むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ペルゴレージ

2005-08-31 02:01:47 | 音楽史
pergoPERGOLESI
STABAT MATER/SALVE REGINA

Christopher Hogwood
ACADEMY OF ANCIENT MUSIC

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)は、イェジに生まれた。幼い頃から身体が弱かったが、音楽に早熟な才能を示した。イェジの大聖堂の楽長であったフランチェスコ・サンティから音楽の基礎を学び、フランチェスコ・モンディーニからヴァイオリンを学んだあと、ナポリの音楽院に入学し、ガエターノ・グレコやレオナルド・ヴィンチ、フランチェスコ・デュランテらに学んだ。この頃ペルゴレージは少年聖歌隊員として、あるいはヴァイオリニストとして演奏活動をしていたようだ。音楽院を卒業したのは1730年頃で、翌年にはオペラ・セリア「サルスティア」を上演したが不評に終わった。1732年からスティリアーノ侯爵に仕えるようになり、この年にオペラ・ブッファ「妹に恋した兄」を上演し、これは成功を収めた。また、ナポリを襲った大地震の後、ナポリ市からの依頼でミサ曲を作り、この成功によって名声を得ることになった。1733年にはオペラ・セリア「誇り高き囚人」とインテルメッゾ「奥様女中」を上演し、「誇り高き囚人」は不評に終わったものの、「奥様女中」はペルゴレージの作品の中で最も知られ、絶賛されたものとなった。1734年からはマッダローニ公に仕え、ナポリの楽長に就任した。その後もメタスタジオの台本に基づくオペラ・セリアを上演するがことごとく失敗し、1735年のオペラ・ブッファ「フラミニオ」は好評を博した。この頃から健康状態が悪化していたペルゴレージは1736年にポッツォーリのフランチェスコ修道院で療養生活に入り、そうした状況のなかで「サルヴェ・レジナ」や「スターバト・マーテル」を作曲した。その完成後、ペルゴレージは結核のため26歳の若さで死去した。

「スターバト・マーテル」は13世紀イタリアの修道士ヤコポーネ・ダ・トーディが書いたとされるラテン語の詩で、聖母マリアの苦しみに共鳴した祈りの詩である。18世紀にはローマ教会の公式ミサに採用された。ペルゴレージはナポリ貴族の団体である「悲しみの聖母騎士団」から依頼を受け、作曲することになったのだが、それまで使われてきたアレッサンドロ・スカルラッティの曲が時代遅れになったからだと言われている。ペルゴレージは明るい曲を交えているが、オペラ・ブッファ的だとの批判もあった。「ルソン・ド・テネブレ」同様、宗教曲がオペラなどの娯楽の代用となっていた時代の傾向をここにも見ることができる。

ペルゴレージが作曲し、上演したオペラ・セリアはことごとく不評で失敗に終わり、オペラ・ブッファやインテルメッツォは常に好評を博したが、その背景には市民社会の興隆がある。神話の英雄が登場し、大仰なアリアが歌われるオペラ・セリアよりも日常的な題材でごく普通の人間が登場し、ユーモアや風刺に満ちたオペラ・ブッファのほうが市民に受け入れられたのだ。こうした傾向は、例えばイギリスでもジョン・ゲイの「乞食オペラ」がヘンデルのイタリア・オペラをしのぐ人気を得たために、ヘンデルがオペラを諦めざるを得なかったように、時代の流れであったのだろう。
1752年にはペルゴレージの「奥様女中」をきっかけにいわゆるブッフォン論争が起こり、イタリア音楽とフランス音楽の優劣について激しく議論が交わされた。


ジャン=マリ・ルクレール

2005-08-30 20:00:56 | 音楽史
leclairLECLAIR
Sonatas a Violon seul Extraits de troisieme livre
寺神戸亮(Baroque violin)
Christophe Rousset(Harpsichord)
上村かおり(Viola da gamba) 鈴木秀美(Baroque violincello)

17世紀フランスの器楽曲はリュートやハープシコード、あるいはヴィオールのためのものであった。しかし17世紀も後半になるとイタリアで生まれたヴァイオリン音楽の影響がフランスにも広がってきた。とりわけコレッリのソナタのインパクトは大きく、フランソワ・クープランによって最初にトリオ・ソナタが作曲されたが、フランスの音楽環境のなかでイタリアの音楽とフランスの音楽を融合させ、ヴァイオリンのための音楽を確立したのはルクレールであった。教会ソナタの枠組みと憂いを帯びつつも気品に満ちた旋律。

ジャン=マリ・ルクレール(1697-1764)はレース職人の息子としてリヨンに生まれた。ルクレールはダンスとヴァイオリンを兄から学んだ。当時、ほとんどのヴァイオリニストはダンスの教師でもあって、ヴァイオリンで伴奏しながらダンスを教えたという。1716年、19歳のルクレールはリヨンのオペラのステージに立った。1721年からはパリを活動の拠点とし、1723年にパリでヴァイオリン・ソナタ第1集を出版した。この頃、トリノに行き、コレッリの弟子であったソミスのもとでヴァイオリンの技巧にさらに磨きをかけた。1728年にはパリでヴァイオリン・ソナタ第2集を出版し、コンセール・スピリチュエールでのデビューを果たし、絶賛された。以後はヨーロッパ各地を演奏旅行してまわり、カッセルではロカテッリと共演した。その柔軟なリズムと美しい音で、ルクレールはロカテッリとは対照的に、天使のようにヴァイオリンを弾くと言われた。1730年にパリに戻ると、1733年にはルイ15世の王室楽団の常任ヴァイオリン奏者の地位を得、ヴァイオリン・ソナタの第3集を王に献呈した。この頃がルクレールのキャリアのなかで最も輝かしいときであった。しかし、その2年後、楽団内でトラブルが生じ、これが原因でルクレールは1737年に王室楽団を辞職した。1738年から5年ほどオランダのアン王女のもとに仕えながら、ハーグで宮廷楽長をつとめたりもしたが1743年にパリに戻った。このときからルクレールはほとんど引退同然の生活に入った。しかし1746年、49歳のとき、オペラの作曲という、ルクレールにとってはまったく新しい領域へと踏み出した。これはジャン=フィリップ・ラモーが50歳で初めてオペラを作曲し脚光を浴びたのに倣ってのことであった。そして完成した「シラとグロキュス」は好評で、2ヶ月の間に18回も繰り返し上演された。
1748年からはグラモン公爵が所有する劇場の音楽監督となったが、1758年からはパリの城壁外の危険な地域に暮らすようになった。
そして1764年、ルクレールは自宅の戸口で死んでいるのを発見された。三箇所ほど刺された痕があったという。


ピエトロ・A・ロカテッリ

2005-08-29 01:48:00 | 音楽史
66721LOCATELLI
L'Arte del Violino, Op3
Elizabeth Wallfisch(violin)
Nicholas Kraemer
THE RAGLAN BAROQUE PLAYERS

ピエトロ・アントーニオ・ロカテッリ(1695-1764)はベルガモに生まれた。聖マリア教会でヴァイオリンの手ほどきを受けたあと、1711年にローマでヴァレンティーニから本格的にヴァイオリンを学んだ。一説ではコレッリに学んだとも言われているが、当時のコレッリの健康状態からすると直接教わることはできなかったのではないかと推測される。1717年から1723年まではサン・ロレンツォ・イン・ダマソで活動していたようであるが、1723年から1729年の間はマントヴァ、ミュンヘン、ドレスデン、ベルリン、カッセルなどヨーロッパ各地の宮廷をまわり、ヴァイオリンの名手として名声を博した。カッセルではルクレールと共演した。1729年からアムステルダムに移り、アマチュアの音楽家を指導したり、彼の作品の楽譜印刷に関して15年間の独占権を得たり、イタリア製のヴァイオリンの弦を輸入販売したりしながら、そこで生涯を終えた。
ロカテッリは1年間に何十挺ものヴァイオリンを使い潰すほどの激しさで演奏すると言われた。また、引っ掻くような音と左手のテクニックから悪魔のようにヴァイオリンを弾くとも言われた。彼の作品はほとんどがヴァイオリン・ソナタとコンチェルトであり、コレッリとヴィヴァルディを融合したような作風で、「ヴァイオリンの技法」と題した12曲からなるヴァイオリン協奏曲集で知られている。ここで彼は第1楽章と第3楽章にカデンツァとしてカプリッチョを付けた。即興的なカデンツァを楽譜に記したのはロカテッリが最初とされている。このカプリッチョだけが演奏される場合もあり、これがパガニーニの「24の奇想曲」につながっていくのである。そうした意味でもロカテッリは「18世紀のパガニーニ」であった。


ジュゼッペ・タルティーニ

2005-08-28 18:22:00 | 音楽史
tartiniTARTINI
Concerti

Chiara Banchini
ENSEMBLE 415

ジュゼッペ・タルティーニ(1692-1770)はイストリア半島のピラーノで生まれた。父は成功した貿易商で、裕福な家庭で育った。両親はタルティーニが僧職に就くことを希望した。タルティーニは神学校に学び、修道士見習いとなった。1709年にはバドヴァ大学に入学し、法律と神学を学んでいたが、翌年、エリザベッタ・プレマツォーレと密かに結婚していたことが発覚し、パドヴァを追われ、アッシジの修道院に身を隠した。アッシジではチェコの音楽家ボフスラフ・チェルノホルスキーに音楽を学んだとされているが、この頃のエピソードとして、タルティーニの夢枕に悪魔が立ち、ヴァイオリンの演奏を聞かせたというのがある。起きてすぐに悪魔が弾いたフレーズを書きとめてできたのが、有名なヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」であるとのこと。
タルティーニは1714年にアンコーナのオペラ劇場に職を得ることができたが、1716年にヴェラチーニのヴァイオリン演奏を聴いて心を打たれた彼は自分の演奏を完璧なものにするため自己追放しヴァイオリンの技巧に磨きをかけることに没頭した。
1720年頃、ヴェネツィアに戻り、パドヴァの聖アントニオ大聖堂の第1ヴァイオリン奏者となった。1723年から1726年までプラハのキンスキー伯の宮廷楽団の指揮者としても活動し、1727年か28年にはヴァイオリンの学校を設立した。タルティーニは1740年にベルガモで腕を負傷するまで演奏活動も盛んに行っていたので、彼のヴァイオリンの名手としての名声はヨーロッパ中に広まっていた。

タルティーニはヴァイオリン協奏曲を130曲、ヴァイオリン・ソナタを200曲ほど、その他の作品をあわせて350曲ほど作曲したとされている。
彼はタッソーやアリオスト、そしてメタスタジオなどの文学から着想を得ることが多く、詩句の韻律にあわせてメロディーを作ったりしていたようである。タルティーニの歌うようなメロディーはまさに歌を作るようにして生まれたものなのである。
また、演奏活動を退いてからは音楽理論書の執筆をするようになり、1754年に「Tratatto di musica(音楽論)」を著した。この本には旋律やカデンツァ、不協和音、音階構造、和声、拍節などについて記述がなされているが、「差音」という、二つの音を同時に鳴らすと、二つの音の周波数の差に等しい周波数を持った音が聞こえてくるという現象についても記されている。差音のことを「タルティーニ音」と呼ぶのはこのためである。ここでタルティーニは音楽を物理学的に数学的に基礎付けようとしたが、数学的に誤りがあることが指摘されている。しかし、当時のヴァイオリニストは直接、間接にタルティーニの影響を受けていて、レオポルト・モーツァルトが1756年に著した「ヴァイオリン奏法」という本はタルティーニの教えをまとめて作られたものであった。


D.スカルラッティ

2005-08-27 15:12:00 | 音楽史
DscaSCARLATTI
BEST SONATAS


Scott Ross

ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)は、アレッサンドロ・スカルラッティの6番目の子としてナポリに生まれた。少年時代は父から音楽を学び、当初はナポリ楽派のスタイルに従ってオペラやオラトリオを作曲していたが、1708年にローマでヘンデルとオルガンやチェンバロの競演をしたこともあり、鍵盤奏者としてもすぐれた技巧を備えていた。
その後、1720年代からリスボンに行き、ポルトガルの宮廷に仕えるようになってからはチェンバロ音楽に専念し、チェンバロを好んだ王女マリア・バルバラのチェンバロ教師として練習曲を多数作曲した。1729年に王女マリアがスペインに嫁ぐとドメニコも同行してマドリードに移り住んだ。ドメニコはその後半生のほとんどをイベリア半島で暮らした。

ドメニコ・スカルラッティの555曲あるチェンバロ・ソナタはそのほとんどが単一楽章で2つの部分に分かれる。前半部分が長調であれば後半は主調から属調へ、短調であれば主調から平行長調へ移行し、それぞれ再び主調に戻るといった構成をとる。このような枠組みのなかで楽想を自由に発展させていった音楽は、ボレロなどスペイン風のリズムを持ち、明確な旋律と明るさや陽気さに満ちている。

ドメニコは鍵盤の奏法においてもいくつか画期的な技法を用いた。両手を交差させる奏法、マンドリンなどから着想を得たアルペッジョや同一鍵盤上の連打、あるいは楽曲を彩るトリルや装飾音などは以後の鍵盤楽器の奏法に大きな影響を与えた。


J.S.バッハ

2005-08-26 14:13:00 | 音楽史
bachMUSIKALISCHES OPFER, BWV 1079
Gustav Leonhardt
Barthold Kuijken Wieland Kuijken
Sigiswald Kuijken Robert Kohnen
Marie Leonhardt

ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は音楽家の家系に生まれた。幼い頃にオルガニストであった兄からチェンバロやオルガンの手ほどきを受け、15歳からリューネブルクの聖ミカエル学校に入学した。奨学金を受けたため、聖歌隊への入隊を義務付けられ、教会の主要な儀式に参加しながら、教会のオルガン音楽や宮廷でフランスの音楽など聴くようになった。
1703年にアルンシュタットで教会のオルガニスト兼合唱長となった。ブクステフーデのオルガンを聴くために徒歩でリューベックまで行ったのはこの頃で、休暇期間をはるかに過ぎてから戻ったことに対して叱責されただけでなく、ブクステフーデからの影響で不協和音や半音階を多用したオルガン曲も非難を浴びた。
1708年からはヴァイマールのヴィルヘルム公の宮廷でオルガニストとなったが、オルガン音楽に強い関心を持っていたヴィルヘルム公のもとで「トッカータとフーガ」など、オルガン曲のほとんどはこの時期に作曲された。
1717年にはケーテンのレオポルド公の宮廷で宮廷楽長として活動した。レオポルド公は教会音楽に関心を示さなかったため、この時期のバッハは室内楽曲や独奏曲を作曲した。「インヴェンションとシンフォニア」、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」、「無伴奏チェロ組曲」、「ブランデンブルク協奏曲」などなど。しかし、レオポルド公の妻が宮廷での音楽活動を抑制するようにさせたため、音楽活動ができなくなってしまった。その頃にバッハは「平均律クラヴィーア曲集第1巻」を作曲した。
1723年にヨハン・クーナウの後継としてライプツィヒの聖トマス教会の楽長に就任した。教会側では当初、テレマンを望んだが、テレマンはこれを固辞してハンブルクに留まったため、バッハにこの楽長職がまわってきたのであった。バッハは聖トマスと聖ニコライの2つの教会のための音楽を担当し、礼拝用の音楽やクリスマスや復活祭の音楽、受難曲や葬送曲など作曲し、教会の学校の生徒に勉強を教えたり、多忙を極めた。この頃、200曲を超えるカンタータ、「ロ短調のミサ」、「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」など作曲した。
しかし、教会との間で絶え間なく摩擦が生じ、バッハの活動に様々な支障が生じるようになり、1738年になるとバッハは宗教合唱曲の作曲から完全に背を向けてしまい、以後は抽象的な器楽作品を作曲するようになった。「平均律クラヴィーア曲集第2巻」、「ゴルトベルク変奏曲」、「フーガの技法」などがこの頃に作られた。

「音楽の捧げ物」はフリードリヒ大王に献呈されたもので、1747年にバッハがベルリンに旅行した際、ポツダムでフリードリヒ大王の前で演奏する機会が与えられたことによる。そこでバッハはフリードリヒ大王の提示した主題をもとに3声のフーガを展開し、また、6声のフーガが可能かどうか試され、バッハ自身が選んだ主題をもとにそれに応え、大王やその場にいた音楽家たちを驚嘆させたと言われている。バッハはライプツィヒに戻ると、王の主題による6声のフーガを作曲し、そのほか、王が好んだフルートが加わるトリオ・ソナタなどをあわせて王に献呈したとされるが、「音楽の捧げ物」は「フーガの技法」と並んで、ひとつの主題から様々な音楽を展開するというバッハの音楽が到達した頂点とされている。


ゲオルク・F・ヘンデル

2005-08-25 12:39:00 | 音楽史
handelHANDEL
WATER MUSIC

John Eliot Gardiner
ENGLSH BAROQUE SOLOISTS

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)はザクセンのハレで生まれた。ハレ大聖堂のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウから対位法やオルガン、チェンバロなど学んだ。ハレ大学に1年通ったあと、1703年にハンブルク・オペラでヴァイオリン奏者となり、このときにテレマンやマッテゾンと知り合った。1704年、19歳のときにはじめてオペラを作曲し(アルミーラ)、この作品は翌年1705年に上演された。1706年からはイタリアに行き、コレッリやスカルラッティ親子と交流、このときアレッサンドロ・スカルラッティのオペラスタイルやコレッリの管弦楽法を吸収した。
ヘンデルは1710年にハノーヴァーの宮廷楽長になったが、この頃からロンドンでも活動を始め、1726年にはイギリスに帰化した。当時のイギリスはパーセルの死後、イタリア・オペラ熱が高まっていて、ナポリ楽派の流れを汲む、劇的で色彩的なヘンデルのオペラは歓迎された。そこで彼はロイヤル音楽アカデミーというオペラ団体を設立し、30曲以上のオペラを作るが、1728年にはジョン・ゲイの「乞食オペラ」が上演されるなど、イタリア・オペラのパロディが流行するようになり、イギリスではイタリア・オペラが飽きられてしまい、この団体は次第に財政難に陥った。こうした状況下でヘンデルはオペラから舞台装置や衣装などに費用がかからないオラトリオに創作の比重を移すことになった。

「水上の音楽」はジョージ1世の希望でキルマンゼック男爵が開催したテムズ河での舟遊びの際に上演されたと言われているが、ヘ長調の組曲は河を遡るときに演奏され、ニ長調の組曲は河を下るときに演奏され、ト長調の組曲は室内楽的な編成であることから、晩餐会で演奏されたとされている。また、3つの組曲の成立年代については様々な議論があり、ヘ長調の組曲は1715年には成立しており、1717年の舟遊びの際に必要に迫られて旧作を使いまわしたのではないかという説があったり、ヘ長調の組曲は1715年、ニ長調の組曲は1717年、ト長調の組曲はニ長調の組曲から派生し、1736年の舟遊びの際に演奏されたのではないかといった説もある。


ゲオルク・P・テレマン

2005-08-24 00:35:00 | 音楽史
telemannGeorg Philipp Telemann
Musique de Table

Nikolaus Harnoncourt
Concentus Musicus Wien

ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)は、マクデブルグに生まれた。プロテスタントの家系であり、父は聖職者であった。
テレマンは音楽において早熟の才を示し、10歳までにヴァイオリン、フルート、ツィター、鍵盤など様々な楽器をマスターし、12歳の頃にはオペラの作曲までするようになった。しかし、彼の母親が音楽家になることを許さなかったので、テレマンは法学を学ぶためにライプツィヒ大学へ入学したが、学生仲間とともにコレギウム・ムジクムを再編し、一般市民に向けた公開演奏会を開催するなど、音楽を諦めたわけではなかった。1703年にはライプツィヒ・オペラの指揮者、ライプツィヒ新教会のオルガニストとなり、以後はアイゼナハ、フランクフルトといったドイツの各都市で活動した。1721年からハンブルクの都市音楽監督に就任し、死去するまでその地位にあった。

テレマンは音楽的な才能だけでなく、実務的な能力にも長けていた。1725年に、自分の作品を予約販売方式で売ることを思いつき、1740年までの間で44点の作品を自ら版を作製して売り、成功を収めたのに加え、「忠実な音楽の師」という一般家庭向けに音楽レッスン用の楽譜を掲載した音楽誌を隔週で発行したりもした。当然、ハンブルクの音楽監督として5つある教会のためのカンタータや年毎の受難曲、都市で行うイベントのための音楽などの作曲もこなしたうえで、ハンブルク・オペラの活動にも携わり、自作のオペラのほか、ヘンデルらの作品の上演もするなど、まさに超人的な活動を繰り広げた。また、自作の海賊版が出回っていたのを差し止めるなど、音楽家の法律上、あるいは経済上の権利を守るべくつとめた。

テレマンの作品数は極めて膨大な数になる。受難曲46曲、教会カンタータは1000曲以上、オペラ20曲以上、室内楽200曲以上、協奏曲100曲以上、管弦楽曲130曲以上と言われている。
「ターフェルムジーク」は宮廷の宴席などで演奏される室内楽曲を集めた全3巻の曲集であるが、コンチェルト、トリオ・ソナタ、四重奏、ソロ・ソナタなど様々なスタイルで、そして様々な楽器編成で作曲されている。当時のあらゆる音楽を貪欲に吸収しながら誰もが親しめるものを次から次へ量産していったテレマンはその当時、バッハやヘンデルをしのぐ名声を得ていた。


ヴィヴァルディ

2005-08-23 20:28:00 | 音楽史
vivaldiVIVALDI
LE QUATTRO STAGIONI

Fabio Biondi
L'EUROPA GALANTE

アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)はヴェネツィアに生まれた。父は理髪師でサンマルコ大聖堂のヴァイオリン奏者。ヴィヴァルディが生まれた頃のヴェネツィアはすでに貿易都市ではなく、芸術が盛んな都市、あるいはカジノやカーニヴァルでにぎわう観光都市となっていた。

ヴィヴァルディは15歳のときに僧職に就き、25歳で司祭となった。髪の毛が赤いため「赤毛の司祭」と呼ばれるようになった。彼はミサをほとんど執り行わなかったが、その理由として、喘息の持病があったとされている。しかしそれは仮病で、ミサをやらず作曲に集中したいために嘘をついていたとも言われる。ミサの途中、頭の中にメロディーが閃くとミサを放棄して出ていってしまったという話もあったりする。

ヴィヴァルディは司祭になった頃と同時期に、身寄りのない女子のための孤児院のひとつであるピエタ救貧院でヴァイオリンの教師をやるようになった。1704年から中断はあるものの、1740年まで音楽監督としてヴァイオリンを教え、演奏会の指導をし、演奏会のためのコンチェルトやカンタータなど作曲した。ヴィヴァルディの指導でピエタの女子たちは高い技巧を習得し、すぐれた演奏をするようになった。

1709年にヴィヴァルディはヘンデルやD.スカルラッティと会ったと言われているが、アレッホ・カルペンティエールの小説「バロック協奏曲」にはこの三人が競演する場面がある。

ヴィヴァルディは急-緩-急の3楽章形式のコンチェルトを確立した。最初はコレッリのようなトリオ・ソナタやコンチェルト・グロッソを作曲していたが、まもなく、ソロ・コンチェルトを中心に作曲するようになる。ソロとトゥッティが交互に繰り返されるリトルネッロ形式もヴィヴァルディの特徴である。トゥッテイ(リピエーノ)は同一の素材からなり、単調にならないよう、変化をもたらすために転調するのである。ここに「多様性の統一」というバロック芸術の本質を見ることができる。
ヴィヴァルディのコンチェルトはタルティーニやJ.S.バッハに影響を与えた。バッハにはヴィヴァルディのコンチェルトをオルガンやチェンバロ用に編曲したものが残っている。

ヴィヴァルディは1711年に協奏曲集「調和の霊感」を出版し、一躍ヨーロッパ中に名が知れ渡るようになった。1725年にはヴァイオリン協奏曲集「和声と創意への試み」が作られる。有名な「四季」はこの曲集に収められている。春夏秋冬の情景を巧みに描写した音楽である「四季」にはファリーニなどヴァイオリンの名手たちが手がけたストラヴァガンツァの実験精神が流れ込んでいる。

ヴィヴァルディは1740年にヴェネツィアを去り、新たなパトロンを求め、ウィーンに赴くが翌年死去。ヴァイオリンの名手として作曲家として一世を風靡したヴィヴァルディは誰にも知られずに無名墓地に葬られ、歴史から消えてしまった。現在のようにバロック音楽の代名詞的な存在となったのは20世紀後半になってからのことである。


ジャン・ジル

2005-08-22 14:13:00 | 音楽史
gillesGILLES
REQUIEM

Joel Cohen
THE BOSTON CAMERATA

ジャン・ジル(1668-1705)は怪物タラスクの伝説で有名なタラスコンに生まれた。11歳の頃からエクサン・プロヴァンスにある、様々な時代の建築様式が混在している建物で有名なサン・ソヴール寺院の少年聖歌隊員として活動し、その後、副楽長およびオルガニストになった。ジルの活動の拠点は生涯を通じて南フランスであり、1695年にアッジェやアヴィニヨンに招かれ、短期間滞在し、1697年にはトゥールーズのサンテチエンヌ大聖堂の楽長に就任した。彼は37歳の若さで死んでしまうが、ジルの「レクイエム」は遺言に従い、作曲者本人の葬儀の際に初演されたと言われている。
プロヴァンスでは音楽の伴奏をつけて棺を運び、町中を一周する習慣があり、ジルの「レクイエム」はそうした葬列を絵画的に表現している。

「レクイエム」はジルの死後に評価を高めていき、ルイ15世やジャン=フィリップ・ラモーの葬儀のときにも使われ、1725年から始まった、宗教的な作品と器楽曲を上演するコンセール・スピリチュエルで15回ほど演奏されたりもした。若くして死ぬことがなければ、その名声はドラランドに取って代わっただろうと言われるほど、18世紀においてジルの評価と人気は高かった。