むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

リヒャルト・シュトラウス

2007-01-22 01:22:26 | 音楽史
Photo_2Richard Strauss
Don Juan/Metamorphosen/Tod Und Verklarung
 
Christoph von Dohnanyi
Wiener Philharmoniker

リヒャルト・シュトラウス(1864-1948)はミュンヘンに生まれた。彼はミュンヘン宮廷歌劇場のホルン奏者であった父親から音楽教育を受け、6歳で初めて作曲するなど、優れた音楽的才能を示した。少年時代からミュンヘン宮廷歌劇場のリハーサルに加わり、音楽理論やオーケストレーションを歌劇場の副指揮者から学んだ。10歳の頃、シュトラウスはヴァーグナーの「ローエングリン」や「タンホイザー」を聴き、強く影響されるが、保守的な父親からヴァーグナーを研究することを禁じられた。1882年にミュンヘン大学に入学し、哲学と美術史を学ぶとともに、ベルリンでハンス・フォン・ビューローの副指揮者となり、1885年にはビューローの後を継いだ。この頃までのシュトラウスは、父親から学んだシューマンやメンデルスゾーンのような音楽をつくっていて、保守的な作風であったが、アレクサンデル・リッターと出会ったことで作風が変化した。シュトラウスはリッターの影響でヴァーグナーやショーペンハウアーの著作を読むようになり、今までの作風を変え、交響詩を作曲するようになった。彼はベルリオーズ(シュトラウスはベルリオーズの「管弦楽法」の改訂版を出版した)とリストをモデルとし、色彩豊かな管弦楽と主題変容を用い、標題はシェイクスピア(「マクベス」)やセルバンテス(「ドン・キホーテ」)、あるいはニーチェ(「ツァラトゥストラかく語りき」)など、文学を題材にしたものが多いが、「死と変容」や「英雄の生涯」のように、自己の体験に基いたものもある。シュトラウスの交響詩は大規模なオーケストラを自由に支配し、それが放つ大音響で聴衆を圧倒するものであり、クライマックスを最初に持ってくることで聴き手を一気に音楽の世界へ引き込むが、音楽が進むにつれて次第に力を失い、諦念に満ちた虚無を示して終わる。

リスト以降の交響詩の代表的な作曲家としての地位を確立したシュトラウスではあったが、彼は1900年頃から交響詩ではなく、オペラの作曲に転じた。モーツァルトの歌劇とヴァーグナーの楽劇を受け継ぐべく、交響詩の作曲で得たものをオペラに導入した。最初の作品こそ失敗に終わったが、1905年の「サロメ」で成功を収め、「エレクトラ」以降、詩人で劇作家のホフマンスタールと共同で次々とオペラを生み出していった。

ホフマンスタールは「チャンドス卿の手紙」のなかで、「抽象的な言葉が腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」とか、「すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものはありませんでした」と書き、言語表現の不可能性、言語秩序の崩壊といった危機的状況をとらえたが、彼が詩作を放棄し、劇作へそしてオペラへと向かったのは、言語に対する不信感とそれを乗り越えるべく言語に魔術的な力を与えるために、身体表現や音楽表現との融合を必要としたからにほかならない。

ヘルマン・ブロッホは次のように書いている。

「言語の象徴圏に生きる者は、自分が構想し、それによってある特定の内容上の真理(抽象的な形式的な真理ではない)を表現しようとする一つ一つの文章でもって、その真理を言語によって把握し描写するには単なる論理的首尾一貫性だけではだめであって、それに加えて芸術のおそらくより高次で、おそらくより深遠な論理に訴えて、芸術の構成様式中に表現の必然的妥当性と説得力とが作り出されねばならぬことを知るのである」

「ホフマンスタールは文学の論理中に音楽の構成様式を、つまり言語的なものの中へ音楽的なものが侵入していることを、言語の中に音楽的な表現世界が遍在的に共鳴していることを聞き取った。この音楽的表現世界は言語を乗り越えながら、それでいて言語の中に含まれ、言語に「可視的不可視性」の認識実質をかし与えるものである。「音楽以外のどんな芸術がこれを表現できましょうか。天の一小片をもぎ取って、自分の中にもぎ入れることが?」とホフマンスタールはリーヒャルト・シュトラウスにあてた手紙のある個所でこう述べている。音楽は言語にとっては解釈不能なものであるが、しかも、両者の構成様式の共通性から、音楽は言語にその意味を伝達する。それは解釈不能な融合であるが、しかも音楽の中に統一の意味結実性がはたらいていて、音楽の神秘として暗示されるのである」

「「魔術的な仕方で言語を解放しようとの試みは、言語批判よりは聡明で、かつ美しい。愛情の場合だってそれと同じだ」と述べたとき、ホフマンスタールはたぶん沈黙を再び言葉たらしめようとしたのだろう。愛の魔術は沈黙の了解であり、愛が話す場合、それは語の魔術的解釈であり、それは文学であり、音楽である」

「「真実の言語愛は言語否定なしにはありえない」し、まさにこの言語否定(それはもちろん言語絶望と紙一重のものである)をもって音楽の魔術自身が呼び出され、(そのために呼び出すことのできる唯一つの法廷)、それが助けに呼ばれて、その魔術が―作家を罷免し、作家は英雄的に断念する―言葉の作曲をいま一度作曲し、話の最終的説明を引き受けるのである。それは演劇からオペラへの重要な一歩であり、テキスト考案者からテキスト作者への一歩、言語不信から言語絶望と言語愛への一歩であるが、同時にまた、いま一度自己自身を乗り越える成長を自らのうちに包含し、まさにそれゆえに演劇の最後の様式高揚にほかならぬ一歩でもある。そしてまさにそうであったればこそ、ホフマンスタールの様式概念は、ピュタゴラス的にいっさいを包含するその秩序像は、こうしたラジカルな仕上げ、言語のこの音楽的解体を熱望したのである」

そしてシュトラウスも音楽が効果的な楽想の連続体となり、ソナタ形式のような古典的な音楽形式や調性感が解体されていった状況に直面していたのであり、彼は音楽のドラマ化において、不協和と協和、反音階と全音階、不安定と安定、テンションと解決といった、音楽の持つ二極性を効果的に利用して、性格を描写し、ドラマを伝えた。この手法は映画音楽に受け継がれている。

こうしたシュトラウスの手法についてマーラーは次のように言っている。

「僕は耳障りな響きをいつも避けようとし、可能であれば(まさにこの箇所で、僕がそうした響きをすべて排除したように)後からでもそれを排除しようとあらゆる努力をするのに、彼は不快な響きを自己目的として、ただ目立ったり、薬味を効かせたりするためだけに考え出すのだ」

あるいはアドルノは次のように言っている。

「シュトラウスは彼の良くない純朴さ、合意への見返りとして、商品的な映画音楽との妥協で終わってしまった」

シュトラウスは指揮者としても有名で、ミュンヘン、ワイマール、ベルリン、ウィーンでの指揮活動のほか、各国の一流オーケストラの指揮もした。カール・ベームやジョージ・セルはシュトラウスの弟子であった。1896年にはミュンヘン宮廷歌劇場の首席指揮者となり、1933年から35年までは帝国音楽局の総裁を務めた。1945年にシュトラウスは「メタモルフォーゼン」を作曲し、戦争で荒廃したドイツを嘆き悲しんだ。第二次大戦終了後、シュトラウスはナチスに協力したかどうかで裁判にかけられたが、結果は無罪となった。すでに時代遅れの作曲家とみなされていたものの、彼は戦後も音楽活動を続け、その人気は衰えることがなかった。

→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→フーゴー・フォン・ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」(岩波文庫)
→ヘルマン・ブロッホ「ホフマンスタールとその時代」(筑摩叢書)
→テオドール・W・アドルノ「マーラー」(法政大学出版局)
→N.バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)
→Burkolder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC
(W.W.Norton & Company)


フーゴー・ヴォルフ

2007-01-16 02:25:04 | 音楽史
WolfHUGO WOLF
Morike Lieder
Joan Rodgers(s)
Stephan Genz(b)
Roger Vignoles(p)

フーゴー・ヴォルフ(1860-1903)は、ヴィンディッシグラーツに生まれた。4歳のときにピアノやヴァイオリンを音楽好きの父から学んだ。子どもの頃から音楽以外のことにはあまり関心が持てずに、学校では教師と対立することもあったという。こうした反抗心はウィーン音楽院時代にも発揮され、厳格な保守主義者、伝統主義者の院長ヨーゼフ・ヘルメスベルガーを追いかけまわすなどして、退学させられてしまった。音楽院退学後、ヴォルフは音楽を教えるようになったが、人にものを教えることは彼には向いていなかった。また、ザルツブルグで副カペルマイスターになったが、指揮にも飽きてすぐにやめてしまった。そのうち、批評家として活動を始め、伝統的なスタイルの音楽を辛辣に批判し、リストやヴァーグナー、シューベルトやショパンなど革新的な音楽を称揚するとともに、ヴァグネリアンとしてブラームスを酷評し、多くの敵を作った。このことによって自作の上演の際に、演奏家の協力が得られないこともあり、ヴォルフは1887年に批評活動をやめ、作曲に専念することにした。
作曲家としてのヴォルフの活動期間は短いものであったが、とりわけ1888年から1889年にかけて、ヴォルフは集中的に作曲に没頭し、メーリケ、アイヒェンドルフ、ゲーテといった詩人の詩に曲をつけ、ガイベルやパウゼがドイツ語に翻訳したイタリア、スペインの詩にも次々と曲をつけていき、彼の代表的な歌曲集のほとんどを作ってしまった。1888年には最初のリサイタルを開き、ヴォルフの歌曲は好評を得た。
ヴォルフは、十代の頃から梅毒にかかり、周期的に情緒不安定になることがあったが、1890年頃から次第に症状が悪化し、何もできない状態が長く続くようになった。ヴォルフはリストからの助言で、大規模な作品を完成させることを望んでおり、交響詩やオペラを手がけたものの、満足のいくかたちにはできず、唯一完成したオペラ「コレヒドール」は初演が失敗に終わってしまった。1897年最後のリサイタルを開き、以降、未完のオペラを残したまま、精神に異常をきたして病院に収容される。一度は退院し、自殺を試みるも未遂に終わり、再び病院に戻り、5年間ほど過ごして死去した。

ヴォルフはヴァーグナーの方法をドイツ・リートにアダプトしたことで知られる。彼はピアノ曲や弦楽四重奏曲、交響詩や合唱作品、オペラなども作曲したが、歌曲のようには成功しなかった。ヴォルフの作曲家としての活動期間はおよそ10年ほどであったが、その間に250曲ほどの歌曲を生み出した。ヴォルフは民謡的な旋律はほとんど用いず、またシューベルトやブラームスに特徴的な有節形式も用いなかった。フレーズの規則的な反復を避け、自由に構成されたかにみえる旋律は、詩の持っている抑揚を完全に反映し、感情を適切に伝える。

リートはロマン派の時代に、作曲家にとって重要なジャンルとなっていったが、古典派の時代、ハイドンやモーツァルトにとってはリートは余技でしかなかった。最初にリートの作曲に形式的な整合性を与え、統一的な連作歌曲集を作り、そこに理念的なものを導入したのはベートーヴェンであった。彼の「はるかな恋人に」は愛の理想が讃えられている。続いてシューベルトが「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」で連作歌曲集を作るが、ここでは、「旅」をモチーフに外的で地理的なアプローチが試みられ、ピアノ伴奏は歩行のリズムや情景描写で詩の世界に広がりを与える。そしてシューベルトは当時の時代状況と自らが置かれた状況を重ね合わせ、理想が現実に敗れるさまを見据えた。そしてシューマンになると、今度は内面的な心理の探究になっていく。そこでは物語の流れや情景よりも、人間の心の中にたちあらわれる感情や心理の表現が問題になっていく。そこでシューマンは声が建て前、ピアノが本音をそれぞれ担うという方法で、意識と無意識をからみあわせていく音楽を作り出した。そしてヴォルフはヴァーグナーの方法を用いて、リートを主観的な感情表現の限界を超え、外的世界を包含した総合的なものとした。ヴァーグナーの総合芸術の試みのように、ヴォルフも詩(声)と音楽(ピアノ)の融合を図り、どちらがどちらに従属するということがない対等な関係を維持する。大規模な作品を完成させることを夢見て果たせなかったヴォルフが到達したのは、リートのひとつひとつを緊密に構成することで有機的な統一体を作るということであった。

→Burkholder/Grout/Palisca  A HISTORY OF WESTERN MUSIC
 (W.W.Norton & Company)
→喜多尾道冬「ドイツ連作歌曲形式の系譜」
 (ONTOMO MOOK「クラシック・ディスク・ファイル」音楽之友社)


チャイコフスキー

2007-01-15 02:08:19 | 音楽史
TchayTCHAIKOVSKY
Symphonies Nos.4,5&6"Pathetique"
 
Herbert von Karajan
Berliner Philharmoniker
 
ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)はヴォトキンスクで生まれ、幼い頃から音楽の才能を示した。9歳のとき、サンクトペテルブルグへ行き、法律学校の寄宿生となった。この頃、グリンカのオペラを知る。1859年に法律学校を卒業し、法務省に勤務することとなったが、音楽を忘れたわけではなく、高名なピアニストであるアントン・ルビンシテインが音楽教室を開いたと知り、すぐにその教室に入った。この音楽教室は翌年ペテルブルク音楽院となり、チャイコフスキーはその第1期生となった。音楽院ではザレンバに和声法と対位法を学び、ルビンシテインからは楽器法と作曲を学んだ。チャイコフスキーは優れた才能を示したが、音楽と法務省勤務の二者択一を迫られ、1863年に法務省を退職することとなった。
1865年にペテルブルグ音楽院を卒業後、チャイコフスキーはアントンの弟ニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院に招かれ、12年間教授をつとめた。しかし、チャイコフスキーは経済的には困窮状態が続いた。1871年に「弦楽四重奏曲第1番」が初演され、トルストイに絶賛されるなどし、チャイコフスキーは広くその名を知られることになった。そして1876年にチャイコフスキーはナジェージダ・フォン・メック夫人から経済的な支援をしたいと手紙をもらい、それを受け入れた。メック夫人とは一度も会うことはなかったが、その後14年間にわたり文通が続いた。また、1877年に結婚したが、チャイコフスキーにとってこの結婚は幸せなものではなく、モスクワ川に身を投げ自殺しようとしたほどであった。精神的に追い詰められたチャイコフスキーは弟とともにスイスへ向かった。その後、ウィーンやイタリアの各地を旅してまわり、次第に創作意欲が回復してくる。この頃、メック夫人からは年間6000ルーブリの支援とロシア音楽協会からも年金が支給されるようになり、経済的にも十分な安定を得るようになった。しかし、1881年に親友であったニコライがパリで死去してしまう。チャイコフスキーはニコライの死を悼み、今まで一度も作曲したことのなかったピアノ三重奏曲を初めて作曲し、ニコライに捧げた。1886年頃からは指揮者として活動し、ヨーロッパで様々な音楽家と交流も深めた。そして1890年にメック夫人から突然支援を打ち切られ、長い間の文通も終わった。このことはチャイコフスキーに有閑夫人の気まぐれにつきあわされただけではないかとの疑念を抱かせ、彼のプライドはひどく傷ついた。そしてチャイコフスキーは1893年、「交響曲第6番」の初演後まもなく、謎の死をとげた。コレラによる死という説と自殺を強要されたとの説がある。

チャイコフスキーはルビンシテインの弟子ということから西欧派とされるが、彼の音楽にも民謡などロシアの伝統的な音楽が流れ込んでいる。また「ロシア五人組」との関係についても、バラキレフには自作を献呈したり、リムスキー=コルサコフとは良きライバルとして互いを認め合い、交流もあった。ただ、自作を酷評したキュイにだけは憎しみに近い感情を抱いていたと言われる。しかし、ムソルグスキーやボロディンの音楽の技術的な欠陥などを指摘したことが示すように、彼の音楽はベートーヴェンやシューベルト、あるいはシューマンなどの西欧の古典派、ロマン派の音楽形式とロシアの民謡や通俗音楽を融合させることで、より普遍的な音楽を目指したものであった。その音楽はさまざまに酷評も受けた。1875年の「ピアノ協奏曲第1番」はニコライ・ルビンシテインから「演奏不能である」と言われ、初演を断られたし、1878年の「ヴァイオリン協奏曲」はハンスリックに「悪臭を放つ音楽」と評された。そしてチャイコフスキーが自己の最高傑作としてどんな批判も意に介さなかった「交響曲第6番」については、マーラーが「深みがなく外面的で、貧弱なホモフォニー作品で、サロン音楽以上のものではない」と断じ、次のように言っている。

「色彩効果というものは、彼が僕らに聞かせたものとは少しちがう。僕らが聞いたのは、所詮はったりにすぎず、人を惑わす見せかけなのだ! この曲を近くに寄って見れば、そこにはほとんど何もありはしない。あらゆる音域を上へ下へと駆けめぐるあの分散和音や何の意味もない和音の連鎖で、創意のなさと無内容をごまかそうとしたってそうはいかない。色を付けた一点を中心軸のまわりで回転させると、それはちらちらとひらめく円形に広がって見える。でも静止した瞬間、それは元の小さい点となる。そんなものは全く何の価値もない」

→N.バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)



リムスキー=コルサコフ

2007-01-14 18:14:16 | 音楽史
Gergiev_sheRimsky-Korsakov
Scheerazade,Symphonic Suite,op35
 
Valery Gergiev
Kirov Orchestra,Mariinsky Theatre,St.Petersburg

ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)は、チフヴィンに生まれ、12歳のときペテルブルクの海軍兵学校に入学した。15歳頃からピアノを始め、ピアノ教師のカニレを通じて17歳のときにバラキレフと出会った。「ロシア五人組」では最年少であったリムスキー=コルサコフはバラキレフから音楽理論を学び、本格的に作曲に取り組むようになった。
リムスキー=コルサコフは兵学校を卒業後、ロシア海軍に従軍し、1862年から3年ほどのあいだ、遠洋航海で世界各国を回った。そのときに見た自然の情景や異国の風物はリムスキー=コルサコフに強い印象を与え、彼の音楽に様々なかたちで反映されている。
1865年にロシアに戻ってからは、軍務のかたわら音楽活動を続けた。もともと反アカデミズム、反プロフェッショナリズムを標榜した「ロシア五人組」であったが、リムスキー=コルサコフは1871年にペテルブルク音楽院の教授に招かれ、そこで作曲と管弦楽法を教えるようになり、1873年からは海軍軍楽隊の監督官を10年ほど務め、1874年からはバラキレフの開いた無料音楽学校の校長に就任、1883年からは帝室礼拝堂でバラキレフの助手を務めるなど、数々の要職に就き、ロシア民謡の収集と出版をしたり、グリンカやムソルグスキー、ボロディンといった「ロシア五人組」の仲間の作品を編纂したり、管弦楽の部分を補筆するなどして、ロシアの近代音楽の発展に多大な貢献をした。
リムスキー=コルサコフは色彩豊かな管弦楽の大家として、管弦楽の原理や和声学についての著書を出版し、これらは広く内外で使用されることになったし、指導者としてはグラズノフやストラヴィンスキー、レスピーギなどを育てた。

エリック・サティはリムスキー=コルサコフについて次のように書いている。もともと「大御所ぶる」作曲家を嫌うサティではあるが、ストラヴィンスキーの才能を見出したという一点で評価が変わってしまうところが面白い。

「幸い二十二歳のときイーゴリ・ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフと出会った。この若者にひそんでいる天賦の才に驚いた彼は自分の弟子にしたいと思い、人間的&非人間的―いや超人的でさえある法律の勉強から彼を引き抜いた。
私はこの点でリムスキー=コルサコフにとても好感を抱いており、&『シェエラザード』の作者がムソルグスキーにたいして犯した罪ともいうべき「悪事」を少々忘れてやってもいいような気持になる(『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜に加えた、およそ想像を絶する「修正」(?)を見よ。というのも、あの親愛なる男は、相当に「大御所ぶる」男だったから)。私として言っておかなければならないのは、ストラヴィンスキーがこの師匠について最良の思い出を抱きつづけ、彼のことを語るときにはつねに、大きな愛情と親にたいするような感謝の念をもってするということである」

リムスキー=コルサコフの音楽は交響組曲「シェエラザード」に典型的に現れているように、絵画的な描写に優れ、色彩豊かな管弦楽によるエキゾティックで幻想的なスタイルを特徴としている。全音階やオクタトニックスケールにより、浮遊感やエキゾティシズムが醸し出されるのだ。こうしたスケールはリストによってすでに使われてはいたのだが、今ではロシア音楽のトレードマークのようになっている。

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)


モデスト・ムソルグスキー

2007-01-13 02:33:51 | 音楽史
596Modest Moussorgsky
BORIS GODOUNOFF
 
LOVRO VON MATACIC
ZAGREB PHILHARMONIC ORCHESTRA

モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)は、カレヴォの富裕な地主階級の子として生まれた。母親からピアノを習い、9歳の頃にはフィールズのコンチェルトを家族や友人の前で演奏した。13歳のときにサンクトペテルブルグの近衛師団士官候補生の学校に入学した。ムソルグスキーは和声や作曲を学んだことはなかったが、学校を卒業した17歳の頃にオペラの作曲を試みるなど、音楽への関心は持続していた。1857年にムソルグスキーはダルゴムィシスキーとキュイに出会い、この二人を通じてバラキレフとスタソフに出会った。そしてムソルグスキーはバラキレフから声楽やピアノ曲の作曲法を学ぶようになる。しかしその翌年、ムソルグスキーは精神的な危機に陥り、軍務をやめ、その後モスクワに行ったことで、彼のなかに愛国心が燃えあがり、作曲への意欲も湧きあがった。しかし、1861年の農奴解放によるムソルグスキー家の没落といった問題に悩まされ、作曲の成果はあがらず、スタソフやバラキレフからは「ほとんど白痴」とみなされる状態であったが、それでもムソルグスキーは作曲をやめなかった。
ペテルブルグに戻ったムソルグスキーは官吏としての仕事をするようになり、知的・芸術的な環境のもとで芸術や宗教、哲学や政治について考えを深めていったが、1865年の母の死を契機に、飲酒癖がひどくなり、アルコール依存症になっていく。
ムソルグスキーの芸術観は次第に自然主義に、そしてリアリズムに傾斜していった。ちょうどその頃、1866年にダルゴムィシスキーはプーシキンの「石の客」を題材にオペラの作曲に取り組んでいて、イタリア・オペラ的なアリアやレチタティーヴォではなく、ロシア語のイントネーションから旋律を生み出すデクラメーションを試みていた。ムソルグスキーはこのダルゴムィシスキーの実験に強い影響を受け、自らもデクラメーションによる作曲を試みるようになった。そして生まれたのが「ボリス・ゴドゥノフ」であったが、この歌劇は上演を拒否され、改訂を経た後、1874年にようやく初演された。しかし、この作品は同志であるキュイからも批判されるなど、その独創性は当時の理解を超えるものであった。
1874年以降、「展覧会の絵」など代表的な作品が生み出されていくが、ムソルグスキーのアルコール依存症はますますひどくなり、周囲の親しい友人たちの相次ぐ死はそうした傾向にさらに拍車をかけた。次のオペラ「ホヴァンシチナ」に取り組むも、すでに創作活動を続けることが困難な状態になっていた。官吏の仕事も続けていくことができず、1880年にはやめざるをえなくなる。そして翌年の1881年、ムソルグスキーは死去した。

ムソルグスキーの音楽はドビュッシーに影響を与えた。ヴァーグナーを乗り越えたいと考えていたドビュッシーにとって「ボリス・ゴドゥノフ」は天啓であり、「ペレアスとメリザンド」の源泉となった。ドビュッシーはムソルグスキーについて次のように書いている。

「私たちのうちにあるもっともよいものを、彼ほど優しく深みのある口調で話した者はいない。前例のないその芸術、ひからびたきまり文句のないその芸術によって、彼は独自だし、今後もまた独自でありつづけるだろう。かつてかくも洗練された感受性が、かくも単純な方法で翻訳されたためしはない。それは、感動が跡をつけた一足ごとに音楽をみつける。好奇心にとんだ未開人の芸術に似ている。あれこれの形式といったことは、まるでもう問題ではない。すくなくともその形式は、あまりに多様なので、既成の―行政的と言ってよさそうな―形式と関係づけることができない。それは不思議な糸と明るい透視眼でむすびあわされたあいつぐちいさな筆づかいによって、成りたち、組みあげられている」

ムソルグスキーは芸術をロシアの民衆の生活にできるかぎり近づけていきたいと考えていた。ジャンケレヴィッチは次のように書いている。

「いかなる修辞も取り除いた裸の現実、肉と骨をもった真実、脈絡のない生まの真実、リモージュの市場でしゃべり立てる女たちの真実、ソロチンスクの市で言い争うコザック人、ユダヤ人、ジプシーたちの真実、乳母とおしゃべりする子供の無邪気な真実、これらすべての自然のままの、生まの、裸の真実が、ムソルグスキーの音楽にはじかに現存している。これらのひとびとの粗野な純真さは、芸術が精神と世界の騒音とのあいだに介在させる表徴の厚みも、理念化ないしは様式化の距離も通り越える必要はなかった」

「ムソルグスキーの音楽は、まっすぐに目標に到達する。道のりを長くするような前口上、前置き、そして中間項を無視する。この廻り道のない無心な音楽が、どうして簡潔でないことがあろうか。『ボリス・ゴドゥノフ』は前奏曲を最小限に抑え、われわれをいきなり行動の中心に投げ込む」

→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)


ロシア五人組

2007-01-12 02:50:19 | 音楽史
MightySONGS BY THE MIGHTY HANDFUL
 
 
Sergej Larin(t)
Eleonora Bekova(pf)

「若いロシア楽派は、<民謡の主題>から楽想を借用することによって、交響曲を若返らせようとつとめた。きらびやかな宝石を刻むことには成功したが、そこで主題と、展開をあたえるために余儀なくされたものとのあいだに、厄介な不均衡がありはしなかっただろうか?
……しかし間もなく民謡主題の流行が音楽の世界にひろがった。作曲家は東から西へと、くまなく歩きまわる。百姓の年老いたくちびるから無邪気な繰り返し句をもぎとる。それは、美妙なレースをまとわされたすがたにすっかり狼狽し、そのためあわれにも気づまりで、穴があれば入りたい様子である。だが権柄ずくな対位法が、彼らに、平和なふるさとを忘れなければいけないと、勧告する」(ドビュッシー)

19世紀には各地で国民主義的な動きが高まりを見せたが、音楽の面においても、自国の民謡や伝統的な音楽形式を重視し、ドイツ=オーストリアの器楽・管弦楽やイタリア・オペラの模倣から脱し、独自の芸術音楽を創造しようとする動きが現れるようになった。これらの動きは総称して国民楽派と呼ばれる。

19世紀前半までのロシアでも、音楽の中心はやはりイタリア・オペラであり、外国人によって組織されたオペラ団が帝室から支援を受けていたが、こうした状況を変えていこうと考えたのがミハイル・グリンカであった。彼はロシア以外の国で名を知られた最初のロシア人作曲家で、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれている。富裕な商人の子として生まれたグリンカは幼少の頃から諸外国で勉強する機会を得、西欧文化を吸収したが、自国の民謡に基く音楽、またロシア的な題材によるオペラなど、民族的な性格を備えたロシア音楽が創造されなければならないと考えた。
このグリンカと1833年にグリンカと出会ってから本格的に作曲に取り組むようになり、ロシア語のイントネーションから旋律を作り出すデクラメーションの技法を実践したアレクサンドル・ダルゴムィシスキーの二人によって、ロシアの音楽文化は大きな発展への第一歩を踏み出すことになった。

その後、アントンとニコライのルビンシテイン兄弟とミリイ・バラキレフが現れ、ロシアの近代音楽は二つの流れに分かれることとなった。
アントン・ルビンシテインはリストとも並び称される19世紀最大のピアニストの一人であったが、オペラ中心のロシアの音楽状況にドイツ・ロマン派の交響曲や管弦楽を導入し、西欧の音楽をロシアに根付かせるべく尽力した。また、1859年にロシア音楽協会を設立し、1862年にはペテルブルク音楽院を設立して、アカデミックな音楽教育でプロフェッショナルな音楽家を育成する基盤を整えた。弟のニコライも優れたピアニストであり、彼もまた1866年にモスクワ音楽院を設立した。チャイコフスキーはアントンの弟子であり、ニコライとは親友であった。
一方、バラキレフは愛弟子としてグリンカを継承し、セザール・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、そしてアレクサンドル・ボロディンとともに「ロシア五人組」を結成し、指導者的な役割を果たすとともに、1862年に無料の音楽学校を設立するなどした。「ロシア五人組」は、バラキレフ以外は専門的な音楽家ではなく、別の分野で本業を持っていたことが特徴であり、反西欧、反アカデミズム、反プロフェッショナリズムを標榜し、ロシア独自の芸術音楽の確立に貢献した。
バラキレフは音楽理論に精通し、五人組の指導者的な役割を果たした。堡塁建築術の教授であったキュイは批評家としても活動し、五人組のスポークスマン的な役割を担った。下級官吏であったムソルグスキーは五人組の理念に最も忠実な姿勢を持ち、ダルゴムィシスキーが創始したデクラメーションを用いるなどユニークな音楽を生み出した。軍人であったリムスキー=コルサコフはバラキレフから音楽理論を叩き込まれ、オーケストレーションの大家となった。化学者で軍医でもあったボロディンは美しく抒情的な旋律を持った音楽を生み出した。
しかし、「ロシア五人組」は1870年代に入ると、急速にその結束力を失ってしまった。その原因には、中心人物であったバラキレフが音楽活動から一時的に退いたことや「ボリス・ゴドゥノフ」の評価をめぐってムソルグスキーが五人組から離れてしまったこと、また反アカデミズムであったはずの五人組がロシア音楽協会の指揮者やペテルブルク音楽院の教授に招聘されるようになったことが挙げられる。

「ロシア五人組」の蜜月時代をセザール・キュイは次のように回想している。

「我々は結びつきの強い、若い芸術家の集まりだった。その頃は学ぶところはどこにもなかったので(音楽院は存在していなかった)、自分たちで自己教育を始めたのだった。偉大な作曲家によって書かれた作品の演奏を通して、それらすべての作品は、その技術的な側面や創造的な側面において、余すところなく我々の批判や分析の対象となった。我々は若く、その判断は厳しかった。モーツァルトやメンデルスゾーンに対する態度は軽蔑に満ちていたし、シューマンにも反対し、彼らのことは誰もが気にもとめなかった。我々はリストやベルリオーズに熱狂し、ショパンやグリンカを崇拝した。我々は音楽の形式について、標題音楽や声楽曲、とりわけオペラについて意見をたたかわし、激しい議論を続けた(ジャムをなめながら紅茶を4杯も5杯も飲むのがおきまりだった)」

→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC(W.W.Norton&Company)


ガブリエル・フォーレ

2007-01-05 02:06:51 | 音楽史
Photo_1FAURE
THE CHAMBER MUSIC VOL.1
 
Jean Hubeau
Quatuor Via Nova
 
「音楽とはなんだろう。《言い表すことのできない点》、《存在するものの上に》われわれを高めるまことに現実ばなれした幻想を求めて、ガブリエル・フォーレは自問する。フォーレがその『ピアノ五重奏曲第一番』第二楽章に取りかかっている時期だ。しかも、かれは音楽とはなにかも、音楽がなにかであるかさえも知らないというのだ!」(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」)

ガブリエル・フォーレ(1845-1924)はフランス南部のパミエに生まれ、9歳のときにニーデルメイエールの宗教音楽学校に入った。この学校でフォーレは11年間過ごし、その間、教会旋法にもとづく、独特の和声法を学んだ。そして1861年にこの学校にピアノ教師として赴任してきたサン=サーンスから強く影響を受ける。サン=サーンスはフォーレにピアノや作曲を教えるとともに、リストやヴァーグナー、シューマンなどの同時代の音楽を教えた。
フォーレは1865年にレンヌの教会オルガニストとなり、音楽家として活動を始めた。いくつかの教会でオルガニストをつとめたあと、1874年からはサン=サーンスの後を継いでマドレーヌ聖堂のオルガニストになった。1871年にはフランス国民音楽協会の設立に参加し、1896年にはパリ音楽院で作曲科の教授となった。彼の生徒にはモーリス・ラヴェルがいた。1905年から1920年まで、フォーレはパリ音楽院の院長をつとめ、音楽院の運営に関して数々の改革をおこなった。晩年は難聴に見舞われたが、創作力は死の年まで衰えることはなかった。
1924年パリの自宅で死去。79歳であった。

フォーレもまた、サン=サーンスと同様に、感情表現に溺れることなく形式を重視し、秩序や節度を備えた、無駄のないシンプルな音楽という、クープランからグノーに至るフランス音楽の伝統を踏まえ、極めて洗練された気品のある音楽を生み出した。彼には有名な「レクイエム」やオペラのような大規模な作品もあるが、歌曲やピアノ曲、そして室内楽に多くの傑作を残し、近代フランス音楽の器楽の発展に貢献した。初期の作品はサロン音楽的な側面もあるが、技巧をひけらかすことなく、抒情的な旋律と明確な調性感を特徴としている。しかし1885年以降、フォーレは新たな語法を確立する。旋律は断片的になり、半音階的で曖昧な和声が用いられるようになるが、半音階の使用においても、ヴァーグナーのように感情的な平静さを欠いたものとは対照的に、落ち着きと均衡を保ち、官能的でありながらも優美さを失わなかった。

ジャンケレヴィッチはフォーレ以降のフランス音楽が持つ慎み深さを「緩徐の精神」と呼び、ドイツ=オーストリアの後期ロマン派の音楽と対照させつつ、次のように述べる。

「慎み深さの現れは、ただたんにほかのことを言うだけではなく、さらに、そしてことに、より少なく言うことだ。そして、《より少なく》ということばで、この場合、たんに量の減少、あるいは強度の緩和ではなく、話法の意向および精神のある質を理解しなければならない」

「緩徐の精神は、秘密のひとではなくて慎み深いひと、《熱情》と《絶望》の狂気のような表現欲をうちに抑えて、感動に対して常時引き下っている人間の精神だ」

「短さは、緩徐のもっとも自然な形だ。フォーレの場合、『小品』の簡潔さは、濃密度と節度の要求を表明している。言外に含まれた意味は、《小品》の延長であるべきもの、その短さをひき延ばす黙説法の輝きではないだろうか」

「緩徐はすでに量に対する質の独立を立証し、逆説にも、抑えた表現の表現効果を明白にする。無表情、そしてましてや最小限の表現は、ときには完全な直接の表現よりも力強く意味を示唆する。というのは、最善は善の敵であるように、そのように過度は弁証法によってみずからを破滅させるからだ」

「安易さとあまりにも期待された反応に対する慎み、涙とことばの誇張の慎み、いまわしい駄弁に対する慎みである緩徐の精神は、だれのうちにもまどろんでいる過激主義の誘惑を抑制する。緩徐の精神は、あらゆる狂乱を制御調整するのだ」

そしてジャンケレヴィッチは、「いかに弁の立つものでも、フォーレに関する論述で、深さにおいてその『ピアノ四重奏曲第二番』を聞くに優るものはない」として次のように書いている。

「『ピアノ四重奏曲第二番』のアダージョは、解説できるような作品ではないからだ。その長い、すばらしい夜の夢想、そしてその夢想から輝き出る星の晴朗さを受けいれてのみアルトの叙情的旋律カンティレーナをほんとうに感得することができる。《実存しない事物》とわれわれをこれら実存しない事物のほうへと向かわせる満たすことのできない欲求のことづてとを担って、このカンティレーナはおそらくはわれわれに言っているのだ。《……わたしのうちには満たされない大いなる旅立ちがある》と、これこそ『幻の水平線』の最後のことば、これこそいわば音楽家フォーレの《最後のことば》となるのだから。癒すことのできない郷愁は、ついには平和を見いだすことだろう。そして、大いなる夜のことばが眠りの平和な大洋に静かに沈み込むアダージョのまことに静寂そのものの最後の三頁は、いかなることばにも優ると同時に、いかなる分析をも斥ける」

→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC(W.W.Norton&Company)
→ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)


カミーユ・サン=サーンス

2007-01-03 16:57:09 | 音楽史
Saint_no3SAINT-SAENS
SYMPHONY NO.3 "ORGAN"
 
CHARLES DUTOIT
ORCHESTRE SYMPHONIQUE DE MONTREAL

カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)はパリに生まれた。2歳半からピアノを弾き始め、4歳の頃には作曲するなど、モーツァルトに匹敵する神童ぶりを発揮し、10歳の頃には公の場で演奏するようになっていた。13歳でパリ音楽院に入学し、オルガンと作曲を学ぶ。優秀な生徒ではあったが、ローマ賞には縁がなく2回落選した。
1853年にパリのサン=メリ教会のオルガニストになり、1858年からはマドレーヌ聖堂のオルガニストを20年間つとめ、最高のオルガニストとしての名声を得た。
また、サン=サーンスは1861年から65年までニーデルメイエールの宗教音楽学校のピアノ教師をつとめたが、そこではピアノだけでなく、リストやヴァーグナーのような新しい音楽を紹介したり、作曲も教えたりした。彼の生徒の一人にフォーレがいて、フォーレとは長年にわたって交友関係を持ち続けた。
サン=サーンスは音楽のほか、ラテン語、数学、天文学、考古学、詩などにも多面的な才能を示し、また世界中を旅行したことでも知られている。
1921年、療養のために訪れていたアルジェで死去。

サン=サーンスは1850年代から器楽の分野で作曲活動を始めたが、彼の室内楽作品に対する聴衆の反応はよいものではなかった。サン=サーンスのように16世紀のフランス音楽がそうだったような器楽の伝統を復興しようという考え方はなかなか受け入れられなかった。1871年にフランス国民音楽協会を設立してからも、サン=サーンスは批判の矢面に立たされ、リストから影響を受けて作曲した一連の交響詩は野次やブーイングに迎えられた。しかし、リストの支持や広範囲で精力的な演奏旅行の結果、フランス以外の国でサン=サーンスの名声が高まっていったことで、次第にフランスでも受け入れられるようになっていった。そしてサン=サーンスは1886年に自己の集大成的な作品である「交響曲第3番」を完成させた。

サン=サーンスの音楽は、感情表現よりも音楽の形式を重視し、優美な輪郭を持ち、調和の取れた、かつてのフランス音楽の伝統に回帰することを目指した。その古典的な作風は、節度を保ち、明晰で繊細であった。
マルセル・プルーストは1895年にパリ音楽院でおこなわれたサン=サーンスの演奏会について、それが多くの聴衆を失望させたとしながら次のように書いている。

「真の美しさというものはロマネスクな想像力の期待に応え得ない唯一のものである」

プルーストは聴衆の失望の原因が、サン=サーンスの見事な演奏にあったとし、「美は真実と結びついているので、巧妙、卑俗、官能、気取りといった魅力を自分勝手に用いることができない」からだとした。また、プルーストはサン=サーンスの演奏ぶりについて、ピアニッシモやフォルテシモの極端なコントラストもなければ、身体の動きもなかったとして、それがリスト的な魅せる演奏とは正反対であった様子を記しているが、それゆえに王者の演奏であるとして絶賛した。また別の文章では、サン=サーンスの音楽について次のように書いているが、サン=サーンスの音楽の特徴を的確に表わしている。

「音楽の手段ではなく、音楽的言語の手段だけに甘んじて、神か悪魔がするように世界を音楽のなかに収め、音楽を和声のなかに収め、パイプオルガンの全音域をピアノの狭い音域に収めて興じる」

「かれは伝統、模倣、知識の限られた領域と思われていたもののなかで絶えず創意と天才を爆発させる」

1861年にはヴァーグナーを拒否したフランスの聴衆も、1885年以降はヴァーグナーを熱狂的に受け入れるようになり、サン=サーンスの古典主義的な音楽は時代遅れの保守的なものとみなされるようになった。サン=サーンス自身も晩年にはドビュッシーやストラヴィンスキーの音楽を認めなかったため、保守派の長老として若い世代の音楽家から批判を受けるようになっていった。

ヨーロッパのみならず、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカまで旅行したサン=サーンスをドビュッシーは次のように揶揄している。

「誰かサン=サーンスに、おまえはもう十分に音楽は書いてしまったんだし、おくればせながら探検家の使命をまっとうしたほうがよくはないか、と言ってやるくらい彼を愛している人が、いないものですかね?」

エリック・サティもまた、次のようにサン=サーンスをからかっている。

「いや、サン=サーンスはドイツ人ではない…… ただちょっと頭が《硬い》だけ…… そしてなにもかも誤って理解する、それだけのことだ…… 
ただ彼は本気なのだ、呆れたことに…… 彼の年齢になれば、言いたいことを言うものだ……
だからといってどうだというんだろう?」

「あの偉大な愛国者であるサン=サーンス氏にも《進歩派》の時代があった。その《進歩派》時代が昨日とかおとといとかでないのは確かだ。サン=サーンス氏があらゆる範疇の音楽家たちのためになにをしたかはわれわれも知っている。いや、まったく!あのサン=サーンスのおっさんは《いいやつ》じゃない。《やらずぶったくり》というやさしい金言を、彼はどんなに実行するすべをこころえていることか。なんてチャーミングな人なんだろう!社会主義者を嫌う人がここにひとりいる。もっとも、そのほうがいい。そう思わない?」

1908年サン=サーンスは「ギーズ公の暗殺」という映画のために曲を書き下ろしたことから、世界最初の映画音楽の作曲家としても知られている。
この映画は1908年にパリで設立されたフィルム・ダール社が製作したもので、シャルル・ル・バルジとアンドレ・カルメットが共同で監督した。16世紀の宗教戦争を背景に、新教徒とカトリック派の勢力均衡を図るアンリ三世が、熱烈なカトリック派であるギーズ公を暗殺した事件を映画化したものであるが、このような、歴史的に有名な主題にもとづいて作られた演劇的な芸術性を持つ映画は総称して「フィルム・ダール」と呼ばれるようになった。「フィルム・ダール」にはアナトール・フランスのようなアカデミーの作家たちがシナリオを作り、サラ・ベルナールをはじめとするコメディ=フランセーズの舞台俳優たちが出演し、サン=サーンスらが音楽を担当するという、今見れば、舞台をそのまま撮影しただけの退屈なものであるが、その当時は、映画を見世物から芸術へ高めようとする、文化国家フランスの威信をかけた試みであった。

→「プルースト評論選2芸術篇」(ちくま文庫)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)


セザール・フランク

2007-01-02 20:41:49 | 音楽史
FranckFRANCK PIANO QUINTET
LISZT PIANO PIECES
 
SVIATOSLAV RICHTER
BORODIN QUARTET

セザール・フランク(1822-1890)はベルギーのリエージュで生まれた。フランクをリストのようなピアニストにしたいと考えていた父は、幼い頃からフランクにピアノを習わせた。彼も優れた才能を示し、12歳でリエージュの音楽院を卒業すると、その翌年には家族でパリに移り住み、1837年にパリ音楽院に入学した。フランクはそこで作曲とピアノ、そしてオルガンを学んだが、次第にピアニストになることよりも作曲に関心を持つようになっていった。それを知った父は音楽院から彼を強引に退学させてしまい、フランクは仕方なくピアニストとしていくつかの公演をしたが、あまり評判にはならなかった。
1844年、フランクは再びパリに行き、ピアノ教師や聖クロチルド教会のオルガン奏者としての生活を始めた。この頃からオラトリオなど宗教音楽を作曲し、一部の音楽家の間で知られるようにはなっていたが、一般的にはまったくの無名で、生活も決して楽ではなかった。
1871年、フランクはサン=サーンスやフォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立した。設立の背景には普仏戦争におけるフランスの敗北があった。この協会は「Ars Galica(ガリア人の芸術)」をスローガンに、ドイツ音楽に対抗できるフランス独自の器楽音楽を創造することを目的とし、それまでグランド・オペラとサロン音楽ばかりだったフランスの音楽界に大きな変化をもたらした。この協会の設立以後、フランスでは学生に与えられる課題にすぎなくなっていた交響曲や室内楽が再び作曲されるようになり、数多くの名曲が生まれた。
1872年、フランクはパリ音楽院のオルガン科教授となり、ヴァンサン・ダンディ、ショーソン、デュパルク、ヴィエルネら数多くの弟子を持った。彼らはフランクの高潔な人柄を慕い、フランクのために献身的な努力を惜しまなかった。彼らはフランキストと呼ばれ、国民音楽協会内で次第に大きな勢力になっていくとともに、後に印象派と対立するようになる。
フランクは1885年にレジオン・ドヌール勲章を受け、その翌年にはパリ音楽院の院長になり、また、サン=サーンスにかわって国民音楽協会の主宰となった。

フランクの音楽はリストやヴァーグナーに影響を受け、半音階進行や循環形式(多楽章の曲を共通の主題を使って全体を一貫したものにまとめていく手法)に伝統的な対位法を合わせたもので、オルガン音楽やオラトリオ、室内楽や交響曲の分野ですぐれた作品を生み出した。1879年に「ピアノ五重奏曲」を完成させ、その形式美と高密度な音楽性が高い評価を得ると、1886年には有名なヴァイオリニストであったイザイの結婚記念日を祝うために「ヴァイオリン・ソナタ」を献呈した。このソナタは19世紀後半を代表する傑作とされている。1888年には弟子のデュパルクに献げた「交響曲ニ短調」を完成させた。これは初演当時には激しい批判を受けたものの、今では「新しいフランスの音楽の創造」という、国民音楽協会の悲願の達成として受け止められている。1890年には「弦楽四重奏曲」が高い評価を得たが、その直後に、フランクは馬車で事故に遭い、それが原因の腹膜炎で死去した。68歳であった。

ドビュッシーはフランクの音楽に対する高潔な態度について次のように言っている。

「フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす」

「セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるかとらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった」

また、次のように言うとき、ドビュッシーはフランクの音楽がその高潔さや律儀さによって、時に冗長なものになることも指摘している。

「彼がうまく<はじめた>ときは、聴くほうも安らかな気持でいられる。だが時として彼は、自分の言いたいことがなかなか見つけられなくなる。彼の天才は、極度に錯綜した奇妙なごたまぜのなかで息切れしてしまう。脆弱ゆえにではなく、劇的ないし、華麗な、だが長つづきしない躍動によって、遮断されてしまうのだ。というのも、彼の律儀な単純さが、しかじかの手法に嫌悪をもよおすからである」

→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)