むらぎものロココ

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去年マリエンバートで

2005-10-16 05:31:52 | 映画
marienbad「去年マリエンバートで」
(L'Annee derniere a Marienbad)
1961年 フランス・イタリア
監督:アラン・レネ
脚本:アラン・ロブ=グリエ
出演:デルフィーヌ・セイリグ、サッシャ・ピトエフ、
ジョルジョ・アルベルタッツィ

伝統的な小説の硬直したリアリズムを否定し、現実の再現ではなく、現実を創造することが小説の使命であるとし、そのための方法上の不断の進化によって小説の歴史が展開してきたことを改めて確認する、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家であるアラン・ロブ=グリエとドキュメンタリー映画の制作から出発し、マルグリット・デュラスの脚本による「二十四時間の情事」で初めての劇映画を撮ったばかりのアラン・レネによって「去年マリエンバートで」はつくられた。

ロブ=グリエは、映画の撮影前にレネに手渡したコンテを映画の公開後に「シネ・ロマン」として発表した。これは自分の脳裏に映し出される画面を追いながら描写していくという方法で書かれたものである(これは再現ではないのかという問題はあるが)。それに付けられた序文は彼の考える映画の特性について書かれていて、映画「去年マリエンバートで」を理解する手がかりとなっている。また、映画制作のいきさつや作業過程についても記されていて、レネとの共同作業が「完璧な相互理解」によって成立したものであることを強調している。
ロブ=グリエは映画について次のように記す。

「映像の本質的な特性はその現在性である。文学が文法上の時制を全体にわたって使用し、そのおかげで諸事件を他の出来事との関係にもとづいて配置することができるのに対して、映像にあっては、動詞がつねに現在時におかれているといっていい」

「スクリーン上に私たちの見るものはまさに継起しつつあるのであり、提供されているのは動きそれ自体であって、動きについてのレポートではない」

「ところが、どんな偏狭な観客でも、時間の逆行をたやすく受け容れてくれる。たとえば、数秒間画面をぼやけさせるだけで、追憶への移行を彼に示すことができる。それ以後、観客は自分の目にしているのが過去の出来事なのだということを理解するのであって、そのシーンの残りの部分で画面がまたすっかり鮮明になっても、だれもそのためにとまどったりはしない―その画面はもう現在時の動きとなんら区別がなく、事実上現在時におかれているにもかかわらず」

このように回想が許されれば、想像上のものも容易に許されるとして、

「まず犯罪の前後の状況についてのひとつの仮説を見せられる。それも予審判事が頭の中であるいは口頭ででっちあげた誤れる仮説であってもかまわない。それから同じようにして、何人もの証人が陳述するとき、別の断片的シーンをスクリーンの上に見る。証人たちの中には嘘をつく者がおり、したがってそれらの断片的シーンは多少とも相矛盾し、あるいは真実らしさの程度もまちまちであるが、にもかかわらず、それらはすべて同じ質の映像、同じレアリスム、同じ客観性をもって提示される。さらにまた、作中人物のひとりが想像する未来のシーンが示される場合も同様である。
結局のところ、これらの映像はすべてなんであろうか? それは想像されたものである。想像されたものは、充分に生きいきしているかぎり、つねに現在時にある」

映画は現在しか持たない。過去のシーンも未来のシーンも想像されたシーンも現在の積み重ねであり、同一の水準で並列されるということは、過去と現在や真と偽、現実と想像の区別が不可能になるということである。このことは黒澤明の「羅生門」がそうであったように、絶対的真実の不在を示す。
作家が神のように振舞うことをやめれば、主観的で不確定的な体験を記述するしかない。それは描写の機能を変化させる。描写はもう、事物を見させるものではなくなり、事物を破壊するかのようであり、執拗に描写すればするほど事物の輪郭がぼやけ、理解不能なものになっていくのであり、一方で示したものを他方で打ち消していくような、創造と消去という二重の特質を持った運動のなかで遂行されるものとなるが、この描写の運動のなかに人間が位置するのだとロブ=グリエは言う。(「今日の小説における時間と描写」)
また、ロブ=グリエは「新しい小説・新しい人間」のなかで「ヌーヴォー・ロマンは、まったくの主観性しか目ざさない」と言っているが、描写を客観的写実的なものから主観的なものへ転換したロブ=グリエにとって、レネがドキュメンタリー映画で多用した、動かないものをカメラの移動撮影で捉えるという手法は、客観的なカメラ・アイを語る主体の視点に転換するものであり、この手法が「去年マリエンバートで」において効果的に使われている。

いずれにしても、ロブ=グリエは映画に大きな可能性を見出すのである。

「映画的創造が、多くの新しい小説家たちを惹きつけるたしかな魅力の原因は、もっとべつのところに探さなければならない。彼らを夢中にさせるのは、映画カメラの客観性ではなくて、主観的なもの、想像的なものの領域におけるその可能性なのである。彼らは、映画を表現手段としてではなく、探求の手段として理解し、いちばん彼らの注意を惹くのは、当然のことだが、もっとも文学の手に負えないものである。すなわち、映像というよりはむしろ録音テープ―人間の声、雑音、雰囲気音、音楽―であり、ことに目と耳という、二つの感覚に同時にはたらきかけるという可能性である。つまり、映像にしろ音にしろ、およそもっとも異論の余地のない客観性という外観のもとに、実際には夢もしくは思い出、一言にしていえば想像力にしかすぎないものを提出できるという可能性だ」(「今日の小説における時間と描写」)

この可能性に文学以上に強力な力を認めたロブ=グリエにとって、映画は自らが新しい小説によって目指したものを実現する有効な手段となり、のちに自らが監督となっていくつかの映画をつくることとなった(このことは脳裏に浮かんだ映像を言葉で描写するより、自ら映画をつくったほうがよりダイレクトであり、ルプレザンタシオンの問題を避けられるからということもあるだろう)。

「今日の小説における時間と描写」において、ロブ=グリエは映画「去年マリエンバートで」について次のように記す。

「あの映画は記憶に救いをもとめることを一切不可能にする、永遠の現在の世界である。彼らの存在は、映画がつづく間しか持続しない。目に見える映像、耳に聞こえることば以外に、現実はありえないのである」

「マリエンバートの物語の全部は、二年にわたって起るのでもなく、三日にわたるのでもなく、正確に一時間半の間に起る」

「重要性を持つ唯一の時間が、このフィルムの映写時間であるように、重要な唯一の<人物>は観客なのである。この物語の全体がくりひろげられるのは、観客の頭のなかなのである。この物語は、まさしく、彼によって想像されるのである」

「作者が読者に望むのは、もはや完成した、充実した、自己閉鎖的な世界を出来合いのかたちで受けとることではなく、それと反対に、みずから創造に参加すること、自分の手で作品を―そして世界を―生み出すこと、そうすることによって、自分自身の生を生み出すすべを学ぶということなのである」

「作品が容認できる唯一の未来は、もう一度同じ展開をくりかえすということだけなのである。フィルムのスプールを、もう一度映写機に収めることによって」

ロブ=グリエが、この映画の未来はもう一度映画を反復することにしかないと言うとき、アドルフォ・ビオイ=カサーレスの「モレルの発明」が想い出されるだろう。この小説は政治的迫害を逃れて孤島にやってきた男の物語である。この島には何人かのグループがいることがわかり、男はその中の一人、フォスティーヌに夢中になるが、いくら近づいてもまるで相手にされない。そうこうしているうちに男はこの島に潮汐動力エネルギーで動く完全映画装置を発見する。この完全映画装置とは、視覚、聴覚、触覚、熱、すべての感覚を完全に記録し、人間や事物の完璧な複製を作ることができるというもので、フォスティーヌを含めた何人かのグループはこの装置によって投影された映像であることがわかる。やがて男は自分の動作や言葉を、フォスティーヌの言葉や動作とうまく適合させようと試み、完全映画の機械に自らを記録することにする。このことはイマージュとなって肉体的に死に、映像となることで不死となるということであった。ブランショはこの小説について次のように書いている。

「作家は、その多くの夢想や幻覚や苦しみが、そればかりか、自分が死ねばその生のいくばくかをさまざまな形態のなかに移行させることになり、それらの形態は自分の死によって永久に生気づけられるという素朴だが、浸透力のある思想までが、厳密なかたちで描き出されるのを認めたがっているのではないだろうか」

この小説がロブ=グリエに大きな影響を与えたということはすでに自明のこととされている。確かにこの小説のように、「去年マリエンバートで」に登場する人物がすでに完全映画に記録された死者たちであり、男が女を説得する物語であるように見えながら、実際は男が自らを完全映画装置にかけ、イマージュに同化しようとしている映画なのだとすれば、それはそれで納得がいくものとなる。
さらに、「モレルの発明」と密接なつながりを持つ、レーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」との関係も見つけることができるだろう。ルーセルはロブ=グリエにとっても、ヌーヴォー・ロマンの先駆者である。この小説にはヴィタリウムやレジュレクティーヌと呼ばれる薬物を死体の脳の中に入れると、適当な小道具や脇役たちさえ整えば、たちまちにして死者は体を起こし、生前のもっとも想い出深い場面を(レコードや映画のように)再演するといった場面が描かれている。蘇った死者たちの住むガラスの建造物は、果てしなく廊下が続き、鏡が散りばめられたバロック風のホテルに重なるだろう。
「去年マリエンバートで」も、ミシェル・カルージュのいう「独身者の機械」の系譜に位置づけることができるだろう。

最後にレネがこの映画について何を言っているかを見てみると、意外な発言があって面白い。

「われわれは―商業的とも言ってもいいような目的もあって―人びとのよく知る伝統的主題を取り入れることで集団的無意識に訴えようと試みた。魅力的な王子様がお城に着いて眠る『美しい姫』を起こそうとするとか、死神の使者が約束の一年後に現れ、犠牲者を連れにくるとか、あるいはもっと単純に、情事の経験のある女が夫と愛人のあいだでどちらを選ぼうかとためらうというような主題だ」

→アラン・ロブ=グリエ「今日の小説における時間と描写」
(「新しい小説のために」新潮社 所収)
→アラン・ロブ=グリエ「去年マリエンバートで」序
(「世界文学全集65 アンチ・ロマン集」筑摩書房)
→レーモン・ルーセル「ロクス・ソルス」(ペヨトル工房)
→アドルフォ・ビオイ=カサーレス「モレルの発明」(書肆風の薔薇)
→ミシェル・カルージュ「独身者の機械」(ありな書房)
→モーリス・ブランショ「ゴーレムの秘密 イマージュの幸福と不幸」
(「来るべき書物」現代思潮社 所収)
→ジル・ドゥルーズ「ロブ=グリエと時間イメージ」
(宇野邦一による構成 早稲田文学2002年7月号)



8 1/2

2005-10-05 22:32:20 | 映画
fellini「8 1/2」(Otto e Mezzo)
1962年 イタリア
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ、トゥッリョ・ピネッリ、エンニョ・フライアーノ、
ブルネッロ・ロンディ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、
アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ 他

プロメテウスは天上の火を盗んで人間に与えたことで鎖につながれ、肝臓を鷲に食われるという罰を受けた。「81/2」でマストロヤンニが演じるグイドは肝臓の治療のために有名な保養地を訪れるが、彼にとっての鷲はカトリシズムであり、自己意識であるだろう。また、プロメテウスは骨を脂身で包み、美味そうに見せかけたものをゼウスに献じるなど狡猾な面も持っていて、ゼウスを頂点とする新しいオリュンポスの神々へ反抗する。フェリーニは道化師を、「本能や私たちのめいめいのなかにある反抗的なものすべて、そして、さまざまなことがらの定まった秩序に敢然と立ち向かう全てを代表する」存在ととらえているが、プロメテウスには多分に道化の資質がある。
ガストン・バシュラールは「火の精神分析」のなかで、プロメテウス・コンプレックスについて記す。それは知的な領域でのエディプス・コンプレックスだという。このコンプレックスはフェリーニにおいて、自らを育んだロッセリーニの、とりわけネオ・レアリズモをのりこえるというかたちで現れるだろう。
さらにプロメテウスの系譜を辿っていくと、弟のエピメテウスと災厄を撒き散らすパンドラの物語があり、ゼウスによる人類滅亡プログラムとしての大洪水というカタストロフを箱舟で逃れる息子デウカリオンの物語がある。これらを付会すれば、その場しのぎの対応で次第に追い詰められていくグイド、たくさんの荷物を抱えグイドのもとにやってくるカルラ、そしてグイドが作ろうとしている映画、人類滅亡というカタストロフによって、すべてを無に帰し、自分が抱えている問題や煩わしい人間関係などをすべて一掃したいという妄想が生み出した、核戦争後の死の灰を避けるために、残された人間たちがロケットで宇宙へ飛び立つというSFスペクタクル映画に重ね合わせることができる。

フェリーニは、映画はサーカスに似ていると言った。なぜならサーカスは技術と正確さと即興性との混合物だからであり、きちんとした手段を持たないままに、同時に創造し、かつ生きるというやり方であるからである。このサーカスには道化がつきものである。道化師には白い道化師とオーギュストがいる。白い道化師は優雅、気品、調和、聡明、明晰を表わし、母であり、父であり、教師であり、芸術家であり、そして抑圧するものである。一方、オーギュストはその反対の存在で、言わば「ズボンを汚す子供」である。この二種類の道化師は人間の二つの心理的側面であり、理性信奉と本能の自由のあいだの闘争である。フェリーニが物語を作り出すときはいつも、なんらかの不安を、なんらかの心配を、そしてふつう人間同士にあるはずのさまざまな関係の軋轢状態を見せる。

映画監督グイドは道化と呼ばれもし、おどけたしぐさをしたり、付け鼻をしたりと道化的な存在として描かれている。マラルメの言うとおり、道化は罰せられる。煤で汚れた道化は理想から逃れようと湖を泳ぎ、その汚れや白粉を洗い流してしまうが、それらこそが自らを芸術家たらしめていたことに気づき、後悔する。(「道化懲戒)
彼と批評家であるドーミエのコンビはオーギュストと白い道化の関係であり、フェリーニの二面性を体現している。ドーミエはグイドの構想にすかさず批判を加える。この仮借なさや辛辣さを誇張した批判は白い道化がオーギュストに対しておこなう意地の悪い抑圧であると同時に、実はこのような批判を映画の進行中に挿入し、先回りして言ってしまうことによって、二度と同じことを言わせないようにするフェリーニの狡猾な仕掛けでもある。

マラルメはある書簡のなかで次のように書く。
「われわれは物質の空しい形態でしかない。自分が物質であることを意識しつつ、しかも一方、夢中になって、自分でもそれが存在しないことを承知しているはずの当の<夢>のなかにとび込んで、<魂>と、太古の昔からわれわれの内部に蓄積されてきた同じく神々しい諸々の印象とをうたう」

マラルメは自らの不能を歌う不能者として、個人的挫折を<詩>の不可能性へと転換する。そしてさらに反転して、彼は<詩>の挫折を<挫折>の<詩>に変形する。空虚を白の充実ととらえるような、こうしたアイロニカルな試みをマラルメは「虚妄の栄光」と呼ぶ。批評家ドーミエは、グイドをこうしたアイロニーへ誘導する。白い道化とオーギュストの最終闘争。そして最後の最後にグイドはこうしたアイロニーを一気に吹き飛ばし、圧倒的な肯定性を獲得し、白い道化に勝利する。

「ある考えを生み出したら、すぐにそれを笑いとばせ」 老子の言葉だという。フェリーニがよく引用する言葉である。

→呉茂一「ギリシャ神話」(新潮文庫)
→ガストン・バシュラール「火の精神分析」(せりか書房)
→ステファヌ・マラルメ「マラルメ詩集」(岩波文庫)
→菅野昭正「ステファヌ・マラルメ」(中央公論社)
→フェデリコ・フェリーニ「私は映画だ 夢と回想」(フィルム・アート社)