むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

モーツァルト

2006-04-30 21:22:34 | 音楽史
DongiovanniMOZART
DON GIOVANNI

HERBERT VON KARAJAN
Berliner Philharmoniker


ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)はザルツブルグに生まれた。父は宮廷のヴァイオリン奏者であり、音楽教師でもあったレオポルト・モーツァルトで、息子の類稀な才能に気がついたこの父親は、モーツァルトに幼い頃から音楽の英才教育を授け、その才能を開花させた。その早熟の才能は、12歳までに8曲の交響曲と最初のオペラを完成させるほどであった。
1762年から1766年の間、モーツァルトは父や姉とともにヨーロッパの各都市を演奏旅行して周り、神童の名を欲しいままとした。1764年にはロンドンでヨハン・クリスチャン・バッハと出会い、親しい間柄となるが、モーツァルトはヨハン・クリスチャンから多大な影響を受け、イタリアの音楽や前古典派の音楽に触れた。1769年から1773年にかけておこなわれたイタリア旅行では、システィーナ礼拝堂において、門外不出の秘曲とされていた『ミゼレーレ』を聴き、すべての声部を楽譜に書き記したという神童にふさわしい逸話が残されている。

1773年頃から作風に変化が生じた。それまでのロココ的なギャラント様式やイタリア的な叙情的旋律に加え、ポリフォニックなテクスチュア、対位法やフーガ、主題の緊密な展開、声部の対等な扱い、鋭いアクセント、強弱の激しいコントラストなど、ハイドンからの影響を強く受けるようになった。
1777年から1779年には母を連れてパリやマンハイムに旅行した。この旅行は求職活動が目的でもあったが、それは果たせず、母の死や恋の破局など、この旅はモーツァルトにとって辛いものとなり、それ以降、モーツァルトは失意と苦闘に満ちた人生を歩むことになった。
1781年にモーツァルトはザルツブルグ大司教のヒエロニムス・コロレドと衝突し、宮廷音楽家の地位を解雇された。その後はウィーンに定住し、音楽教師をするようになったが、生活は次第に困窮していき、1791年、モーツァルトは35年という短い生涯を終えた。

モーツァルトは従来の作曲技法を一変させたというよりは、彼の時代にあった既存の諸形式に磨きをかけ、完全なものにした作曲家であった。とりわけイタリアのシンフォニアの作曲家たちやマンハイム楽派の作曲家たちによって準備された基盤のうえで自分の様式を確立していった。その点ではハイドンと同様であったが、ハイドンになくてモーツァルトにあったのは豊かな旋律であり、この旋律こそがモーツァルトの音楽の土台になっている。モーツァルトが転調の豊富な可能性を発見したことによって、それまで人間の肉声のみが持っていた内面的な生気であるとか、多様で個性的なものが器楽の旋律においても獲得されたのだ。流れるような自然の動きの中で自在に変化する多彩な旋律は、情緒豊かな、そして明暗のコントラストを生かしたきめの細かい和声に支えられている。これらの和声と旋律が相乗効果を発揮しているのがモーツァルトの音楽であり、とりわけ晩年の交響曲においてはポリフォニックな書法とモノフォニックな書法の融合が素晴らしい効果を上げている。
エミール・シュタイガーはモーツァルトの音楽における和声と旋律について、ゲーテが植物の成長について記述した際に用いた垂直運動(自己を固定化し収縮する力)と螺旋運動(自己を形成し拡大する力)に関係づけている。

モーツァルトがオペラの分野でなしとげた功績はとてつもなく大きい。
モーツァルトは「オペラでは詞は絶対に音楽の従順な娘でなければならない」と1781年に父にあてて手紙に書いたが、音楽よりも言葉を優位に置くという、バロックから続いたオペラ観はこのときくつがえされたのである。
モーツァルトはオペラ・ブッファやジングシュピールの様式を完成させた。彼のオペラは、その場の状況や人物の性格、感情などが瞬時に理解できるような楽想を次々に繰り出しながら、形式が瓦解することなく自然に全体が統一されている。このように様々な主題や調性を縦横無尽に変形させ、対話させ、からませていく作曲技法こそがモーツァルトの本領である。

→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
→E.シュタイガー「音楽と文学」(白水社)


ヨーゼフ・ハイドン

2006-04-18 21:55:10 | 音楽史
1622JOSEPH HAYDN
Quatuors op.33 & 42
 
 
QUATUORS FESTETICS


フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はハンガリーとの国境に近いオーストリアの小村に生まれた。質素な家庭に育ち、6歳のときに叔父のもとで音楽教育を受けたものの、それは断片的なものであり、大部分は独学であった。8歳から17歳まではウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊で活動したが、ここでも合唱経験のほかには正式な音楽教育を受ける機会がほとんどなかった。声変わりで少年聖歌隊を離れたハイドンはウィーンに住み、チェンバロを教えるなどして生活するようになったが、この頃からC.P.E.バッハの音楽を熱心に研究したり、ニコラ・ポルポラから対位法を学んだりするようになって、彼の音楽的な才能は次第に認められるようになっていった。ウィーンのフォン・モルツィン伯爵の音楽監督になった1759年には初めて交響曲を作曲し、「交響曲の父」としての第一歩を踏み出した。
1761年から1790年まではハンガリーでも裕福な貴族であったエスターハージー家に仕え、オーケストラの指揮やオペラの上演に多忙な日々を送った。
1791年から1795年までは興行師ザロモンの後援でロンドンに渡り、二度の演奏会を開いた。この演奏会は大成功を収め、ハイドンはオックスフォード大学の名誉博士号を授与されるまでになった。

ハイドンの創作は交響曲や弦楽四重奏曲にとどまらず、ピアノ・ソナタ、様々なコンチェルト、オペラ、オラトリオ、ミサ曲など多岐に渡り、その創作期は3つの時期に分けられる。第1期は1759年から1770年のロココ期、第2期は1770年から1782年の古典主義出現期、そして第3期は1782年から1803年の円熟期というように。
ハイドンは貴族的なギャラント様式から出発し、そこから方向転換し、C.P.E.バッハの多感様式の影響を受け、旋律の幅広い跳躍、テンポや強弱の変化によって、情感を直接的に表現するようになり、やがて提示された主題を徹底的に展開し、激しい劇的な場とするとともに、音楽的才能の試練の場とする、ソナタ形式を確立するに至る。明瞭で力強く、それでいて均衡を保ち洗練された美しさを持つハイドンの音楽はここに実現される。1781年に作曲された「ロシア四重奏曲」はハイドン自らが「まったく新しい特別の方法で作曲されたものである」と述べたものであった。

ソナタ形式とは提示部・展開部・再現部を持つ形式のことであるが、提示部では調的に対立する2つの主題が提示される。展開部ではそれらの主題が展開され、バラバラになったり変形されたりし、音楽が不安定になっていく。再現部では二つの主題が今度は同じ調性で再現され、対立が解消されるという形式である。
こうした形式が成立した背景には労働に代表される公的な面と家庭で過ごす余暇に代表される私的な面の分離とその均衡という近代市民社会のありかたがあり、音楽も公的な面においては交響曲が公開で演奏され、私的な面においては弦楽四重奏曲が家庭内で演奏されるというように、その役割を分けていくようになる。このような時代の作曲家にとっては公開の演奏会と楽譜の出版が自立する機会を与えてくれるものとなり、ハイドンはこの両方で大成功を収めた作曲家であった。

→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)