むらぎものロココ

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野獣死すべし

2019-11-07 21:59:47 | 映画

「野獣死すべし」1980年日本
監督 村川 透
出演 松田優作 室田日出男 鹿賀丈史 小林麻美

この映画は大藪春彦の同名小説が原作ということになっているが、内容は全く違ったものとなった。しかし、だからといって駄作というわけではなく、それはそれとして見るべきものが多い問題作たりえている。そうなったのは松田優作という個性的な俳優によるところが大きいだろう。

彼がこの映画のために体重を10㎏落とし、奥歯を4本抜いたのはよく知られているが、脚本も彼によって大きく変えられているのである。そのためこの映画は破綻寸前となっているが、言い換えれば、破綻一歩手前で踏みとどまることができたということでもあり、ここにこの映画の魅力もあるのである。

この映画はガード下の映像から始まる。スクリーンの奥から現れる一人の男。彼はすぐに刑事であることがわかるのだが、どことなく周囲を気にしているようだ。

次の非合法カジノの場面でも店員が外の不審な気配に気づき、そのことを報告している。

これら二つの場面からわかることは、この映画は見えない存在の気配を描くことでスクリーンの外を意識させているということである。

主人公伊達邦彦がようやく現れるのはその次の大雨のシーンからである。まるでスクリーンの外から中へ飛び込むように現れ、転げまわりながら刑事を刺殺し、非合法カジノを襲撃し、のたうちまわりながらもその売上金を手に入れる。

伊達邦彦。東京大学卒。射撃部。学生時代は図書館と名曲喫茶を往復するような生活で、半年でニーチェを読破し、チャンドラーやハメットを読み散らかす。通信社に勤務し、カメラマンとして各国の激戦地をくぐりぬける。日本に帰国後は通信社をやめ、知り合いの出版社で翻訳の仕事を手伝う。それ以外はクラシック音楽を聴くか、読書をするかで社会とはかかわりを持たないように生活している。しかしその心中では銀行強盗を企てている。これが我々のアンチ・ヒーローである。

ここで、この映画に使用された楽曲をみてみると、自宅のオーディオ装置から鳴り響くショスタコーヴィチ「交響曲第5番『革命』」、そしてほんの一瞬聞こえるモーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」、レコード店の試聴室でのベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」、コンサートホールでのショパン「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノは花房晴美)。この曲にはショパンの、故郷への決別と飛翔への想いがこめられているという。

理想的な美は現実の汚辱にまみれなければならないとでもいうように、クラシックコンサートの後、伊達は全裸女性の自慰行為を眺めながらトマトジュースをちびちびと舐め、頭の中で萩原朔太郎の「漂泊者の歌」を吟じている。この詩はニーチェからの影響を強く受けたものであるが、この中には伊達とこの映画をとらえるための重要なキーワードが散りばめられている。例えば「かつて何物をも汝は愛せず」という詩句は、伊達の孤独な生活と結びつく。また、「石をもて蛇を殺すごとく/一つの輪廻を断絶して/意志なき寂寥を踏み切れかし」という詩句は、この映画の転回点の一つである、相棒の真田に向けられた「あの輪廻という忌まわしい長い歴史をたった一発の銃弾できみは否定してしまったんだ」という一節と結びつくだろう。

しかしながら、松田優作が脚本を書き換えた部分には、この映画と伊達にとって重要なキーワードがちりばめられているものの、超人思想を披歴した長広舌は概念が短絡したものでしかない。人を殺すことで神をも超越する?この思想に共感できるものは少ないだろう。こうして伊達邦彦は我々のアンチヒーローから逸脱し、何を考えているのかわからない存在になっていく。

萩原朔太郎の「漂泊者の歌」とニーチェというよりは、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフに近しい超人思想と、後半に出てくるリップ・ヴァン・ウィンクルの伝説(どんな狩りでも許されるという素晴らしい夢)はこの映画を破綻寸前でつなぎとめる紐帯の役割を果たしている。

日本映画史に残るロシアン・ルーレットの場面から伊達に撃たれるまで、伊達を追い続けた柏木は刑事として、つまりは体制側として伊達に対峙していたが、ついに伊達に勝つことができなかった。権力からも逃れてますます野獣性を開放していく伊達。我々を遠く置き去りにし、ここから映画は現実とも夢ともつかぬ、映画としか言いようのない展開を見せる。繰り返し挿入される戦場の惨劇と銃声、戦闘機の爆音。そして伊達は狂乱の中、自らが経巡った戦場の記憶と今ある現在を混沌の中に落とし込み、日常を戦場化していくのだった。

ラストシーンについて
伊達邦彦がコンサートホールで居眠りをし、一人きりで取り残されたとき、大声を2回出して自分がいる場所のリアリティを試す場面がある。リップ・ヴァン・ウィンクルの眠りのように、眠っているうちに何十年も経過してしまったのかどうか。

この映画のラストシーンは、伊達邦彦が見えない銃弾に撃たれ、もんどりうって倒れこむところで映像が止まり、カメラが次第に引いていくというものである。このシーンが「明日に向って撃て!」のラストシーンにインスパイアされたものだということは否定できないだろう。ブッチとサンダンスが外へ飛び出した瞬間、待ち構えていた州兵たちから一斉射撃を受ける。その射撃音は次第に遠ざかり、映像もまた次第に小さくなっていく。

西部開拓時代は反抗するものと抑圧するものとの関係がわかりやすいものであった。60年代後半であってもそれは同様で、反体制運動は権力によって抑圧されていった。この図式はしかし、1980年代の日本においてはすでにあてはまらないものになっていた。個人の中に奥深く内面化された管理、自らを抑圧するものたち、ニーチェ的に言えば現代の末人たちに反抗は抑圧され、野獣は殺されるのである。つまり、伊達邦彦を殺したのは、スクリーンの外で息をひそめている存在、つまり、映画を見ている我々なのである。我々が何食わぬ顔をして日常生活に戻るために、自らの野獣性を封じ込めるために、我々が伊達邦彦を殺したのである。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(10)

2019-11-07 21:56:34 | 道元論
 その前にまず、「仏性」巻の中から、道元の言語に対する態度を表明していると思われる箇所を拾ってみる。

  「諸方の粥飯頭すべて仏性といふ道得を一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるひはいふ聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず、かくのごとくのやからは真箇是畜生生なり。なにといふ魔黨のわが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ、聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか、いまだ聴教参禅といふこと仏道にはなしとしるべし。」

 ここでは、ただ教えを聴くだけ、沈黙して禅を行うだけというのは仏道ではなく、これらを仏道というのは畜生であるとまで言っている。道取ということが、仏道の核心であることが明らかである。

  「百丈いはく、説衆生有仏性。亦謗仏法僧。説衆生無仏性。亦謗仏法僧。しかあればすなはち有仏性といひ、無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。」

 しかし、有仏性というのも無仏性というのも、どちらも三宝を誹謗することであるとする、それでもなお、道取しなければならないという。ここでもまた、道取ということの重要性が明らかである。

 一般に、禅宗は「不立文字」といい、言語を否定しているように思える。しかし、人間の意識が言語によって成り立っていることを考えれば、簡単に否定してすむようなわけにはいかない。もちろん「不立文字」といっても言語そのものを否定するわけではない。日常的な心意識を否定しながら、心そのものを否定しないように、言語の場合も否定されるのは日常的に使用されている言語であり、存在を固定化してしまい、限定してしまう言語なのである。「悉有は仏語なり」と道元はいうが、このような仏語こそは、仏が現前している言語なのであって、このような言語はそのまま真理なのである。

 道元は「諸悪莫作」巻において次のように言う。

  「この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作して、かくのごくあらしむるにあらず、菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。」
 続いて、「發菩提心」巻で次のように言う。

  「おほよそ心三種あり、一者質多心、此方稱慮知心、二者汗栗多心、此方稱艸木心、三者矣栗多心、此方稱積聚精要心。このなかに菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。(中略)この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心もて、菩提心をおこすなり。」

 慮知心から菩提心をおこすこと。このような転換によって、言語も、慮知念覚としての凡夫の言語から、菩提の言語へと転ずるのではないか。心と言語とは互いに相応しているのであるから。

 このように言語をとらえるならば、もはやこの言語は否定されるものではなく、真理を現成することができる言語となっているはずである。禅の問答は、このような言語においてなされるのであり、ここでは日常的な有意味性は乗り越えられ、禅的な有意味性を持つにいたる。このような言語によって、一切の存在が存在そのものとなって自らを説く。すなわち現成する在り方をとらえることができるのであり、仏祖の説をとらえることができるのであり、自己が真の自己であることを説く、表現することもできるのである。

 「悉有仏性」において、自己が真の自己であることによって、現象界の事物を、現象としての差異をたもちながら、全体の真実として現成している在り方をとらえることができるのであることは既にみたところであり、このことは、発心し、修行する自己の問題になっていくことも既にみた。そして今、道取することの重要性、さらに言語が単に対象を指し示し、規定するだけのものではなく、言語が説として真理を、仏性を現成することがあることをみた。ここにおいて、道取することが仏道において、最も根本的なことであるということ、さらに言えば、道取することが仏道そのものであることが明らかになったと思われる。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(9)

2019-11-07 17:30:05 | 道元論
 趙洲の「狗子」に続いて、次は長沙の「蚯蚓」である。

  「竺尚書とふ、『蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審、仏性在阿那箇頭。』

  師云、『莫妄想』

  書云、『争奈動何。』

  師云、『只是風火未散。』」

 「蚯蚓斬為両段」について道元は、「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず」と言い、「両頭俱動」について、「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」と言っている。

 まず、ここで明らかになることは、蚯蚓が本来的に孤立しているわけではないということ、そして、切れたからといって二つになったということはできないということである。つまり、分別心でとらえたならば、切れた蚯蚓は二つになっていると見えるが、実はこのどちらも蚯蚓であることにはかわりがないのである。「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」というのがこのことを示している。

 そして「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」といって、「両段は一頭」ということを定と智の関係としてとらえている。
 黄檗と南泉の問答で、「定慧等学、明見仏性、此理如何」というのがあり、ここで道元は定学と慧学を分けることなくただ定慧等学と言っている。
 そして道元は、この問いを「仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭」と言い換えてみる。

 ここでは、分別心でとらえられないものを分別し、そのうちのどれが正しいのであるかといった、偏った見性を否定しているのである。だからこそ、長沙は「蚯蚓に有仏性」とも「蚯蚓に無仏性」とも言わず、「莫妄想」と言ったのである。

 次に、「風火未散」についてであるが、これは仏性は分別できないこと、そして定と慧というように、二つのものを別々にみるのではなく、同時に把握することが求められているのである。つまり、「有仏性」と「無仏性」の同時把握ということになるだろう。この同時把握ということを道元は次のように展開している。

  「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。」

 いかなるときにも仏性は現前しているということが明らかに示されている。このことを「ほとけ法をとく」あるいは「法ほとけをとく」とも言っている。

 先に、「風火の動著する心意識」を仏性とすることを否定しているのであるから、「風火未散」が仏性の現前であることは容易にみてとれる。風火未散であるということは、仏が法を説いていることであり、未散風火であるということは法が仏を説いていることである。ここで「無常のみずから無常を説著・行著・証著せんは、みな無常なるべし」という道元の言葉を想起する必要がある。これは、真の自己となったものは、真の自己の法を説くということであり、この真の自己というのは仏ということであるだろう。諸存在が諸存在そのものとなったとき、それは説として現れる。この説を道元はどのようにとらえているのか、「説心説性」に以下の記述がある。

  「おほよそ仏仏祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり、いはゆる心生種種法生の道理現成し、心滅種種法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。」

 そして、

  「性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず、仏性といふは、一切の説なり、仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは、参学にあらず、無仏性を参学せざらんは、参学にあらず、説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。」

 以上のことから明らかになるように、仏性は性であり、これは一切の説である。ここでいう一切は、有と無とを同時に把握するということである。そしてこの説という時節において、心と性とは別々のものではない。しかし、ここでいう心も、性も、現象界を離れた根本原理というようなものではなく、存在が真に存在していること、現成していることをいっているのである。

 真理というのはまさに説であり、存在みずからがみずからを説くということであり、それがすなわち現成ということであるならば、真理は表されなければならない。否、すでに表れている真理を道取しなければならないのである。それによって、自己が自己であることが示されるのである。禅において問答が重視されるのはこのゆえである。この場合、古則に依存して形式的に言葉のやり取りをしたところで意味がない。ここで道取ということが問題となる。それは当然に、言語の問題でもある。道元が言語をどのようにとらえていたかを、この道取の考察によってみてみることにしたい。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(8)

2019-11-06 17:30:39 | 道元論
 趙洲の「狗子仏性」についてこれから論じていくことにする。「狗子還有仏性也無」という問いに対して、趙洲はあるときは無と答え、あるときは有と答えている。

 そこで、まず無と答えた場合についてみてみることにする。

 道元は「狗子還有仏性也無」という問いを「鉄漢また学道するか」という意味に取っている。ここでの問題は文字通りに狗子の仏性の有無を論じるのではなく、学道ということについて論じているのである。

 趙洲はこの問いに「無」と答えている。この無は、対立をこえた無でもあり、有無の対立においての無でもありうる。言葉の上からではどれも同じようである。しかし、これらの無がいつかすべて対立をこえた無となるであろう、真の無になるだろうということがここで示されているのである。

 この「無」という答えを受けて、また問いがなされる。

  「一切衆生、皆有仏性、狗子為甚麼無。」

 この問いを道元は「一切衆生無ならば、仏性も無なるべし。狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生」と取っている。ここでは、有と無との関係が形式論理学的にとらえられているのである。それはつまり、常識的な段階にとどまっていることを意味している。であるからこの無は有無の有である。そこで趙洲は「為他有業識在」と答える。業識というのは二元論的な意識のことである。これがあるのでは存在の真のありかたをみることはできない。したがって、仏性をとらえることもできないということになる。

 次に、趙洲が「有」と答えた場合についてみることにする。

 ここでの有は「仏有」であり、これは趙洲有であり、狗子有であり、つまり仏性有である。ここでは学道においてこの仏有を学ぶことが重要であるということが示されているのである。

 この「有」を受けて、「既有、為甚麼却撞入這皮袋」という問いがなされる。こう問いかけた僧は、この「有」を「仏有」としてではなく、「今有」、「古有」、「既有」のどれかと考え、「既有」であるならば、どうして皮袋に撞入するのかと問うているのである。この僧は抽象的な「既有」が現実の存在である皮袋に入り込むことができないはずだということを理解しているのであり、それゆえに趙洲に問いかけているのである。

 ここで趙洲は「為他知而故犯」と答えている。

 道元はまず、「既有」と皮袋との関係について、このことを「不死人」と皮袋との関係としてとらえる。つまり、「不死人」という現実を離れた存在であっても、普通の人間と見分けがつかないということを言っているのである。つまり、撞入這皮袋ということが、必ずしも知而故犯、すなわち「しりてことさらおかす」であるというのではなく、「既有」を知っていたがゆえに、趙洲のいう「仏有」をとらえることができなかったということを言っているのである。

 道元は、故犯ということを「この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん」と言っている。つまり、何も隠されているものがない解脱の生活を覆い隠してしまうことが、故犯であると言っているのである。そして、このことを撞入と言っているのである。趙洲のいう「仏有」をかえって「既有」としてとらえて覆い隠してしまうということを言っているのである。

 それでは、このようなときは解脱することができないのであるか、道元は以下のように言う。

  「脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。」

  「半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること、日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。」

 仏道を学ぶ際には、いろいろと間違えてしまうこともあるが、だからといって解脱できないということはないのであり、迷いの中にあっても、修行を続ければ必ず解脱することができるのである。

 業識によって支配されることも、知而故犯の生活も、ともに現実であり、ここから始めるほかはないのである。このことを直視して、仏法に全自己を投げ出して修行することが重要なのである。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(7)

2019-11-05 20:53:38 | 道元論
 道元は斉安国師の「一切衆生、有仏性」について論じているが、このとき衆生という概念を、成仏していない人間として限ることなく、現象界のあらゆる事物をこの概念に含めている。

  「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。」

 ここでの問題は心性の問題なのである。「悉有仏性」の存在認識の問題は、実はこの心性の問題であったのであり、現象界の事物がすべてこの心に含まれる。この心はすべて衆生であり、衆生であるがゆえに有仏性である。このことは、現象界の事物に仏性があるかないかということではなく、現象界の事物はすべて人間の意識においてとらえられているということだ。もちろん、事物の存在は人間とは無関係に存在しているのであるが、ここでの問題は、存在をどうとらえるかという存在認識の問題であり、人間の意識をこえた存在の本質、いわば物自体のようなものを考える必要はないのである。現象界の事物は人間の意識においてとらえられている。そしてこの人間は、仏性によって存在せしめられている衆生であるから、この衆生が心においてとらえた現象界の事物も仏性によって成り立つということがいえるのである。

 ここで道元はただ心と言うだけなのだが、それは唯識論のように、心を煩悩などによって汚れているものとはみないからで、汚れを取り除くことを修行としているのでもないからである。汚れているとか、汚れていないとか考えることがすでに分別心なのである。つまり、心は心であり、それ以外の何物でもない。

 道元の現象世界の構造はこのようにトートロジカルなものであり、みずからがみずからでしかないということにおいて存在し、互いの現象ととしての区別を保ちながら相互に関係しあっている。この関係を成り立たしめるのが仏性なのである。

 そして次に、大潟の「一切衆生、無仏性」についてであるが、ここで道元はこのような立場こそが「仏道に長たり」としている。無仏性ということが実践面において論じられていたこと、そしてこのような実践こそ重要なものであるということを考えれば、この道元の言葉も納得がいく。さらに以下の引用で、なぜ道元が「有仏性」ということに慎重にならざるを得ないかということが明らかになるであろう。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(6)

2019-11-04 00:25:48 | 道元論
 仏教では一般に、有と無をこえた立場を中道といい、「非有非無」であるという。ここでの有あるいは無は、対立関係にあるものであり、この対立を否定するために「非有非無」と言っているのであるが、道元の場合、有は「悉有」として、無は有無の対立の否定として既に示されているのであるから、ここでは「非有非無」といった否定的な表現をする必要はなくなり、「有であり無である」と積極的に表現されることになる。このような有と無との、対立をこえた相関関係が成り立つのは、仏性のはたらきによるよるのであり、「無常仏性」が道元における仏性の根本的な性質であるからなのである。

 道元は無常についてこう言っている。

  「無常のみずから無常を説著・行著・証著せんは、みな仏性なるべし」

 そしてさらに、法華経をもじって、

  「今以現自身得度者、即現自身而為説法」

 と言っている。ここで、無常はみずから無常を説くものであること、そしてこのことはあらゆるものがそれ自身であること、つまり仏性によって悉有せられた有であることが示される。仏身と言わず、声聞身と言わずに自身ということからもこのことは明らかである。

 つまり「悉有仏性」とは「無常仏性」のことである。

 続いてこうも言っている。

  「常聖これ無常なり、常凡これ無常なり、常凡聖ならんは、仏性なるべからず。」

 ここでは無仏性でみたように、仏種としての仏性を固定的なものとしてとらえることが否定され、その根拠が無常であるということが明らかにされる。

 以上のことを踏まえて、より具体的に無常ということが示される。

  「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、すなはち仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三獏三菩提、これ仏性なるがゆゑに無常なり。大般涅槃、これ無常なるがゆゑに仏性なり。」

 ここで明らかなことは、あらゆるものが無常であるということである。無常というのは、現象界がひとときもとどまることなく、変化し続けることをいうのであるから、なにひとつ無常でないものがないということは、あらゆるものに不変の実体はというものがないということになる。阿耨多羅三獏三菩提や大般涅槃さえも、無常である現象界を離れて存在しているわけではない。つまり、無常であるがゆえにあらゆるものが存在することができ、発心し、修行すれば、誰しもが成仏できることになるのである。有るということ、または無いということに執着してしまう立場からみれば、無常ということは苦しみであるのだが、そのような執着を離れた立場からすれば、無常であるからこそあらゆる束縛から自由になることができるのである。

 「悉有仏性」の悉有について、これを「透体脱落」であると道元は言ったが、このことはそのまま無常に結びつく。そして「無仏性」の無、つまり有と無との対立関係を否定する無もそのまま無常に結びつく。この「無常仏性」ということにおいて、「悉有仏性」と「無仏性」が結びつくのである。このことはつまり、存在認識についての問題と実践についての問題が、ともに同じ基盤である無常において別々に論じられるものではないということが、明らかに示されているのである。存在認識の問題、それは心性の問題として論じられるが、これがそのまま実践の問題となる。そして実践の問題、発心・修行すれば誰しもが成仏できるということが、存在の一つ一つをかけがえのないものとしてとらえる「悉有仏性」ということを導き出す。

 以上のことを「仏性」巻の記述に従って確かめてみることにしたい。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(5)

2019-11-03 00:33:56 | 道元論
 このことは、次の五祖と六祖との問答についての道元の記述により明確に示されている。

 五祖と六祖の問答では、作仏をもとめる六祖に五祖が「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」という、この無仏性が問題となっている。

 道元は、この無仏性を仏性がある、または仏性がないという意味ではないとして、ここでも有無の立場を否定している。そしてこの無仏性が作仏であると言っている。これは仏性が、成仏と同参するということから導き出されるのである。

  「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり、仏性かならず成仏と同参するなり。」

 成仏する前に仏性があるとすると、修行は成仏する時節に至るまでの過程ということなり、修行者には仏性が備わっていないということになる。そこにも問題はあるが、このような考え方でいくと、成仏後の修行は必要がなくなる。これもまた大きな問題となる。まえに「時節若至」を「時節既至」と読み替えた道元においては、成仏以前に仏性があるということは認められないからである。さらに、成仏するということは、道元においては座禅をするということであり、修行することと成仏するということとが同時であるのだから「仏性かならず成仏と同参するなり」と言うのは、仏性が修行しなければ現れないということを言っているのである。そのような仏性を無仏性と言っているのである。

 以上で、道元における無ということ、そして無仏性ということが明らかになったと思われる。有の場合と同じく無についても、それが有無ということ、つまり「有る」とか「無い」ということを意味するのではないということ、無ということは否定ということであるが、否定する対象なしの否定というのはありえない。無として否定されるのは言うまでもなく有ということである。しかし、そのような否定は否定のままとどまり、あらゆるものを發無してしまうものではない。この否定は、有を否定的にとらえかえすということであり、否定をこえて空に至るのである。このように空と無を結びつけるのが、つまり仏性なのである。言い換えれば、仏性は空であり、無であり、有である(仏性空、仏性無、仏性有として)がゆえに、空、無、有が関係しあえるのである。

 仏性は有に即しては現れず、現れるとするならそれは否定を介してでしかない。このことを現実的に見て、修行する主体に即して無と言ったのである。そして無である仏性、すなわち無仏性こそが作仏なのである。

 つまり無仏性というのは、発心し、修行する主体についていわれる仏性なのである。

 これまで道元は、「悉有仏性」、そして「無仏性」という立場から仏性を説いてきた。「悉有仏性」の立場では、悉有としてとらえられた存在が仏性であると説かれ、一つ一つの存在が全体とかかわり、それゆえにかけがえのない存在であることが示された。

 次に、「無仏性」の立場からは成仏の能力に優劣をつけ、仏性を固定化してしまうことを否定し、無仏性を作仏であるとして、修行することの意義を説いた。

 このどちらの場合も、仏性の有無について論じていたのではなく、有無をこえているものとして仏性をとらえていたのである。

 これから「無常仏性」について論じていくことにするが、道元の立場としては、この「無常仏性」が根本的な立場なのである。「無常仏性が」言われてからは、「仏性」巻の論述過程において、有仏性と言ったらすかさず無仏性が言われていて、有と無のどちらか一方に偏った見方をするのではなく、両者を同時に把握すること、あるいは、両面からとらえることによって真理をとらえようとしていることがわかる。有と無をこえるといっても、そのためには有と無についての正しい理解がなければ意味がないのである。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(4)

2019-11-02 05:51:59 | 道元論
四祖と五祖との問答を引用する。

  「祖見問曰、『汝何姓』

   師答曰、『姓即有、不是常姓』

   祖曰、『是何姓』

   師答曰、『是仏性』

   祖曰、『汝無仏性』

   師答曰、『仏性空故、所以言無』」

 道元は五祖の「姓即有、不是常姓」を「有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり」と言い換えている。

 次に四祖の「是何姓」を「何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり、是ならしむるは何の能なり。姓は是也何也なり。」と解釈している。

 続いて五祖の「是仏性」を「是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき仏性なり。」

 そして、最後の五祖の「仏性空故、所以言無」について。「あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆえに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。」と言っている。

 ここで問題になっていることは、空と無はどのように関係づけられるかということであろう。そして、このことを考える手がかりとして、問答前半の是と何との関係をみる必要がある。

 まず、有に即した姓(性)の有性を否定している。姓(性)は有に即さない。このことを不是と言っているのである。そしてこの姓(性)は是であり何であるが、しかしこの両者は決して同じものではない。「何ならしむるは是のゆゑなり」と言うのも、「是ならしむるは何の能なり」と言うのも、是がそのままで何であると言っているのではない。なぜなら「何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり」であるからで、是と何が関係づけられるのは姓(性)によってであるからだ。そもそも是というのはその否定として不是を持っているが、何にはそのようなものはなく、何は何で全体なのである。

 そして「是何姓」、「是仏性」において、姓(性)によって何が仏であることが示されているが、「是すでに不是のとき仏性なり」であるとして何(仏)が是と不是を含んでいること、そうであるがゆえに是はそのままでは何(仏)ではなく、不是という否定面をとらえたうえで、はじめて何(仏)であるということができるのである。

 ここでこう言うことができるだろう。空と無との関係は、いま何と是との関係をみたように、限定されない絶対と限定された個体との関係であると。この相容れないと思われる両者をどのように関係づけるかが問題なのである。

 限定された個体というのは有ということである。しかしここでの問題は、限定されない絶対と限定された個体との関係をとらえることである。このことはつまり、限定された個にとどまることを意味するものではなく、そこからどのようにして絶対(空としての)に至ることができるかということなのであるから、ここでは有は否定(無)される。この有の否定(無)からどのようにして空をとらえればいいかということなのである。

 道元は「空は無にあらず」と言う。空というのは有無をこえているのでそう言っているのである。そして空と言ってしまったら、すべてが空であり、それ以外のなにものでもない。したがって、空は他の言葉に言い換えることもできない。ただ、空を空と言っただけでは空を抽象的な観念論にしてしまう。また、無を無と言っただけでは、否定のままとどまってしまい、空をとらえることはできない。

 そこで道元は、空がなにものにも即さないということ、有に即した場合は否定として現れる、そのことを無としてとらえている。

 「色即是空の空にあらず」と言うのも、この般若経の言葉を否定しているのではなく、「~即是空」という形式からでは空が色に即していると考えられ、色の実体性を否定しているということが見えにくく、色と空は否定を介して関係しているということが見えにくいことを考慮して敢えて否定しているのである。そして空是空と言って否定(無)を介さなければ空をとらえることができないということを強調しているのである。

 しかし、空と無は同じものではない。「無の片片は空を道取する標榜なり。空は無を道取する力量なり」ということであるからである。これは先に是と何の関係をみたときと同じ論理である。空と無とを関係づけるのは性、つまり仏性である。であるからこそ「仏性空なるゆゑに無といふ」のである。

 あらゆるものにはそれらをあらしめている性がある。この性を道元は実質的な本質としない。性は無自性であり、仏性である。それゆえにあらゆるものが相互に関係しあえるのである。すでに仏性と言ってしまえば、それを空ととらえるも無ととらえるも有ととらえるも、すでに有無をこえていてなんら実体はない。

 道元の無仏性の立場は実践面に関わるということ、そしてこのような仏性を有無の相でとらえることは必ず否定されなければならない。なぜなら仏性を有るとして実体視してしまえば、それを備えた人間はそのままでで仏になっていることになり、修行する必要がなくなるし、かといって仏性を無しとして發無してしまえば誰も仏になれないことになって仏教そのものが成り立たなくなるからだ。

 しかし最初から空や無常を言うことはできない。なぜなら、修行する主体はその限定された個を離れることもまたできないからである。修行する主体ができることは限定された個を否定的にとらえかえすことである。道元が実践面において無仏性を強調するのはこのことにほかならない。そしてこの無は否定にとどまるわけではない。すでにみたように、この無が否定をこえた空への手がかりとなるのである。仏性は修行によって初めて現れるのである。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(3)

2019-11-01 17:25:27 | 道元論
以上で、有について一通りみることができたように思う。続いて、無について論じていくことにするが、その前に触れておかなければならないところがある。それは、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前。」という仏言に対する道元の解釈である。

 よく知られているように、ここでの道元の解釈は、我々が一般に解釈というときの範疇からは逸脱していると思えるほど自在である。しかし、すでに二元論、実体論をこえ、何ものにもとらわれない立場に立っているのであってみれば、そうなるのが当然というものだろう。

 さて、それでは道元が実際にどう読んでいるのかを見てみることにしよう。

 まず、「欲知」の知について、これを説・行・証・亡・錯・不錯などともいうとしている。そしてこれらが時節因縁であるとしている。そして時節因縁を観ずるには時節因縁によるほかなく、智や覚などでは観ぜられないとする。そこで「払子・柱杖をもて相観するなり」として実践の重要性を強調している。そして観については「当観」ということで、能観・所観・生観・邪観などという区別をいっさい受けつけない。

 次に「欲知」の欲を当に変え、「当観」の観を知に変えて、両方を「当知」にして「仏性義」が「時節因縁」であることを示している。

 さらに「時節若至」を「時節既至」と取ることによって、「仏性の現前する時節」が現在だということを強調している。もしそうでないならば「仏性の現前する時節」はいつであるのか。道元は時期が来ればいずれといった悠長なことは言わない。

 以上のことからいえることは、仏性をとらえるには知的にとらえるだけでは不十分で、必ず実践的にもとらえなければならないということ、仏性が時節因縁というのは、仏性が毎日の生活から離れているものではないこと、しかし決して常住ではないということが示されている。

 このように仏性を実践面からとらえること、このことはすなわち、作仏、成仏を問題とすることであって、ここでの仏性がいわゆる仏性、あるいは仏種としての仏性である。このような仏性を有無の相でとらえることは、五姓各別説などを認めることであって、これも道元によって否定される。そしてすでに有無の立場をこえているのであるから、いままで有に即してみてきた仏性を無に即してとらえなおす必要がある。そこで、これから無についてみていこうと思う。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(2)

2019-10-31 17:33:46 | 道元論
 これから道元の「仏性」の記述に即して、有と無の諸相をみていくことにするが、まず最初に、道元によって否定されている有についてみてみることにしたい。

 まず道元によって「……にあらず」というように否定的な表現がなされている箇所引用する。

 「しるべし、いま仏性によって悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり、仏祖眼晴なり。衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず。いはんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなわち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、神通修証にあらず。」

 「妄縁起の有にあらず、偏界不曽蔵のゆゑに。偏界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。偏界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず。瓦古瓦今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。条条の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。」

 「悉有は百雑砕にあらず、悉有は一条鉄にあらず、拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。諸聖と斉肩なるべからず、仏性と斉肩すべからず。」

 以上が、道元によって否定的に示された有の諸相である。以下にこれらの引用箇所からみてとることのできる特徴をいくつか記すことにする。
 道元によって否定される有はほぼ次の三つに分類することができる。

 一、有無の有
 二、教家の論師の有、有部の有
 三、バラモン教的実体としての有

 一の有無の有というのは、我々が常識的におこなう主客二元論的な立場での認識作用(分別)によるものである。このようなかたちでの認識では、存在の真相をとらえることはできない。これは道元だけでなく、仏教全体が否定するものである。

 二の教家の論師の有、有部の論有というのは、現象界の事物の存在についてというよりは、事物を存在たらしめている「あり方」について形而上学的に想定された有である。先の引用によれば、「始有」、「本有」、「妙有」、「縁有」、「妄有」、「妄縁起の有」、「本有の有」、「始起の有」、「条条の有」、「無始有の有」、「始起有の有」であり、このような有は現実から遊離しているために否定される。道元が問題にする有はあくまでも具体的な現実存在であり、抽象的なものではない。このことは後にみることにする。

 三のバラモン教的実体としての有というのは言うまでもなく、究極の実体としてのアートマンやブラフマンのことであり、このような、あらゆるものから独立して存在するものを認めないのが仏教の基本的な立場である。

 以上のことから明らかになるように、道元が否定する有は、序論において示したように、主客二元論的な立場においてある有であり、実体論的性質を持つ有である。それでは道元の有的立場とはどのようなものか。それが「有仏性」の立場である。以下、また「仏性」巻から「有仏性」についての記述がなされているところを引用することにする。

 「世尊道の『一切衆生、悉有仏性』は、その宗旨いかむ。是什麼仏恁麼来の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ、悉有の言は、衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。」

 「悉有中に衆生快便難逢なり。」

 「悉有それ透体脱落なり。」

 「仏之与性、達彼達此なり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。」

 以上の引用から次のことが明らかになるだろう。

 道元の有的立場は有無の有をこえたところにある。悉有というのは存在の全体ということである。それがすなわち仏性なのであるが、そうかといって、我々の日常的な知覚作用によって知覚される現象界がそのまま仏性であるのではない。なぜなら悉有は透体脱落であるからだ。この透体脱落というのは、あらゆる物事にとらわれないということである。具体的に言えば、あるとかないとか拘るのでも、存在を実体としてとらえるのでもなく、存在の全体の真相をありのままにみるということである。そのときは認識主体としての自己も自我というような固定したものではなく、現象界との間には主客の隔たりはなく、一方的で固定した関係ではなく、相関しあい、滞るということがない。このことがすなわち悉有であるという。存在の全体ということはすなわち存在そのもののことであるということができるだろう。そして悉有仏性という。ここでいう仏性は、むしろ法性というほうが一般的かと思われるが、仏性に法性をも含みこんでしまったことが、道元の独自性を示しているのだ。このことは、無常仏性について論ずる際に詳述する。