むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

知られざる傑作

2005-07-24 00:46:00 | 本と雑誌
balzac
 
 
 
 
 
Honore de Balzac(1799-1850)


オノレ・ド・バルザック「知られざる傑作」(岩波文庫)

バルザックの「人間喜劇」は「風俗研究」と「哲学的研究」そして「分析的研究」の3部からなり、「知られざる傑作」は「哲学的研究」に属する。ここに分類される小説では、「セラフィタ」を除き、絶対の探求にエネルギーを蕩尽し、やがて崩壊するに至る人間が描かれている。

「知られざる傑作」は、まだ何者にもなっていないみすぼらしい身なりの青年ニコラ・プッサンが、アンリ4世に仕える宮廷画家だったポルビュスの家の前で、ためらいながら行きつ戻りつしているところから始まる。するとそこに一人の老人が現れる。この老人がフレンホーフェルであるが、彼はそのひしゃげた鼻によって、ラブレー的な巨人的知性とソクラテス的なイロニーを併せ持つ悪魔的な人物として提示される。
小説はこの謎めいたフレンホーフェルの偏執的な絵画への情熱とその情熱が生み出した「知られざる傑作」をめぐって展開する。

画家志望の芸術に対する若々しい情熱はしばしば恋心に例えられる。この小説は「ジレット」と「カトリーヌ・レスコー」の2つに分かれているが、ジレットは青年プッサンの美しい恋人の名前であり、カトリーヌ・レスコーは「美しき諍い女」と呼ばれた有名な娼婦の名前であり、フレンホーフェルが10年の歳月をかけて取り組んでいる作品のことである。
自然がもたらした美と烏有に帰した都市の廃墟、あるいは青春期の恋愛とピグマリオン的に倒錯した愛。この2つは強いコントラストを形づくっている。

絵画の極北を垣間見ようとした青年プッサンの若気の至り。結局のところ、彼は神の領域に足を踏み入れることはできなかったし、同時に美しい恋人ジレットも失うことになった。そして彼はローマに向けて旅立ち、そこで古典主義的な技法を確立し、理知的な構成と描線によってフレンホーフェル的な絵画の噴出を抑圧する。

poussin「アルカディアの牧人たち」と題されたプッサンの代表作がある。中央に描かれた石碑には ET IN ARCADIA EGO と記されているが、これらの文字は I TEGO ARCANA DEI と並べ替えることができ、これは「立ち去れ、私は神の秘密を隠した」という意味になる。フレンホーフェルによる「美しき諍い女」は地上の芸術の終わりを示し、天上に消えた。プッサンはそこに何も見出すことができなかったゆえに、彼はその手前で踏みとどまらなければならなかった。古典主義者プッサンは暴く者から隠す者、抑圧する者となったが、それによって彼の作品はあらゆる絵画の規範となった。

フレンホーフェルはマビューズのただ一人の弟子であったかもしれないが、同時に17世紀初頭に現れた19世紀の画家でもあり、彼はセザンヌにも通じる絵画論を展開する(実際はバルザックがゴーティエから聞き知ったドラクロワのものであるといわれている)。人間がフレンホーフェル的な絵画に新たな美を見出すにはセザンヌの登場を待たねばならなかったのである。


ガボリオを忘れるな

2005-07-22 01:40:03 | 本と雑誌
gaboriau
 
 
 
 
Emile Gaboriau(1832-1873)




小倉孝誠「推理小説の源流 ガボリオからルブランへ」(淡交社)

一般に推理小説は1840年代、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」から始まるとされ、1860年代のウィルキー・コリンズやチャールズ・ディケンズを経て、1880年代のアーサー・コナン・ドイルが完成したとされる。しかし、推理小説の歴史において、忘れてはならない重要な底流として19世紀フランスの新聞小説があり、大衆ジャーナリズムの発展とともに現れた、新しい読者層に向けた小説が書かれなければならないと考えた男がいた。エミール・ガボリオである。

この本は、フランス文学者であり19世紀に発刊された新聞等を詳細に調査し、当時の文化や社会を読み解いてきた小倉孝誠がガボリオの復権を企てたものである。
ガボリオがポーに影響を受け、最初の長篇推理小説「ルルージュ事件」を書いた作家であるということはよく知られているが、それ以上に言及されず、ガボリオの小説が推理小説の源流として果たした功績が忘却されているという状況があり、そのことが著者をしてこの本を書かせる動機となっている。
本書は大きく3つの章に分かれており、第1章では19世紀前半のフランス社会において犯罪という現象がどのように捉えられ、それが同時代の文学でいかに説話化されたかを探り、推理小説を生み出す状況がフランスにおいて揃っていたことを明らかにする。第2章ではガボリオの小説の梗概と緻密な分析がなされ、第3章ではガボリオの後継者として、ドイルやガストン・ルルー、モーリス・ルブランが論じられる。

19世紀のパリはロンドンと同様に犯罪が多発する都市であった。犯罪の増加にはそれを取り締まる警察制度の整備が必要とされ、パリ警視庁が設立されるとともに、監獄制度の改革は当時様々に議論され、様々なシステムが提案されもした。同時に犯罪は市民の関心を喚起し、新聞はそれに応えるように犯罪報道を売りにし、1825年には「法廷通信」が創刊され、裁判記録なども刺激的な読みものとして読まれるようになっていった。これはバルザックやスタンダール、ユゴーやデュマといった作家たちにとっては創作のための情報源となった。スタンダールの「赤と黒」がこの「法廷通信」に掲載された事件から生まれたことはよく知られている。
創作の源泉としてはもうひとつ、フランソワ・ヴィドックという、あらゆる犯罪を重ねてきた悪党でありながら、パリ警視庁の刑事になり、私立探偵社を設立するに至った男の回想録があった。これは多くの読者を獲得したが、バルザックはヴィドックをモデルにヴォートランを生み、ユゴーもまた彼をモデルとしてジャン・ヴァルジャンやジャベールを生んだ。ガボリオの小説に登場するルコックやタバレもヴィドックの影響から生み出された。
このヴィドックという男の二面性はフーコーによれば「警察と非行性の直接的で制度的な結合を示す典型」とされるが、犯罪者であり犯罪を取り締まる者でもあるという両義性は、探偵と犯人がコインの裏表のような関係であることを示唆してもいる。

こうした状況のなかで、新聞に掲載される小説は犯罪の物語化を進め、ウージェーヌ・シューの「パリの秘密」や「さまよえるユダヤ人」が一世を風靡するに至る。このような犯罪物語の流行に加え、ポーの小説がフランスに入ってくる。シャルル・ボードレールによる翻訳以前にも様々なかたちでポーは紹介されていたようだが、瑣末な事実や痕跡から推論を重ねることによって事件の真相を突き止めるといった手法によって、ポーは犯罪物語から推理小説への決定的な転換をもたらした。

ガボリオはポーの物語技術の影響のもと、自由な個人と司法の人間に犯罪捜査を分かち持たせたり、薬物鑑定や写真といった同時代の科学を捜査に導入したりした。彼が生み出したルコックやタバレといった人物は犯罪の現場にある痕跡を観察し、合理的な推理で事件を解決に導く。これらがドイルに大きな影響を与えたことによって、シャーロック・ホームズは誕生したのだった。

最後にガボリオ以降のフランス推理小説において大きな存在であるガストン・ルルーとモーリス・ルブランについて論じられるが、ルルーの「黄色い部屋の謎」がルコック=ホームズのおこなった方法を乗り越える新たな推理小説の地平を切り開いたものであることやルブランの生んだアルセーヌ・ルパンが、世紀末からベル・エポックへという時代の推移を体現するスピードへの熱狂とタイムリミットを設定することによるスリルを推理小説に導入したことが示される。このルパンは変装の名人であり、後に大怪盗から探偵へと転身を遂げるのだが、ここにもヴィドックが反映していることは言うまでもない。

ガボリオの小説は明治期に黒岩涙香らによって翻案がなされており、それが江戸川乱歩や横溝正史に大きな影響を与えたことなど、本書には日本でのガボリオ受容についても記されている。

この本を読んだ後、ガボリオの小説を読みたくなったが、現状では古本を探すしかない。
藤原編集室の本棚の中の骸骨によれば、国書刊行会から「ルルージュ事件」が出る予定とのことなので、それを気長に待つことにしたい。


娯楽から血まみれへ

2005-07-16 16:52:59 | 本と雑誌
ジュリアン・シモンズ「ブラッディ・マーダー」(新潮社)

一部のミステリファンからはこの翻訳は待望されていたようだ。何年も前から刊行予告がなされていたにもかかわらず一向に出る気配がなく、そうこうしているうちに訳者の宇野利泰が亡くなってしまったりし、出版されないまま終わるかもしれないとも囁かれていた。紆余曲折ありながらようやく世に出たこの本であるが、とりあえず英米系のミステリの通史としてはこれ1冊あれば十分だ。というか、十分でなかったら費用対効果的にも困ってしまうというくらい大部で高価な本である。

ミステリの歴史をまとめた本といえば、ヘイクラフトの「娯楽としての殺人」が有名で、古典だとされているが、これはハードボイルドが生まれたところまでで終わっているので、それ以降の流れを扱っているという点では「ブラッディ・マーダー」が今のところ最も網羅的なミステリ史の本だと言えるだろう。ボルヘスやロブ=グリエなどへの目配りもあり、戸川昌子と夏樹静子と松本清張だけではあるものの、日本人作家も取り上げられている。

著者のシモンズは自らもミステリ作家であり、彼は探偵小説から犯罪小説への転換を主張していたので、この本もその主張を歴史的に裏付けるように書かれている。
一般に黄金期と呼ばれている1920年代から30年代にかけての本格探偵小説の時代においては、殺人は知的な謎解きゲームのためのきっかけにすぎず、頭脳明晰な名探偵の推理と読者との知恵比べなど、その意味で「娯楽としての殺人」であるが、犯罪を題材に小説を書くことで社会的現実と向き合い、性や暴力も排除せず、人間が犯罪に至る過程、その社会的な背景、心理的なものなどを追求し、探偵小説というおとぎばなしにリアリティーを与えようという犯罪小説は「血まみれの殺人」になるというわけだろう。
この本は、本格原理主義者とでも言いたくなるような、いわゆる黄金期への郷愁を捨てられない人たちに向けて、犯罪小説が多様なサブジャンルを派生させながら社会的現実や大衆の欲望を反映させているありようを示したものだと言えばいいかもしれない。
探偵小説から犯罪小説への転換にあたって大きな役割を果たしたのがダシール・ハメットであるが、それは日本舞踊のような型や所作のある殺陣で、人が斬られても決して血を流すことのないチャンバラ映画に対して黒澤明が見せた血しぶきのインパクトに例えることもできるかもしれない。
 
本書後半からはスパイ小説や冒険小説などにも言及していくので少し散漫になってしまっているが、それはしかたがないところ。


ほんとうの空色

2005-07-15 13:29:00 | 本と雑誌
balazs
 
 
 
 

Bela Balazs(1884-1949)


ベラ・バラージュ「ほんとうの空色」(岩波少年文庫)

「最初の色彩映画を見たときの私の興奮は、最初の飛行機が空へ昇って行くのを見たときの興奮にたいへんよく似ていた」(ベラ・バラージュ「視覚的人間」)

ベラ・バラージュは映画草創期の理論家として知られているが、ジェルジ・ルカーチとともに設立した「タリア協会」において新しい演劇の上演をめざしたり、コダーイを通じて知り合ったバルトークのバレエ「木製の王子」やオペラ「青ひげ公の城」の台本を手がけたりするなど、演劇人としての活動がそもそものベースにあった。

第1次大戦終結後の1919年にバラージュはハンガリーからウィーンに亡命する。この亡命時代に彼はマルクス主義を本格的に学ぶようになるが、その一方で新聞に鋭利な映画評を書くなど映画批評家としても活動するようになった。映画美学を確立しようと試みた「視覚的人間」はこの時期に書かれたものであり、彼が最も気に入っていたという童話「ほんとうの空色」が書かれたのもこの時期だ。

お昼の鐘が鳴る頃にたった1分間だけ咲く花から絞った青い汁で絵を描いたら、太陽も照れば月も輝き、雨も降れば雷も鳴る。それは「ほんとうの空色」だった。
屋根裏部屋にある大きな道具箱のふたをその「ほんとうの空色」で塗ったことにより、主人公の少年は自分だけの世界と秘密を手に入れる。ここには、暗い部屋の中で映画という新しいメディアの可能性にうちふるえたに違いないバラージュの悦びが見事に定着されている。
この物語は少年期の終わりを刻んで閉じられるが、フェルコーがジュジの青い眼に見たものこそ、色彩を用いた映画がさらに高い段階へ達する可能性だったのである。


海始まる

2005-07-13 23:13:58 | 本と雑誌
saramago
 
 
 
 
Jose Saramago(1922- )


ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」(NHK出版)

突然、目が見えなくなった男の話からこの小説は始まる。目にはどこにも異常がないのに何も見えず、目の前は真っ白の、まるでミルクの海にもぐりこんでしまったかのようだ。このような症状は彼を診察した眼科医におよび、そしてさらに何人かの人も同じように目が見えなくなってしまう。原因不明ではあるが、きっと伝染性のものに違いないということで、政府はこうした人々を精神病院に隔離することとする。しかし、目が見えなくなった人は次第に数を増し、精神病院は多くの人でひしめきあい、さながら無法地帯と化し、糞尿があふれかえり、悪臭がたちこめる。そして食糧をめぐる闘争と暴力が渦巻く地獄絵図が展開され、目が見えない、他人から見られないということが人間の理性をはぎとり、丸裸にするさまが描かれていく。

18世紀の啓蒙主義以降、理性こそが人間にとってもっとも価値のあるものであるとされ、それは光としてつまりは視覚に支えられたものとして考えられるようになったが、同時に視覚は見るものと見られるものといった二項対立の図式を構成していくことにもなった。しかし、視覚は錯覚を生じさせもすることから、視覚の優位性を疑う立場に立つ者も生んだ。啓蒙主義に抗したサドはやはり、視覚よりも聴覚の人であった。

この小説には一人だけ目が見えなくならなかった女性が登場する。彼女は、ときにはドラクロワが描いた女神のようなスタイルで、凄惨な状況をただ一人見つめながら冷静な判断で苦境を乗り越える。「白の闇」は、その意味では人間理性を讃える小説ということもできるが、われわれの現実というものは、実は精神病院で展開された地獄絵図のほうであり、人間から視覚を奪うことで、視覚に頼りすぎる人間が、見えないことをいいことになおざりにしてきた様々な問題を露呈させるサラマーゴの着想は見事である。


ここに陸尽き

2005-07-11 22:35:00 | 本と雑誌
pessoa

 
 
 
 

Fernando Pessoa(1888-1935)


フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」(思潮社)

この本はリスボン在住の会計助手であるベルナルド・ソアレスの手記として書かれた断章からなる。フェルナンド・ペソアはこのソアレスだけでなく、70近くもの異名を使い分け、それぞれにまったく異なるプロフィールや人格さえも与え、さながら多重人格者のように書いていた作家であった。それゆえに「複数の自己」というようなポストモダンの文脈で発見され、生前は知る人ぞ知る存在でしかなかったこの詩人もいまや世界的な巨匠となった。

「不穏の書」は全部で520の断章からなり、書くこと、生きること、夢と現実、存在と非在、感覚と知性など多岐にわたるテーマについて書かれている。それらはモラリストの随想のようでもあり、象徴派詩人の倦怠に満ちた生への嘆きのようでもあり、カフカ的な、ひっそりとかすめとるように観察され、書かれたテクストのようでもあり、ニーチェやドゥルーズのような哲学的思考のようでもあり、空や無常を説いているようでもある。そこにはなにひとつ超越的なものがなく、すべてが等価である。「私」は空虚な器となり、劇場としての場となって、あらゆるものがそこでそれぞれを演じているといった具合。完結しない円としての螺旋を描きながら無限へと開放されたテクスト、もしくはバロック的な、現実と虚構の相互浸透とでも言おうか。いずれにしても人生のつまらなさに背を向けた男の孤独な営みには心動かされるものがある。

「不穏の書、断章」という思潮社から出ている翻訳は全訳ではなく、「不穏の書」の一部分にペソアの書簡や散文から選んだテクストを加え、訳出したもの。


ゼーノの苦悶

2005-07-09 01:54:00 | 本と雑誌
Svevo
 
 
 

Italo Svevo(1861-1928)


イタロ・ズヴェーヴォ「ゼーノの苦悶」(集英社「世界の文学1 ジョイス/ズヴェーヴォ」所収)

イタロ・ズヴェーヴォというペンネームは「イタリア人であるスワビア人」を意味する。スワビアとはドイツのシュワーベン地方のことで、ここはヘーゲルやヘルダーリンの出身地でもある。ズヴェーヴォの本名はエットレ・シュミッツといい、ユダヤの家系だという。彼は銀行に勤務しながら自費出版で小説を2冊ほど発表したが、何の反響もなかったため、40歳を迎える年に義父の会社の経営に携わることになったのを機に文学と絶縁する。その後実業家としてヨーロッパ各地に赴くようになり、実用英語の必要性を感じるようになった彼は英語の個人教授を探すことにした。このことが契機となり、ズヴェーヴォとジョイスは運命的に出会ったのだった。

その頃、ジェイムズ・ジョイスはベルリッツの英語教師としてアイルランドからトリエステに来ていた。ズヴェーヴォを教えることになったジョイスだが、二人はシェイクスピアについて語り合うなど文学談義ばかりしていたようで、英語のレッスンどころではなかったようだ。しかしこの交友はズヴェーヴォにとって大きな転機であり、フロイトの精神分析を知り、甥と一緒に「夢判断」の翻訳をするなど、当時まだ20代のジョイスからズヴェーヴォは様々な影響を受けた。

この二人には泣けるエピソードがある。あるときズヴェーヴォは、自分がかつて小説を書いていたことを告白し、誰にも見向きもされなかった自分の小説を読んで欲しいとジョイスに手渡したのだが、それを読んだジョイスはズヴェーヴォに対し最大級の賛辞を送り、「老境」という彼の小説の中で気に入った一節を暗唱してみせた。このことにズヴェーヴォは感激し、再び小説を書くことへの大きな励ましを得て「ゼーノの苦悶」を書きあげることになった。ジョイスはこの小説を高く評価し、ヴァレリー・ラルボーに紹介するなど、ズヴェーヴォが世に出るため積極的に尽力した。その甲斐もあって「ゼーノの苦悶」はまずフランスで高い評価を得た。

「ゼーノの苦悶」は何度も禁煙を試み、これが最後の一本だと決めながらずるずると喫煙の習慣をひきのばすような男が精神科医のすすめに従って手記を書くというものだが、この男は知り合った四人姉妹のうち三人に次々と求婚してみたり(そして自分が一番魅力を感じなかった女性と結婚してしまう)、会社を共同経営してもうまくいかなかったり、あれやこれやを気に病みながら肝心なところでチャンスを逸してしまうなんとも煮え切らない日々を送る。こうした男の生活が手記というかたちで綴られていくのだが、第一次世界大戦を経たあたりから、この情けない男の心理分析的な手記が信じがたい展開を見せ、機械や道具の使用による過剰代替が人間を弱体化していき、そのことが原因で病や腐敗を生み出していくという現代文明のありかたに対して警鐘を鳴らす予言の書に変貌するのだ。


ヴァージニア・ウルフについて

2005-07-07 23:15:00 | 本と雑誌
woolf
 
 
 
 

Virginia Woolf(1882-1942)

ヴァージニア・ウルフは文化的に恵まれた環境に育ち、「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれるケンブリッジのエリートたちといった、多くの文化人との交流の中で自己の教養を磨いていった。小説家としてはジョイスやプルーストとともに、「意識の流れ」と言われる手法を実践し小説の革新を図るとともに、フェミニズム批評の嚆矢となる「私だけの部屋」という講演集も残した。
 
「ダロウェイ夫人」や「灯台へ」といった代表作では、音楽的な構成と絵画的な色彩感を特徴とする詩的散文によって、登場人物の内面の意識や心に浮かぶイメージを川の流れのようにつむいでいく。
この2作には対照的な面もあり、「ダロウェイ夫人」が一日の出来事を人の一生のように書いたとすれば、「灯台へ」は10年の出来事を一日の出来事のように書いた。また、「灯台へ」は彼女の家族をモデルにし、子どもの頃の思い出が反映している。

なにげない日常の繰り返しのなかに訪れる特権的瞬間(エラン・ヴィタール)を追い求めた彼女ではあったが、第2次世界大戦の始まりと、度重なる狂気の発作に耐えかねて自ら死を選んだ。


「ヴァージニア・ウルフ短篇集」(ちくま文庫)について覚え書き


「堅固な対象」Solid Objects

ガラス、磁器、鉄の塊など拾い集めることに没頭し、政治家としての職務を忘れ、次第に社会からも遠ざかってしまう男の話。
年月によって変型し、また不思議な断片と化した物たちは、誰かによって捨てられた、他愛もない、それ自身では意味のないものである。

「考えごとの途中で何度も何度も視線の対象になったものというのはそれが何であれ、思索の織物と深い関係を持ち、本来の形を失い、少し違ったふうに、空想的な形に自らを作りなおし、まったく思いがけない時に意識の表面に浮かびでたりするものだ。」

偶然に捨てられ、断片化した物に様々なコンテクストを与えることで、そこに宇宙の成り立ちを垣間見るというように、思索はファンタジックに展開する。
 
人々が見向きもしない断片に執着し、それをまったく思いがけないものへ変えていくイマジネーション。先端に針金の輪をつけたステッキを持って毎日出かけていく男の玩物喪志的な話は、男の内面宇宙だけでなく、創作の秘密を垣間見させるようでもある。
 
宇宙とは何か、人間とは何かというような、かつて人々を夢中にさせた問題は、現代のジャーナリズムが提供する話題にとってかわられてしまう。もはや、人々は政治のことや経済のことしか考えなくなった。物が捨てられるように、哲学的な問題は忘れられてしまった。しかしそのような、人々が省略した事柄にこそ探究すべき事柄が存在しているということ、この作品は、こうしたことに気づかせる。


「ヴァージニア・ウルフ短篇集」の中から、いくつかの抜き書き。


「同情」Sympathy
  
「けれども、何とすべてを変えるものか、死というものは。日蝕でも起こったみたいに。色彩というものが消え失せ、樹木が影のなかで紙のように薄く、鉛色に見える。冷たい風が微かに吹き寄せ、通りの騒音が高くなって、建物の深い谷間を渉っていく。それから一瞬の後、懸隔には橋が渡される。音は混じりあう。まだ色を失っているが、樹木を見るとそれらは歩哨になり監視者になっている。空はそれらの柔らかい背景となる。そしてとても遠くにあるように見える。夜明けの山の頂きに立つもののように。死が務めを果たしたのだ。木の葉や家々やゆらゆらと立ち昇る煙りの背後に広がる死が冷静にそれらを用いて静穏な何ものかを作りあげたのだ。そうしたものが生の偽装を纏う前に。」


「池の魅力」The Fascination of the Pool
   
「池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。葦の刃によってふたつに断ち切られ、その隙間を一匹の魚が擦り抜けていく。月の皓く大いなる円盤はそうしたものすべてを殲滅する。池の魅力は立ち去った者たちが残した想念の存在ゆえである。そして肉体から離れた想念は自由に、親密に、会話を交わしながら、出入りする。共有地のこの池に。」


「ミス・Vの不思議な一件」The Mysterious Case of Miss V.
  
「高度に文化的な都会では人間生活における礼は可能な限り狭い領域に押しこめられている。肉屋は肉を勝手口に投げ入れる。郵便屋は手紙を郵便受けに捩じこむ。郵便受けの便利なその隙間を通して、牧師の妻は教書を突きつける。みんな同じ行動を繰りかえす。浪費されるべき時間はない。だから肉は食べられないまま残されるかもしれない。手紙は読まれないかもしれない。教書に書かれたことは実行されず、誰も賢くなることはないかもしれない。そしてある日、日々の用を勤めるそれらの者は、十六番あるいは二十三番の家を気にかける必要はないと無言で結論を下す。彼らはその家を省く。巡回の経験から。そして可哀想なミス・Jあるいはミス・Vは人間の生活の緊密な連鎖から抜け落ちる。そしてすべての人々から省かれる。永遠に。」


「壁の染み」The Mark on the Wall
  
「私たちの思考というものは何と容易すく新しいものに惹きつけられることか。藁の一片を運ぶ蟻のようにしばらく熱心に担いで歩き、やがて放り出す……。」

「ひとつのことが一度為されてしまえば誰もそれがどのように為されたか知ることはもうできないのだ。いやはや何という人生の神秘。何という思考の杜撰さ。人間の愚昧さ。自分たちの所有物にたいする支配力がいかに僅少であるかをそれは示している。」
 

「書かれなかった長篇小説」An Unwritten Novel
   
「白い光が飛沫のように注いでいる。大きなガラスの窓。麝香撫子。菊。暗い庭の蔦。戸口の牛乳運搬用の荷車。どこへ行こうと私はあなたたちの姿を、その謎のような姿を見る。角を曲がっていくあなたたち、母と息子たち。繰りかえし、繰りかえし、繰りかえし。私は早足になる。私は追っていく。ここはどうやら海であるらしい。辺り一面灰色だ。灰のようにくすんだ色。水は囁き、脈搏つ。もし、私が跪いたとしたら、もし私が儀式を行おうとするなら、古怪な身振りをするならば、そう、あなた方のためだ、未知なる影よ、あなた方を私は崇拝するからだ。もし私が両の腕を広げたなら、それはあなたを掻きいだくためだ。あなたを引きよせるためだ-------崇拝するに足る世界よ。」 

「ヴァージニア・ウルフ短篇集」に収録された作品のなかでとりわけ素晴らしいのは、やはり「キュー植物園」Kew Gardensだろう。印象派的な手法とよく指摘されるが、音と色に還元され、からみあい、溶け合う世界の描出方法は、極めて美しい詩的散文により、めざましい効果をあげている。意識の流れという手法も、輪郭のない、光と色彩の祝祭空間を言語によって表出しようとする試みとして考えることもできるように思う。理性や習慣が省略してしまうものをとらえること。物が喚起するイメージやある出来事から連想される思考、記憶がふと蘇る瞬間を捕まえること。



アフリカ文学いくつか

2005-07-05 22:00:00 | 本と雑誌
1.エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」(晶文社)
その破格の英語による呪術的・神話的な物語が、未開のアフリカというイメージを増幅するということで、国辱扱いされたらしい。しかし、西洋近代がその限界を露呈し、アフリカの伝統文化が見直されると今度はアフリカ文学を代表する作家となったという。いずれにしてもこれは面白いという以外に何も言えない。

2.チェンジェライ・ホーヴェ「骨たち」(講談社)
抗しがたい語りの魅力。といっても、それは心の中に抱かれたもので、この、沈黙の奥にある豊穣で強靱な言葉が、外からの支配や暴力に抵抗する力そのものなのだ。口承文芸の伝統ともつながり、それは民族の尊厳とか誇りとかを体現する。書かれるべくして書かれたものだけが持つ強さがある。

3.J・Mクッツェー「ダスクランド」(スリーエーネットワーク)
アフリカ文学といっても、白人の書くものは屈折している。黒人作家が伝統的な口承文芸の力を自己の血肉とし、豊かな物語を紡いでいくのと対照的に、オランダ系移民の、いわゆる「アフリカーナー」の末裔であるクッツェーは、コロニアル・ディスコースの、アフリカへの偏見に満ちた記述を批判的に脱構築する作業を経なければならないのである。

4.ベッシー・ヘッド「力の問題」(学芸書林)
黒人と白人との間に生まれた者は、「カラード」として差別される。ヘッドにとっては、白人も黒人も自分を迫害する存在であり、また、女性であるがゆえの差別も受けている。こうした孤独と絶望の中で、菜園づくりを通じて自己を回復していくのであるが、これは彼女の自伝的な作品である。作中のエリザベスを襲う悪夢はサイケデリックなイメージを喚起する。この部分は文体も難渋を極めるが、この悪夢にさらされて、魂を粉砕され、狂気の底に沈みながらも、こうした体験は、力や欲望を持たないこと、自然のままに生きること、また、そうすることができるように自分をコントロールする術を学んでいく試練となっていた。死の寸前まで追い詰められながら、生きる意味を見い出していく最後で、ようやく解放感が得られるが、これはものすごい。

5.ノジポ・マライレ「ゼンゼレへの手紙」(翔泳社)
人生の機微に触れる言葉の数々。母と娘の世代の違いから来るギャップを超えて響いてくる愛情には、思わず涙腺もゆるむ。毅然とした生き方をしている人たちの、変な悲愴感がないところが素晴らしい。 


素顔は知らなくても

2005-07-03 21:40:00 | 本と雑誌
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Umberto Eco(1932- )


「ウンベルト・エーコの文体練習」(新潮文庫)

「薔薇の名前」や「フーコーの振り子」の作者について、彼がトマス・アクィナスの中世美学についての研究から出発し、記号論学者として精力的な活動を展開していることなどを今さら記す必要があるだろうか。確かにこれら研究の成果が小説のなかで存分に活用されているにせよ、子どもの頃から物語作者になりたかったという彼の小説に対して、例えば彼の「中世美学史」を参照しながら読もうとする前に、まずはエンターテインメントとして彼の小説を楽しむことができれば、それでいいのではないだろうか。

「ウンベルト・エーコの文体練習」は「ささやかな日誌 Diario minimo 」から12篇、その続編「ささやかな日誌2 Diario minimo 2 」から1篇を合わせた編集版で、ナボコフやボルヘス、カフカ、ロブ=グリエ、レヴィ=ストロースなどのパロディが収められている。元ネタはすぐにわかるものもあれば、わからないものもあって様々であり、こうしたテクストにエーコのトレードマークである豊かな髭のように細かな注釈を入れることは親切な行為には違いない。しかし、髭を剃った彼がエーコ本人であるとは誰にも気づかれなかったように、エーコがあえて注釈をつけなかったのは、パロディであることを気づかれずに、単に様々なスタイルで書かれた短編集として読まれることで、素顔が仮面になる逆説を楽しんでのことなのかもしれない。

『なにもかもを裸にして見ようなどとしないこと、あらゆるものの間近にいようなどとしないこと、なにもかにもを理解し「知ろう」などとしないこと、こうしたことはこんにちわれわれには礼節の問題と思われる』(ニーチェ「悦ばしき知」序文)