むらぎものロココ

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正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(10)

2019-11-07 21:56:34 | 道元論
 その前にまず、「仏性」巻の中から、道元の言語に対する態度を表明していると思われる箇所を拾ってみる。

  「諸方の粥飯頭すべて仏性といふ道得を一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるひはいふ聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず、かくのごとくのやからは真箇是畜生生なり。なにといふ魔黨のわが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ、聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか、いまだ聴教参禅といふこと仏道にはなしとしるべし。」

 ここでは、ただ教えを聴くだけ、沈黙して禅を行うだけというのは仏道ではなく、これらを仏道というのは畜生であるとまで言っている。道取ということが、仏道の核心であることが明らかである。

  「百丈いはく、説衆生有仏性。亦謗仏法僧。説衆生無仏性。亦謗仏法僧。しかあればすなはち有仏性といひ、無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。」

 しかし、有仏性というのも無仏性というのも、どちらも三宝を誹謗することであるとする、それでもなお、道取しなければならないという。ここでもまた、道取ということの重要性が明らかである。

 一般に、禅宗は「不立文字」といい、言語を否定しているように思える。しかし、人間の意識が言語によって成り立っていることを考えれば、簡単に否定してすむようなわけにはいかない。もちろん「不立文字」といっても言語そのものを否定するわけではない。日常的な心意識を否定しながら、心そのものを否定しないように、言語の場合も否定されるのは日常的に使用されている言語であり、存在を固定化してしまい、限定してしまう言語なのである。「悉有は仏語なり」と道元はいうが、このような仏語こそは、仏が現前している言語なのであって、このような言語はそのまま真理なのである。

 道元は「諸悪莫作」巻において次のように言う。

  「この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作して、かくのごくあらしむるにあらず、菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。」
 続いて、「發菩提心」巻で次のように言う。

  「おほよそ心三種あり、一者質多心、此方稱慮知心、二者汗栗多心、此方稱艸木心、三者矣栗多心、此方稱積聚精要心。このなかに菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。(中略)この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心もて、菩提心をおこすなり。」

 慮知心から菩提心をおこすこと。このような転換によって、言語も、慮知念覚としての凡夫の言語から、菩提の言語へと転ずるのではないか。心と言語とは互いに相応しているのであるから。

 このように言語をとらえるならば、もはやこの言語は否定されるものではなく、真理を現成することができる言語となっているはずである。禅の問答は、このような言語においてなされるのであり、ここでは日常的な有意味性は乗り越えられ、禅的な有意味性を持つにいたる。このような言語によって、一切の存在が存在そのものとなって自らを説く。すなわち現成する在り方をとらえることができるのであり、仏祖の説をとらえることができるのであり、自己が真の自己であることを説く、表現することもできるのである。

 「悉有仏性」において、自己が真の自己であることによって、現象界の事物を、現象としての差異をたもちながら、全体の真実として現成している在り方をとらえることができるのであることは既にみたところであり、このことは、発心し、修行する自己の問題になっていくことも既にみた。そして今、道取することの重要性、さらに言語が単に対象を指し示し、規定するだけのものではなく、言語が説として真理を、仏性を現成することがあることをみた。ここにおいて、道取することが仏道において、最も根本的なことであるということ、さらに言えば、道取することが仏道そのものであることが明らかになったと思われる。

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