むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ADSR

2005-03-28 02:10:00 | jazz
openOpen, to love
 
 
 
Paul Bley(p)


Attack Decay Sustain Release 四つに区分された音の生命。音はそれぞれの局面において様々な表情を見せる。表面がなめらかな磁器も顕微鏡で拡大すればザラザラ、ボコボコした表面を見せるように、ポール・ブレイはピアノの音の微細な肌理を聴かせてくれる。
黄金、銀、銅、鉄へとひたすらに下降していくローマ人の時代認識のように、ひたすらに減衰する音の運命からブルースもまた生まれる。音としての人生。
穏やかな水面を突き破って飛び上がる魚のようにひらめきに満ちたパッセージは、惰性的に下降する運命に対するエラン・ヴィタール(生の跳躍)である。

収録曲
1.Closer
2.Ida Lupino
3.Started
4.Open, To Love
5.Harlem
6.Seven
7.Nothing Ever was, Anyway


速度は、もちろん純粋だ

2005-03-27 01:29:00 | jazz
coreaNOW HE SINGS, NOW HE SOBS
 
 
Chick Corea(p) Miroslav Vitous(b)
Roy Haynes(ds)

「世界の輝きにひとつの新しい美、つまり速度の美がつけ加えられたことをわれわれは宣言する」(マリネッティ「未来派宣言」)

このアルバムでのチック・コリアのピアノはバド・パウエルの速度さえも牧歌的なものたらしめる。一つ一つの音は粒立ちが揃っていて、正確にして緻密であり、リリシズムに満ちている。ヴィトウスのベースやヘインズのドラムもこの速度に鋭敏に反応し、このピアノ・トリオによる音楽はシャープに研ぎ澄まされた機能美を備え、極めてスリリングに、それでいて軽やかに、さわやかにどこまでも突き抜けていく。

収録曲
1.MATRIX
2.MY ONE AND ONLY LOVE
3.NOW HE BEATS THE DRUM-NOW HE STOPS
4.BOSSA
5.NOW HE SINGS-NOW HE SOBS
6.STEPS-WHAT WAS
7.FRAGMENTS
8.WINDOWS
9.PANNONICA
10.SAMBA YANTRA
11.I DON'T KNOW
12.THE LAW OF FALLING AND CATCHING UP
13.GEMINI



古い写真を見るような

2005-03-26 21:37:00 | jazz
kieth_jarrettSOMEWHERE BEFORE
 
 
Keith Jarrett(p) Charlie Haden(b)
Paul Motian(ds)

モダンな演奏のなかにラグタイムなども入っているこのアルバムには、アルフレッド・スティーグリッツが撮影した20世紀初頭のアメリカの都市の風景を思わせるジャケットのように、古い写真を見るような懐かしさを感じる。もっとも、この懐かしさは実体験に根ざしたものではなく、音やイメージから得られた、ゆらゆらとたちあらわれる夢のような感覚に近い。
チャーリー・ヘイデンのベースによって、まどろみに似た心地よさに導かれる1曲目はボブ・ディラン作の「マイ・バック・ページ」だが、彼の曲のメロディーの美しさは、カヴァーされて初めてわかることが多い。

収録曲
1.MY BACK PAGE
2.PRETTY BALLAD
3.MOVING SOON
4.SOMEWHERE BEFORE
5.NEW RAG
6.A MOMENT FOR TEARS
7.POUTS' OVER(AND THE DAY'S NOT THROUGH)
8.DEDICATED TO YOU
9.OLD RAG




怖るべきものの始め

2005-03-25 21:17:00 | jazz
kuhnCHILDHOOD IS FOREVER
 
  
Steve Kuhn(p) Steve Swallow(b)
Aldo Romano(ds)

このアルバムは1曲目の「夜は千の眼を持つ」に尽きる。物憂げで耽美的な演奏が次第に強度を高めていき、狂気のスペクタクルへと突き進む。

……美は怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことをとるに足らぬこととしているからだ。(リルケ「ドゥイノの悲歌」手塚富雄訳)

収録曲
1.THE NIGHT HAS A THOUSAND EYES
2.SPRING CAN REALLY HANG YOU THE MOST
3.BAUBLES, BANGLES AND BEADS
4.THE MEANING OF THE BLUES
5.ALL THAT'S LEFT
6.I WAITED FOR YOU
7.EIDERDOWN


女は女である

2005-03-24 20:53:45 | 映画
UneFemme「女は女である」(Une Femme est Une Femme)
1961年フランス・イタリア

監督:ジャン=リュック・ゴダール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、
ジャン=ポール・ベルモンド


ゴダールは1962年のインタビューで、「女は女である」をこれが本当の処女作だと言い、必ずしも自分らしい映画ではないが、最も好きな映画だと答えている。そのとき、ひとは病気の子どもを最もかわいがるものだとつけくわえているので、出来栄えについては必ずしも満足していたわけではないようだ。
実際、「女は女である」のシナリオは「勝手にしやがれ」以前に書かれており、1959年にシャブロルの製作で「愛の戯れ」として一度映画化されたことがある。
この映画の撮影でゴダールは色彩の発見と同時録音の発見とシネマスコープの発見をしたと語っていて、シネマスコープについては「すべてを撮ることができるサイズ」だと言っている。
しかしながら1985年のインタビューでゴダールは「女は女である」について、今ではあまり好きではないと答えている。1978年の「テレラマ」誌においては、この映画を「あれはまったくくだらない映画だ。あそこには力強さが、生気がない。だれに対しても恨みを抱いていなかったから、どこからも攻撃されていなかったからだ。あれはなんとも甘っちょろい映画なんだ」と激しく否定してもいる。1968年の五月革命から始まる政治の季節をくぐり抜けた後のゴダールの発言としてはわからないでもないが、案外とトリュフォーとの友情の記録(ドキュメント)でもあるこの映画に対して、トリュフォーと絶縁した後のゴダールが複雑な感情を持ってしまうということなのかもしれない。

トリュフォーとの友情の記録であるとともに、「女は女である」はトリュフォーの「ピアニストを撃て」の言わば姉妹作と言っていいと思う。シャルル・アズナヴールの歌が使われていたり、マリー・デュボワが端役で出演し、グーディスの原作を読んでいたり、ジューク・ボックスの中に「ピアニストを撃て」のシングル・レコードのジャケットが飾られていたり、外から部屋の中にネオンサインの瞬きが入りこんだりするだけでなく、「ピアニストを撃て」のなかでギャングの一人が言う「女はいつも欲しがっている。そして必ず手に入れる」という台詞はそのまま「女は女である」にもあてはまるものだろう。
「女は女である」は公開当時さほどヒットしなかったそうだ。その理由としてゴダールは、連続性に欠けていたり、リズムが変化したり、調子が途切れたりするせいだと答えているが、トリュフォーがゴダールの「勝手にしやがれ」の型破りで活き活きとした画面をねらって、ラウル・クタールと組んだ「ピアニストを撃て」も同様の理由で当時の批評家から酷評されたのだった。

「女は女である」には、結局は発売されずに終わったものの、その音声部分を収録し、その合間にゴダールがコメントを加えたものを10インチのレコードとして発売するという企画があった。そこでのコメントはとても興味深いものなので、いくつか抜き出してみる。

「女はやはり女であることを証明しながら、映画はやはり映画であることを証明する」
「誤りを犯すは映画の性なり」
「カメラというのはまず撮影の道具であり、演出するというのはなによりもまず慎ましやかに物に加担すること」
「ひとはほとんどつねに、最初に計画したこととは正反対のことをしてしまう。しかし、結局は出発点において想像したことに似ている」
「芸術とはそれを通して形式がスタイルになるもののことだ」

「女は女である」は「悲劇とはクロース・アップでとらえられた人生であり、喜劇とはロング・ショットでとらえられた人生である」というチャップリンの言葉を受け、クロース・アップでとらえられた喜劇を撮ればそれは悲喜劇になる、という考えからつくられたものだ。ネオ・リアリズム的なミュージカルをねらったというが、ゴダールはジャンルとしてのミュージカル映画はすでに死んだと認識しており、「女は女である」はミュージカル映画についての観念であり、死んでしまったミュージカル映画へのノスタルジーであるという。これをプラトン的に言い換えれば、霊魂が地上の肉体に宿る以前に見たはずのイデアを自ら想起(アナムネーシス)することによる真理の認識みたいなことになるだろう。ゴダールはダイナミックなダンスや感情の高まりがほとばしりでるような歌なしで、つまり、それらの欠如において、かつて銀幕を活き活きと彩ったミュージカル映画の記憶を、きれぎれの断片やミュージカルスター、振付師などの固有名によって喚起させ、それらに憧れるエロスに導かれるようにしてミュージカルに近づこうとする。おそらくは不自然さによって。ミュージカルでは乱闘シーンもまた、グループでの計算されたダンスとなり、逃げる相手を追いかけるときも踊りながらだったりして、そこに不自然さを感じることがある。「女は女である」も俳優たちの演技や演出に不自然なところがある。見る者に不自然さを与えることはミュージカル映画にとっては致命的なことで、ダンスや歌がイリュージョンを喪失したということである。それゆえにミュージカル映画は死んだということになるのだろうが、この不自然さを強調することで、逆説的にミュージカル映画と結びつくことができるのではないか。
ミュージカルに対するゴダールのこのようなスタンスはワーグナーの楽劇に対するブレヒトのスタンスと共通する面がある。ミュージカルはワーグナーの「総合芸術」の持つイリュージョンを保持しつつ、大衆化させたものであると言えるからだ。
ブレヒトは観客が舞台で起きていることを様々な角度から眺め、そこから変革の可能性を見出すことを期待した。そのためには、観客が演劇に同化せず、常に距離をおき、冷静であることが必要で、登場人物への感情移入や舞台への同化をさせないためにブレヒトは様々に工夫をした。彼の演劇は最後のクライマックスで観客にカタルシスを与えるようなものではなく、ばらばらなエピソードが散りばめられるようなものになった。これが音楽や文学、演劇といった諸芸術を一体化した「総合芸術」を掲げ、観客を感覚的に幻惑しながら舞台上のできごとに同化させようとしたワーグナーの楽劇に対するアンチとしてのブレヒトの演劇である。また、ブレヒトは俳優の演技に対しても、役に同化するのではなく、役を演じている俳優であることを忘れないよう注意し、台詞の後に「~と彼は言った」とト書きを含めて言わせたりした。「女は女である」にもそのような場面があるし、俳優たちはカメラに向かってお辞儀をしたりするなど、カメラを意識しながら行動している。俳優は俳優である自己と役柄の二重化を生きる存在であり、ゴダールにとって映画はフィクションであると同時にドキュメンタリーでもある。

→「人生を出発点とする芸術―アラン・ベルガラによるジャン=リュック・ゴダールへの新しいインタビュー」1985年
→「『女は女である』―ジュヌヴィエーヴ・クリュニーのアイディアにもとづくシナリオ」
→「『女は女である』―映画『女は女である』のレコードのなかのコメント」
→「ジャン=リュック・ゴダールに聞く―初期の四本の映画がつくられたあとで」1962年
(いずれも「ゴダール全評論・全発言1」(筑摩書房)所収)


お城のエヴァンス

2005-03-22 00:57:00 | jazz
am_01_05898At The Montreux Jazz Festival
 
 
Bill Evans(p) Eddie Gomez(b)
Jack De Johnette(ds)

モントルー・ジャズ・フェスティヴァルでのライヴ録音。演奏のみならず、臨場感あふれるすぐれた録音としても評価が高いアルバムである。エディ・ゴメスの、弦が指板に当たる音がパーカッシヴな速弾きベース(慣れないと耳障りに感じるかもしれない)とジャック・デジョネットの細かく多彩なシンバル・ワークと時折見せる山の上から岩が転がり落ちるとでもいうような、敏捷さと鈍重さが同居したドラミング、そしてハードにメカニカルに弾きまくるビル・エヴァンスのピアノ。全体的に硬質でメタリックな印象。「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」と「ウォーキン・アップ」がいい。

収録曲
1.ONE FOR HELEN
2.A SLEEPING BEE
3.MOTHER OF EARL
4.NARDIS
5.I LOVES YOU PORGY
6.THE TOUCH OF YOUR LIPS
7.EMBRACEABLE YOU
8.SOMEDAY MY PRINCE WILL COME
9.WALKIN' UP
10.QUIET NOW


ピアニストを撃て

2005-03-21 13:14:19 | 映画
tirez1「ピアニストを撃て」(Tirez sur le Pianiste)
1960年フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ、ニコル・ベルジェ、アルベール・レミー他
原作:デイヴィッド・グーディス(Down There)
 
映画のオープニングではジョルジュ・ドルリューによる音楽を、普段はあまり意識されないピアノのメカニズムの、つまりハンマーとダンパーの運動として視覚化している。このことは、これから始まる映画において普段はあまり意識されないカメラの運動に注目することを要請する。実際、この映画では意図したにせよしないにせよ、カメラの影が画面に映りこんでいる。また、本来透明なものの可視化という点では、車のフロントガラスの汚れがある。

トリュフォーは「ピアニストを撃て」の主人公を自分に似た者として描いたという。それは内気という性格的類似だけではないだろう。光と影をコントロールしながら映画をつくる存在である映画監督と白鍵と黒鍵を操り、音楽を演奏する存在であるピアニストという類似。アストリュックの「カメラ=万年筆」ならぬトリュフォーの「カメラ=ピアノ」。ゴダールは「カルメンという名の女」でラジカセをかついでそれを「音の出るカメラ」と言っていた。また、グレン・グールドは自らの演奏をデタッチメント(距離を置くこと)と言った。感情的に音楽に溺れるのではなく身体的にピアノと一体化すること。映画監督もまた、映画の世界に感情的に溺れることなく、身体的にカメラと一体化する。

暗黒叢書(セリ・ノワール=探偵小説、犯罪小説などの総称)の魅惑。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちにとって、セリ・ノワール、あるいはフィルム・ノワールと呼ばれるハードボイルド・タッチのアメリカ映画は少年の頃に熱中したものであり、そのときの興奮が映画をつくるうえで大きく影響している。「極端にロマンティックな筋立てと極端に現実的な人物描写を混ぜ合わせたおとぎばなし」(エラリー・クイーン)であるそれらに、トリュフォーはコクトーに共通するものを見出す。

「アメリカの犯罪小説、いわゆるハードボイルド小説に、わたしはコクトーと共通する何かを見出すのです。デイヴィッド・グーディスの原作に見出したのも、コクトー的雰囲気に彩られたお伽噺そのものでした。そしてギャング映画を ”むかし、むかし、あるところに……”というスタイルで描くつもりで『ピアニストを撃て』を撮ってみたのです」

コクトー的雰囲気。それは夢や幻想、そして鏡、あるいはフィルムの逆回転ということになるだろうか。「ピアニストを撃て」のなかには鏡が様々なところに出てくるし、シャルリとレナのキス・シーンとレナの部屋をパンしていく映像がオーヴァー・ラップし、二人がベッドの中にいる場面に着地する部分はコクトー的と言えなくもない。

鏡・愛・死をめぐって(ミシェル・レリスにもいくらかの目配せを)
1.クラリスに彼女が初めて経験した仕事(骸骨ショー)のことを語る台詞がある。彼女が全裸で棺桶に横たわるのを男たちが鏡を通して凝視するというもの。ここでは対象を間接的に見るという倒錯が語られるとともに、鏡と死(棺桶)がさりげなく結びついている。amm

2.シャルリとレナが二人で歩いているとき、ギャングたちが後をつけていることに気づいたレナが手鏡を差し出し、そこにギャング二人の顔が映る。現実にはありえないが、ファンタジックな印象を与える。

3.テレザがエドゥワール(シャルリ)に告白をする場面での台詞
「私は鏡を見る、これが私? これがテレザ? 違うわ、テレザじゃないわ、別人よ」
興行主との「ある取引」に応じたテレザはそのことによって引き裂かれてしまう。似ているが同じではない鏡に映った自分の姿を彼女はどうすることもできない。鏡の距離、埋めることのできない自分自身との距離(見ないことの不可能性)。

4.雪の山小屋で割れた鏡に映るシャルリの姿がある。シャルリもまた二重に引き裂かれている。思考と行為がずれ、常に遅れる。この遅れが彼を取り返しのつかない状況に追いやる。臆病さ、内気さと呼ばれる彼のこのような性格は、そもそも家族の中で一人だけ音楽の才能を認められ音楽院に入り、今までとまったく違った環境に置かれてからのことではないだろうか。兄弟のいる隠れ家の中で、彼は自分に流れている先祖の血について考える。自分は誰なのか。

「ピアニストを撃て」自体がことごとくずれた映画で、サスペンスに満ちた緊張感のある場面から弛緩した場面に変わるなど、テンポやムードがめまぐるしく変化する。犯罪映画であり、恋愛映画であり、喜劇であり悲劇であり、というように様々な要素が混在してもいるし、場面と台詞もずれている(ギャングたちのおしゃべり―語らないことの不可能性)。ずれを保持しながら複数のセリーが戯れる対位法的な映画。

→山田宏一「探偵小説とヌーヴェル・ヴァーグ」
 宮川淳「鏡について」(「鏡・空間・イマージュ」所収)
 松浦寿輝「グールドの肉体」(現代詩文庫「松浦寿輝詩集」所収)


ブルーについての哲学的考察

2005-03-17 02:35:30 | 本と雑誌
gelb-rot-blau


Wassily Kandinsky
「黄・赤・青」1925
Gelb-Rot-Blau


ウィリアム・H・ギャス「ブルーについての哲学的考察」(論創社)

このエッセイは、ブルーへのオマージュである。
ブルーな言葉が列挙され、次々と連結しながらイメージの奔流となってほとばしるさまに圧倒される。また、それと同時に「セックスが文学に入り込む5つの方法」について書かれたものでもあり、その5つの方法とは次のようなものである。

1.性的な素材を―性的な思考、行動、願望を―直接に描写する
2.さまざまな種類の性的な言葉を使用する
3.間接的な表現の中心である、芸術家のわざの精髄としての置き換え
4.空のように青い目
5.恋人のように言葉を使うこと

6.ブルーな言葉の3つの機能(色としてのブルー、語としてのブルー、プラトン的イデーとしてのブルー)

文学におけるセクシャリティは場面や主題でもなく、野卑な言葉にでもない、うまくつくられた愛のページの上にある。ここでは従来のリアリズム文学の限界が示されてもいるのだが、ギャスが思うところの文学というのは、現実や自然を超えて、読者の前に新しい世界を言葉によって創造する(作品を愛撫する)ということである。
誰よりもそうすることができたヘンリー・ジェイムズを讃えながら彼は次のように書いている。

「もし私たちが彼の文章であったら、たとえ私たちが死のうとしていて、絶滅に瀕していても、私たちはみずから歌を歌うだろう。なぜならば、私たちが去ったあとの沈黙は、騒々しい列車があとに残す静止とはちがうからだ。それは記念碑となるだろう。」

哲学的考察ということでは、これまでの哲学が感覚を理性の支配下に置き、色彩を見せかけのものとして、非本質的なものとしてきたことへの批判的な言及がなされており、このあたり、ミメーシスとファンタジア、あるいは表層と深層といった問題とクロスさせてみると面白いかもしれない。

さらに「ブラウエ・ライター」カンディンスキーの「抽象芸術論」が引用される。

「ブルーは内部の生命の色としてもっともふさわしい」
「(ブルーは)ほとんど人間的なものを越えた嘆きをこだまする」
 
あらゆるものから遠く離れ、卑俗なものから高貴なものまで、全てを吸い込むブルー。
この本はブルーの国の住人、すなわち「恋人のように言葉を使うこと……愛を表現する言葉ではなく、言葉を愛すること」ができる人間や作品とともに自ら歌う読者のために向けて書かれたものである。

「物ではなく意味、舌が触れるものではなく、舌が形づくるもの、唇や乳首ではなく名詞や動詞だ。」
  
ブルーな言葉のために、ブルーな物事を棄てること。


カーペンターズ・ゴシック

2005-03-16 20:23:27 | 本と雑誌
gaddis 
 
 

 
  
William Gaddis(1922-1998)

ウィリアム・ギャディス「カーペンターズ・ゴシック」(本の友社)

カーペンターズ・ゴシックというのはアメリカ独自の建築様式で、新大陸で身近に手に入る材料と技術を使ってより貴族的なヨーロッパのゴシック様式を修正したものである。
<ahref="http://muragimo.blogzine.jp/muragimo/images/carp-goth.html" onclick="window.open('http://muragimo.blogzine.jp/muragimo/images/carp-goth.html','popup','width=204,height=165,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">carp-goth「彼らが利用できたのは素朴だがたよりになる材料―つまり、木材とハンマーとノコギリと自分たちの荒けずりな創意工夫だけであった。彼らはこれらを用いて名匠が達した壮大なヴィジョンに自分たちのささやかな独自性を加えて、それを人間らしい規模にまで縮小させたのだった。要するに、奇想と借用と嘘の寄せ集めだった」
 
複雑化する社会と過剰な情報によって世界の全体像が把握できなくなってしまった。こうした状況のなかで、個人の主体性などあり得るのか、あり得るとしたらどんなかたちでなのかというのが、60年代くらいからのアメリカ文学の大きなテーマの一つだろう。無垢な状態への回帰を願い、秩序やモラルの回復を願ったりして、もう一度最初からやり直せたらどんなにいいだろうと不可能な夢を見たり、あるいは複数の自己といい、主体なき相互変換を地でいってみたりもするわけだが、いずれもさしたる有効性を持つとは思えないほどに現実は厄介なものだ。無垢な状態への回帰を志向することが、例えば原理主義的な狂信によるテロ行為と隣り合わせだったり、カメレオンのようにうまく泳いでいるつもりが泳がされているだけだったりということもあるだろう。ここで思考停止に陥らず、安易な答を求めることもなく、パラノイアックにありもしないものを捏造し、様々な陰謀説を実体化することもないバランス感覚が必要になるのだが、その基準自体が揺らいでしまっている。
小説はこうした複雑な社会をとらえようとするためにどんどん読み難いものになっていく。それはとらえがたい現実社会のアナロジーであり、謎が解決されない推理小説のようでもある。ただ、安易に答を与えないという点において、作家の誠実さがそこに担保されていると言えるだろう。
この「カーペンターズ・ゴシック」においても、噛み合わない会話がえんえんと織り成されることによって一義的に処理できないノイズめいたものがどんどん膨れあがり、何が正しくて何が虚偽であるかの判断も容易につかない事態に読む者も巻き込まれていく。

→マルカム・ブラッドベリ「現代アメリカ小説」(彩流社)
  第三章 レイト・ポストモダニズム


ジェラルドのパーティ

2005-03-15 02:50:12 | 本と雑誌
robert-coover
 
 
 
 
Robert Coover(1932- )


ロバート・クーヴァー「ジェラルドのパーティ」(講談社)

「パロディとは形式あるいは死の生への侵入である」

きれぎれの会話の断片がつぎあわされ、脈絡もなく(ときには絶妙に絡み合い)次々にたちあらわれては泡沫のように消えていく。誰にでも身体を開き、誰もがその交わりを人生の至上の時と感じているような女優ロスの死から始まるパーティは、特権化された主人公が活躍する物語の死であり、そのような物語の解体、分散化であり、また推理小説のパロディでもあって、最後まで事件の謎が解かれることもなく、誰一人納得できない犯人の確定によってなしくずしに「解決」されてしまう。死はありきたりの事柄のように放置され、パーティは続いていく。ホストであるジェラルド夫妻はそうした状況にあって、もはやパーティを仕切れず、せいぜい料理のことを心配するくらいだし、次々に起こる出来事を受け入れることしかしない。個人の持ち物はいつのまにか区別なく複数の人間に共有され、人違いを誘発する。パーティの参加者は仮面をつけた道化のように(あるいは日常の仮面をはがされて)それぞれの役柄を演じ、カメラの前で醜態を晒したりもするが、この祝祭的な空間においては、日常の生活では隠蔽される性や死、排泄物、そして様々な欲望が顕在化し、そのことが当然のことのように受け入れられるのだ。

自分のことを事細かに語り尽くす語り手の存在もなく、登場人物に確固たる性格を与え、効果的に配置しながらドラマを構成していく作者の存在もないこの猥雑な小説に対しては、それを腑分けし、ノイズの中から主旋律を取り出すような読み方にこだわることもない(例えば「ジェラルドのパーティ」を演劇と恋愛をめぐる小説として読むことは、従来の小説が扱ってきたテーマである恋愛とハイ・カルチャーとしての演劇を特権的なものとして見ているに過ぎないのではないかということはあるし、「物語の死」や「作者の死」をことさらに強調することもないのだろう)。すべては等価で(あるだろう)、何を読みとればいいのか、読者に手がかりは与えられていない。 

料理を手に取るのは自由。パーティの混乱に乗じて壁にかかっている絵を盗んだり、クローゼットの中にある衣裳を盗むのも自由。読者それぞれの関心に応じて気ままに参加し、せいぜい楽しめばいいのであって、関心のないところまで立ち入る必要もないが、何か話しかけでもしない限り、ぽつねんと心もとなく取り残されるだけだろう。速やかに立ち去るか、せめてボトルでも手に持って、タイミングをとらえて会話の輪の中に入ること。そこには芸術についての会話があり、奇妙な殺人事件の話もあり、数多のゴシップにも事欠かない。面白いパーティだったと思えば、今度は自分がホストになってパーティを開いてみるのも一興だが、つまらないと思えば途中で抜け出してしまってもかまわない。パーティなんてそんなもの、文学なんてそんなもの。ポストモダンの最初で最後のパーティにカタルシス(オルガスムと言うべきか)はない。