィンスキーにも影響を与えた。例えばドビュッシーはウェーバーの作品について「楽器に関する最も秀れた論文」と評しつつ、次のように書いた。

「ウェーバーは楽器の源について稀に見る知識をもっていたと言ったのでは充分ではない。むしろウェーバーは一つ一つの楽器の魂をつぶさに調べそれを優しい手ではだけたとでも言わなくてはならない」

「ウェーバーが意図的に交響曲の色彩を強く出そうとしているときのこの上なく大胆な組合わせの管弦楽は、元の趣きをとどめた音の色彩を特に有している。そうした音の色彩は相互に惹き起こされる反応を混じり合わせることなく重なり、個性をなくしてしまわずむしろ強めている」

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→エドワード・ロックスパーザー「絵画と音楽」(白水社)
→藤本・岩村他「ドイツ文学史」(東京大学出版会)


ルイ・シュポーア

2006-05-18 22:49:26 | 音楽史
22014LOUIS SPOHR
The Four Double Quartets
 
ACADEMY OF ST MARTIN-IN-THE FIELDS CHAMBER ENSEMBLE


ルイ・シュポーア(1784-1859)はブラウンシュヴィックに生まれた。幼少期からヴァイオリンの才能を示し、15歳で宮廷楽団に入った。1804年にライプツィヒでおこなった演奏会が絶賛され、ヴァイオリンの名手として知られるようになった。1805年から1812年までゴータの宮廷楽長を務め、そのときに知り合ったハープ奏者の妻と一緒に演奏旅行をし、イタリア、イギリス、パリを回った。1813年から1815年はウィーン劇場の指揮者、1817年から1819年はフランクフルト歌劇場の音楽監督、1822年から1859年までカッセルの宮廷楽長を務めた。

シュポーアは指揮者として同時代の音楽を積極的に紹介し、ワーグナーの擁護者として「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」を上演したり、メンデルスゾーンとともに、バッハ・リヴァイヴァルの一翼を担ったりした。また、ヴァイオリンの教師としても活動し、ヨーロッパ中で200人を越える生徒を教えた。ベートーヴェンとも親交があり、「交響曲第7番」や「戦争交響曲」の初演にも参加したが、「大フーガ」や「交響曲第9番」のような後期の様式には批判的であった。
その他、シュポーアはヴァイオリンのチンレスト(あご当て)の発明者として、あるいは指揮棒を初めて使用した指揮者としても知られている。

シュポーアの残した楽曲は150曲あまりあるが、ヴァイオリンの名手だっただけに、ヴァイオリンのための楽曲が多い。また、変わった編成を試みたものが多く、二つのオーケストラのための交響曲や二重合唱のためのミサ曲、四手のピアノ伴奏による歌曲、弦楽四重奏のための協奏曲などがあるが、このような編成を試みるきっかけとなったものに複弦楽四重奏(ダブル・カルテット)があった。二つのカルテットを配置するこの編成は、ユニゾンで演奏すれば通常のカルテットの2倍の音量が得られるとともに、対等に独立し、また協調しながらのインタープレイによる効果は聴衆に強い印象を与えることができる。最初の複弦楽四重奏曲では、第1カルテットがコンチェルティーノで第2カルテットは伴奏的な役割を持っていたが、第3番や第4番では、ワイドレンジのメロディーを風に乗って運ばれていくように楽器から楽器へと受け渡していったり、互いのカルテットが呼び交わしあうエコー効果を用いたり、8つの楽器間の音の動きが面白いものとなっているが、シュポーアのこうした試みもまた、大音量の実現と聴衆を驚愕させる効果を狙ったものであったと言えるだろう。

さかのぼればルネサンス末期のヴェネツィア楽派の「複合唱形式」も、大音量と立体的な音響効果を狙ったものであったし、ジャズではオーネット・コールマンが混沌から秩序を生み出そうと集団的即興演奏をしたり、ロックではキング・クリムゾンがポリリズムと相互の音のずれが生み出すダイナミズムを追求したりという場合に、ダブル編成を試みているのが興味深いところである。


ニコロ・パガニーニ

2006-05-14 22:34:27 | 音楽史
Paganini1PAGANINI
24 CAPRICES FOR SOLO VIOLIN. OP.1
 
 
五嶋みどり


音楽におけるロマン主義は19世紀から始まる。1805年4月に公開演奏会がおこなわれたベートーヴェンの「交響曲第3番」がその後の音楽の進むべき道を方向づけた。この曲の冒頭の和音や鋭いアクセント、激しいテンポなどに聴衆は驚いた。大胆な創意と自由な形式に高度な演奏技術が結びついて音楽が生み出されるようになると、次第に作曲家と演奏家、演奏家と聴衆といった分化が進み、その間の距離は拡大していくことになった。

「演奏と相関関係にある即興あるいは作曲といった技術とはまったく無縁の、ただ演奏者の力量だけを証しだてるような演奏があらわれるのは、十九世紀もその前半が三分の一ほどすぎようかという頃であった。現代のジェシー・ノーマン、ポリーニ、メニューインの先祖筋にあたるヴィルトゥオーゾの声楽家やピアニストやヴァイオリニストたちの登場は、聴衆を超絶技巧と魔的ともいえる演奏でもって、かぎりなく魅惑しつづける演奏者の原型的人物であるパガニーニの、一八二〇年代後期のヨーロッパにおける登場と軌を一にしていただけでなく、編曲が、誇示と侵犯というふたつの目的をかねる芸術として誕生したことも、また編曲の興隆による、音楽テクストの優位性の相対的な低下とも関係していた」(エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」)

ロラン・バルトは「ムジカ・プラクティカ」で「聴く音楽と演奏する音楽の二つ」について触れ、「演奏する音楽は消滅した」としながら、次のように書いた。

「まず音楽の演技者がいた。ついで、註釈家(偉大なロマン派の声)が出た。最後に、技術屋が来て、聴衆から、代行委任という形式も含めてあらゆる活動性の負担をとり去り、つくり出そうという考え自体を、音楽の世界のなかで廃れさせてしまっているのである」

カール・ツェルニー(1791-1857)は「演奏について」という著作の中で「いずれにせよ、聴衆の大半は、感銘を与えるよりもアッといわせる方が簡単な客」であり、「こうした大勢の玉石混淆の聴衆に対しては、何か途方もないものによって不意打ちする必要がある」と書いた。このような聴衆に対して音楽家が武器としたのは大音量と高度な技術であり、ヴァイオリンやピアノの演奏において素人には真似のできないような技術が次々と開発されるようになった。

音楽と名人芸の関係について言えば、ヴァイオリンにおいては、すでに17世紀の初期バロックの時代にファリーナやビーバーが情景を描写する音楽のなかでヴィルトゥオーゾ的な技巧を用いていたし、18世紀にはタルティーニやロカテッリといった名手が活躍していた。また、歌手の名人芸に依存するナポリ派のオペラもあった。こうした名人芸は洗練と退廃が隣り合わせの、真の音楽的な表現を抹殺する危険をはらむものと考えられ、古典主義時代には抑圧されていたが、19世紀に入り、一人の音楽家が現れ、その超絶技巧でヨーロッパ中を熱狂させることになった。ニコロ・パガニーニである。ロベルト・シューマンによれば「パガニーニは名人芸に一転機を画した」という。

「演奏というものが再現活動であることから、今日我々は名演奏の文化的な意味を低く評価し勝ちである。然しパガニィニやリストが示したような真の名演奏は創造的なものである。その瞬間にあらゆる効果が発揮され、且つ楽器の音のあらゆる美しさが発揮される、いわば即興的な表現である。」(パウル・ベッカー「西洋音楽史」)

「この美しさが豊かな幻想を以て啓示されてゆくというところに名演奏の魅力があり、聴手に魔術のような効果を与えるのである。この場合、技術の巧妙さなどは第二の問題である。」(同上)

「驚くべきことは、パガニィニがこの曲を弾いたということではなく、彼が初めてかかる曲を実現してみせた点にあるのだ。パガニィニの演奏が聴衆を熱狂に巻き込んだのは、実にそれまで夢想だにしなかったこの楽器の美しさを彼がさらけ出して見せたところにあったのである。彼のヴァイオリン演奏は、音のあらゆる動的な力と陰暈を伴った歌の表現と、この楽器の持つ独自なあらゆる色彩とを奔放に発揮しつつ、浪漫主義の精神とその不可思議な世界を描き出したのである。」(同上)

ニコロ・パガニーニ(1782-1840)はジェノヴァに生まれた。5歳のときに父親からマンドリンを学び、7歳頃からヴァイオリンのレッスンを受け、8歳の頃にはソナタを作曲し、12歳のとき公衆の前で演奏を披露した。1797年から演奏旅行を始め、13歳の頃、有名なヴァイオリニストであったアレサンドロ・ローラに師事しようとしたが、パガニーニの演奏を聴いたローラは、自分が教えることは何もないとして、これを拒否したといわれている。その後、ヴァイオリンはほぼ独学で一日15時間の練習をしたという。しかし、16歳の頃から賭博と飲酒に溺れ、演奏活動を中断、人々の前から姿を消していたが、1813年ミラノにて大成功を収め、イタリア全土に知られるようになった。彼の名前をヨーロッパ中に轟かせたのは1828年ウィーンから始まり、1831年パリで終わった演奏旅行で、この期間中、たくさんの有名な音楽家がパガニーニの演奏を聴き、大変な衝撃を受けたとされる。フランツ・リストがパガニーニを聴いて以来、それまで身につけていた自分の奏法を完全に作り変える決意をしたというエピソードもある。あまりの超絶技巧のため、パガニーニは「悪魔に魂を売ってヴァイオリンの技法を身につけた」と噂され、この噂のせいで、死のときも埋葬を拒否されたほどであった。
パガニーニの楽曲は6曲のヴァイオリン協奏曲やロベルト・シューマンが「徹頭徹尾まれにみる新鮮軽快な着想から生まれたもので、おびただしい金剛石を含有している」と評した「24の奇想曲」、あるいはギターやヴァイオリンのためのソナタなどが残っている。ロベルト・シューマンが語るところによれば、パガニーニは自分の作曲の才分をその卓越した演奏の天才より高くかっていたそうだ。

→エドワード・サイード「音楽のエラボレーション」(みすず書房)
→ロラン・バルト「ムジカ・プラクティカ」(ユリイカ1974年1月号 特集=ベートーヴェンロマン主義の復興)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)


ベートーヴェン

2006-05-09 01:55:39 | 音楽史
BeethoLUDWIG VAN BEETHOVEN
Die spaten Streichquartette
 
 
LASALLE QUARTET

 
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は、宮廷楽士の息子としてボンに生まれた。父親から音楽教育を受けたが、それは体系的なものではなく、ベートーヴェンはほぼ自分の努力で演奏法や作曲法を身につけ、12歳の頃から宮廷に音楽家として雇われた。その後ウィーンに行き、ハイドンやサリエリ、アルブレヒツベルガーに師事し、作曲や対位法を学び、1792年には、即興演奏に秀でたピアニストとして頭角を現すようになった。彼は作品の印税や演奏料などで経済的に自立し、安定した生活を送ることができたが、1798年頃から聴覚を失い始め、1802年に「ハイリゲンシュタットの遺書」として有名な手紙を弟のカールにあてて書いた。この手紙には、耳が聞こえなくなったこと、自殺を考えたこと、しかし芸術が自分を救ったことが記されていたが、この苦悩をのりこえ、後に「傑作の森」と呼ばれる、充実した時期を迎えることとなった。
芸術家としての自己を確立し揺るぎないものとした後、ベートーヴェンは深刻なスランプに陥った。この時期は求婚を繰り返しては拒絶され、また、甥であるカールの養育権を訴訟により勝ち取ったものの、そのカールが未遂に終わったものの、自殺を図ったため母親のもとに返されたという、いわゆる「カール事件」など、辛いできごとが続くが、これらのできごとものりこえて、ベートーヴェンは晩年の比類なき創作へ至ったのであった。

ベートーヴェンの登場によって、音楽は音楽自身のために演奏され、聴かれるようになり、音楽の観念的な力は新しい公共性を生んだ。
ベートーヴェンの音楽の特徴はハイドンによって確立された器楽の形式(ソナタ形式)をさらに徹底し、力強い表現を可能にしたところにある。急激な爆発、ダイナミズム、コントラストの強調などは、ベートーヴェンの情熱的な性格によるものというだけでなく、和声的器楽の形式独自の有機的発展の過程でもある。音が緊密になったことで感情の表現も強烈になり、観念も明瞭なものとなる。ここにおいて音楽は漠然とした音の世界から純粋な観念の芸術となったのである。パウル・ベッカーは次のように記す。

「和声的器楽のみがかかる観念的芸術の媒体となり得たかも理解されるであろう。生理的な器官と男女の声の差異と言葉とに固く制約されている声楽では決してその目的に沿うことは出来なかった。性の差別も、言葉の束縛も受けない楽器の音はそれ故抽象的な表現に適し、肉声の達しえない劇的な表現の多様な自由を持っていたのである。」

ベートーヴェンは凡庸な主題を徹底した主題労作によって飽くことなく研磨し、組み合わせ、積み上げ、完成する。主題労作は展開部において、提示された二つの対立的な主題を媒介するが、ここに近代市民社会において成立した「労働」概念との同時代性を見たのはアドルノである。彼はベートーヴェンの音楽を「ヘーゲル哲学そのものである」といった。

ヘーゲルによれば「人間の労働は、個々人が自分の欲求のためにおこなう労働でありながら、同時に普遍的な、観念的な労働でもある」ということだが、ヘーゲル哲学における労働について今村仁司は次のように記す。

「欲望は動物的欲望と人間的欲望に分けられる。動物的欲望は、欲望-消費(享受)の直接性にとどまり、永久に物に囚われた「意識」である。人間の人間たるゆえんは、欲望の全面的実現を断念し、享受を先へとのばすところにある。断念された欲望、享受を間接的にめざす欲望、これが労働となる。労働は、欲望-享受の直接性を切断し、享受に向けての迂回生産をたどることによって動物から人間への飛躍をとげる。労働は対象(自然)へ向けての否定的=創造的行動であり、イエナのヘーゲルによれば、「此岸的な自己-物-化」、「自己-対象-化」である。」

このような欲望-労働は、労働によって作品をつくり、作品のなかに自己の存在をみるということであるが、労働はさらに、それを通して他人によって承認されたいという欲望へと純化される。ヘーゲルの労働は、「経済学でいう物的活動としての労働ではなく、このような承認を実現する精神活動」であり、この承認は、他者との「戦争状態を通過してこそ真実に実現できる」ものなのである。真の相互承認へと至る道筋とは、戦争状態を通ること、生死を賭けた闘争をすること、絶対的な不幸の境遇におちることであるが、この「承認を求める闘争」はヘーゲルによれば「絶対的矛盾」であるという。なぜならそれは「他者の死をめざしつつ、私は私自身を死にさらし、私自身の生命を賭ける」からである。

「人間的存在は組織された社会に帰属する必要がある。それぞれの個別的全体性の承認は、絶対的意識としての国民精神に依存する。全体のなかに真理があるように、個体の真の承認は国民という全体性から由来するはずである。別の形で言えば、国家の中で、国家によって、個々人は市民になりつつ、自分の普遍的価値を承認してもらうことができる。この段階で本当の相互承認が実現する。」

このような「労働」概念からベートーヴェンの音楽を見れば、聴覚を失うという、音楽家としての危機的状況にあった「ハイリゲンシュタットの遺書」を契機として、ベートーヴェンが異常とも思える集中力によって次々と傑作を生み出していったのは、音楽家としての自己の「承認を求めての闘争」であったということができるだろう。そして、彼の音楽はこのような闘争状態を止揚し、ついに新たな公共性を獲得するに至ったのである。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→今村仁司「暴力のオントロギー」(勁草書房)
→田村和紀夫/鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)