Nicolas Poussin
「フォーキオンの葬い」1648
Les Funerailles de Phocion
「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)
フィリップ・ソレルスは「プッサンを読む」のなかで、プッサンの絵が書物と同じように読むことができ、そこでは構文や単語は形体や色彩に置き換えられていると言った。また、プッサンの絵は韻文であり修辞学上の教えであるとして、ソレルスはプッサンの絵の構造の中に緊密な構成(自然のなかからわれわれの精神の数学をえらびとり、自然に則ってそれを整理する)を認めるが、一見自然に見えるプッサンの絵のなかに奇妙さを発見する。
明確な部分と異常な総和。
「プッサンはローマ時代の舞台装置のなかにギリシャの物語を描き、あるいは真新しい屍骸とすでに腐爛した屍骸-緑と灰色の-を描き混ぜる。樹木を描くのに彼は季節の混在、たとえば春と秋の混在をおそれず、ここにいたって彼の常にかわらぬ固定観念があるえらばれた空間のさまざまな時代を同一の作品のなかに描きこむことにあったということが明示される」
これら部分は共存するのではなく、継起的に存在する。プッサンは空間に時間を導入すること、あるいは時間を空間的に表現することにおいて、実は絵画そのものを危険にさらしていた。古典主義様式による外見の自然さによって、あるいは物語や標題という言語によって、部分が多方向に拡散してしまうことがないように統合し拘束したはずのプッサンの画面を改めて眺めてみれば、そこから逃れていく、何とも言いようのないものが現れる。それを抑圧を逃れるフレンホーフェル的なものの噴出といってもいいだろう。
こうしてソレルスはプッサンの絵画について次のように記す。
「僕たちがここにもっているのはまさしく非常に意味深い文章(テクスト)なのだ。ただその文章(テクスト)には、意味がひとつに限られているのではなく、いくつもの方向から近づくことができ、いいかえればその厳密さにもかかわらず、(あるいはそれゆえに)結局はもっと茫漠とした未知の意味のなかでゆれ動き、消え去ってしまう文章(テクスト)なのである」
また、ソレルスは創造の過程を次のように図式的に示す。
全体的明証(第一印象)-ずれ(断片化、論理、分離、解読)-説明不可能な、あるいは説明を超越した特定の明証(神秘)
明晰・明証的であればあるほど、厳密であればあるほど、それと同程度の神秘を生み出す。世界がただあるという明証的なことがらこそが神秘であり、そのことへの驚きが絵画へとひとを誘惑する。
絶対知が非知へと転じたところで、プッサンは「なにを描くか知らなかったかのように描き、なにを彩るか知らなかったかのように彩り、なにを構成するか知らなかったかのように構成する」画家として、つまり、セザンヌの先駆者としての相貌を見せる。セザンヌは「自然を通じ、感覚を通じて古典主義に戻りたい」と言った。それは「自然に即してプッサンをやりなおす」ということだった。
→フリップ・ソレルス「プッサンを読む」(フィリップ・ソレルス「公園」新潮社所収)
→松浦寿夫「イコノポリティーク」(現代思想1984年3月号「美術と哲学の対話」所収)