むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

メンデルスゾーン

2006-06-17 18:22:41 | 音楽史
211MENDELSSOHN
The Complete Symphonies
 
CHRISTOPH VON DOHNANYI
Vienna Philharmonic Orchestra


ヤーコプ・ルートヴィッヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847)はハンブルグに生まれた。彼の祖父はレッシングと親交のあった哲学者モーゼス・メンデルスゾーンであり、彼の父親アブラハムは富裕な銀行家であった。メンデルスゾーンは文化的にも経済的にも恵まれた環境で育ち、音楽、絵画、語学、文学、水泳など高い教養を身につけたが、とりわけ音楽には早熟な才能を示した。メンデルスゾーン家はオーケストラを雇い、毎週日曜日に音楽の集いを開いていたが、そこには一流の文化人が集まった。メンデルスゾーンには幼い頃から自作をすぐに演奏し、聴いてもらうことができる環境があったのである。彼は作曲や音楽理論をツェルターに学んだ。ツェルターはカール・フィリップやヨハン・クリスチャンに学んだバッハ直系の音楽家で、ゲーテとも親交があり、バッハやヘンデル、そしてモーツァルトを重視していた。メンデルスゾーンの古典主義的な傾向はツェルターによるところが大きい。
ツェルターはまた、ベルリン・ジングアカデミーの指導者でもあった。啓蒙主義の影響により、18世紀後半からドイツ各地で合唱団が組織され、市民が公の場で音楽の演奏に参加するようになっていったが、ベルリン・ジングアカデミーもこうした合唱団のひとつで、ドイツの古い合唱曲を歌うことを目的として1791年に創設された。メンデルスゾーンの父アブラハムはバッハの自筆譜を買い取り寄付するなど、この団体を財政的に支援した。
メンデルスゾーンは20歳のときにバッハの「マタイ受難曲」を公開で蘇演したことで知られているが、少年期に祖母からプレゼントされた「マタイ受難曲」のスコアがそもそものきっかけであったとしても、上演に至る背景にはドイツの合唱運動や師であったツェルターの協力があったのである。また、バッハの復活にはイタリアやフランスに対抗して自国の音楽の偉大さをアピールしたいという文化的民族主義や途絶えてしまった伝統を復興しようという歴史主義があった。
ツェルターの死後、ベルリン・ジングアカデミーの後任にメンデルスゾーンをという声があったが、結局彼は選ばれなかった。これを機にメンデルスゾーンはベルリンを去り、アブラハムもジングアカデミーへの支援を打ち切った。
ベルリンを去ったメンデルスゾーンはデュッセルドルフの音楽監督となったが、思うような活動ができず、ライプツィヒに移った。ライプツィヒではゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者としてこのオーケストラを鍛え上げ、同時代のすぐれた作品を演奏するだけでなく、過去の古い作品も数多く演奏した。
1841年に宮廷礼拝堂の楽長としてベルリンに戻ったが、そこでは様々な障害があり、思うような活動ができず、メンデルスゾーンは疲弊し、辞任した。1843年にライプツィヒに戻ると、ライプツィヒ音楽院を設立し、院長となった。こうした音楽院は18世紀後半に設立されたパリ音楽院を始めとして、19世紀にプラハやウィーンなどの音楽都市であいついで設立されたが、このことは従来の徒弟制度的な音楽教育ではなく、公共の場で誰もが音楽を学ぶことができるという意味で音楽の民主化であった。ここでは過去の優れた作品が敬意を持って学ばれたが、それまで「その場その場の重要を満たすだけ」だった音楽が、後世に残すべき名作として選定され、学ばれ、演奏会のレパートリーとして取り上げられるようになっていった。このため、19世紀の音楽家は過去の作品を意識せざるを得なくなった。
メンデルスゾーンは1846年にバーミンガムでオラトリオ「エリア」を上演し、1847年に最愛の姉ファニーの突然の死の知らせを受けて半年後、38歳の短い生涯を終えた。

メンデルスゾーンの音楽はロマン主義的な詩情と古典主義的な形式を併せ持ったものである。十代で「弦楽八重奏曲」や「真夏の夜の夢」を作曲し、交響曲、協奏曲、室内楽、そしてオラトリオなどの宗教音楽に多くの名作を残した。また、従来の演奏会用序曲のあり方を変え、交響詩の先駆となった「フィンガルの洞窟」は「風景画家の手になる傑作」としてワーグナーも絶賛した。水彩による風景画にも才能を示したメンデルスゾーンはスコットランドに旅行した際、雲が生み出す劇的な効果や刻々と移りゆく荒地の色や海の景色にインスパイアされ、それを音楽で表現した。これは音楽における印象派にもつながっていく。ロックスパイザーはメンデルスゾーンと同時代の画家ターナーとの美的類似性に着目し、両者の音と色彩が輪郭を失い、溶け合っているさまを「ヴェルレーヌが不明瞭さが明確さと結びつく領域と言い表しているあの測り難い心の深みへの接近方法」としてとらえた。

→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→エドワード・ロックスパイザー「絵画と音楽」(白水社)