むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(7)

2019-11-05 20:53:38 | 道元論
 道元は斉安国師の「一切衆生、有仏性」について論じているが、このとき衆生という概念を、成仏していない人間として限ることなく、現象界のあらゆる事物をこの概念に含めている。

  「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。」

 ここでの問題は心性の問題なのである。「悉有仏性」の存在認識の問題は、実はこの心性の問題であったのであり、現象界の事物がすべてこの心に含まれる。この心はすべて衆生であり、衆生であるがゆえに有仏性である。このことは、現象界の事物に仏性があるかないかということではなく、現象界の事物はすべて人間の意識においてとらえられているということだ。もちろん、事物の存在は人間とは無関係に存在しているのであるが、ここでの問題は、存在をどうとらえるかという存在認識の問題であり、人間の意識をこえた存在の本質、いわば物自体のようなものを考える必要はないのである。現象界の事物は人間の意識においてとらえられている。そしてこの人間は、仏性によって存在せしめられている衆生であるから、この衆生が心においてとらえた現象界の事物も仏性によって成り立つということがいえるのである。

 ここで道元はただ心と言うだけなのだが、それは唯識論のように、心を煩悩などによって汚れているものとはみないからで、汚れを取り除くことを修行としているのでもないからである。汚れているとか、汚れていないとか考えることがすでに分別心なのである。つまり、心は心であり、それ以外の何物でもない。

 道元の現象世界の構造はこのようにトートロジカルなものであり、みずからがみずからでしかないということにおいて存在し、互いの現象ととしての区別を保ちながら相互に関係しあっている。この関係を成り立たしめるのが仏性なのである。

 そして次に、大潟の「一切衆生、無仏性」についてであるが、ここで道元はこのような立場こそが「仏道に長たり」としている。無仏性ということが実践面において論じられていたこと、そしてこのような実践こそ重要なものであるということを考えれば、この道元の言葉も納得がいく。さらに以下の引用で、なぜ道元が「有仏性」ということに慎重にならざるを得ないかということが明らかになるであろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿