むらぎものロココ

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正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(2)

2019-10-31 17:33:46 | 道元論
 これから道元の「仏性」の記述に即して、有と無の諸相をみていくことにするが、まず最初に、道元によって否定されている有についてみてみることにしたい。

 まず道元によって「……にあらず」というように否定的な表現がなされている箇所引用する。

 「しるべし、いま仏性によって悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり、仏祖眼晴なり。衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず。いはんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなわち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、神通修証にあらず。」

 「妄縁起の有にあらず、偏界不曽蔵のゆゑに。偏界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。偏界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず。瓦古瓦今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。条条の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。」

 「悉有は百雑砕にあらず、悉有は一条鉄にあらず、拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。諸聖と斉肩なるべからず、仏性と斉肩すべからず。」

 以上が、道元によって否定的に示された有の諸相である。以下にこれらの引用箇所からみてとることのできる特徴をいくつか記すことにする。
 道元によって否定される有はほぼ次の三つに分類することができる。

 一、有無の有
 二、教家の論師の有、有部の有
 三、バラモン教的実体としての有

 一の有無の有というのは、我々が常識的におこなう主客二元論的な立場での認識作用(分別)によるものである。このようなかたちでの認識では、存在の真相をとらえることはできない。これは道元だけでなく、仏教全体が否定するものである。

 二の教家の論師の有、有部の論有というのは、現象界の事物の存在についてというよりは、事物を存在たらしめている「あり方」について形而上学的に想定された有である。先の引用によれば、「始有」、「本有」、「妙有」、「縁有」、「妄有」、「妄縁起の有」、「本有の有」、「始起の有」、「条条の有」、「無始有の有」、「始起有の有」であり、このような有は現実から遊離しているために否定される。道元が問題にする有はあくまでも具体的な現実存在であり、抽象的なものではない。このことは後にみることにする。

 三のバラモン教的実体としての有というのは言うまでもなく、究極の実体としてのアートマンやブラフマンのことであり、このような、あらゆるものから独立して存在するものを認めないのが仏教の基本的な立場である。

 以上のことから明らかになるように、道元が否定する有は、序論において示したように、主客二元論的な立場においてある有であり、実体論的性質を持つ有である。それでは道元の有的立場とはどのようなものか。それが「有仏性」の立場である。以下、また「仏性」巻から「有仏性」についての記述がなされているところを引用することにする。

 「世尊道の『一切衆生、悉有仏性』は、その宗旨いかむ。是什麼仏恁麼来の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ、悉有の言は、衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。」

 「悉有中に衆生快便難逢なり。」

 「悉有それ透体脱落なり。」

 「仏之与性、達彼達此なり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。」

 以上の引用から次のことが明らかになるだろう。

 道元の有的立場は有無の有をこえたところにある。悉有というのは存在の全体ということである。それがすなわち仏性なのであるが、そうかといって、我々の日常的な知覚作用によって知覚される現象界がそのまま仏性であるのではない。なぜなら悉有は透体脱落であるからだ。この透体脱落というのは、あらゆる物事にとらわれないということである。具体的に言えば、あるとかないとか拘るのでも、存在を実体としてとらえるのでもなく、存在の全体の真相をありのままにみるということである。そのときは認識主体としての自己も自我というような固定したものではなく、現象界との間には主客の隔たりはなく、一方的で固定した関係ではなく、相関しあい、滞るということがない。このことがすなわち悉有であるという。存在の全体ということはすなわち存在そのもののことであるということができるだろう。そして悉有仏性という。ここでいう仏性は、むしろ法性というほうが一般的かと思われるが、仏性に法性をも含みこんでしまったことが、道元の独自性を示しているのだ。このことは、無常仏性について論ずる際に詳述する。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(1)

2019-10-30 18:36:18 | 道元論
 道元が「仏性」巻を書いた動機は、大乗仏教において、仏性が重要な問題となり、中国の禅宗においても盛んに論じられるところとなっていたにもかかわらず、仏性についての正しい解釈が必ずしもなされていなかったという、当時の仏教界の状況において、真の仏教の立場から正しい仏性を説いておく必要があると考えたことによる。

 ここでいう誤解というのは、仏性をバラモン教のアートマンのような究極の実体と考えてしまったり、まったくの無としてとらえてしまったりすることであり、そのどちらも超越的な観念として仏性をとらえていることで同様の誤解に陥っている。

 それは仏教がバラモン教の実体論を否定し、無我を説いて出発しつつも、無常や無我といった、規定することのできないことを言語によって表現しなければならなかったことから超越的な実体としてとらえられてしまったり、無常なる存在を無常ならしめる、より高い次元の根本原理を想定せしめることとなってしまったりしたことにあると思われる。説一切有部が法の体系の基礎づけを縁起に求めず、「有」に求めたのは存在を可能にしているありかた(ものの本質)が超時間的に実在するとみたからであった。このような形而上学的実在論を否定したのがナーガールジュナであり、その否定の根拠として「空」や「縁起」を強調した。そうすることによって、実体論が陥る「常住」や「断滅」という、仏教では認められない欠陥を排した。つまり、法には実体がない(無自性)からこそ「不常不断」といえるのであり、一切の事物が相関関係をなして成立することができる(縁起)のであるとした。しかし、「空」を虚無としてとらえてしまう誤解を生むことにもなった。そこでナーガールジュナは「空見」の否定を言い、空を「有」とみることも「無」とみることもともに否定した。空というのは規定的な概念ではなく、従って有や無という規定的な概念でとらえることができないからである。空とは不変の実体として「ある」ものでもなければ、単なる否定でも「ない」ということでもない。つまり、実体論も虚無主義もともに否定しているのである。

 有と無といった概念は互いに対立しているということにおいて相互に関係しあっているのであり、それぞれ独立して実在しているわけではない。この相関関係が成り立つためには一切の事物が絶対不変化の本質をそなえていてははならない。本質がない、すなわち無自性であればこそ事物が相互に関連し、また現象界の変化も成り立つのである。だからこそ無常のということも成り立つのである。無自性といい、無常といい、空といい、それらはすべて縁起から導き出され、基礎づけられていてそれゆえに同じ意味であると考えられている。

 以上が大乗仏教における存在認識のありかたなのであるが、このことはつまり、仏教は現象界以外の何か超越的な絶対的存在を認めないということなのである。このような考え方は、存在論的な面においてだけでなく、実践面において特に重要な基盤となる。すべての事物がとどまることなく生滅変化しているからこそ実践が可能になるということができるだろう。すべての事物が固定化しており、絶対的で不変のものであるならば、一切のはたらきかけは無意味となるであろうからだ。例えばここで、仏と凡夫をそれぞれ実体として固定化されたものとして考えてみると、いくら修行をいくら修行を積んだところで凡夫と仏の間の深淵は埋めようがないということになってしまう。無常観、あるいは縁起説は、発心し修行すれば誰もがさとることができるということにおいてそのことの基礎となっているのである。そしてまた、そうであるがゆえに、さとるということも固定化されないのである。

 仏教はこのように、存在論と実践とがともに無常や縁起によって基礎づけられており、そのことが理論と実践を直接に結びつけている。そしてこの無常や縁起はスタティックなものではなく、きわめてダイナミックなものである。

 実体論と虚無主義を否定すること、そして存在論と実践の基礎に無常と縁起があること、以上が仏教の基本的な考え方といっていいと思われるが、以上のことは当然、道元によっても踏まえられている。これから道元の「仏性」巻を中心に論じていくことにするが、その際に問題とすることは。「有無」の問題である。道元は有と無をそれぞれいくつかの意味で使用している。もちろん恣意的な使用ではなく、コンテクストに応じてではあるが、おそらく、実体論と虚無主義としてとらえられてしまうことを極力回避しようとしたうえでのことと思われる。このような有と無の諸相・非相をみてみることにしたい。