むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

モーリス・ラヴェル

2007-02-24 19:28:45 | 音楽史
PconMAURICE RAVEL
CONCERTO POUR PIANO ET ORCHESTRE
HUSEYIN SERMET(Pf)
EMMANUEL KRIVINE
ORCHESTRE NATIONAL DE LYON

 
Baudelaire_1「アンドレ・シュアレスがラヴェルの写真を見てびっくりして、これはボードレールの弟だと言ったという話にはさもありなんと頷かせられる。実際、ゆがんだ口元にしろ、恥かしそうであると同時に決然としているまなざしにしろ、瓜二つである。それだけではない。この二人は動物の習慣―とりわけ猫のそれ―に取り憑かれていたこと、異様で突飛な衣服を偏愛していたことに思い当たる人もいるかもしれない」(ロックスパイザー「絵画と音楽」)

ボードレールは同化する。彼はドラクロワの作品に自分が映し出されているのを見たり、ポーの詩やド・クインシーの散文を自分が書いたものだと思ったり、「この音楽は私が作った音楽のような気がします」とヴァーグナーにあてて、手紙を送ったりした。ボードレールが書いた唯一の小説である「ラ・ファンファルロ」には、このように対象に同化する性癖を持ったサミュエル・クラメールが登場する。

「サミュエルにとってごく自然な悪癖の一つは、自ら讃嘆の対象となし得た人々と対等な者と己をみなすことであった。見事な本を一冊夢中になって読み終わった後で、思わず下す結論は、これは私が書いたとしてもはずかしくないほど立派だ! というのであり、―そうなればあと、だから私が書いたのだ、と考えるにいたるまでは、―ダッシュ一本の距離しかない」

「自ら同時に、研究したことのある芸術家のみなでもあれば、読んだ本のすべてでもあって、それでいて、この俳優的能力にもかかわらず深く個性的であった」

あらゆる対象に同化しながらも個性的であることを失わないのはボードレールも同じであった。彼も同一化のプロセスを経ることで限りなく豊かになっていった。これはラヴェルにも同様にあてはまる。彼は言った。「模倣することによって私は新機軸を打ち出す」と。

モーリス・ラヴェル(1875-1937)は、スペインにほど近いシブールに生まれた。父はスイス人の発明家で、母はバスク人であった。ラヴェルは7歳からピアノを始め、11歳から和声や対位法を学んだ。彼もドビュッシーやサティと同様に、1889年のパリ万博でロシアや東洋の音楽を知り、強い関心を抱いた。1889年にパリ音楽院に入学、1893年頃にシャブリエとサティに出会い、両者から強い影響を受けた。1895年にいったん退学したが、その後復学して1897年からフォーレとジェダルジュに学んだ。ラヴェルはパリ音楽院に在学中、ローマ大賞に5回挑戦し、いずれも落選したが、5回目の落選のときは審査のありかたをめぐって抗議が殺到し、パリ音楽院の院長であったデュボワが辞任に追い込まれる騒動になった。音楽院卒業後、ラヴェルはピアノ曲や歌曲を中心に作曲家として活動するようになったが、1906年にジュール・ルナールのテクストに作曲した歌曲「博物誌」が、再び騒動を巻き起こした。フランス語の自然な抑揚を反映し、最後のシラブルを落とすなど、ポピュラー音楽のやりかたを芸術歌曲に導入したことにより、それまでの歌曲の秩序を侵害し、挑発したからであった。1910年には保守的な国民音楽協会に対抗して新しい音楽の擁護と忘れられた才能の再発見を目的に、独立音楽協会を創設した。第一次大戦中はトラックの運転手として従軍、1928年にはアメリカへ演奏旅行をし、ニューヨークで大成功を収めた。しかし、1932年に事故に遭い、以後、記憶障害や失語症などの後遺症に悩まされ、作曲をすることができなくなった。1937年に脳手術を受けたが、症状の改善には至らず、死去した。

ラヴェルはドビュッシーとともに印象派とされるが、ラヴェルの音楽はストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評したほどの精密なスタイルと明確で力強いリズムを特徴としており、伝統的な形式と構造を受け継いだ古典主義的な側面を持つものである。
彼は様々な音楽から影響を受け、様々なスタイルの作品を残したが、それぞれに自分自身を刻印した。ラヴェルが自作に取り入れたものを挙げていけば、スペインのバスク民謡やボレロ、ハバネラといった舞曲、アメリカのジャズやブルース、ジプシーの音楽、ロシア五人組の音楽、ウィンナワルツ、18世紀のフランスバロック音楽の舞曲や組曲、東洋の音楽、教会旋法、モーツァルト、リスト、酒場などで歌われるシャンソンなどのポピュラー音楽がある。このように、ラヴェルは古い音楽や新しい音楽、そして様々な地域の音楽を取り入れながらも、ラヴェルの音楽としか言いようのない独自性を備えた音楽を生み出したのである。
また、オーケストレーションの大家としても知られたラヴェルは、自作のピアノ曲を管弦楽曲化するとともに、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を管弦楽曲化したり、ストラヴィンスキーと協力してムソルグスキーの未完のオペラ「ホヴァンシチーナ」を補作したりしている。

→E.ロックスパイザー「絵画と音楽」(白水社)
→「ボードレール全詩集2」(ちくま文庫)
→O.ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→宇佐美斉編「象徴主義の光と影」(ミネルヴァ書房)
→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC
 (W.W.Norton & Company)



エリック・サティ

2007-02-13 00:07:47 | 音楽史
Satieサティ・ピアノ作品集2
諧謔の時代より
 
 
高橋悠治(Pf)、水野佳子(Vn)

エリック・サティ(1866-1925)はオンフルールに生まれた。4歳のとき家族はパリに移るが、母の死後、サティは再びオンフルールに戻り、祖父母のもとに預けられた。8歳になるとサティはオンフルールにある聖レオナール教会で音楽の手ほどきを受け、1879年にはパリ音楽院に入学したが、成績は悪く、教授たちからは才能がないとみなされた。サティも音楽院に馴染めず、1886年にパリ音楽院を退学した。その後、軍隊に入隊するが、すぐに嫌気がさし、わざと病気に罹ってやめてしまう。1888年にはカフェ「黒猫」のピアニストとなり、モンマルトルで暮らすようになった。1889年にはパリの万国博覧会でルーマニア、ハンガリーの音楽を聴き、影響を受けた。1890年にはペラダンと出会い、翌年に「神殿と聖杯の美的薔薇十字宗団」の楽長職を引き受けたが、ペラダンの弟子とみなされたことに腹を立て、袂を分った。1891年にはドビュッシーと出会い親交を深めた。1893年には「メトロポリタン芸術教会」を設立したが、この組織はサティ自身のためのものでしかなかった。1898年からサティはパリ郊外のアルクイユに移った。この頃から、昼はアルクイユ急進社会党委員会や子供に音楽を教えるなどの仕事をし、夜はモンマルトルのカフェで、ヴァンサン・イスパの伴奏をしながら数多くのシャンソンを作曲した。1905年にはスコラ・カントルムに入学して対位法を学び、1908年に優秀な成績で卒業した。1909年には「宗教に属さない信徒救済会」の創立に参加したが、翌年に退会。1911年には独立音楽協会のコンサートでサティの作品が演奏され、次第に名が知られるようになった。1917年にはバレエ「パラード」が初演された。コクトーが台本を書き、サティが音楽、ピカソによる舞台装置、そしてディアギレフのロシア・バレエ団による興行はスキャンダルを巻き起こした。このことをきっかけにサティはヴィユ=コロンビエ座の演奏会企画者となり、のちに「六人組」と呼ばれる若い音楽家たちと交流を持った。1921年頃にはダダイストたちとの交流があり、1923年にはサティを慕う若い音楽家たちがアルクイユ派を結成、1924年にコクトーや六人組と絶交、この年、サティは二幕物のバレエ「本日休演」とルネ・クレールの映画「幕間」の音楽を担当、「幕間」には出演もした。「本日休演」と「幕間」はどちらもピカビアが原案を担当した。「幕間」にはマン・レイやデュシャン、オーリックなど当時の前衛芸術家が勢ぞろいした。この映画はラクダに先導された葬列から棺桶が飛び出し、パリの街路を滑っていくというもので、棺桶は次第に加速していき、映画は断続するイメージがめまぐるしく展開するものとなる。最後は魔法の杖によってすべての事物(FINという文字さえも)が消されていく。ピカビアはこの映画について「『幕間』は大したことを考えてはいない。せいぜい生きるよろこびくらいのことだ。この映画は発明するよろこびを信じている。哄笑する欲望以外のものは何一つ尊敬していない……」と書いた。アド・キルーは「幕間」を「よろこびと生命の映画である。心臓の鼓動の確認であり、死への嘲笑である」と言っている。
そして1925年、サティは腹膜炎で死去した。

ジャン・コクトーはサティを「ぼくの学校の先生だった」と言い、サティと出会い彼に従ったことを、ラディゲとの出会いとともに「他人に誇れる唯一の栄光」と言っている。コクトーはサティについて次のように言っている。

「自己中心的で残酷で偏執狂的な彼は、自分の主義に光彩を添えるものの他には一切耳を傾けなかったし、それを混乱させるものには凄まじい怒りを浴せかけた。自己中心的、彼は自分の音楽のことしか考えなかったからだ。残酷、彼は自分の音楽を敵から守っていたからだった。偏執狂的、彼は自分の音楽を磨いていたからだった。そして彼の音楽は繊細優美だった。つまり彼は彼なりの流儀で繊細だったのだ」

ジョン・ケージはサティのユーモアを愛した。彼にとってサティの音楽は「茸のように汲み尽くしがたい」ものであり、ケージはサティから「自分を新たにしつづける必要」を学んだ。サティの経歴をたどってみれば、彼がいくつもの組織に加わりながらも、すぐにそこから離れていったことがわかる。「かれはひとりで生きた。あたらしい道へ出発するとき、かれのふるい活動に協力したともだちはおきざりにしていった」と高橋悠治は言う。

サティのユーモアについてはジャンケレヴィッチが次のように書いている。

「ときに音楽は、《逆》ではなく、《別のこと》を表現する。サティでは、ユーモアとひとを戸惑わせる見せかけがその役を演ずる。ユーモアは、耐える力をもっている。ユーモアはアリバイであり、重大なことをたわむれながら言うことを可能とする口実だ。ユーモアは、要は、真剣である風をしないで真剣であるひとつの仕方だ」

ケージは「サティのユーモアは音楽の中にではなく、言葉の中にある」という。確かにサティは自分の作品に奇妙な題名をつけたり、ナンセンスな詩や謎めいた指示を楽譜に書き込んでいる。高橋悠治は「音楽は音だけではない。それは題や、説明や、行間のことばをふくむこともできる」として、これらの言葉がある態度を要求しているとして次のように言う。

「ひびきをみしらぬものとして、ムジャキなおどろきをもって、おずおずとためしてみること。なれた手つきで感情をもてあそび、音に酔わせ、みずからも酔う名人芸ではない。アマチュアの態度だ」

それでは、サティの音楽とはどのようなものなのか、高橋悠治は次のように言う。

「かれのは、まずしいものの芸術だ。手近な最小限の材料でできている。あるいは、ありあわせの材料から不必要な身ぶりをはぎとることでなりたっている。それがもつものからでなく、そこにないものによって定義される音楽」

そしてサティの「天の英雄的門の前奏曲」を例にとりながら、次のように言う。

「これは白の音楽だ。つめたく、なにもかたりかけてこないかわりに、わずかな変化が、きくものの自発的な意識をさそいだすようにしくまれている。退屈のおもいがけないふかみのなかに、めいめいが自分の顔をみつける」

「3拍や4拍のながさの細胞のつながりによってできているこの音楽は、対位法、メロディーの一貫性、和声法をもたないモザイクだ」

ジョン・ケージは1948年にサティを擁護する講演をおこなった。この講演のなかでケージは、音楽作品における構造とフォルム、そして方法と素材をめぐって議論を展開しているのだが、ケージによれば、音楽作品の持つ機能は「本来矛盾する様々な要素を共存させていくこと、原則的な要素と自由な要素をひとつに融合させること」であり、原則的な要素を構造に、自由な要素をフォルムに対応させているが、サティ(そしてウェーベルン)を、従来の和声構造にかわって時間の長さ、つまりリズム構造を発見した作曲家ととらえ、次のように言う。

「構造の領域、部分と全体との関係を決めるというこの領域では、ベートーヴェン以来、たったひとつだけ新しい考え方がうみだされたにすぎない。その新しい考え方は、アントン・ウェーベルンとエリック・サティの作品のなかにみいだすことができる。
ベートーヴェンはひとつの曲の部分を和声という手段で決めた。サティとウェーベルンは時間の長さによってその部分というものを決定していった」

ケージによれば、音は音高(ピッチ)、強弱、音色、持続といった4つの要素によって性格づけられるが、さらに、これらの対極にありながら音にとって必要な同伴者である沈黙が加えられる。沈黙は音の高さやハーモニーといったもので聴くことはできず、時間の長さというものによってのみ聴くことができる。このように、沈黙はその持続によってのみ性格づけられるため、音の素材である4つの要素のうちで持続が、つまり時間の長さが最も基本的なものとなる。サティとウェーベルンは、時間の長さという、音楽の真実を再発見したとケージは言うのである。19世紀末にそれまで音楽を支えてきた調性と和声構造が崩壊し、新たな構造が必要とされたとき、シェーンベルクは十二音技法を生み出したが、それは注意深く和声と調性を回避しなければならないと言う意味において、逆説的に和声と調性に縛られることになった。サティやウェーベルンは、音楽から調性的な関係をとりのぞいたときに残るものは時間の長さであり、それが「音と沈黙のおおもとからうみだされる構造」であることを見出した。
そしてケージは、サティとウェーベルンが「簡潔でもったいぶらない表現」ということにおいて共通していると指摘している。
ここでケージは、パウル・クレーを引用している。

「最も小さなものから始めること。このことはたいへんむつかしいが、また大いに必要なことだ。私はヨーロッパについて、まったく何にも知らない生まれたての赤ん坊のようでありたいし、詩でありたい。
その状態で、きわめて謙虚な試みをおこないたい。微々たる造形的なモティーフをどのような技巧ももちいずに、鉛筆でとらえたい。それは、ほんの一瞬間で充分である。小さなものは容易に、そして簡潔に、描くことができる、たちまちにできる。
それは小さいが、しかし、真実の仕事なのだ。そして、このような小さいけれども独創的な仕事を繰り返してやることによって、いつかは、私の仕事のほんとうの基礎となるだろうようなひとつの作品ができ上がることもあろう」

「音楽はつつましいものでなければならない」とサティは言った。
「つつましい音楽」とは、高橋悠治によれば、「それに注意することなく、存在さえしていないようなもの、平凡なものから、さらに特長をぬきとり、いつまでもくりかえすことによって、白い壁のように引き下がってゆく」ようなものである。

サティは「家具の音楽」を提唱したことで知られていて、次のように書いている。

「『家具の音楽』は本質的に工業的なものである。音楽がなんの役にも立たないような機会に音楽を演奏するのが習慣――慣習――になっている。そんなときには、他の目的のために書かれた「ワルツ」やオペラの「奇想曲」や、なにかそれに似たようなものが演奏される。
われわれが望んでいるのは、「有用な」必要を満たすために創られた音楽の樹立である。芸術はそのような必要には入らない。『家具の音楽』は揺らめきを産み出す。それ以外の目的はない。それは、光、熱、あらゆる形態の「安楽さ」と同じ役割を果たす。

『家具の音楽』は、行進曲、ポルカ、タンゴ、ガヴォット等々と取り替えるのがお得。
『家具の音楽』をリクエストしてください。
『家具の音楽』なしには会合も集会もありえない。
公証人、銀行等々のための『家具の音楽』
『家具の音楽』にはファースト・ネームがありません。
『家具の音楽』抜きの結婚式はありえない。
『家具の音楽』を使わぬ家に入るなかれ。
『家具の音楽』を聞かなかったものは、幸福のなんたるかを知らない。
『家具の音楽』の一曲を聞くことなく寝に就いてはいけませぬ。さもないとよく眠れませぬぞ」

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→アド・キルー「映画とシュルレアリスム」(美術出版社)
→中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)
→ジャン・コクトー「ぼく自身あるいは困難な存在」(ちくま学芸文庫)
→ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)
→ジョン・ケージ「小鳥たちのために」(青土社)
→ジョン・ケージ「サティ擁護」(ユリイカ特集=現代音楽1978年8月号)
→高橋悠治「音楽のおしえ」(晶文社)


ポール・デュカ

2007-02-11 02:10:50 | 音楽史
DukasDUKAS
PIANO WORKS
 
 
Margaret Fingerhut

ポール・デュカ(1865-1935)はパリに生まれた。母はピアニストであったが、デュカが5歳のときに死去。デュカは14歳頃から独学で音楽を勉強し、17歳でパリ音楽院に入学、ピアノや作曲を学んだ。1888年にはカンタータ「ヴェレダ」でローマ大賞の2等となった。エリック・サティによれば、19世紀にローマ大賞第二位を獲得した作曲家で突出した存在はサン=サーンスとラヴェル、そしてデュカなのだという。サティはデュカについて次のように書く。

「この音楽家は、パリ音楽院の卒業生のうち、その創造感覚が出身校の教育によって歪められなかった唯一の生徒であり、『ラ・ペリ』の作者は、これまでに存在したなかで最も高い評価に値する思想家のひとりであり、感嘆すべき技巧家である」

デュカはローマ大賞を獲得できなかったことで、一度は創作活動をやめようと決意したが、再び作曲を始め、1891年に序曲「ポリュクト」で注目されるようになった。翌1892年からは評論活動も始め、数々の雑誌に寄稿した。1895年からは「ラモー全集」の編纂をした。1910年にはパリ音楽院の管弦楽科の教授となり、1927年頃から作曲科の教授も務めた。また、パリ音楽院だけでなく、エコール・ノルマルでも教えるようになった。教師として多くの優れた音楽家を育てあげたが、そのなかにオリヴィエ・メシアンがいる。デュカはメシアンに鳥の声を聴くように助言した。

デュカはベートーヴェンを理想とし、フランクを精神的な師としていたため、ヴァーグナーにも、また、フランクの弟子であり、スコラ・カントルムの設立者でもあるヴァンサン・ダンディにも惹かれていた。デュカの音楽は、ベートーヴェンやヴァーグナーといったドイツ=オーストリアの音楽とラモーのようなフランス音楽との間に不断の均衡を打ち立てたとされる。

デュカは徹底した完全主義者として知られる。彼の厳しい批評性は自作にも向けられ、自分にとって不完全と判断した作品はすべて破棄してしまった。このため、現存する作品はわずか15作品しかないが、それゆえに残された作品はどれもが高い完成度を示している。

デュカとパリ音楽院時代に同門であり、親友であったドビュッシーは、デュカのピアノ・ソナタについて次のように書いている。

「デュカース氏にとって、音楽は、形式の無尽蔵な宝庫であり、想像力の支配がおよぶぎりぎりまで楽想を練りあげることを氏に許す記憶――あり得る限りの記憶の、汲みつくせない泉である。氏は、感動を意のままに御すことができ、それが騒々しい空さわぎにおちこむのを避けるにはどうすればよいか、知っている。だから氏は、非常に美しいものをやたらしょっちゅう台なしにしてしまうあの過剰な展開に、けっしてふけらない。このソナタの第三部をごらんいただきたい。きわめて絵画的な外見のおくに、或る力が見出されるだろう。その力は、鋼鉄の機械がもつ無言の確かさで、この曲のリズムの幻想をじぶんの自由にする。同じ力が終楽章をみちびく。そこでは、感動を配分する芸術が、能力のすべてをあげて立ちあらわれる。感動が<構成する力をもつ>とさえ言ってよい。なぜならそれが、建築の完璧な線――大気と空のあやなされた空間に和してきずかれ、全体のゆるぎない諧調にしたがってその空間に身をささげる線――にも似た美しさを、喚起するのだから」

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)


クロード・ドビュッシー

2007-02-10 20:51:55 | 音楽史
ImagesCLAUDE DEBUSSY
Images 1 & 2 ・ Children's Corner
 
 
Arturo Benedetti Michelangeli

エリック・サティはドビュッシーとの長年にわたる交友を振り返りながら次のように書いた。

「はじめて会ったときから私は彼に惹かれるものを感じ、たえず彼のそばで生きたいと思った。幸福にも私は三十年間にわたってその願いを叶えることができた。私たちはおたがいに面倒な説明抜き、いわば言葉半分で理解しあうことができた。なぜなら私たちはおたがいによく知っていたからである。――はじめからずっとそうだったような気がする。
私は創造者としての彼の進化のすべてに立ち会った。『四重奏曲』『ビリティスの歌』『ペレアスとメリザンド』は私の目の前で生まれた。この音楽が私に与えた感動を、私は今なお忘れることができない。なぜなら私はそのとき、新しく得がたい「混沌性」を味わいながら、えもいわれぬ喜びを覚えたからである。
そしてみごとなピアノ曲の数々も、彼の指の下では夢幻劇を思わせるポーズをとり、ものうげにやさしいメランコリーをつぶやくのであった」

クロード・ドビュッシー(1862-1918)は、パリ近郊のサン・ジェルマン=アン=レに生まれた。10歳でパリ音楽院に入学し、ピアノや作曲、音楽理論を学んだ。ドビュッシーは音楽の和声的な側面に興味を持ち、不協和音の連続による即興演奏で、教授たちを驚かせたことがあったという。ドビュッシーは音楽院のアカデミズムを嫌悪していたが、それでもピアノや対位法、フーガの部門で賞を獲得し、22歳の時にはカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞した。ドビュッシーは1885年からローマに留学した。1887年に帰国してからはパリで生活するようになり、この頃から象徴派の詩人たちや印象派の画家たちとの交流が始まった。直接的な描写ではなく暗示すること、対象それ自体の描写よりも対象によって喚起される印象を表わすという彼らの理想をドビュッシーも共有し、音楽においてその理想を実現するために、新たな一歩を踏み出すこととなった。絵画においては線や色彩の配列のあいだに存在する謎めいた関係を音の組み合わせの中に見出すこと。

ドビュッシーは彼の分身であるクロッシュ氏の口を借りて次のように言う。

「それはともかく、<印象>という言葉を心にとめて下さい。私の愛用の言葉ですが、というのもあらゆるしちめんどくさい美学から感動をまもる自由を、それが私にのこしてくれるんでね」

ドビュッシーはパリ音楽院在学中に、チャイコフスキーのパトロンとして知られるメック夫人のもとでピアノ伴奏者の仕事をするため、1881年と1882年にロシアに滞在した。このとき、ロシア五人組やチャイコフスキーの音楽に触れ、その様式やオーケストレーションに強い影響を受けた。また、1888年と1889年にはバイロイトに行き、ヴァーグナーの楽劇を体験した。ドビュッシーにもヴァーグナーに熱狂した時期があり、ヴァーグナーの音楽にある半音階や不協和音、あるいは官能的な音色をもったオーケストレーションに影響を受けたが、のちにヴァーグナーと対決することによって、独自の道を見出すこととなる。その契機となったものとして重要な体験のひとつに、1889年にパリで開催された万国博覧会でガムラン音楽を聴いたことが挙げられる。ヴァーグナーによって極限まで調性の可能性が使い尽くされ、西洋音楽の発展が限界に達したと思われた状況にあって、ガムランのような非西洋的な音楽が伝統的な西洋音楽の語法を拡張、あるいは解体するように作用することによって、西洋音楽に新たな要素が加えられ、活性化される。そして調性の限界は古い旋法の見直しを促すことにもなった。ドビュッシーはガムランの五音音階を用い、東洋的な幻想性を音楽に与えるとともに、中世のオルガヌムも活用した。その他、タンゴやハバネラといったスペインの舞曲や通俗的な音楽にもドビュッシーは影響を受けている。
ドビュッシーはこれらの影響を混ぜ合わせることで独自の音楽を生み出すに至ったが、繊細で抑制された音楽というフランスの伝統も忘れずに受け継いでいる。ドビュッシーの音楽は19世紀のロマン主義から20世紀のモダニズムへの橋渡しとなり、同時代の音楽家のみならず後の世代に深い影響を与えた。

エリック・サティはドビュッシーが独自の音楽を見つけるにあたって、自分の果たした功績をほのめかしながら次のように書く。

「そして私はドビュッシーに説明した。われわれフランス人はワーグナーという冒険から抜け出す必要があることを。その冒険は私の自然な願望に応えるものではなかった。ただ私が彼に強調したのは、私が反ワーグナー派では全然ないこと、しかし私たちは私たちの音楽をもたねばならぬということだった。――できればシュークルートなしで。
クロード・モネ、セザンヌ、トゥールーズ=ロートレック等々が私たちに見せてくれていた表現手段をなぜ使わないのか? その手段をなぜ音楽に置き換えて利用しないのか? これより簡単なことはない。それもまた表現ではないか?
ほぼ確実な――実り豊かなといってもいいほどの――実現をたっぷりもたらした実験への、有益な出発点はまさにそこにあった。彼にさまざまな例を見せることができたのは誰だろう? 新たな発見を彼に明かすことができたのは? 発掘場所を彼に指示することができたのは? 実感にもとづく所見を彼に述べることができたのは? 」

ドビュッシーの音楽の特徴は、五音音階、全音音階、旋法などの非西洋的な様式や、第3度音を欠いた5度や8度の空虚和音や9度の新しい和音を用いることで、支えを失い、どこにも帰属しない音によって、浮遊感と自由度を獲得したことにある。短く断片化された旋律は完結せず、和音は進行するというよりは継起する。非周期的なリズムや不規則な拍節パターンによって、規則的なリズムが音楽にもたらす推進力は回避される。広い音域を使って、ニュアンスに富んだ色彩と陰影を追求する。こうして、形式や輪郭は曖昧ながら、きわめて洗練された音楽は生み出された。
束の間に消えてしまう気分を形式化するのではなく、そのままとらえること。ドビュッシーの音楽では動機は発展する必要がないし、不協和音も解決される必要がない。解決がない代りに、次々と現れては消えていく音楽の瞬間を楽しむこと。音楽を理論の抑圧から解放し、喜びと感動に満ちたものにすること。

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC
 (W.W.Norton & Company)


アルマ・マーラー

2007-02-06 02:37:09 | 音楽史
0761203945528Mahler-Werfel/Zemlinsky
Lieder
Cord Garben(pf)
Ruth Ziesak(s), Iris Vermillion(ms)
Christian Eisner(t)

アルマ・マーラー=ヴェルフェル(1879-1964)は、ウィーンに生まれた。有名な風景画家のエミール・ヤーコプ・シントラーの娘であったアルマは、幼い頃から画家や音楽家、文学者たちに囲まれ、芸術的な環境で育った。アルマは父を慕っていたが、彼女が13歳のときに腹膜炎で亡くなってしまう。その後、アルマの母は、シントラーの弟子で「ウィーン分離派」の創設者の一人であるカール・モルと再婚したが、アルマは母と継父を嫌い、心を閉ざすようになってしまった。この頃から膨大なスコアを熱心に読むようになり、真剣に作曲の勉強に取り組み始めた。アルマは幼少の頃からピアノを習い、9歳で初めて作曲するなど、優れた音楽的才能を持っていたが、加えて明晰な頭脳を持ち、様々な芸術にも関心を抱いていた。
アルマはカール・モルのサロンに集まる文化人たちと親交を持つようになり、様々な影響を受けたが、文化人たちの方では、彼女の美しさに魅了されていた。ブルク劇場の舞台監督であったマックス・ブルクハルトや画家のグスタフ・クリムト、作曲家のアレクサンダー・ツェムリンスキーらは指導者としてアルマに様々な影響を与え、アルマは彼らとの間に恋愛関係を持った。
アルマは1895年にヨーゼフ・ラボールに作曲を師事し、1900年からはツェムリンスキーに作曲を学ぶようになった。ツェムリンスキーとは結婚を考えたほどであったが、マーラーと出会ったことで彼女の人生は大きく変わり、1902年、アルマはマーラーと結婚した。結婚の直前に、アルマはマーラーから「私の音楽をあなたの音楽と考えることは不可能でしょうか」と言われた。二人のうち作曲家の役割を担うのはあくまでもマーラーであり、アルマはマーラーから作曲を禁じられてしまう。アルマはこの要求を受け入れはしたが、決して許しはしなかった。
二人の結婚生活はうまくはいかなかった。アルマはしばしば情緒不安定になり、飲酒癖がひどくなっていった。1910年にアルマは神経症の治療のため療養に出かけるが、そこでバウハウスの主宰となる建築家ヴァルター・グロピウスと出会い、関係を持つようになった。このことはマーラーの知ることとなり、彼はフロイトの精神分析を受けるなどして、夫婦間の関係の修復を図った。アルマに禁止していた作曲を許し、彼女の作った歌曲を賞賛し、歌曲集の出版もした。しかし、二人の関係は修復されることなく、マーラーは自筆譜に悲痛な言葉を書き連ねることとなる。
マーラーの死後、アルマはグロピウスと結婚することとなったが、画家のオスカー・ココシュカや作家のフランツ・ヴェルフェルとも関係を持ち、グロピウスとは1920年に離婚、その後しばらくしてヴェルフェルと結婚するが、ナチの台頭により、アメリカに移住した。アルマはヴェルフェルの死後もそのままアメリカで暮らし、有名な芸術家たちと愛の遍歴を重ねた伝説的な女性として生き、その生涯を閉じた。
アルマ・マーラーの歌曲は17曲が現存している。そのうちの14曲はすでに1910年、1915年、1924年に出版され、2曲は2000年に公開された。残りの1曲はまだ非公開のままである。彼女の歌曲はツェムリンスキーの影響を強く受け、半音階的でめまぐるしい転調を特徴としている。また、表現主義的で強い表出力を持ち、濃厚なロマンチシズムと官能性に満ちている。

→H-L・ド・ラ・グランジュ「グスタフ・マーラー失われた無限を求めて」(草思社)


ツェムリンスキー

2007-02-05 02:25:00 | 音楽史
ZemALEXANDER ZEMLINSKY
LIEDER
Cord Garben(pf)
Barbara Bonney(s), Anne Sofie von Otter(ms)
Hans Peter Blochwitz(t), Andreas Schmidt(b)

アレクサンダー・ツェムリンスキー(1871-1942)はウィーンに生まれた。彼は4歳からピアノを始め、10歳の頃にはシナゴーグでオルガンを弾くようになっていた。13歳のときにウィーン音楽院に入学し、ピアノと作曲を学び、とりわけピアノでは学内で賞を取るほどの優れた才能を示したが、次第に関心は作曲へと移行していき、1890年頃から作曲を始めた。
1893年に音楽家協会に入会し、ブラームスの支援を得るようになり、ブラームスの推薦でクラリネット三重奏曲を出版することができた。ツェムリンスキーの初期の作風はブラームスからの影響のもと、古典主義的なものであった。
1895年、ツェムリンスキーはアマチュアのオーケストラである「ポリヒムニア」の指揮をしたが、そこにチェロ奏者として参加していたシェーンベルクと初めて出会った。二人は親密な間柄になり、親友となった。ツェムリンスキーはシェーンベルクに対位法など彼が習得した作曲技法のすべてをシェーンベルクに伝え、当時、ヴァーグナーに熱狂していたシェーンベルクに対し、ブラームスの音楽の魅力も教えた。シェーンベルクはブラームスの音楽の革新性を後に高く評価することになるが、それはツェムリンスキーからの影響が大きい。初めての出会いから6年ほど経って、シェーンベルクがツェムリンスキーの妹マチルデと結婚し、二人は義理の兄弟となった。
1897年にツェムリンスキーの「交響曲第2番」がウィーンで初演されると、この作品は好評をもって迎えられ、作曲家としてまずまずのスタートを切ることができたが、1900年にオペラ「昔あるとき」がマーラーの指揮で初演されたときはそれほどの成功をおさめることができなかった。ツェムリンスキーはブラームスの影響下にあったものの、彼なりに新しい音楽を志向しており、ウィーンの保守的な傾向とは相容れないものを持っていた。
ツェムリンスキーは1904年にシェーンベルクとともに「創造的音楽家協会」を創設した。この協会は、「ウィーン分離派」をモデルに、前衛的な音楽家の作品を演奏することを通じて「現代音楽にウィーンにおける永久の市民権」を与えることを目的としていた。この協会はグイード・アドラーの支持を得ることとなったが、アドラーはこの協会の後ろ盾になるようにマーラーを説得し、マーラーもこのような若い音楽家たちの活動を支持した。
マーラーは1902年にアルマ・シントラーと結婚したが、それ以前にアルマはツェムリンスキーから作曲を学んでいて、アルマとツェムリンスキーは恋愛関係にあり、結婚を考えていたほどだったのだが、マーラーの音楽的才能やウィーン宮廷歌劇場の監督としての地位もあって、アルマはマーラーと結婚することを決意し、そのことをツェムリンスキーに打ち明けたが、ツェムリンスキーはそれを許した。
ツェムリンスキーは1906年にウィーン国立歌劇場の首席指揮者となり、以後、指揮者としての活動が活発になっていった。1911年から1927年までの間、プラハのドイツ歌劇場の首席指揮者として活動、その後ベルリンに移り、クレンペラーのクロル・オペラに招かれた。指揮者としては、同時代の前衛的な作品を積極的に演奏したが、それだけでなく、モーツァルトの演奏でも高い評価を得た。
しかし、1933年にナチが台頭したことにより、ツェムリンスキーはウィーンに逃亡せざるをえなくなった。公的なポストを失った彼はときおり客演する程度で、作曲に専念する日々を送っていたが、1938年にオーストリアがドイツに併合されたのを機にアメリカへ亡命し、ニュー・ヨークで生活することになった。しかし、この新しい環境にツェムリンスキーは適応できず、シェーンベルクのように大学で教えることもなく、作曲も手につかないまま、病を得て死去。誰一人知る人もいないニュー・ヨークでは、一人寂しくピアノに向かいながら昔の作品を弾き、かつてプラハやベルリンで指揮者として華々しく活躍していた頃を懐かしみながら過ごしていたという。

ツェムリンスキーの音楽は、その初期の作品にはブラームスからの影響があるが、次第にヴァーグナーやマーラーの影響を受け、拡張された和声を用いるようになり、後期の作品では調性感が希薄になっている。しかし、彼はシェーンベルクのように無調や十二音技法には向かわず、ぎりぎりのところで踏みとどまった。

→H-L・ド・ラ・グランジュ「グスタフ・マーラー失われた無限を求めて」(草思社)


グスタフ・マーラー

2007-02-02 01:01:54 | 音楽史
Boulez9MAHLER
SYMPHONIE NO.9
 
Pierre Boulez
Chicago Symphony Orchestra

グスタフ・マーラー(1860-1911)は、カリシュトに生まれた。その後家族はすぐにモラヴィアのイグラウに移り、マーラーは幼年時代をイグラウで過ごした。マーラーは6歳からピアノのレッスンを受け、15歳でウィーン音楽院に入学し、そこでピアノや和声法、そして作曲を学んだ。これらの課程を優れた成績で修了したマーラーは、ウィーン大学の聴講生となり、ブルックナーの講義に出席したほか、歴史学や哲学を学んだ。この頃にはすでにヴァーグナーに対する熱狂が始まっていて、マーラーはヴァーグナー協会に入会し、社会主義的なグループとも交流を持つようになっていた。21歳の頃、「嘆きの歌」でベートーヴェン賞に応募したが落選し、作曲家への道を阻まれた。
マーラーは1880年から指揮者として活動を始め、その活動はリュブリアーナ、オルミュッツ、カッセル、プラハ、ライプツィヒ、ブダペストといった各都市で展開されたが、1891年にハンブルクの歌劇場で初めて長期の契約を結び、首席指揮者として1897年まで勤めた後、指揮者としては最高の地位のひとつであるウィーン宮廷歌劇場の音楽監督に任命された。
マーラーは歌劇場の様々な面において改革をおこなった。オーケストラ・ピットの床を低くして、演出効果の妨げにならないようにしたり、上演する作品においても、それまでプログラムの中心であったイタリアやフランスのオペラを減らし、モーツァルトやヴェーバー、ヴァーグナーなど、ドイツ・オーストリアの作品を増やしたり、ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」を省略することなしに上演したり、アルフレート・ロラーの協力を得て、ベートーヴェンの「フィデリオ」やヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の上演の際に、光と色彩を効果的に使用した新しい演出方法を試みたりなどした。
後に結婚することになるアルマ・シントラーとは1901年に出会った。アルマを通じて、クリムトらの「ウィーン分離派」をはじめとするウィーンの文化人たちとの交流が生まれ、マーラーは分離派がおこなった「ベートーヴェン展」にも深く関わることになった。また、ツェムリンスキーやシェーンベルクといった新しい音楽を志向する作曲家たちとも交流し、彼らに強い影響を与えた。
指揮者として頂点を極めたマーラーであったが、ウィーンのユダヤ人排斥運動の高まりや楽団員との不和などにより、1907年にウィーン宮廷歌劇場を辞任し、メトロポリタン歌劇場からの招聘を受け、渡米することとなった。心臓を悪くし、体調がすぐれないながらも、メトロポリタン歌劇場とニュー・ヨーク・フィルで精力的に活動したが、重体となり、1911年にウィーンで死去した。

Mahrc34_1作曲家としてのマーラーは、同時代の聴衆や批評家に好意的に受け入れられたわけではなかった。例えばハンスリックは「われわれのうち一人は気が狂っているにちがいない。そしてそれは私ではない」と評したし、マーラーの「交響曲第1番」は1889年にブダペストで初演されてからというもの、各地で演奏されるたびに聴衆から多くの反感を買った。
マーラーの音楽は「騒音の洪水」であり、構築性を欠き、思いつきをただ並べただけのものであるとみなされたのである。

しかし、このようなマーラーの音楽こそ、硬直した西洋の近代音楽の限界を乗り越えようとした音楽であったとし、そこにアクチュアリティを見出したのがアドルノであった。
彼はマーラーの音楽の形式理念で本質的に重要なものとして「突破」、「一時止揚」、「充足」を挙げる。アドルノ=龍村によれば、「突破」は「世の成り行き」と対置される。「世の成り行き」とはヘーゲルの概念であるが、ここでは破綻なく流れていく連続的な時間性のことであり、表面上論理的な、従来の芸術語法で了解可能な時間の動きのことをいう。「突破」はその連続的な時間を突発的に多種多様に打ち壊し、目覚めさせようとする瞬間のことであり、「一時止揚」は突破によって内在的論理が一時的に停止され、一定の時間、別世界が繰り広げられることである。「充足」は中世歌謡のバール形式でいうところのアプゲザングのようなものであり、それはあるひとつの音楽連関をそれにとってまったく新しいものによって充足するというもので、内在的完結性という理念とは対立する。「形式に内在しないもの、計算しきれないものがアプゲザングとしてそれ自体、形式カテゴリーとなり、異なっていてしかも同一のもの」となるのである。充足は「蓄積された力の解放」であり、「鎖を解き放たれた自由」である。

アドルノは次のように言う。

「主体は世の成り行きの中に捕らえ込まれ、その中で再び自己を見出すことも、世の成り行きを自分で変えることもできない。活動する生がベートーヴェンにあってはいまだ脈打っていたあの希望、ヘーゲルに『精神現象学』で、世の成り行きが結局は、その中で実現される個人性よりも優位に立つことを認めさせたあの希望は、自らの内へと引き籠らされ、無力となった主体には失われた。それゆえマーラーの交響曲は新たに、世の成り行きに対し立ち向かうのだ。マーラーの交響曲は、世の成り行きを告発するためにそれ自体を模倣する。音楽がそれを突き破る瞬間とは、同時に異議申し立ての瞬間でもある。マーラーの交響曲は、主観と客観との間の亀裂をどこにも取り繕おうとはしない。和解を成功したものとして見せかけるよりは、むしろ自ら砕け散るのだ」

アドルノによれば、ドイツの音楽はベートーヴェン以来、システムであったという。古典主義的なソナタ形式、またはそれに則った交響曲という「自律的な音楽の統合的一体性」は音楽の素材を支配することで多様性を消滅させてしまった。アドルノは、こうした音楽の流れを西洋哲学の流れとパラレルにとらえていて、カントやヘーゲルにベートーヴェンを対応させている(ベートーヴェンの「主題労作」とヘーゲルの「労働」概念)。
マーラーはこのような自律的で矛盾のないシステムを拒否し、調和した音楽という矛盾のない体系が確立されていく過程の中で切り捨てられてしまったものを自分の元に引き寄せ、そうすることで体系性の暴力に抵抗した。音楽の調和性、矛盾のない体系の調和性にマーラーは終わりを宣告し、そこに亀裂を入れる。そしてマーラーはこの亀裂を形式原則とする。
アドルノは矛盾を解決することによって全体的な同一化を図るというようなヘーゲル的な弁証法を批判し、合理的な思考における不適合性として現れる主観と客観の差異や思考と事物的なものとの非同一性といったものに向き合い、全体的な同一化の不可能性を追求し、そうすることで、同一化の暴力を暴き、それに抵抗する非同一的なものの痕跡を救おうとした。このような非同一性を思考する弁証法をアドルノは否定弁証法と呼んだが、アドルノはマーラーの音楽に否定弁証法の音楽的な具現化を見る。

アドルノは、システムの中におさまりきらないようなものは小説や劇といった文学へ逃れていったとし、マーラーの音楽を「小説的な交響曲」と呼び、次のように言う。

「交響曲の形式がもはや音楽的な意味を、必然的連関としても真理の内実としても保証しない、それゆえ形式自体が意味を探さねばならない、という理由から、直接的なものと間接的なものとが結合されることになる。一種の音楽的なありのままの現存在、すなわちその民衆的なものから媒介が引き出されねばならず、媒介によってはじめて民衆的なものは意味深いものとして自己を正当化する。それによってマーラーの形式は、歴史哲学的に長編小説の形式に近づく。音楽的素材は月並みだが、演じ方は至高である。小説の中の小説と言えるフロベールの『ボヴァリー夫人』における内容と様式との布置関係は、まさにこれと同様であった」

「ドラマ的な交響曲が論証的論理というモデルを模した緊密な構成の徹底の中でその理念を捉えるということを信じているならば、小説的な交響曲はそういう論理からの逃げ道を探している。つまりは自由になりたいのだ」

マーラーが「世の成り行き」を告発するためにそれ自体を模倣したように、フロベールは「紋切り型辞典」において「多数者の側にたって多数者の物語を模倣しながら、しかも多数者の説話論的な欲望にしたがって平等かつ民主的な多数者を攻撃することで多数者から身を守る」戦略を取った。そして彼の小説は「細部に淫することで生じてしまう小説の物語機能の失調状態」を招いたのであったが、ここにもソナタ形式に則した交響曲に亀裂を生じさせたマーラーとの類似を見ることができるだろう。

マーラーは「世の成り行き」と「突破」との対立関係を「自己の形象の音楽内的構成によって具体化し、対立を媒介」する。この対立の構造化によって、破綻の形式が生成し、「既存の形式が保証することになっていた連関は、今や破綻性によって作り出される」ことになる。それは見かけ上は、様々な断片を寄せ集めたポプリ(接続曲)のようになるが、このようなありかたは、散乱した要素の意識下の連関として、マーラーにおいては「一般的な類型による凍結したグループ化を感性豊かに溶解させる組立法の美徳になる」。マーラーにあっては、「あらゆるカテゴリーが少しずつ侵食され、どのカテゴリーも明確な境界の中で確立されてはいないが、それは分節化の欠如ではなく、分節化の改良に由来する」のである。
普遍と特殊、楽音と自然音、器楽と歌曲、長調と短調、芸術音楽と通俗音楽といったものの対立は、音楽の中で媒介され、混ぜ合わされ、変形され、二律背反的な緊張のなかで相互間の同一化の不可能性を示す。これらが相互に否定しあうことによって音楽は展開するが、マーラーを聴くということは、この決して同一化されない事態を経験することなのである。

ブーレーズには次のような発言がある。

「マーラーは、硬直して装飾的な常套手段に凝固してしまった形式のハイアラーキーを攻撃し、プルーストやジョイスにおける物語=レシと比べられる様な、はるかに自由な叙述を獲得するために、あの形式的枠組みというものを爆破した。そうすることで、音楽の実体そのもの、その組織、その構造そしてその力に影響を及ぼした。マーラーの想像力と技巧はナレーションのもつ叙事詩的広がりを有し、様々に異なる特質を持つ材料を区別することを拒否し、基本的な材料をすべて見当違いの形式的制約から解き放たれた構造の中で自由に混ぜ合わせた。同質性、体系性――彼の場合、馬鹿馬鹿しい概念――は無視された。マーラーは選択を行なわない。というのは選ぶという事は自分の基本的プランを裏切ることになるから」

こうしてマーラーの音楽は「イデオロギーに堕した音楽文化の破壊の後に、その破片や記憶の断片から、第二の全体性を形成」する。それによって、「芸術がそれに対して反抗を企てるけれども根絶はしない文化を再び回帰させる」のである。

ナターリエ・バウアー=レヒナーが記録したマーラーの数々の発言からは、彼が音楽を言葉で巧みに表現する優れた能力に恵まれていたことが十二分に伝わってくる。自分の書いた交響曲についての発言はそれ自体が詩のように美しく、また指揮者としての経験に裏打ちされた具体性を持っているが、ここでは作曲や音楽一般についてのマーラーの発言を抜書きしておく。

「作曲でもっとも重要なのは、純粋な書法、つまり個々の声部が、この場合の模範である四重唱のように、歌のようであることだ。弦楽合奏では、まだ十分に透明感がある。オーケストラが大きくなればなるほど、透明度は減るけれども、かといってそこで透明さが重要であることは全く変わらない。植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊満なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。
 僕にあっては、ファゴットもバス・チューバも、そしてティンパニーでさえも、歌うようでなくてはならないのだ。このことは本物の芸術家のすべて、とくにリヒャルト・ヴァーグナーにも当てはまる。ただ過去の人たちは、自然音の楽器の不完全性によって、濁った響きや当座凌ぎの措置を余儀なくされることがしばしばで、そのことで、止むを得ない箇所以外にも声部書法の無頓着や不明瞭が忍び込むことになったのだ」

「たぶん僕たちは、根源的なリズムやテーマをすべて自然から受け取っているんだろう。野獣の立てる声ひとつとっても、すでに自然はそれを通じて、そうしたリズムやテーマを的確に僕たちに提供しているのだ。それはちょうど人間、とくに芸術家が、彼をとり囲んでいる世界からあらゆる素材や形式を――もちろん、その意味を変え、拡大した上で――得ているのと同じだ。あるいは敵対的な対立関係に立つにせよ、また超然とした見地からフモールやイロニーをもって自然との関係を片付けようとするにせよ、こうした自然とのかかわりによって、それぞれ、美的で崇高な、情感的で悲劇的な、そして狭い意味での諧謔的、反語的な芸術様式の基礎が得られるのだ」

「僕の場合、詩節が交替しても、そもそも繰り返しというものがないことがわかるだろう。それというのも、音楽には永遠の生成、永遠の発展という法則があるからなんだ。―まさに世界が同じ場所にあっても、つねに別の、永遠に変化するものであるようにね。もちろんこの発展は進歩でもなくてはならない。そうでないと、何にもならないだろう!」

「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ」

「芸術作品の中ではたらいているのは、まず何よりも変わらぬ神秘であり、測り知れない何かなのだろう。きみがある作品を見極めてしまえば、それはもうその魔法や魅力を失ってしまう。―どんなに美しい公園であっても、きみがもしその小径のすべてを知ってしまえば、きみには退屈になって、もうそこを散歩したくなくなるのと同じだ。(カールスバートの温泉にはいったあと、運動しようというのならべつだけどね。)それと全く違うのが、僕らのマイエルニクの森で、そこで無数にからみあい、ひっそりと何処へともなく通じている小径は、いくら辿ってみても飽きることはない」

「聴いてみろよ!これがポリフォニーだ。僕はこうしたところからポリフォニーを手に入れているのさ!まだとても小さい子供の頃、イグラウの森で僕はこうしたポリフォニーに奇妙に心を動かされ、印象づけられた。それがこうした騒音として響こうと、多くが混じり合った鳥の鳴き声や嵐の怒号、ザブザブいう波の音や火がパチパチ燃える音として響こうと、変わりはないからだ。まさにそのように、各テーマは全く違った方向から聞こえてこなくてはいけないし、リズムや旋律もまるっきり違ったものでなくてはならない。(それ以外のものは、すべて単なる多声性か偽装されたホモフォニーにすぎない。)ただ、芸術家がそれを互いに調和して響き合うひとつの全体に組織化し、統一するだけのことだ」

→渡辺裕「文化史のなかのマーラー」(ちくまライブラリー)
→H-L.ド・ラ・グランジュ「グスタフ・マーラー失われた無限を求めて」(草思社)
→T.W.アドルノ「マーラー音楽観相学」(法政大学出版局)
→蓮實重彦「物語批判序説」(中公文庫)
→伊東乾「時空の操作者」(ユリイカ1995年6月号特集=ピエール・ブーレーズ)(青土社)
→N.バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)