ROBERT SCHUMANN
Cellokonzert & Violinkonzert
Julius Berger(Vc) Hansheinz Schneeberger(Vn)
Florian Merz
Sudwestfalische Philharmonie
ロベルト・シューマン(1810-1856)はドイツのツヴィッカウに生まれた。父親のアウグストは出版業を営んでおり、シューマンは幼い頃から芸術や文学に親しみ、7歳からピアノを始め、ジャン・パウルを愛読したという。18歳のときにライプツィヒ大学に入学。母親の希望を受け入れて法科を選んだが、法律の勉強はせず、フリードリヒ・ヴィークに師事しピアノの勉強を続けた。のちにシューマンの妻になるクララは、このヴィークの娘である。シューマンは母への手紙のなかで音楽の道に進むことを宣言したが、ピアニストになる夢は断念せざるを得なかった。その原因としては、手に装着することで指の筋力を鍛える機械「ダクティロン」を使用して薬指を痛めたせいとされてきたが、現在では指に腫瘍ができたためという説が有力となっている。
ピアニストをあきらめたシューマンは作曲家に転向した。1831年に最初の作品「アベッグ変奏曲」を出版し、その後1839年までの間に、若々しい情熱がほとばしり、自発性と即興性に富んだ、想像力溢れるピアノ曲を書き続けた。この同時期に、シューマンはカフェに集まって議論していた仲間とともに「音楽新報」を創刊し、編集や執筆の大半を手がけ、音楽評論の仕事を始めた。「ダヴィッド同盟」という架空の結社をつくり、内向的なオイゼビウスと外向的なフロレスタンというキャラクターを創造するなど、二面性をうまく使い分けながら評論活動を展開した。
シューマンの評論は「音楽が喚起した情緒、音楽が与えた熱狂を文章の力で再現する」というもので、その功績には次のようなものがある。
1)ベートーヴェン崇拝の伝統を打ち立てた。
2)シューベルトの作品の発掘とその天国的な浄福の世界を発見した。
3)ショパンの天才を讃えた。
4)ベルリオーズをドイツに紹介した。
5)メンデルスゾーンの古典主義的な面を評価した。
6)ブラームスを見出した。
1840年にシューマンは訴訟にまでなったものの、ヴィークの反対を押し切り、クララと結婚した。この年は100曲以上にのぼる夥しい歌曲が書かれたため、「歌曲の年」と呼ばれている。シューマンにとって、歌曲はそれまでのピアノ音楽の作曲法と新たに発見した声楽の書法を総合するものだった。指よりも心に、直接的に湧きあがってくるメロディ。シューマンは声のために作曲する喜びについて何度となく書き記している。結婚を機に、クララの存在が創作に影響を与え、1841年からは交響曲、室内楽などの古典派のジャンルにも創作の幅が広がっていった。しかし、1844年にロシアへの演奏旅行で健康を害し、雑誌の編集をやめてドレスデンに移住した頃からシューマンの精神の均衡は次第に崩れていった。1850年から53年までデュッセルドルフで音楽監督をつとめるが、楽団員との不和などが原因で彼の精神はますます不安定となり、1854年に自殺未遂、その後精神病院に収容され、そこで生涯を閉じた。
シューマンの音楽にはロマン主義の特徴の多くが現れている。モットー(地名ASCHや人名ABEGGなどを音型に用いる)により、音楽外的な概念と結びつけたり、評論活動を通じて楽壇をとりまく俗物たちと戦ったりしたが、芸術を低級な職人芸や日常の「散文」から区別する性質を彼はジャン・パウルに倣って「詩学」と名づけた。シューマンの「ある一つの芸術に関する美学は、即ち他の芸術に関する美学でもある。素材だけが異なるのである」というアフォリズムは、光が様々な色に回折するように、「一つの芸術」が種々の芸術に回折するというような、芸術をプラトンのいうイデアと同様にとらえるロマン主義的な芸術観を前提としている。
例えばF.シュレーゲルはロマン主義文学を progressive Universalpoesie と定義し、次のように言う。
「ロマン主義文学は発展的普遍文学である。その使命は、単に引き離されたあらゆる文学ジャンルを再び合一し、文学を哲学および修辞学と結びあわせるにとどまらない。さらに韻文と散文、独創性と批評、人為文学と自然文学を混ぜあわせ溶かしあわせ、文学を社交のなかへもちこんで活気あらしめ、生活と社交を文学的なものに変え、機知を文学化し、芸術のさまざまの形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモールのはばたきによって生動せしめんとするもの」
「ロマン主義文学だけが叙事詩とおなじように周囲の世界全体の鏡になることができる。時代の似姿となることができる。だがまたとりわけロマン主義文学は、いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合せ鏡のなかにならぶ無限の像のように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。」
「永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのがロマン主義文学に固有の性質なのである」
ロマン主義の文学および音楽の様式における一なるものの発見に関してエーミール・シュタイガーは次のように言う。
「放心をして完全な狂気に堕さしめないためには、一なるものが――たとえそれが曖昧な秘密としてとどまるに過ぎないにしても――多様性のうちになんらかの形で保持されなければなりません。」
古典派は個々のものから特性的なものを取り除き、移ろいゆく現象のなかから永続する典型を見出したが、ロマン主義は多様なものの輪郭を消し去り、それを溶解させる。ヘーゲルがシェリングの哲学を揶揄した「全ての牛が黒くなる夜」という表現のように、ロマン主義は闇夜に全てを還元するようにして一なるものを追求した。このような精神はアナロジー(類似)やヴィッツ(機知)に楽しみを見出すが、音楽においては異名同音(エンハルモーニック)の機能が同様の役割を果たす。
「同一の和音を二つの異なる調性に関係させる、あるいはこう言った方がロマン主義的な趣旨に一段とふさわしいでしょうが、二つの異なる調性を一つの和音に関与せしめるということは――もし私たちがふたたび究極の様式的な根底にまで立ち帰りさえするならば――童話における変身、まったくかけ離れた事物をわけもなしに同一視する神秘的な類似、あるいはまたすべてを結び合わせ、すべての仲を(この過程におけるエロティックな意味を暗示するならば)取り持つことのできるロマン主義的な機知と同じ役割を果たしているのです」
また、シューマンが好んだシンコペーションや8分の6拍子と4分の3拍子との交錯、三連音符と二連音符との交錯は、エンハルモーニックと同一の機能をリズムの領域において果たす。
いずれにせよ、ロマン主義の作曲家の精神は一なるものを求め、「天地は無限の流動体となって自分を優しく包みこんでくれるという盲目的な信頼に身を委ねる」が、いたるところに故郷があるということは、逆に言えばいかなる「ここ」もいかなる「今」も安住の地としては十分ではないということであり、それは終結を欠いたままとなる。
絶えざる生成を続け、決して終わらないはずのシューマンの音楽がなぜ失速し、フモールのはばたきがやんでしまったのか、高橋悠治は次のように言う。
「かれのロマン主義は、生活を恋愛で分裂させ、しごとを作曲と批評に分裂させ、批評のなかではジャン・パウルにならって発明したフロレスタンとオイゼビウスの二重人格をつかいわけ、対立する二面の相互関係をバネにして運動をつづけた」
「一八四〇年はシューマンの転機だった。二元的分裂は一つに収斂する。禁止された恋から結婚へ、批評活動をすてて作曲だけに。フロレスタンとオイゼビウスは去った。音楽もめまぐるしい気分の変化をつづけながら幻想をくりひろげるのではなく、一つの気分にとらわれた単調なものに変わっていく」
「シューマンの症状は、やはり一つのものにとりつかれる傾向をしめしていた。一つの音が耳の中で鳴りつづけ、一つのメロディーやリズムがいつまでも反復された。異質な要素の対立、内声部の相対的分離、リズムのずらし方などの初期の方法を放棄した後で落ちこんだ単調さのはてに予想されたもの、統一による運動の停止がそこにあった」
「おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。ブルジョワ家庭の安定を求める妻であり、子供製造機であり、アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏のような古典形式をムリしてつかい、夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になるのと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから」
「一八三〇年に出発した作曲家たちにとっては、芸術の革命と革命の芸術はおなじことだった。一八四八年には、そうはいかなかった。政治と芸術の分離過程は完了し、音楽市場は商品提供者の孤立を支配の条件とした。芸術の革命は反動の芸術となった」
「シューマンのつかった方法のなかで、基本的な音の身ぶりの変形とモンタージュの技術は見おとすことができない。音楽的形象を幾何学化し、引用と変形を許すかたちに要約する技術は、心理主義と純粋音楽世界の自立につながる機能和声とソナタ形式の対比にもとづく構成法からひきはがされ、表現の種子を作る作業につかわれる」
→ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
→シュタイガー「音楽と文学」(白水社)
→シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→シュレーゲル「ロマン派文学論」(冨山房百科文庫)
→田村和紀夫・鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
→高橋悠治「ロベルト・シューマン」(青土社)
Cellokonzert & Violinkonzert
Julius Berger(Vc) Hansheinz Schneeberger(Vn)
Florian Merz
Sudwestfalische Philharmonie
ロベルト・シューマン(1810-1856)はドイツのツヴィッカウに生まれた。父親のアウグストは出版業を営んでおり、シューマンは幼い頃から芸術や文学に親しみ、7歳からピアノを始め、ジャン・パウルを愛読したという。18歳のときにライプツィヒ大学に入学。母親の希望を受け入れて法科を選んだが、法律の勉強はせず、フリードリヒ・ヴィークに師事しピアノの勉強を続けた。のちにシューマンの妻になるクララは、このヴィークの娘である。シューマンは母への手紙のなかで音楽の道に進むことを宣言したが、ピアニストになる夢は断念せざるを得なかった。その原因としては、手に装着することで指の筋力を鍛える機械「ダクティロン」を使用して薬指を痛めたせいとされてきたが、現在では指に腫瘍ができたためという説が有力となっている。
ピアニストをあきらめたシューマンは作曲家に転向した。1831年に最初の作品「アベッグ変奏曲」を出版し、その後1839年までの間に、若々しい情熱がほとばしり、自発性と即興性に富んだ、想像力溢れるピアノ曲を書き続けた。この同時期に、シューマンはカフェに集まって議論していた仲間とともに「音楽新報」を創刊し、編集や執筆の大半を手がけ、音楽評論の仕事を始めた。「ダヴィッド同盟」という架空の結社をつくり、内向的なオイゼビウスと外向的なフロレスタンというキャラクターを創造するなど、二面性をうまく使い分けながら評論活動を展開した。
シューマンの評論は「音楽が喚起した情緒、音楽が与えた熱狂を文章の力で再現する」というもので、その功績には次のようなものがある。
1)ベートーヴェン崇拝の伝統を打ち立てた。
2)シューベルトの作品の発掘とその天国的な浄福の世界を発見した。
3)ショパンの天才を讃えた。
4)ベルリオーズをドイツに紹介した。
5)メンデルスゾーンの古典主義的な面を評価した。
6)ブラームスを見出した。
1840年にシューマンは訴訟にまでなったものの、ヴィークの反対を押し切り、クララと結婚した。この年は100曲以上にのぼる夥しい歌曲が書かれたため、「歌曲の年」と呼ばれている。シューマンにとって、歌曲はそれまでのピアノ音楽の作曲法と新たに発見した声楽の書法を総合するものだった。指よりも心に、直接的に湧きあがってくるメロディ。シューマンは声のために作曲する喜びについて何度となく書き記している。結婚を機に、クララの存在が創作に影響を与え、1841年からは交響曲、室内楽などの古典派のジャンルにも創作の幅が広がっていった。しかし、1844年にロシアへの演奏旅行で健康を害し、雑誌の編集をやめてドレスデンに移住した頃からシューマンの精神の均衡は次第に崩れていった。1850年から53年までデュッセルドルフで音楽監督をつとめるが、楽団員との不和などが原因で彼の精神はますます不安定となり、1854年に自殺未遂、その後精神病院に収容され、そこで生涯を閉じた。
シューマンの音楽にはロマン主義の特徴の多くが現れている。モットー(地名ASCHや人名ABEGGなどを音型に用いる)により、音楽外的な概念と結びつけたり、評論活動を通じて楽壇をとりまく俗物たちと戦ったりしたが、芸術を低級な職人芸や日常の「散文」から区別する性質を彼はジャン・パウルに倣って「詩学」と名づけた。シューマンの「ある一つの芸術に関する美学は、即ち他の芸術に関する美学でもある。素材だけが異なるのである」というアフォリズムは、光が様々な色に回折するように、「一つの芸術」が種々の芸術に回折するというような、芸術をプラトンのいうイデアと同様にとらえるロマン主義的な芸術観を前提としている。
例えばF.シュレーゲルはロマン主義文学を progressive Universalpoesie と定義し、次のように言う。
「ロマン主義文学は発展的普遍文学である。その使命は、単に引き離されたあらゆる文学ジャンルを再び合一し、文学を哲学および修辞学と結びあわせるにとどまらない。さらに韻文と散文、独創性と批評、人為文学と自然文学を混ぜあわせ溶かしあわせ、文学を社交のなかへもちこんで活気あらしめ、生活と社交を文学的なものに変え、機知を文学化し、芸術のさまざまの形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモールのはばたきによって生動せしめんとするもの」
「ロマン主義文学だけが叙事詩とおなじように周囲の世界全体の鏡になることができる。時代の似姿となることができる。だがまたとりわけロマン主義文学は、いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合せ鏡のなかにならぶ無限の像のように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。」
「永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのがロマン主義文学に固有の性質なのである」
ロマン主義の文学および音楽の様式における一なるものの発見に関してエーミール・シュタイガーは次のように言う。
「放心をして完全な狂気に堕さしめないためには、一なるものが――たとえそれが曖昧な秘密としてとどまるに過ぎないにしても――多様性のうちになんらかの形で保持されなければなりません。」
古典派は個々のものから特性的なものを取り除き、移ろいゆく現象のなかから永続する典型を見出したが、ロマン主義は多様なものの輪郭を消し去り、それを溶解させる。ヘーゲルがシェリングの哲学を揶揄した「全ての牛が黒くなる夜」という表現のように、ロマン主義は闇夜に全てを還元するようにして一なるものを追求した。このような精神はアナロジー(類似)やヴィッツ(機知)に楽しみを見出すが、音楽においては異名同音(エンハルモーニック)の機能が同様の役割を果たす。
「同一の和音を二つの異なる調性に関係させる、あるいはこう言った方がロマン主義的な趣旨に一段とふさわしいでしょうが、二つの異なる調性を一つの和音に関与せしめるということは――もし私たちがふたたび究極の様式的な根底にまで立ち帰りさえするならば――童話における変身、まったくかけ離れた事物をわけもなしに同一視する神秘的な類似、あるいはまたすべてを結び合わせ、すべての仲を(この過程におけるエロティックな意味を暗示するならば)取り持つことのできるロマン主義的な機知と同じ役割を果たしているのです」
また、シューマンが好んだシンコペーションや8分の6拍子と4分の3拍子との交錯、三連音符と二連音符との交錯は、エンハルモーニックと同一の機能をリズムの領域において果たす。
いずれにせよ、ロマン主義の作曲家の精神は一なるものを求め、「天地は無限の流動体となって自分を優しく包みこんでくれるという盲目的な信頼に身を委ねる」が、いたるところに故郷があるということは、逆に言えばいかなる「ここ」もいかなる「今」も安住の地としては十分ではないということであり、それは終結を欠いたままとなる。
絶えざる生成を続け、決して終わらないはずのシューマンの音楽がなぜ失速し、フモールのはばたきがやんでしまったのか、高橋悠治は次のように言う。
「かれのロマン主義は、生活を恋愛で分裂させ、しごとを作曲と批評に分裂させ、批評のなかではジャン・パウルにならって発明したフロレスタンとオイゼビウスの二重人格をつかいわけ、対立する二面の相互関係をバネにして運動をつづけた」
「一八四〇年はシューマンの転機だった。二元的分裂は一つに収斂する。禁止された恋から結婚へ、批評活動をすてて作曲だけに。フロレスタンとオイゼビウスは去った。音楽もめまぐるしい気分の変化をつづけながら幻想をくりひろげるのではなく、一つの気分にとらわれた単調なものに変わっていく」
「シューマンの症状は、やはり一つのものにとりつかれる傾向をしめしていた。一つの音が耳の中で鳴りつづけ、一つのメロディーやリズムがいつまでも反復された。異質な要素の対立、内声部の相対的分離、リズムのずらし方などの初期の方法を放棄した後で落ちこんだ単調さのはてに予想されたもの、統一による運動の停止がそこにあった」
「おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。ブルジョワ家庭の安定を求める妻であり、子供製造機であり、アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏のような古典形式をムリしてつかい、夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になるのと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから」
「一八三〇年に出発した作曲家たちにとっては、芸術の革命と革命の芸術はおなじことだった。一八四八年には、そうはいかなかった。政治と芸術の分離過程は完了し、音楽市場は商品提供者の孤立を支配の条件とした。芸術の革命は反動の芸術となった」
「シューマンのつかった方法のなかで、基本的な音の身ぶりの変形とモンタージュの技術は見おとすことができない。音楽的形象を幾何学化し、引用と変形を許すかたちに要約する技術は、心理主義と純粋音楽世界の自立につながる機能和声とソナタ形式の対比にもとづく構成法からひきはがされ、表現の種子を作る作業につかわれる」
→ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
→シュタイガー「音楽と文学」(白水社)
→シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→シュレーゲル「ロマン派文学論」(冨山房百科文庫)
→田村和紀夫・鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
→高橋悠治「ロベルト・シューマン」(青土社)