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12月4日は市長の所信表明。
10日から13日は 議会一般質問がありました。通告はこちらですhttp://www.city.iga.lg.jp/ctg/Files/1/30531/attach/ippan24-12.pdf
いままでの流れを変える市長が誕生した初議会にふさわしい質問は さてどの質問だったでしょうか?
1議員の持ち時間は 今議会から45分になりました。 答弁を含む時間と言うことです。市長答弁が長くて苦情を言う議員も居ましたが、時間が余る議員が結構居たと思います。
ケーブルTVで放映されますし、新市長の初議会と言うことでたくさんの注目集めており、3月には議会選挙。
議員さんにとっていつもより緊張する議会だったと思います。
9月議会から今までの間に「台風17号で上野遊水地の浸水」・「上野城下町住宅密集地で大火事」と言う大きな出来事がありました。(幸い人命に影響は出ておりませんが、この街に事態対応の体制と罹災者手当てが充分でないことを知らされた議会でした)
当面の懸念事項は「医師不足」・「市庁舎」・「産業振興」・「観光構想」・「子育て環境」・「川上ダム」・「震災がれき」などなど きりなく議員さんの質問事項から感じました。
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市長は所信表明や議会答弁で 「財政立て直し」を何度も語りました。食い下がる議員にも揺るがない答弁でしたから覚悟のほどが伝わってきました。
伊賀市長としての信条は「よりよき市民生活が送れるように 前に進むこと」と応えていました。
又、「この国は法治国家であって、この町にもいくつかの取り決めがある。これに従って市政を行う」と言いました。
……………否をいう議員さんは 居ません。
では どのようにこれを構築するのか?
新市長の考えや具体策が引き出せたり、あるいは提案が議員さんから出たらGOODだと思います。
異常と思える量の質問事項では 散漫になると思いました。
ということで、「市長政治倫理条例の制定について」と「自治基本条例と住民自治協議会と市の連携」に興味が持てました。また、他の項目の中で市長ほか各部署の考え方を引き出す質問があったのは、良かったと思います。
傍聴者が多かったことと、質問議員が多かった事が特徴でした。
11月20日上野遊水地見学
遊水地の模型やスライドがあるスイスイ館に行きました。経費削減とやらで、予約制になっているとか。
「もったいないね」の声や「でもちょっとつまらない感じ、も少し工夫を」の声も、また「箱ものを造るのが目的?」の声も。
2メートル四方の模型を前にまず説明を受けました。二人の職員は丁寧・親切・にこやかな応対でしたよ。一人は今年からこっちへ移動されたとか。
予想より広~~い遊水地です!
よく調べられている参加者の一人が、「年老いた所有者がどんなにしんどい思いでこの広い遊水地を耕作されているか、お分かりですか?!」と抗議にも思える、熱い口調で訴えられました。
「耕作しないで放っとくと、すぐにもう木が生えるんですよぉ」
17号台風の傷跡や流木などがあちらこちらに!
所有者が片付けないといけない、その補助も賠償も無しとか。
また17号台風の水量は戦後4番目!
遊水地は平成26月年完成予定らしい、来年の台風でどうなる?!
川上ダムとセットの遊水地、その完成を遅らす理由は?
完成した遊水地がダム無しでも、立派に役目を果たすから?
ダム事業がなくなると、天下り役人の行く先がなくなるから?
投稿者 空子(伊賀市在住)
どのようにして勝ったか?
65年、中電は秘密裏に用地買収を完了してしまいます。しかし南島の反対によって計画は停滞していました。66年、突破口を開こうと衆議院科学技術対策特別委員会の国会議員が現地視察を試みたのです。一種お墨付きを与えて状況を切り開こうとしたのだと思われます。しかし議員団の乗った海上保安庁の巡視艇を、古和浦漁民が中心となって700隻の漁船で取り囲み、実力で視察を阻止してしまったのです。この事件によって、漁民30人が逮捕され、裁判の結果、25人が有罪となりました。けれど、この必死の抵抗が、南島漁民の強固な反対意思を世に示し、状況を終戦に向けて動かす力なりました。平和な漁村で、縄付きー犯罪者までつくって原発を作らなあかんのか。世間は漁民に同情的であったと言われます。67年、決め手を失い、追いつめられた田中知事の「終止符宣言』によって第1回戦は終戦を迎えました。
原発汚職事件とは?
しかし中電は土地を持っていました。起死回生のチャンスを狙って、動き続けました。視察旅行という接待旅行や盆暮れの届け物。南島紀勢両町の有権者の7割が接待を受けていたと言います。1977年のことです。このとき中電が表に出て仕掛けて来たら危なかったでしょう。けれど紀勢町の町長が中電より機密PR費として300万円を受け取っていたことが発覚し、罰金刑が確定し、推進工作はいったん頓挫することになりました。これがなかったら第2回戦が始まっていたという意味でこの「暗闘期」を「幻の第2回戦」と私は呼んでいます。
第2回戦はどうなったのか?
それでも国も県も中電もあきらめませんでした。次の知事は電源立地の原則として「地域住民の同意と協力」を強調しました。しかし、これは原発推進のための布石だったのです。1984年、3000万円の原発関連予算を計上しました。南島漁民にとっては「宣戦布告」です。南島はすぐさま闘争体制を築き、反撃を開始しました。中心となったのは組合長や漁協幹部ではない「第二世代」の漁民と女性のグループでした。
闘争の実態は第1回戦とかわりません。漁協と町議会の反対決議、反対集会とデモ、漁船団の海上パレード、中電・知事・県議会などへの抗議行動、抗議文書・要請文書の提出、これらの飽くことのないくりかえしなのです。私としては、これらすべてが生業と生活を賭けた辛い行動であったことを忘れないでくださいと言いたいです。
津市の県庁に対しても、名古屋の中部電力本店に対しても、数千人の町民がデモを行いました。デモや集会では2000人、3000人が参加しています。約1万人の町で、これほどの人びとが参加した意味を考えていただきたい。同じ割合で考えて、津市だったら、あるいは大阪、京都、名古屋だったら、どういう規模になるでしょうか。
古和浦集中攻撃
80年代後半、町全体の強固な反対を無視して、推進勢力は古和浦漁協への集中攻撃を始めます。冒頭でいいましたように、法的には古和浦漁協の正組合員にしか決定権がない。県と中電は、組合員二百数十名だけに事を決めさせようとしたのです。県庁の職員と中電の社員が古和浦に泊まり込み、反対派組合員を切り崩し始めました。金の力によって組合員を取り込み、賛成派組合員を増やしました。夫婦、親兄弟、隣近所が対立し、平和だった村の人間関係はズタズタに破壊されていきました。
酷い話はいっぱいあります。ありすぎますので、あとで時間のあるときにお話しします。
93年、古和浦漁協は推進派が多数となり、海洋調査受け入れは目前となりました。このとき、反対派「第三世代」の青年漁民が登場するのです。上の世代から見ればまさに風のように現れたと言えるでしょう。彼らは反対闘争史上空前の3500人集会とデモを成功させました。そして町議会議員と協力して、建設への歯止めとして原発町民投票条例を制定させました。原発反対の町長も選んだ。見事な世代交代劇を見ているようでした。
それでも中電は古和浦漁協に海洋調査を申し入れました。反対派は漁協と議会が協力して町役場に「原発阻止闘争本部」を設置、町長が本部長となった。町民が一つになって闘い続けてきた南島の到達点と言えました。
漁協総会阻止
1994年12月、古和浦漁協総会が開かれようとしていました。開催されて、海洋調査受け入れが可決されれば、原発建設を止めることはほぼ不可能となります。前夜から集まり始めた町民2000人が、漁協の建物前に座り込んでいました。朝、警官隊が座り込みを排除しようとしたが、町民の力が圧倒しました。誰一人漁協には入れず、総会を流会にさせてしまいました。
慌てふためいた中電は「町長と町内漁協の同意がなければ調査しない」との約束文書に調印します。文書には立地活動の休止期間を設けることも盛り込まれていました。当面の危機は回避されました。
原発反対県民署名
南島町は県全体に運動を拡げます。県民署名を集め、原発反対が南島だけでなく県民全体のものであることを、知事と県議会に知らしめるためでした。
95年11月から、南島町民は、毎週毎週、バスで県内各地に出かけ、郊外型のショッピングセンターや大規模団地で、地元の現実を訴え署名を集め続けたのです。県内の市民団体や労働組合もこれに協力しました。半年で、県民有権者過半数を遥かに超える81万人の署名(有権者約140万人)を集めたのです。96年5月、署名は新任の北川知事と県議会議長に手渡されました。
知事の決断
南島町は署名の力を背景に、知事と県議会に、「冷却期間」(推進工作の休止)と現地の「実情調査」を求めました。(県議会の話)1999年末までの休戦期が始まり、知事は初めて南島と紀勢を訪れて住民の意見を直接聞いたのです。南島の人びとは、原発計画がどれほど地域の人びとの心を切り裂き、家族や友人の関係を壊していったかを切々と語りました。知事は静かに耳を傾けました。
2000年2月22日、県議会において北川知事は原発推進による「地域破壊」の現状を認め、「芦浜原発計画の推進は困難。白紙に戻すべき」と表明しました。同日、中電も「計画断念」を発表した。37年におよぶ南島町民の戦いが、この日終わりました。多大の犠牲を払いながら、世代を継いで抵抗し続けた末に手にした、勝利でした。
なぜ勝ったのか?
町民一丸となったこと。漁協組織を基盤としたこと。漁協と町議会による反対闘争体制がつくられたこと。世代交代が行われたこと。政治を動かしたこと。
大規模デモや長期の署名活動など漁協組織抜きには不可能であったはずです。
推進派は、常に当事者の範囲を狭く限ろうとします。わずかな人数の漁協組合員で原発立地を決めようとするのです。これに対して反対派は、全県民が当事者であるという事実を署名活動を通して普及させました。当事者を拡げる事が反対派の戦略だったといえます。
しかし、何よりも決定的だったのは、国会議員の視察阻止や古和浦漁協総会阻止のように、実力行使を伴う阻止行動でした。言論だけの闘争では決して勝てなかったでしょう。
なぜ闘い続けられたのか?
私は始めに「子どもたちの命と海を守るたたかい」だったと言いました。しかし、もっと深いところでは、別のものがあったと思います。漁師は「なめとんなよ」くらいしか言いませんから、こっちが忖度するわけですが、推進側には地元住民への敬意がないのです。僻地の漁業労働者を人間扱いしていない。それは差別される側からは明白なのです。中電も県も国も、生活を仕事を地域共同体を破壊することに躊躇がない。そんなことは絶対許さないという人間としての尊厳を賭けた闘いであったのです。人間である限り放棄できない闘いであったのです。
四日市や水俣の公害も、現在の沖縄の人びとも、パレスチナの人びとも、差別の構造は同じではないでしょうか。闘う理由は同じではないでしょうか。その意味で、反原発の闘いと沖縄の闘いはつながっていると思っています。
原発なき明日へ
3月11日の福島第一原発事故によって、原発推進の過ちと罪深さは明白となりました。南島町民の正しさと芦浜原発阻止の戦いの輝かしさが再認識されています。そのような南島町民が三重県にいてくれたことに限りない感謝と誇りを感じています。
南島町民に芦浜原発は止めてもらいました。こんどは私たちが原発を止める出番ではないでしょうか。みんなで力を合わせて、すべての原発を止めましょう。
終わり
柴原洋一(寄稿者)
芦浜原発反対闘争に学ぶ
2012.11.23
第50回東海近畿教育サークル合同研究集会三重大会課題別講座
柴原洋一(原発おことわり三重の会 People Against Nukes Mie)
私のお話の「核」はなにか
原発おことわり三重の会という市民団体の事務局をしています柴原洋一と申します。貴重な学習の場にお招きいただき光栄です。この講座は、原子力発電についての私たちの歴史的な体験をどう評価し、何を次世代に伝えるべきかをさぐるのが目的です。そのために、かつて三重県下で闘われた反原発闘争の歴史を学び直し、共有することでこれからの議論のベースに加えていただきたいと願っています。
芦浜はどこにあるんでしょうか?
「芦浜」は、伊勢から直線距離で30kmの無人の小さな浜です。背後には人工林が広がり、屏風のように山が取り囲んでいます。ここに原発がつくられようとした。地元の人びとは、国内の原発反対闘争としては最長の37年間を戦い、ついに計画を破棄させ、勝利を納めました。それが12年前の西暦2000年のことです。
芦浜は2つの町に跨がっています。現在の南伊勢町と大紀町です。旧町名で言うと、東が南島町、西が紀勢町です。ざっくりいえば、南島は原発反対、紀勢は賛成の町でした。今日のお話では、紀勢町のことにはほとんど触れる余裕がないことをご了解ください。終始,この旧町名でお話しします
。
漁業協同組合
芦浜の沖合は、日本三大漁場の一つ、熊野灘です。南島には漁村が7つ、紀勢町には1つありました。各漁村の地域社会は地区地区の漁業協同組合(漁協)が束ねていました。一軒一人の正組合員。その選挙で選ばれる組合長は、各漁村の代表であり指導者でもありました。現在でほとんどが一つの大漁協に統一されていますので、当時とはずいぶん違ってしまいました。
南島7漁協で、町の最西端にあるのが古和浦漁協です。紀勢には錦漁協がありました。今後の話の展開で、重要になってくる点ですが、芦浜の海に漁業権を持っていたのは、この2つの漁協だけだったんです。漁業権は原発建設の法的手続きにおいて決定的な役割を果たすようになっているんです。
法的手続きと、どんなものでしょうか?
原発は「国策民営」。国が補助金で後押しし、電力会社が建設運用します。電力会社が立地地点を選び、計画を進めます。その過程で作りたい側から言えば、関門が2つあります。海洋調査許可と建設許可です。海洋調査は当該漁協の同意がないとできません。これは正組合員過半数、二分の一の賛成でできます。調査して原発へ不適当いう結果が出るでしょうか?それより何より調査主体は誰でしょう?電力会社自身なんです。不適当という答えは出ない。必ず◯です。その次に、電力会社は、国の経済産業大臣に建設の許可申請を行う。大臣は、県知事の同意を得て、建設許可を与える。つまり、拒否権を持つのは漁協の正組合員と県知事の2者だけと言い換えることができるのです。
みなさん、えーって驚きませんか?福島第一原発事故で私たちは目の当たりにしました。原発という広範囲に影響を与える「放射能製造・排出工場」の建設について、漁協組合員を除いた地元の住民には、何の権利もないんです。町民の代表である、町長にも、町議会にも、法的には権限がないんです。経済産業大臣、つまり国は作りたいわけですから、もし県知事が原発推進ならば、あとは漁協が調査に同意するかどうかで勝負がつく。知事が推進する原発。まさに、それが芦浜原発計画のケースだったんです。
いつごろの闘いだったのか?ー3期に区分してみる
芦浜原発計画が公表された1963年(11月)から、当時の県知事(田中覚)が「終止符宣言」をした67年(9月)までが「第1回戦」。そこから上辺は静穏で水面下の攻防が続いた「暗闘期」(私は幻の2回戦とよんでますが)。次の知事(田川亮三)が計画を再開した1984年から、更に新しい北川正恭知事が計画を「白紙撤回」させ、南島町民が勝利した2000年2月までが「第2回戦」です。
なぜ南島町民は原発に反対したのでしょうか?
まだ実用の原発がなかった1963年11月、熊野灘沿岸の他の2カ所とセットで芦浜原発計画は公表されました。国の意思を体現した県知事と中部電力会社(中電)が計画を推し進めた。地域の住民や漁民にとっては、まさに寝耳に水、突然の大事件でした。どの地域の漁協も反対に立ち上がりました。県内の全漁協も結束して原発反対を決議したのでした。なぜ反対したのでしょうか?
【資料1】古和浦漁業協同組合原発反対決議提案理由書
1.原子力発電所は未だ実験段階ともいわれ、未解明な点も多い。万一を考えて辺地を選んだと思われる。
2.放射能による海の汚染、大量の冷却水による水産資源への影響が考えられる。
3.放射能による人体への影響も考えられる。また魚に蓄積されるようである。
4.廃棄物の処理は完全ではなく、問題は多いようである。
5.全国的にも有名な熊野灘漁場を犠牲にしてまで建設さす必要はない。
昭和39年(1964年)2月23日
昨年、つまりこの古和浦漁協の原発反対決議から、47年経って、やっと原発問題に気づいた日本人がいっぱいいることでしょう。しかし、すでに約半世紀前に、南島漁民は原発の本質を見抜いていたのです。(上記【資料】を見れば、当時の漁協の文書では、事故の危険性、放射性廃棄物処分方法の未確立、放射能の子孫への影響や海産物への蓄積、冷却水による漁場破壊、などを指摘しているのがわかります。)第1回戦のときは「命を生み出す海を守れ」が強調され、女性が全面に出てきた第2回戦では「子どもたちの命を守れ」が主張されました。もちろん両方が一つのもであったので南島の原発反対は、「いのちを守る」闘いであったのです。
【資料2】
着工 運転開始
東海 1960 1966
敦賀1/美浜1 1967 1970
福島Ⅰ-1 1967 1971
玄海1 1971 1975
浜岡1 1971 1976 (1967年に産経がスクープ)
第1回戦どのように闘ったか?
ではどういう闘い方をしたのか?奇抜な戦術も奥の手もありません。私たちで言えば、デモと集会ということになりましょうか。そこは海での闘いですから、自ずと特徴はあります。熊野灘漁民は600隻の漁船で、日本初の海上パレードを行って反対の意思を表明しました。2000人の抗議集会を行い、知事と県議会に計画破棄を要望しました。知事や中電は3地点を競り合わせることで、建設を容易にしようとしたようです。しかし、熊野灘漁民の団結でそのもくろみは崩れ去ってしまいました。候補地は本命であったと思われる芦浜に絞られました。南島町民はさらに反対の活動を強めるだけでした。古和浦漁協を先頭に、町内漁協が団結した。すぐに町議会が反対決議を挙げた。原発賛成の町長を辞めさせました。(リコール署名開始の当日、辞任)南島だけで3000人の住民大会を開き「実力阻止」を決議しました。(人口15000人弱)
このときに南島町にあった闘争組織は、原発反対対策協議会。略して原対協。奇妙な組織です。町会議員と漁協幹部で作ります。代表は助役で、事務局は役場。町の予算と漁協の予算が闘争資金となる。これはなんでしょうか?歴史に詳しい方は、ソビエトが「評議会」という意味であることをご存知でしょう。ロシア革命のときに、労働者・農民・兵士によって作られた評議会、すなわちソビエトがこれに一番近いのではないかという人もいます。
一方、紀勢町議会は、原発誘致決議をあげ、錦漁協は推進に傾き、南島町との溝を深めていきました。
つづく
こちらです。
https://sites.google.com/a/kalimited.com/surveyuv/home/tpp-can-jiano-zan-fou-wai-buanketosofuto
TPP・維新八策などの項目があって 何を基準に投票したら良いかを 考えるにはおもしろかったし、
「わからない」を押すしかない質問があって とほほーの気持ちも味わいました。
1項目に それほど時間が掛からなかったです、好きな項目だけでも いかがです?