むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

プッサンをやりなおす

2005-07-30 13:02:33 | アート・文化
poussin63
 
 

Nicolas Poussin
「フォーキオンの葬い」1648
Les Funerailles de Phocion


「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)

フィリップ・ソレルスは「プッサンを読む」のなかで、プッサンの絵が書物と同じように読むことができ、そこでは構文や単語は形体や色彩に置き換えられていると言った。また、プッサンの絵は韻文であり修辞学上の教えであるとして、ソレルスはプッサンの絵の構造の中に緊密な構成(自然のなかからわれわれの精神の数学をえらびとり、自然に則ってそれを整理する)を認めるが、一見自然に見えるプッサンの絵のなかに奇妙さを発見する。

明確な部分と異常な総和。

「プッサンはローマ時代の舞台装置のなかにギリシャの物語を描き、あるいは真新しい屍骸とすでに腐爛した屍骸-緑と灰色の-を描き混ぜる。樹木を描くのに彼は季節の混在、たとえば春と秋の混在をおそれず、ここにいたって彼の常にかわらぬ固定観念があるえらばれた空間のさまざまな時代を同一の作品のなかに描きこむことにあったということが明示される」

これら部分は共存するのではなく、継起的に存在する。プッサンは空間に時間を導入すること、あるいは時間を空間的に表現することにおいて、実は絵画そのものを危険にさらしていた。古典主義様式による外見の自然さによって、あるいは物語や標題という言語によって、部分が多方向に拡散してしまうことがないように統合し拘束したはずのプッサンの画面を改めて眺めてみれば、そこから逃れていく、何とも言いようのないものが現れる。それを抑圧を逃れるフレンホーフェル的なものの噴出といってもいいだろう。

こうしてソレルスはプッサンの絵画について次のように記す。

「僕たちがここにもっているのはまさしく非常に意味深い文章(テクスト)なのだ。ただその文章(テクスト)には、意味がひとつに限られているのではなく、いくつもの方向から近づくことができ、いいかえればその厳密さにもかかわらず、(あるいはそれゆえに)結局はもっと茫漠とした未知の意味のなかでゆれ動き、消え去ってしまう文章(テクスト)なのである」

また、ソレルスは創造の過程を次のように図式的に示す。
全体的明証(第一印象)-ずれ(断片化、論理、分離、解読)-説明不可能な、あるいは説明を超越した特定の明証(神秘)

明晰・明証的であればあるほど、厳密であればあるほど、それと同程度の神秘を生み出す。世界がただあるという明証的なことがらこそが神秘であり、そのことへの驚きが絵画へとひとを誘惑する。

絶対知が非知へと転じたところで、プッサンは「なにを描くか知らなかったかのように描き、なにを彩るか知らなかったかのように彩り、なにを構成するか知らなかったかのように構成する」画家として、つまり、セザンヌの先駆者としての相貌を見せる。セザンヌは「自然を通じ、感覚を通じて古典主義に戻りたい」と言った。それは「自然に即してプッサンをやりなおす」ということだった。

→フリップ・ソレルス「プッサンを読む」(フィリップ・ソレルス「公園」新潮社所収)
→松浦寿夫「イコノポリティーク」(現代思想1984年3月号「美術と哲学の対話」所収)



セザンヌかく語りき

2005-07-26 21:19:01 | アート・文化
sainte-victoire
 
Paul Cezanne
「ローヴから見たサント=ヴィクトワール山」1904-1906
La montagne Sainte-Victoire, vue des Lauves


エミール・ベルナールは記す。

「一夕、バルザックの『知られざる傑作』とその主人公フレンホーフェルの話が出た時、突然翁は立上がり前に進んで、黙ったまま人さし指で己れの胸を叩いて見せた。その容子は小説中の人物そのままを見せられる心地がした。翁は烈しく感動して、眼に一杯泪をためて居られた。」
(エミール・ベルナール「回想するセザンヌ」岩波文庫)


セザンヌはジョアシャン・ガスケを相手に語る。まるでフレンホーフェルのように。

「現実の全体をそのまま欲しい……。それでないと(……)私の頭のなかには先入見となった型があり、真実をその上に当てはめて記すことになってしまう……。そうではなく、私は私自身を真実の上に当てはめて写したいのだ。」

「にせ絵描きは、この木、あなたの顔、この犬を見ない。木というもの、顔というもの、犬というものを見るだけだ。彼らは何も見ていない。同じものは何ひとつないのに。彼らには、ぼんやりとした定まったタイプのようなものがあり、彼らはそれを互いにやりとりし、それがいつも、彼らの眼-眼など持っているのだろうか-とモデルの間に漂っている。」

「自然にならって絵を描くことは、対象を描き写すことではない。感覚を実現することなのだ。」

「物はそれぞれ互いに浸透し合う……。それらは生きるのをやめない。物たちは、内密な輝きで周囲にわずかずつ広がっていく。われわれが眼差しと言葉でそうするように。」

「自然は表面にはない。深さにある。色彩は表面にありながら深さの表現である。色彩は世界の根から立ち昇ってくる。世界の生命であり、思想の生命である。デッサンはというと、それはまったくの抽象なのだ。それゆえに、デッサンはけっして色彩と分けられない。」

「世界の脈絡のない倫理。それは、もしかすると世界がもう一度太陽になろうと費やしている努力なのだ。」

「いたるところで一本の線がひとつの色調を囲み、虜にしている。わたしはそれらを解放したい。」

「魂や眼差しの輝き、表に現れた神秘、大地と太陽のあいだの、理想と現実のあいだのやりとり、色彩! 彩られた大気の論理が一挙に影や頑健な幾何学に取って代わる。」

「私が夢見るようないい絵には統一がある。そこではもうデッサンと色彩は分けられない。色を塗るにつれてデッサンされていく。色彩が調和すればするほど、デッサンは精確になる。色彩が豊かになれば、形態は充実する。色調の対象、その関係、そこにデッサンと肉付けの秘密がある……。あと肝腎なものは、詩なのだ。」

以上は山梨俊夫編・訳「セザンヌ 絶対の探求者」(二玄社)による。



知られざる傑作

2005-07-24 00:46:00 | 本と雑誌
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Honore de Balzac(1799-1850)


オノレ・ド・バルザック「知られざる傑作」(岩波文庫)

バルザックの「人間喜劇」は「風俗研究」と「哲学的研究」そして「分析的研究」の3部からなり、「知られざる傑作」は「哲学的研究」に属する。ここに分類される小説では、「セラフィタ」を除き、絶対の探求にエネルギーを蕩尽し、やがて崩壊するに至る人間が描かれている。

「知られざる傑作」は、まだ何者にもなっていないみすぼらしい身なりの青年ニコラ・プッサンが、アンリ4世に仕える宮廷画家だったポルビュスの家の前で、ためらいながら行きつ戻りつしているところから始まる。するとそこに一人の老人が現れる。この老人がフレンホーフェルであるが、彼はそのひしゃげた鼻によって、ラブレー的な巨人的知性とソクラテス的なイロニーを併せ持つ悪魔的な人物として提示される。
小説はこの謎めいたフレンホーフェルの偏執的な絵画への情熱とその情熱が生み出した「知られざる傑作」をめぐって展開する。

画家志望の芸術に対する若々しい情熱はしばしば恋心に例えられる。この小説は「ジレット」と「カトリーヌ・レスコー」の2つに分かれているが、ジレットは青年プッサンの美しい恋人の名前であり、カトリーヌ・レスコーは「美しき諍い女」と呼ばれた有名な娼婦の名前であり、フレンホーフェルが10年の歳月をかけて取り組んでいる作品のことである。
自然がもたらした美と烏有に帰した都市の廃墟、あるいは青春期の恋愛とピグマリオン的に倒錯した愛。この2つは強いコントラストを形づくっている。

絵画の極北を垣間見ようとした青年プッサンの若気の至り。結局のところ、彼は神の領域に足を踏み入れることはできなかったし、同時に美しい恋人ジレットも失うことになった。そして彼はローマに向けて旅立ち、そこで古典主義的な技法を確立し、理知的な構成と描線によってフレンホーフェル的な絵画の噴出を抑圧する。

poussin「アルカディアの牧人たち」と題されたプッサンの代表作がある。中央に描かれた石碑には ET IN ARCADIA EGO と記されているが、これらの文字は I TEGO ARCANA DEI と並べ替えることができ、これは「立ち去れ、私は神の秘密を隠した」という意味になる。フレンホーフェルによる「美しき諍い女」は地上の芸術の終わりを示し、天上に消えた。プッサンはそこに何も見出すことができなかったゆえに、彼はその手前で踏みとどまらなければならなかった。古典主義者プッサンは暴く者から隠す者、抑圧する者となったが、それによって彼の作品はあらゆる絵画の規範となった。

フレンホーフェルはマビューズのただ一人の弟子であったかもしれないが、同時に17世紀初頭に現れた19世紀の画家でもあり、彼はセザンヌにも通じる絵画論を展開する(実際はバルザックがゴーティエから聞き知ったドラクロワのものであるといわれている)。人間がフレンホーフェル的な絵画に新たな美を見出すにはセザンヌの登場を待たねばならなかったのである。


ガボリオを忘れるな

2005-07-22 01:40:03 | 本と雑誌
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Emile Gaboriau(1832-1873)




小倉孝誠「推理小説の源流 ガボリオからルブランへ」(淡交社)

一般に推理小説は1840年代、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」から始まるとされ、1860年代のウィルキー・コリンズやチャールズ・ディケンズを経て、1880年代のアーサー・コナン・ドイルが完成したとされる。しかし、推理小説の歴史において、忘れてはならない重要な底流として19世紀フランスの新聞小説があり、大衆ジャーナリズムの発展とともに現れた、新しい読者層に向けた小説が書かれなければならないと考えた男がいた。エミール・ガボリオである。

この本は、フランス文学者であり19世紀に発刊された新聞等を詳細に調査し、当時の文化や社会を読み解いてきた小倉孝誠がガボリオの復権を企てたものである。
ガボリオがポーに影響を受け、最初の長篇推理小説「ルルージュ事件」を書いた作家であるということはよく知られているが、それ以上に言及されず、ガボリオの小説が推理小説の源流として果たした功績が忘却されているという状況があり、そのことが著者をしてこの本を書かせる動機となっている。
本書は大きく3つの章に分かれており、第1章では19世紀前半のフランス社会において犯罪という現象がどのように捉えられ、それが同時代の文学でいかに説話化されたかを探り、推理小説を生み出す状況がフランスにおいて揃っていたことを明らかにする。第2章ではガボリオの小説の梗概と緻密な分析がなされ、第3章ではガボリオの後継者として、ドイルやガストン・ルルー、モーリス・ルブランが論じられる。

19世紀のパリはロンドンと同様に犯罪が多発する都市であった。犯罪の増加にはそれを取り締まる警察制度の整備が必要とされ、パリ警視庁が設立されるとともに、監獄制度の改革は当時様々に議論され、様々なシステムが提案されもした。同時に犯罪は市民の関心を喚起し、新聞はそれに応えるように犯罪報道を売りにし、1825年には「法廷通信」が創刊され、裁判記録なども刺激的な読みものとして読まれるようになっていった。これはバルザックやスタンダール、ユゴーやデュマといった作家たちにとっては創作のための情報源となった。スタンダールの「赤と黒」がこの「法廷通信」に掲載された事件から生まれたことはよく知られている。
創作の源泉としてはもうひとつ、フランソワ・ヴィドックという、あらゆる犯罪を重ねてきた悪党でありながら、パリ警視庁の刑事になり、私立探偵社を設立するに至った男の回想録があった。これは多くの読者を獲得したが、バルザックはヴィドックをモデルにヴォートランを生み、ユゴーもまた彼をモデルとしてジャン・ヴァルジャンやジャベールを生んだ。ガボリオの小説に登場するルコックやタバレもヴィドックの影響から生み出された。
このヴィドックという男の二面性はフーコーによれば「警察と非行性の直接的で制度的な結合を示す典型」とされるが、犯罪者であり犯罪を取り締まる者でもあるという両義性は、探偵と犯人がコインの裏表のような関係であることを示唆してもいる。

こうした状況のなかで、新聞に掲載される小説は犯罪の物語化を進め、ウージェーヌ・シューの「パリの秘密」や「さまよえるユダヤ人」が一世を風靡するに至る。このような犯罪物語の流行に加え、ポーの小説がフランスに入ってくる。シャルル・ボードレールによる翻訳以前にも様々なかたちでポーは紹介されていたようだが、瑣末な事実や痕跡から推論を重ねることによって事件の真相を突き止めるといった手法によって、ポーは犯罪物語から推理小説への決定的な転換をもたらした。

ガボリオはポーの物語技術の影響のもと、自由な個人と司法の人間に犯罪捜査を分かち持たせたり、薬物鑑定や写真といった同時代の科学を捜査に導入したりした。彼が生み出したルコックやタバレといった人物は犯罪の現場にある痕跡を観察し、合理的な推理で事件を解決に導く。これらがドイルに大きな影響を与えたことによって、シャーロック・ホームズは誕生したのだった。

最後にガボリオ以降のフランス推理小説において大きな存在であるガストン・ルルーとモーリス・ルブランについて論じられるが、ルルーの「黄色い部屋の謎」がルコック=ホームズのおこなった方法を乗り越える新たな推理小説の地平を切り開いたものであることやルブランの生んだアルセーヌ・ルパンが、世紀末からベル・エポックへという時代の推移を体現するスピードへの熱狂とタイムリミットを設定することによるスリルを推理小説に導入したことが示される。このルパンは変装の名人であり、後に大怪盗から探偵へと転身を遂げるのだが、ここにもヴィドックが反映していることは言うまでもない。

ガボリオの小説は明治期に黒岩涙香らによって翻案がなされており、それが江戸川乱歩や横溝正史に大きな影響を与えたことなど、本書には日本でのガボリオ受容についても記されている。

この本を読んだ後、ガボリオの小説を読みたくなったが、現状では古本を探すしかない。
藤原編集室の本棚の中の骸骨によれば、国書刊行会から「ルルージュ事件」が出る予定とのことなので、それを気長に待つことにしたい。


ニコラ・プッサン

2005-07-18 13:52:16 | アート・文化
poussin

  
 
 
 
Nicolas Poussin
「ニンフとサテュロス」1627
Nymphe endormie surprise par des satyres



バロック。規範からの逸脱。境界線の横断。それは絵画空間と現実空間を区別しない。
ベラスケスの「侍女たち」を見てみよう。それは、ゴダールの映画「勝手にしやがれ」でジャン=ポール・べルモンドがふいに観客の方に向かって語りかけたように見る者を巻き込むだろう。

ニコラ・プッサンは、1624年にイタリアに渡った。最初はバロック風の絵画を描いていたが、古代の彫刻や建築、あるいはレオナルドの「絵画論」やラファエロの絵画に学び、色彩やタッチといった感覚的なものよりも正確なデッサンと明快で秩序だった構図といった理知的なものを重視した厳格な古典様式を完成に導いた。
その過程は、ラシーヌが言葉によって身体を抑圧したように、自らの狂おしい欲望を古典的な描線と構図によって封じ込めたかのようだ。カオスの秩序化によって永遠の真理を見い出す?しかし、それがすでに手なずけたものとの戯れでしかないとしたら?あるいは、プッサンに隠されたバロック性をこそ、彼の本質であるとすること。これは?

たとえばニンフの下腹部に当てられている薄い布をめくり、にんまりとした表情を浮かべているサチュロスを見てみよう。
しかし、ニンフの無防備な肢体は、そうされることをあらかじめ知っていたかのようだ。そこでは侵犯は擬態でしかなく、隠されたものにこそ真理を見い出そうとするドラマは、あらかじめ決定された戯れでしかなくなっている。どこまで引き剥がされようが、表層でしかないことを知っているニンフ。サチュロスは自分の見たものが、隠された真理であると思い、喜んでいるのだろうか?だとしたら彼はこんな言葉を吐くだろう。

「宇宙のとざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力を持っていない。それは認識の勇気のまえに自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにせざるをえないのである」(ヘーゲル「小論理学 聴講者にたいするヘーゲルの挨拶」)

しかし、そこには閉ざされたものなど最初からなかったのだと言っていい。そしてサチュロスもそれを承知で戯れているのだとしたら?


娯楽から血まみれへ

2005-07-16 16:52:59 | 本と雑誌
ジュリアン・シモンズ「ブラッディ・マーダー」(新潮社)

一部のミステリファンからはこの翻訳は待望されていたようだ。何年も前から刊行予告がなされていたにもかかわらず一向に出る気配がなく、そうこうしているうちに訳者の宇野利泰が亡くなってしまったりし、出版されないまま終わるかもしれないとも囁かれていた。紆余曲折ありながらようやく世に出たこの本であるが、とりあえず英米系のミステリの通史としてはこれ1冊あれば十分だ。というか、十分でなかったら費用対効果的にも困ってしまうというくらい大部で高価な本である。

ミステリの歴史をまとめた本といえば、ヘイクラフトの「娯楽としての殺人」が有名で、古典だとされているが、これはハードボイルドが生まれたところまでで終わっているので、それ以降の流れを扱っているという点では「ブラッディ・マーダー」が今のところ最も網羅的なミステリ史の本だと言えるだろう。ボルヘスやロブ=グリエなどへの目配りもあり、戸川昌子と夏樹静子と松本清張だけではあるものの、日本人作家も取り上げられている。

著者のシモンズは自らもミステリ作家であり、彼は探偵小説から犯罪小説への転換を主張していたので、この本もその主張を歴史的に裏付けるように書かれている。
一般に黄金期と呼ばれている1920年代から30年代にかけての本格探偵小説の時代においては、殺人は知的な謎解きゲームのためのきっかけにすぎず、頭脳明晰な名探偵の推理と読者との知恵比べなど、その意味で「娯楽としての殺人」であるが、犯罪を題材に小説を書くことで社会的現実と向き合い、性や暴力も排除せず、人間が犯罪に至る過程、その社会的な背景、心理的なものなどを追求し、探偵小説というおとぎばなしにリアリティーを与えようという犯罪小説は「血まみれの殺人」になるというわけだろう。
この本は、本格原理主義者とでも言いたくなるような、いわゆる黄金期への郷愁を捨てられない人たちに向けて、犯罪小説が多様なサブジャンルを派生させながら社会的現実や大衆の欲望を反映させているありようを示したものだと言えばいいかもしれない。
探偵小説から犯罪小説への転換にあたって大きな役割を果たしたのがダシール・ハメットであるが、それは日本舞踊のような型や所作のある殺陣で、人が斬られても決して血を流すことのないチャンバラ映画に対して黒澤明が見せた血しぶきのインパクトに例えることもできるかもしれない。
 
本書後半からはスパイ小説や冒険小説などにも言及していくので少し散漫になってしまっているが、それはしかたがないところ。


ほんとうの空色

2005-07-15 13:29:00 | 本と雑誌
balazs
 
 
 
 

Bela Balazs(1884-1949)


ベラ・バラージュ「ほんとうの空色」(岩波少年文庫)

「最初の色彩映画を見たときの私の興奮は、最初の飛行機が空へ昇って行くのを見たときの興奮にたいへんよく似ていた」(ベラ・バラージュ「視覚的人間」)

ベラ・バラージュは映画草創期の理論家として知られているが、ジェルジ・ルカーチとともに設立した「タリア協会」において新しい演劇の上演をめざしたり、コダーイを通じて知り合ったバルトークのバレエ「木製の王子」やオペラ「青ひげ公の城」の台本を手がけたりするなど、演劇人としての活動がそもそものベースにあった。

第1次大戦終結後の1919年にバラージュはハンガリーからウィーンに亡命する。この亡命時代に彼はマルクス主義を本格的に学ぶようになるが、その一方で新聞に鋭利な映画評を書くなど映画批評家としても活動するようになった。映画美学を確立しようと試みた「視覚的人間」はこの時期に書かれたものであり、彼が最も気に入っていたという童話「ほんとうの空色」が書かれたのもこの時期だ。

お昼の鐘が鳴る頃にたった1分間だけ咲く花から絞った青い汁で絵を描いたら、太陽も照れば月も輝き、雨も降れば雷も鳴る。それは「ほんとうの空色」だった。
屋根裏部屋にある大きな道具箱のふたをその「ほんとうの空色」で塗ったことにより、主人公の少年は自分だけの世界と秘密を手に入れる。ここには、暗い部屋の中で映画という新しいメディアの可能性にうちふるえたに違いないバラージュの悦びが見事に定着されている。
この物語は少年期の終わりを刻んで閉じられるが、フェルコーがジュジの青い眼に見たものこそ、色彩を用いた映画がさらに高い段階へ達する可能性だったのである。


海始まる

2005-07-13 23:13:58 | 本と雑誌
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Jose Saramago(1922- )


ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」(NHK出版)

突然、目が見えなくなった男の話からこの小説は始まる。目にはどこにも異常がないのに何も見えず、目の前は真っ白の、まるでミルクの海にもぐりこんでしまったかのようだ。このような症状は彼を診察した眼科医におよび、そしてさらに何人かの人も同じように目が見えなくなってしまう。原因不明ではあるが、きっと伝染性のものに違いないということで、政府はこうした人々を精神病院に隔離することとする。しかし、目が見えなくなった人は次第に数を増し、精神病院は多くの人でひしめきあい、さながら無法地帯と化し、糞尿があふれかえり、悪臭がたちこめる。そして食糧をめぐる闘争と暴力が渦巻く地獄絵図が展開され、目が見えない、他人から見られないということが人間の理性をはぎとり、丸裸にするさまが描かれていく。

18世紀の啓蒙主義以降、理性こそが人間にとってもっとも価値のあるものであるとされ、それは光としてつまりは視覚に支えられたものとして考えられるようになったが、同時に視覚は見るものと見られるものといった二項対立の図式を構成していくことにもなった。しかし、視覚は錯覚を生じさせもすることから、視覚の優位性を疑う立場に立つ者も生んだ。啓蒙主義に抗したサドはやはり、視覚よりも聴覚の人であった。

この小説には一人だけ目が見えなくならなかった女性が登場する。彼女は、ときにはドラクロワが描いた女神のようなスタイルで、凄惨な状況をただ一人見つめながら冷静な判断で苦境を乗り越える。「白の闇」は、その意味では人間理性を讃える小説ということもできるが、われわれの現実というものは、実は精神病院で展開された地獄絵図のほうであり、人間から視覚を奪うことで、視覚に頼りすぎる人間が、見えないことをいいことになおざりにしてきた様々な問題を露呈させるサラマーゴの着想は見事である。


ここに陸尽き

2005-07-11 22:35:00 | 本と雑誌
pessoa

 
 
 
 

Fernando Pessoa(1888-1935)


フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」(思潮社)

この本はリスボン在住の会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれた断章からなる。フェルナンド・ペソアはこのソアレスだけでなく、70近くもの異名を使い分け、それぞれにまったく異なるプロフィールや人格さえも与え、さながら多重人格者のように書いていた作家であった。それゆえに「複数の自己」というようなポストモダンの文脈で発見され、生前は知る人ぞ知る存在でしかなかったこの詩人もいまや世界的な巨匠となった。

「不穏の書」は全部で520の断章からなり、書くこと、生きること、夢と現実、存在と非在、感覚と知性など多岐にわたるテーマについて書かれている。それらはモラリストの随想のようでもあり、象徴派詩人の倦怠に満ちた生への嘆きのようでもあり、カフカ的な、ひっそりとかすめとるように観察され、書かれたテクストのようでもあり、ニーチェやドゥルーズのような哲学的思考のようでもあり、空や無常を説いているようでもある。そこにはなにひとつ超越的なものがなく、すべてが等価である。「私」は空虚な器となり、劇場としての場となって、あらゆるものがそこでそれぞれを演じているといった具合。完結しない円としての螺旋を描きながら無限へと開放されたテクスト、もしくはバロック的な、現実と虚構の相互浸透とでも言おうか。いずれにしても人生のつまらなさに背を向けた男の孤独な営みには心動かされるものがある。

「不穏の書、断章」という思潮社から出ている翻訳は全訳ではなく、「不穏の書」の一部分にペソアの書簡や散文から選んだテクストを加え、訳出したもの。


ゼーノの苦悶

2005-07-09 01:54:00 | 本と雑誌
Svevo
 
 
 

Italo Svevo(1861-1928)


イタロ・ズヴェーヴォ「ゼーノの苦悶」(集英社「世界の文学1 ジョイス/ズヴェーヴォ」所収)

イタロ・ズヴェーヴォというペンネームは「イタリア人であるスワビア人」を意味する。スワビアとはドイツのシュワーベン地方のことで、ここはヘーゲルやヘルダーリンの出身地でもある。ズヴェーヴォの本名はエットレ・シュミッツといい、ユダヤの家系だという。彼は銀行に勤務しながら自費出版で小説を2冊ほど発表したが、何の反響もなかったため、40歳を迎える年に義父の会社の経営に携わることになったのを機に文学と絶縁する。その後実業家としてヨーロッパ各地に赴くようになり、実用英語の必要性を感じるようになった彼は英語の個人教授を探すことにした。このことが契機となり、ズヴェーヴォとジョイスは運命的に出会ったのだった。

その頃、ジェイムズ・ジョイスはベルリッツの英語教師としてアイルランドからトリエステに来ていた。ズヴェーヴォを教えることになったジョイスだが、二人はシェイクスピアについて語り合うなど文学談義ばかりしていたようで、英語のレッスンどころではなかったようだ。しかしこの交友はズヴェーヴォにとって大きな転機であり、フロイトの精神分析を知り、甥と一緒に「夢判断」の翻訳をするなど、当時まだ20代のジョイスからズヴェーヴォは様々な影響を受けた。

この二人には泣けるエピソードがある。あるときズヴェーヴォは、自分がかつて小説を書いていたことを告白し、誰にも見向きもされなかった自分の小説を読んで欲しいとジョイスに手渡したのだが、それを読んだジョイスはズヴェーヴォに対し最大級の賛辞を送り、「老境」という彼の小説の中で気に入った一節を暗唱してみせた。このことにズヴェーヴォは感激し、再び小説を書くことへの大きな励ましを得て「ゼーノの苦悶」を書きあげることになった。ジョイスはこの小説を高く評価し、ヴァレリー・ラルボーに紹介するなど、ズヴェーヴォが世に出るため積極的に尽力した。その甲斐もあって「ゼーノの苦悶」はまずフランスで高い評価を得た。

「ゼーノの苦悶」は何度も禁煙を試み、これが最後の一本だと決めながらずるずると喫煙の習慣をひきのばすような男が精神科医のすすめに従って手記を書くというものだが、この男は知り合った四人姉妹のうち三人に次々と求婚してみたり(そして自分が一番魅力を感じなかった女性と結婚してしまう)、会社を共同経営してもうまくいかなかったり、あれやこれやを気に病みながら肝心なところでチャンスを逸してしまうなんとも煮え切らない日々を送る。こうした男の生活が手記というかたちで綴られていくのだが、第一次世界大戦を経たあたりから、この情けない男の心理分析的な手記が信じがたい展開を見せ、機械や道具の使用による過剰代替が人間を弱体化していき、そのことが原因で病や腐敗を生み出していくという現代文明のありかたに対して警鐘を鳴らす予言の書に変貌するのだ。