むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

電子音楽の歴史

2005-02-25 22:16:00 | 本と雑誌
田中雄二「電子音楽 in Japan」(アスペクト)

以前、「電子音楽インジャパン」というタイトルでアスキーから出版されたものの増補改訂版。付録にCDがついて実際に音も聴けるようになった。
この本は1950年代なかば、NHKに電子音楽スタジオが設立されてから現在に至るまでの日本の電子音楽の歴史を、作曲家やその制作を支えた技師、またレコード会社の人間や楽器の販売などを手がけた人たちへのインタビューを中心に構成し、たどっていくもので、細かい文字がほとんど余白のない状態でびっしりと並びそれが600ページ近くにも及ぶという大変な労作である。
moog12音技法とセリー音楽の流れを汲むシュトックハウゼンらの電子音楽とイタリアの未来派を源流とする、ピエール・シェフェールが始めたミュージック・コンクレートを先駆として、日本でも諸井誠や黛敏郎らによって電子音楽が制作されるようになるが、そうした現代音楽のエリートたちによる電子音楽の制作とその一方で映画、ラジオなどの効果音として電子音が使用されるようになっていく。電源や温度など、環境の影響を受けやすい当時の電子機器を使いこなすため、様々な工夫が技師たちによってなされていくが、それら職人技はまさに技術立国ニッポンならではといったところで、こうした部分は「プロジェクトX」的な感じで読める。
また、YMOと当時のテクノ・ポップについてはかなりのページが割かれており、YMO世代には興味の尽きないところだろう。
この本には電子音楽50年の歴史における、芸術的な営為とテクノロジーの発展との関係といったことや一部のエリートによる独占から大衆的に広がっていく過程があますところなく記述されている。未知なる音楽の可能性を追求するツールであったサイン波を発振するオシレーターに鍵盤がつき、鍵盤楽器のようになったかと思うと、プリセットされた音源も備えるようになって、誰もが同じように扱えるものになっていく。こうした流れは、極めて前衛的な芸術であった電子音楽がテクノ・ポップとなり、それが歌謡曲に波及してキッチュ化していくということにもつながるのだが、電子音楽のなれの果てとして、携帯電話の着信音が無機質に鳴ったところでこの本は終わる。もちろん新たな電子音楽の可能性や方向性を見出す作業は今も様々なところで行われているだろう。一時期のクセナキス再評価という動きなどもそのひとつで、いったん原点に回帰して、ありえたはずの方向性を再び見出すということだったと思う。



マーラーの物語批判序説

2005-02-24 01:39:09 | 本と雑誌
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ナターリエ・バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)

グスタフ・マーラーがアルマ・シントラーと婚約するまで、彼と親しくしていたナターリエがマーラーとの対話を詳細に記録したこの本は、エッカーマンの「ゲーテとの対話」に匹敵するものとされていて、マーラーの音楽観や自然観から、さらには膨大な仕事に追われる毎日に対するボヤキまでも記録されている。
ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督として歌劇の上演に様々な改革をし、オーケストラをしごきまくる厳格さと、どこか間が抜けた日常生活のエピソードのミスマッチぶりはなかなか滑稽なものである。滑稽と言えば、しばしばカリカチュアライズされた彼の指揮ぶりだが、それがリハーサル不足の演奏にあって、楽団員に自分の意図を伝えるために身体のあらゆる部位、身振りを利用しなければならなかったという事情があったことを知った。(それゆえに彼はヒゲを剃っていた。唇の動きさえも意図の伝達に利用するために!)
マーラーは休暇中に作曲をした。そのとき雑音を排除するために、彼の傍にいる人たちがさせられる苦労については、ケン・ラッセルの映画「マーラー」にも描かれている。

マーラーは悪しき伝統に毒されたオーケストラや音楽ジャーナリズムを嫌悪していたし、かといって大衆を信頼してもいなかった。彼の音楽は俗っぽい素材を扱うことで伝統の破壊者として現れ、そうした素材をグロテスクなまでに歪めてみることで、ポピュラリティを獲得することもなかった。一楽章だけで、古典派の交響曲全楽章よりも長いとか、増強されたオーケストラが放つ大音響や特異な楽器法が、当時の一般的な聴衆の聴取能力を超えていたということもあるだろう。まさにエクストラヴァガンスといった趣きは、ヴィクトリア朝のむやみに長くなっていった小説と比較するのも面白いかもしれない。そのピクチャレスクな倒錯ぶりや全体をこわす細部への耽溺。そうとらえられてしまうことにマーラー自身は侮辱を感じていたとしても。
むしろドストエフスキーのようなポリフォニックな構造を持っていると言うべきだろうか。ポリフォニーについては興味深い発言をマーラーはしているのである。ある意味、ミュージック・コンクレートやサウンド・コラージュといったものを示唆していると言えなくもない。(ルチアーノ・ベリオの「シンフォニア」にはマーラーの交響曲第2番からの引用がある)。
または、アドルノが指摘したように「ボヴァリー夫人」を持ち出すならば、フローベール=蓮實の戦略、「紋切り型辞典」による「多数者の側にたって多数者の物語を模倣しながら、しかも多数者の説話論的な欲望にしたがって平等かつ民主的な多数者を攻撃することで多数者から身を守る」こと、あるいは「細部に淫することで生じてしまう小説の物語機能の失調状態」といったものになる。物語とは、葛藤・対立しながら最終的に勝利する英雄(芸術家)の物語であり、ソナタ形式である。この物語が調性の崩壊とともに失われていく。もちろん、今では誰もこのような物語を信じてはいないのである。


カネッティ「眩暈」

2005-02-22 18:54:10 | 本と雑誌
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Elias Canetti(1905-1994) 
  
エリアス・カネッティ「眩暈」(法政大学出版局)

人類の失ったものに思いを馳せると、言い様もなく悲しみを覚える。築き上げることの困難と、失うことの容易さ。しかし、その悲しみにいつまでもとどまることはつまらないことだろう。「この全体の秩序は、神や人の誰かがこれをつくったというものではない。むしろいつもあったのだ。そしていまもあり、これからもあるだろう。いつも生きている火として、きまっただけ燃え、きまっただけ消えながら」とヘラクレイトスは言った。

この小説は、最高の中国学者であり、読んだ本の内容は一字一句間違うことなく記憶することができるキーンの話だ。彼はたくさんの本に囲まれ、規則正しい生活をし、すべてを研究に捧げることができた。このような理想的な生活が結婚を機にたちまち崩壊する。妻とのいさかいは絶えず、たまらずに家を飛び出すと、汚辱に満ちた世界が彼を待っていた。弟の尽力でどうにか家に戻ることができ、再び研究に没頭することができるかと思われたが、そうはいかなかった。「このうえなくすぐれた魂は乾燥している」とヘラクレイトスは言った。

独我論的に構築された世界が他者との関わりにおいてあっけなく崩壊するものであること、またそれゆえにたやすく狂気に陥ってしまうことを残酷なまでに示したのがこの「眩暈」ではないだろうか。「ひとりよがりは気違い」とヘラクレイトスは言っている。(もっともこれは彼の言葉ではないと言う人もいる)。
貨幣が支配する世界と対極にある世界では火が支配する。「火は万物の代物」とヘラクレイトスは言った。

「文学空間とは一つの文明が火へと委ね、破壊へ、空虚へ、灰燼へと帰せしめるものであり、図書館こそはその永遠の火災現場である、文学作品はすでに燃え尽きたものとして生まれてくる」とフーコーは言った。


ファウスト博士

2005-02-21 18:41:00 | 本と雑誌
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Thomas Mann(1875-1955) 
 
 
トーマス・マン「ファウスト博士」(岩波文庫他)

この小説は粘菌の記述から始まる。こうした変態する生物に対する関心はトーマス・マンを語るうえでは重要だろう。「詐欺師フェリックス・クルルの告白」でも、昆虫の擬態のようにして自己を危険から守ることが語られていて、そこでは真の自己を見い出すといったビルドゥングス・ロマンがパロディー化され、様々な仮面をかぶり、複数の自己を使い分け、比喩として生きる術が示されてもいた。

「ファウスト博士」の主人公レーヴァキューンは、ニーチェをモデルとして造形された。彼は悪魔に魂を売ったことで新しい音楽理論を手に入れる。(そのほとんどはアドルノ経由のシェーンベルクに負っている)レーヴァキューンが「デューラーの木版画による黙示録」を作曲しているときの、病に犯されながらも、いや、それゆえにこそ溢れる楽想に翻弄され書かされている場面は、ニーチェが「ツァラトゥストラ」を一気呵成に書き上げたというエピソードを髣髴とさせるし、当然のことながら、「病者の光学」という言葉を思い出させもする。

この小説には、芸術がもはや芸術として機能せず、商業主義に取り込まれていく、あるいはキッチュ化する時代の中での芸術家の悲劇が書かれている。孤独か、さもなければ大衆に消費されるか。しかし、問題はそれだけではないだろう。文化、伝統を守ろうという意志が、民族主義、国家主義的イデオロギーに加担し、ひいては芸術から自由を奪い、芸術そのものを抑圧してしまうといった事態をドイツは経験してしまったのだ。

クライストの「マリオネット芝居について」からの引用がある。

 「私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度認識の樹の
 木の実を食べなければならないのですね?」
 「さよう」と彼は答えた、「それが世界史の最終章なのです」

原始状態に戻るか、神となるか。ドイツは野蛮化し、レーヴァキューンは悪魔に魂を売った。再び優美さを取り戻すための試みは、誤った結果を生んだ。第三の道は、無垢であることを欲することなく、批評性を研ぎすまし、ぎこちない状態を甘受すること。「交響曲第9番」の、そして「ファウスト」の取り消し。シニカルなパロディーとしてではなく、誠実に取り消すこと。調子はずれな歌が垣間見せるだろう一瞬の輝きをもって。

登場人物のそれぞれがたどる悲劇的な結末が、ドイツの終末に重ね合わされることで、失われたものの大きさがひしひしと伝わってくる。初めの方に書かれた神学論議で、善と悪が論じられ、その関係性が述べられるが、それと同様に、絶望と希望の関係性がとらえられる。人間は神から離れ悪に堕す。しかし、罪を告白し、回心することで神からゆるしを与えられると言ったアウグスティヌスを踏まえ、犯した罪を告白し、回心することで、絶望から希望を見い出そうとする、レーヴァキューンの告白から結末までのなんという厳粛さ。


特性のない男

2005-02-18 01:23:38 | 本と雑誌
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Robert Musil(1880-1942) 
 
ロベルト・ムージル「特性のない男」(松籟社)

●生体解剖保存法

「高度の厳密さと極端な分解、数学的な定式化の無限定の交換と、不定形なものあるいは定式化されないものの追求」
(ブランショ「来るべき書物」)

細分化するイロニー。

「思考は語を概念に分節する。そして結合している予感の塊を思考は分解する。それは細分化のイロニーである。われわれの戦術とは、いたるところで諸要素をばらばらにし、その各部分のどこにも、世界が再び現れるのを是が非でも回避することにある」
(ジャンケレヴィッチ「イロニーの精神」)

物体を諸要素に分解すること、現実を生体解剖すること。

ドゥルーズはそのべケット論「消尽したもの」において、先のブランショの一節を引用している。「一切の可能性を排除しないために何もしないこと、またそうすることによって一切の可能性を尽くしてしまう」べケットとムージルの交感。遠くにダンテのベラックヮがじっとうずくまっている。

可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)。
デュナミスとは力、強さを意味し、エネルゲイアは行為を意味する。アリストテレスにおいて運動(キネーシス)は可能態から現実態への移行であり、それは多様な可能性を持っている質料(ヒュレー)が一つの性質を現実に持つ、すなわち形相(エイドス)を得るということであり、こうしてそれは完成態(エンテレケイア)となる。可能態にとどまることは、特性を持たないままにとどまること、完成することを拒否するということだ。常に別の何かになりうる能力を担保するため「いまだ……ない」状態にとどまる。これがムージル的「力への意志」である。

「イロニー的人生とは、したがって純粋の否定であり、相対性である。それはどこにも停止せずに、個々の現実の間をさまよう。イロニーの富は、ある特定の像を選び取るのを拒否することにほかならない。イロニーは敵にも味方にも同じように悪戯をし、皆を裏切ったために、気紛れな行動をしながら、孤独で、痩せ衰え、醒めきっている」            
(ジャンケレヴィッチ 同上)

イロニーが陥る危険から逃れるためか、半ば唐突に現れる愛という主題。これによって、現実的なものに先立つ可能的なものに優位性を与えることが現実の浄化ともなり、ここに千年王国と呼ばれるユートピアが提示されることになる。イロニーが先鋭化し、あらゆる幻想を呵責なく嘲笑すればするほど、繊細なまでに愛の再生を支援する。
しかし、この愛が成就することはない。

「不思議だね、この瞬間にも多くの人間が生死を賭けて戦い、動物たちが互いに襲いあい、無数の活気ある仕事が営まれているんだからね」             
(ムージル「特性のない男」)


アントナン・アルトー

2005-02-17 02:05:31 | アート・文化
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antonin artaud
pour en finir avec le jugement de dieu




アントナン・アルトー「神の裁きとけりをつけるために」
             「演劇とその形而上学」(白水社)

前者は、1947年11月にラジオ放送のために録音されたもので、sub rosa というベルギーのレーベルがCD化した。
自らを壊すために振り絞られているような声が生々しく、また強烈。テクストの朗読の合間に、打楽器とアルトーの叫び声による即興的な音楽が挿入されている。この録音にも参加したポール・テヴナンによれば、アルトーは厳しい訓練を日頃からおこなっていたそうで、彼女自身、アルトーから詩の朗読法を学んだ。それは、身体の能力を極限まで使うということに尽きるものだった。極限にまでいくこと。恒常的なシステムを維持しようとする身体機能を酷使することによって、身体を新しくつくりかえてしまうこと。ものを摂取し、エネルギーに変え、排出するといった生産システムとしての身体を超出すること。一切の合理性や有用性を備えない、全てを転倒させてしまうような、新しい身体。それ自体が詩であり、事件となるような身体。もはや分節化されることのない叫びに照応するのが「諸器官を持たない至高の身体」なのだ。
アルトーにとっては、神とは病気であり、人間の可能性を食いつぶして、卑小なものへおとしめてしまうものだ。そうであるならば、神を真理とすることによって形成された西洋文明は破壊されなければならない。ロゴス中心主義も、それを基礎としたフランス古典劇も。

「演劇とその形而上学」は演劇に魔術性や全体性を回復しようとして、戯曲への屈従を否定し、演出を演劇の最大の要素とした。西洋の演劇は哲学と同様に言語やロゴスや弁証法(対話)にあまりにも従属しすぎていた。そのため演劇で扱われる人間は、心理的、社会的類型といった抽象的な存在でしかなくなった。言葉に依存しすぎたために演劇はその活力を失ってしまったのだ。
アルトーは言葉を台詞に限定することなく、照明や音楽や俳優の身振りにまで拡大した。そうすることによって演劇は play から act になり、肉体的に何かを獲得させるものとなる。言語は物事を分析し、静的なものにしてしまい魂を奪い取る。そのために演劇は死んでしまったと言うのだが、アルトーは演劇によって極限まで突き進んだ。言語や理性を超越した境地へ向かう演劇をアルトーは「残酷演劇」と呼んだ。残酷とは、極限的認識へ向かうことの運動の総体のことだ。
我々がなじんでしまった様々な思考様式、およびそれらの枠組みの中で限界づけられる事物。こうしたものを外してしまうこと。アルトーにとっては、どちらかというと外れてしまったということだったような気もするが、重要なことはそれによって生じた表面の失われた身体、あらゆるものが苦痛を伴って入り込んでしまう孔だらけの身体を武器に、アルトーが創造の生成を、身体の作り直しを語ったことにある。


クレーの絵と音楽

2005-02-16 20:25:49 | 本と雑誌
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Paul Klee 
「肥沃な国の境界に立つ記念碑」1929
Monument an der Grenze des Fruchtlandes
 
ピエール・ブーレーズ「クレーの絵と音楽」(筑摩書房)

この本の原題は「肥沃な国」といい、パウル・クレーの絵に由来する。ブーレーズにとって、この絵との出会いは天啓のようなものであったらしい。この本は、ブーレーズがクレーについて語った三つの講演を基にして、彼の友人であったポール・テヴナンが編集したもの。
1950年代、現代音楽の世界では「全面セリー音楽」と「偶然性の音楽」との対立があり、ブーレーズはこの二つの立場の間で揺れ動きながら「管理された偶然」を主張するようになるが、そこに至る過程で彼に大きな影響を与えたのが、マラルメであり、クレーなのである。
ブーレーズはクレーの描く線や円について、カンディンスキーと比較しながら語る。カンディンスキーが定規をあてて引いたような完璧な線や円を持つならば、クレーの場合は歪みやねじれを持った、手で引かれた線や円であると言う。これは幾何学と幾何学からの逸脱を同時に獲得することであり、ブーレーズはそこに、規律を自らつくりながらも同時に自らで無秩序を導入して闘わせることから生まれるポエジーを、厳密な構造化と想像力のせめぎあいから生まれる新しい詩学を見い出す。
クレーの作品の題名は「肥沃な国の境界に立つ記念碑」という。境界とはどことの境界なのかと言えば、不毛の国ということになるだろう。対立する立場のどちらか一方にとどまる限り、我々は不毛の地にとどまることになる。全面セリー音楽はその厳格な法則性ゆえに、偶然性の音楽はすべてを偶然にゆだねるがゆえに、ともに自由意志による創造性を発揮しうる領域を見失ってしまう。だからこその「管理された偶然」であり、ブーレーズはこの自らの立場と同様の構造をクレーの作品および造形理論に見い出したがゆえに天啓のように思ったのだろう。時期的には「全面セリー音楽」の「ストリュクチュール」を作曲していた頃というから1950年頃だろうか。「管理された偶然」としての「ピアノ・ソナタ第3番」が作曲されたのは57年か58年頃、同じ頃には「プリ・スロン・プリ」も作曲された。
音楽とは異なる時間と空間の構造を持つ絵画という芸術について考えていくことは、音楽を考えるための思考形式をつくりあげていくということで、このことは絵画から受けた印象を音楽にするといったようなこと以上に、両方の芸術にとって有益なものだとブーレーズは言う。今のブーレーズはもう「管理された偶然」などは捨ててしまって久しいが、それはまた別の話。


フィツカラルド

2005-02-14 00:04:55 | 映画
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1981年ドイツ
監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレ 他
 
 
ゴム景気で沸く南米の都市マナウスには、パリ・オペラ座を模した「アマゾナス劇場」があり、ヨーロッパから有名歌手など招いてオペラの上演をしていた。ちょうどエンリコ・カルーソーとサラ・ベルナール(どういうわけか、女装した男性が演じている)の共演によるオペラの上演中にカヌーを漕いで一組の男女がやってくる。特別公演なので途中入場ができないと案内人にさえぎられるが、血にまみれた両手を見せてイキトスからカルーソーを見るためにやっとの思いで来たことを強く訴える。この男がクラウス・キンスキー演じる主人公フィツカラルドであり、そばにいる女性はクラウディア・カルディナーレ演じるモリーである。このシーンだけで、フィツカラルドが目的を達するためには尋常でない執着を見せる男であることがわかる。
フィツカラルドは野心的な事業家で、数年前にアンデス横断鉄道を敷設しようとして破産し、今は製氷事業を営んでいる。彼の夢はジャングルの奥地にオペラハウスを建設し、そこでカルーソーに歌ってもらうというものだ。それには莫大な費用が必要だ。彼は自らの製氷のノウハウを特許申請しようとするが取り合ってもらえない。儲けるならやはりゴムということで、ゴム成金に話を聞き、現地を案内してもらう。手つかずの土地は「ポンゴの瀬」という急流に阻まれ船が進めないところ、そしてヒバロ族という首狩り族がいる危険地帯しかない。
フィツカラルドは地図を見ながらひとつのアイデアを思いつく。それは二つの川が最接近している場所の山を切り開き、船を山越えさせればポンゴの瀬を避けることができるというものだ。
首狩り族の太鼓が鳴り響き、緊迫した状況に見舞われたとき、フィツカラルドはカルーソーのレコードを蓄音機にかける。この対立はアポロンとマルシュアースの音楽の闘いがそうであったように、先住民族と新しい支配者の闘いという意味を持つ。このfitzcarraldo映画では首狩り族も船の山越えに協力するが、それは屈服したのではなく、首狩り族に伝えられている、いわゆる積荷信仰に似たような伝説があり、たまたま利害が一致したので協力したという形で、先住民族を搾取する白人という図式からはずれている。無事に山を越え、宴を開いたあと、船は首狩り族によって艫綱を切られ、動き出し、避けなければならないはずのポンゴの瀬に突入する。ほとんど沈没寸前になりながらもどうにかポンゴの瀬を乗り切った後、首狩り族の目的が明らかになる。
船の山越えというアイデアを思いつくフィツカラルドもすごいが、それを映画で「実際」にやってしまうヘルツォークの映画製作に対する常軌を逸した情熱もまたすごい。
この映画は準備から完成まで4年の歳月がかかり、撮影中のトラブルも枚挙に暇がないほどで、そうした撮影の裏話も映画になりうるほどのものだ。フィツカラルドの野心と執念はヘルツォークの映画へのそれと結びつき、同一化する。ラストで見せるクラウス・キンスキーの誇らしげな表情とクラウディア・カルディナーレの喜びに満ちた笑顔はあらゆる困難を乗り越えた映画の完成を祝福してもいるのだ。


Quinka, with a Yawn

2005-02-12 01:28:31 | 音楽その他
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Quinka, with a Yawn 
 
たまに聴きたくなるアルバムで、ここ2、3日は眠る前に聴いている。
Quinka, with a Yawn は元エスレフノックの青木美智子のソロ・ユニット。この覚えにくいユニット名はヤマハのモバイル・シーケンサーQY70に由来するもので、imamuアルバム・ジャケットにもQY70のキー部分のイラストが描かれている。このジャケットは紙を折り返しただけというもので、CDの保護としては甚だこころもとないが、ユニークで面白い。デザインを手がけたのはDEVILROBOTSのキタイシンイチロウ。この二人はHASIBAMIというユニットとしてTシャツのデザインなどもしている。
エスレフノックは基本的にはギター・ポップであり、ラストアルバムになった「yes」ではそれまでと違った面を打ち出したものの、いずれにしても Quinka, with a Yawn の音楽はエスレフノックのフォーマットではできないものだ。サウンド的にはキーボードが主体となり、もともと唯一無比であった彼女の歌声は表現の幅を増し、微妙な感情や内省的な歌の世界を表現できるものとなった。とりわけこのアルバムの最後の曲である「ナポリ」は、幼稚園で習う「おべんとうの歌」のようなメロディーから始まりながらもまるでビーチ・ボーイズの「サーフズ・アップ」のように怒涛の展開を見せる名曲で、最初はこの曲を無性に聴きたくなるということだったのだが、今ではアルバムに収録された曲すべてが好きになった。



欲望

2005-02-09 23:26:00 | 映画
blowup7「欲望」(Blow-Up)
1966年イギリス・イタリア
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デイヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ 他
 
 
60年代ロンドンのポップ・カルチャー・シーンを映し出すスタイリッシュな映画であるとか、ドラッグ・パーティー、乱交、ゆきずりの男女のセックスを描いたスキャンダラスな映画であるとか、カメラ=ファロスであり、撮影はセックスと同義であり、写真を撮って欲しいというのはセックスしたいというのと同義であり、カメラは被写体を物象化するものであるとか、写真家のステレオタイプをつくった映画であるとか、ジェフ・ベックとジミー・ペイジがツイン・リードだった頃のヤードバーズの演奏シーンが見られるとか、そういったことはひとまず脇に置いて、ルソーの「新エロイーズ」から引用する。

「公園―それは非常に美しく、まさに絵のような場所の組み合わせで、ひとつひとつの景観はそれぞれ異なる国からえらびとられており、取り合わせを除けば、すべてが自然に思える、そういった場所を意味する。」

これをモンタージュされた空間と考えることはできるだろう。写真家が公園内を歩けば、それは映画の線的な運動となり、彼が写真を撮るのは全体から部分を切り取る行為である。
このようなモンタージュされた空間は公園のみならずどこにでも見つけることができる。マクロ的に見ればロンドンという都市もそうである。写真家がオープンカーで走り回れば、赤や青に塗られた外壁の建物があり、近代的な高層ビルが建ち並ぶ一方、古い街並みもあり、ところどころ工事が行われている。それは経済成長下での都市開発という意味を生み出し、写真家が不動産事業にも関わっていることがそれを支持する。ミクロ的に見れば写真家が立ち寄った骨董屋もそうであり、それこそ時代も国もまちまちな様々なものが雑然と並べられている。そこで写真家はプロペラを購入するが、これも全体から部分を切り離す行為である。もちろん、このプロペラはそれ自体切り離された部分である。
写真家が公園内で撮影したのは若い女と初老の男のカップルの写真で、フィルムを現像すると妙なものが写っていることに気づき、写真を引き伸ばしていく(この映画の原題 blow-up はこの引き伸ばしを意味する)。すると、茂みに銃を構えた男がいて、横たわった人体のようなものが写っていた。わけありの男女と銃、そして死体となればおのずから殺人事件と相場は決まっている。しかし、映画を見ているわれわれは公園のシーンで写真家と同じものを見てはいないため、このことを支持できない。問題は映画の基本的な技法であるモンタージュのリアリティである。

モンタージュにおいては、同一のショットは他のショットとの関係で様々に意味を変える。つまり、線的な統辞論的秩序の中で関係項として意味を規定される。そのため、モンタージュによっては、それを人為的な虚構とみなせるため、見る者ははそれをリアルなものとは感じない場合がある。モンタージュのこうした問題を指摘したのはアンドレ・バザンであり、彼はワン・ショット・ワン・シークェンスという空間的位置性の尊重によるリアリズムを唱えた。ひとつの画面内の諸要素の関係から意味が生じるようにすることで人為を感じさせないようにするのである。

全体から切り離された部分は意味を変え、同じことだが部分は全体によって意味づけられる。飛行機から切り離されたプロペラは彫刻作品のようになり、一連の写真から一枚だけ切り離された拡大写真は抽象画のようになり、ジェフ・ベックが壊したギターのネックはライヴハウスでは観客の誰もが欲しがるものなのに、一歩外に出ればゴミとなる。写真家も誰とも共有できない秘密を持ったことで孤独になる。頼みの仕事仲間はドラッグで酩酊している。夜の公園で確認した死体は朝方には消えていた。殺人事件の真相はもうわからない。

この映画の有名なシーンに見えないボールを打ち合うテニスのパントマイムシーンがある。これは見えないものでもそれをあるとみなす人間が複数いれば裸の王様の衣装のようなものにすぎないとしてもあるものとして存在するということだ。写真家が促されて見えないボールを投げ返すというのは、共同幻想に加担し、王様は裸だと真実を告げる子どもになることを放棄したということだろう。この写真家には殺人事件の真相を究明しようという気はないことが明らかになる。言ってみればこの映画の主人公である写真家もカメラが向けられているときにだけ存在する虚構の存在であり、あったりなかったりする死体と変わりがないのである。