このことは、次の五祖と六祖との問答についての道元の記述により明確に示されている。
五祖と六祖の問答では、作仏をもとめる六祖に五祖が「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」という、この無仏性が問題となっている。
道元は、この無仏性を仏性がある、または仏性がないという意味ではないとして、ここでも有無の立場を否定している。そしてこの無仏性が作仏であると言っている。これは仏性が、成仏と同参するということから導き出されるのである。
「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり、仏性かならず成仏と同参するなり。」
成仏する前に仏性があるとすると、修行は成仏する時節に至るまでの過程ということなり、修行者には仏性が備わっていないということになる。そこにも問題はあるが、このような考え方でいくと、成仏後の修行は必要がなくなる。これもまた大きな問題となる。まえに「時節若至」を「時節既至」と読み替えた道元においては、成仏以前に仏性があるということは認められないからである。さらに、成仏するということは、道元においては座禅をするということであり、修行することと成仏するということとが同時であるのだから「仏性かならず成仏と同参するなり」と言うのは、仏性が修行しなければ現れないということを言っているのである。そのような仏性を無仏性と言っているのである。
以上で、道元における無ということ、そして無仏性ということが明らかになったと思われる。有の場合と同じく無についても、それが有無ということ、つまり「有る」とか「無い」ということを意味するのではないということ、無ということは否定ということであるが、否定する対象なしの否定というのはありえない。無として否定されるのは言うまでもなく有ということである。しかし、そのような否定は否定のままとどまり、あらゆるものを發無してしまうものではない。この否定は、有を否定的にとらえかえすということであり、否定をこえて空に至るのである。このように空と無を結びつけるのが、つまり仏性なのである。言い換えれば、仏性は空であり、無であり、有である(仏性空、仏性無、仏性有として)がゆえに、空、無、有が関係しあえるのである。
仏性は有に即しては現れず、現れるとするならそれは否定を介してでしかない。このことを現実的に見て、修行する主体に即して無と言ったのである。そして無である仏性、すなわち無仏性こそが作仏なのである。
つまり無仏性というのは、発心し、修行する主体についていわれる仏性なのである。
これまで道元は、「悉有仏性」、そして「無仏性」という立場から仏性を説いてきた。「悉有仏性」の立場では、悉有としてとらえられた存在が仏性であると説かれ、一つ一つの存在が全体とかかわり、それゆえにかけがえのない存在であることが示された。
次に、「無仏性」の立場からは成仏の能力に優劣をつけ、仏性を固定化してしまうことを否定し、無仏性を作仏であるとして、修行することの意義を説いた。
このどちらの場合も、仏性の有無について論じていたのではなく、有無をこえているものとして仏性をとらえていたのである。
これから「無常仏性」について論じていくことにするが、道元の立場としては、この「無常仏性」が根本的な立場なのである。「無常仏性が」言われてからは、「仏性」巻の論述過程において、有仏性と言ったらすかさず無仏性が言われていて、有と無のどちらか一方に偏った見方をするのではなく、両者を同時に把握すること、あるいは、両面からとらえることによって真理をとらえようとしていることがわかる。有と無をこえるといっても、そのためには有と無についての正しい理解がなければ意味がないのである。
五祖と六祖の問答では、作仏をもとめる六祖に五祖が「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」という、この無仏性が問題となっている。
道元は、この無仏性を仏性がある、または仏性がないという意味ではないとして、ここでも有無の立場を否定している。そしてこの無仏性が作仏であると言っている。これは仏性が、成仏と同参するということから導き出されるのである。
「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり、仏性かならず成仏と同参するなり。」
成仏する前に仏性があるとすると、修行は成仏する時節に至るまでの過程ということなり、修行者には仏性が備わっていないということになる。そこにも問題はあるが、このような考え方でいくと、成仏後の修行は必要がなくなる。これもまた大きな問題となる。まえに「時節若至」を「時節既至」と読み替えた道元においては、成仏以前に仏性があるということは認められないからである。さらに、成仏するということは、道元においては座禅をするということであり、修行することと成仏するということとが同時であるのだから「仏性かならず成仏と同参するなり」と言うのは、仏性が修行しなければ現れないということを言っているのである。そのような仏性を無仏性と言っているのである。
以上で、道元における無ということ、そして無仏性ということが明らかになったと思われる。有の場合と同じく無についても、それが有無ということ、つまり「有る」とか「無い」ということを意味するのではないということ、無ということは否定ということであるが、否定する対象なしの否定というのはありえない。無として否定されるのは言うまでもなく有ということである。しかし、そのような否定は否定のままとどまり、あらゆるものを發無してしまうものではない。この否定は、有を否定的にとらえかえすということであり、否定をこえて空に至るのである。このように空と無を結びつけるのが、つまり仏性なのである。言い換えれば、仏性は空であり、無であり、有である(仏性空、仏性無、仏性有として)がゆえに、空、無、有が関係しあえるのである。
仏性は有に即しては現れず、現れるとするならそれは否定を介してでしかない。このことを現実的に見て、修行する主体に即して無と言ったのである。そして無である仏性、すなわち無仏性こそが作仏なのである。
つまり無仏性というのは、発心し、修行する主体についていわれる仏性なのである。
これまで道元は、「悉有仏性」、そして「無仏性」という立場から仏性を説いてきた。「悉有仏性」の立場では、悉有としてとらえられた存在が仏性であると説かれ、一つ一つの存在が全体とかかわり、それゆえにかけがえのない存在であることが示された。
次に、「無仏性」の立場からは成仏の能力に優劣をつけ、仏性を固定化してしまうことを否定し、無仏性を作仏であるとして、修行することの意義を説いた。
このどちらの場合も、仏性の有無について論じていたのではなく、有無をこえているものとして仏性をとらえていたのである。
これから「無常仏性」について論じていくことにするが、道元の立場としては、この「無常仏性」が根本的な立場なのである。「無常仏性が」言われてからは、「仏性」巻の論述過程において、有仏性と言ったらすかさず無仏性が言われていて、有と無のどちらか一方に偏った見方をするのではなく、両者を同時に把握すること、あるいは、両面からとらえることによって真理をとらえようとしていることがわかる。有と無をこえるといっても、そのためには有と無についての正しい理解がなければ意味がないのである。
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