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未来派の音楽

2007-07-16 19:40:05 | 音楽史
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「われわれは労働、快楽、反逆に衝き動かされる大群衆を謳おう。現代の首都にあふれる革命の多色で多声の返し波、兵砲工廠や建築作業現場の電気の暴力的な月光に照らし出された夜の振動、煙を吐く蛇のむさぼり食い嚥み込む駅、煙の紐で雲から宙吊りにされた工場、日光に照らし出された大河の悪魔のごとき刃物の上に、身を投げ出した体操家の跳躍の橋、水平線を嗅ぎまわる冒険的な商船、長い排気管の馬靭をつけた鉄製の巨大な馬のような、鉄路の上を蹴る機関車、プロペラが旗のはためく音と熱狂的な群衆の拍手喝采をそなえた飛行機の滑るような飛行を謳おう」(未来派宣言 11)

マリネッティの「未来派設立宣言」は1909年2月20日、パリの「フィガロ」紙上に発表された。
そこでマリネッティは危険への愛と反逆の勇気を、スピードの美を、群衆と電燈の照明を、工場や船や飛行機のダイナミズムと造型を讃え、また博物館・図書館・アカデミーの破壊を、闘争と暴力的強襲によって生み出される芸術を主張し、文化そのものを根底から革新し、いっさいの伝統的なものを破壊するために、世界の唯一の衛生法として、戦争を称揚した。
この宣言がなされたときには、芸術運動としての未来派はまだ存在していなかったが、19世紀末を覆っていた倦怠感や古代ローマの遺跡群に重苦しさや息苦しさを感じていた若い芸術家たちがマリネッティのもとに集まり、詩や文学だけでなく、美術や音楽、ファッションや料理、あるいは都市計画も含む多岐にわたる活動が繰り広げられるに至った。

未来派の音楽的実践は1910年10月11日にフランチェスコ・バリッラ・プラテッラ(1880-1955)によってなされた「未来主義音楽家宣言」から始まる。プラテッラは当時のイタリアの音楽状況にうんざりし、アカデミズムを攻撃し、イタリア・オペラを否定した。プラテッラの音楽的立場は次のようなものである。

「未来に向かって開かれた精神で感じ、歌い、自然の中に存在するあらゆる人間的、超人間的現象を通じて、自然からインスピレーションと美を引き出しながら、あらゆる過去の模倣や影響から、個人の音楽的感性を解放すること。現代生活の諸相により、永久に革新される象徴としての人間と、それが自然と結ぶ新しい関係の永続性を称揚すること」

彼はその後もマリネッティが詩においておこなった「統辞法の破壊」を音楽に置き換えた「未来主義的音楽技法宣言」や「拍子規則の破壊」を書き、リズムの不規則性、無調性、微分音などを用いた音楽を主張したが、しかし、実際のプラテッラは未来派公認の音楽家でありながらも、旅行や速度に対し、非未来派的な嫌悪感を示すなど、本質的には伝統的な作曲家でしかなく、その音楽はシェーンベルクなどに比べるとすでに時代遅れのものであった。

Russolo_la_musicaプラテッラの次に現れたのは未来派の画家として活動していたルイジ・ルッソロ(1885-1947)である。彼はプラテッラの音楽を聴いてその論理的帰結として「雑音の芸術」を構想した。ルッソロは1913年3月11日に「雑音の芸術」を起草した。彼はその中で次のように書く。

「我々の感性を昂らせ、興奮させるために、音楽は、最も複雑なポリフォニーへ、最も多様な楽器の音色や色合いへと発展しながら進んできた。そして最も複雑な不協和音の進行を求め、漠然とではあるが音楽的雑音の創造を準備した」

静寂に満ちた古代に音楽が生まれてから、グレゴリオ聖歌(単旋律)、フランドル派のポリフォニーを経て、バロック期に和声の探求が始まり、その和声が19世紀のロマン派において複雑化し、耳障りな不協和音となって雑音化していく過程をルッソロは歴史的にとらえている。そして彼は、それまでの楽音、つまり、弦楽器や管楽器、そして打楽器で構成されるオーケストラの狭い領域から飛び出し、楽音-雑音の無限の多様性を掌中に収めなくてはならないと主張するのである。雑音は人間の生それ自体を直接的に喚起する力を持ち、その不規則性ゆえに人びとに驚愕をもたらす。それゆえに、未来派の音楽家はすべての雑音を選択し、調整し、支配することで、常に音の領野を拡大し、豊かにしなくてはならないのである。
ここでいう雑音とは、しかし単なる喧騒や耳障りな音だけを意味するのではない。それまでの音楽において、その慣習的な事情によって楽音とはみなされなかった音、つまり自然が生み出す様々な音から都市生活や機械が生み出す騒音までをすべて含み、そのような雑音が潜在的に持っている力を音楽芸術の源泉とすること。もはや既存のオーケストラが出す音では退屈で仕方がないのだ。「我々は、市電、エンジン、車体、大騒ぎする群衆の雑音の理想的組み合せの方が、例えば「エロイカ」や「田園」を聴き直すよりもずっと好きだ」

ルッソロは雑音を以下のように6つの主要な系統に分類した。

1.轟音、雷鳴音、爆発音、夕立音、水没音、地鳴音
2.口笛音、疾風音、風吹音
3.つぶやき音、ささやき音、ぶつぶつ音、もごもご音、ごろごろ音
4.きしみ音、きしり音、衣ずれ音、蚊羽音、ひび音、摩擦音
5.金属、材木、皮革、石、テラコッタなどの打楽器から得られる雑音
6.動物や人間の声、叫び絶叫、うなり、わめき、遠吠え、爆笑、あえぎ、しゃっくり

そしてルッソロは、未来派の画家ピアッティの協力を得て、これら雑音を生み出す機械、イントナルモーリを作りあげるのである。
イントナルモーリ(雑音調整器)は大きさと高さの異なるいくつかの固い箱からなり、それぞれの箱には、外部に音を放出するための巨大な金属製のラッパがついていた。

「実際的な理由から“イントナルモーリ”はできるだけ単純であることが必要だったが、その点は成功した。適切な位置に張られた一枚の振動板は、その張力を変えることによって、すべての半音、四分音、そしてもっとも細かいあらゆる微分音の経過を伴って、十以上の音程を出すことができる。これらの振動板の素材を準備するには、特別な科学溶液を必要とし、それは求められる雑音の音色によって異なる。振動板自体の振動する方法を変えることによって、より多くの雑音のタイプや音色が得られ、なおかつ音程を変える可能性も保持できるのである」

このイントナルモーリを使用したルッソロの音楽には彼が「雑音のネットワーク」と呼んだ「都市の目覚め」と「自転車と飛行機の出会い」がある。
ルッソロは「雑音の芸術」を次のような言葉で終えた。

「こうして我らが工業都市のモーターと機械はやがて知的に調律され、あらゆる工場で、雑音の陶酔のオーケストラが現れるだろう」

ルッソロは第1次大戦で頭に負傷し、その後はイタリアを離れ、パリで活動した。このパリでの彼の活動は、ラヴェルやオネゲル、ミヨー、そしてヴァレーズらに強い印象を与えた。イントナルモーリはその後継機としてルモール・アルモニオやルッソロ・フォーンと呼ばれるものがあり、そのうちルッソロ・フォーンは量産される可能性もあったが、量産は実現されることなく、落胆したルッソロは音楽活動をやめ、再び絵画と哲学的思考に戻ることになった。ルッソロの「雑音芸術」の試みは1920年代で終わり、その後は実践されることもなかったが、その後のエドガー・ヴァレーズやピエール・アンリ、ジョン・ケージらによって、雑音や具体音はさらに探求されることになる。

最後にフランコ・カサヴォーラ(1891-1955)について。カサヴォーラは1922年にマリネッティから未来派運動に誘われた。彼はプラテッラやルッソロの影響下で未来派の音楽を作るようになり、24年から27年までの間に、音楽を演劇や視覚芸術と関連づける理論的なエッセイをいくつか書いたが、29年に未来派運動から離脱し、未来派音楽として書かれたスコアをすべて破棄してしまった(のちにピアノ曲といくつかの歌曲が発見された)。その後カサヴォーラは演劇用の音楽や映画音楽をいくつか残した。

→ティズダル/ボッツォーラ「未来派」(PARCO出版)
→ユリイカ増頁特集未来派 1985年12月号(青土社)