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群馬板倉町・埼玉行田市 古代万葉故地

2012年04月29日 | 旅行
 一日目に群馬館林の自然散策から、今日二日目は古代万葉故地散策へ。
館林の隣りの板倉町を訪ね、そこから松戸への帰路途中の埼玉県行田市を訪ねた。
朝7時にホテルを出発。

<板倉町中央公園>
運動場・芝生広場・2つの池などがある雷電神社に隣接した公園。公園内に2基の万葉歌碑があるとのことで、これを探す。


板倉町中央公園 7時30分到着。


板倉町中央公園の万葉歌碑
平成4年と意外と新しい歌碑だ。
『上野(かみつけの)伊奈良(いなら)の沼の 大藺草(おほゐぐさ)
よそに見しよは 今こそまされ』(巻14-3417)  →詳細は万葉アルバム
明治の頃、このあたりは伊奈良村で、今の板倉沼も伊奈良沼といわれていた。
万葉の頃には広大だった伊奈良の沼に大藺草(おほゐぐさ)(現在のいぐさ)が繁殖していた。
現在はちいさな沼にわずかにそのなごりを残している。


こちらが雷電沼(水蓮沼)、かつての伊奈良沼か(竜が出るような雰囲気がある)


雷電神社摂社である弁天社
雷電沼のほとりに建つ小さな祠は雷電神社の前身のようだ。雷神碑が見える。


雷電神社摂社の雷神碑
雷電神社の由緒を書いた碑で、それには、聖徳太子が建てさせたもので・・・から始まり由来が書かれ、終わりに、この伊奈良(いなら)の沼は昔の風情を残し、国歌に詠われたとあり、万葉集の「上毛野(かみつけの)伊奈良(いなら)の沼の・・」が刻まれている。嘉永元年(1848)建立とある。
歌は先ほどと同じ巻14-3417の歌。  →詳細は万葉アルバム

公園に隣接している雷電神社に向かう。

<雷電神社>
ここは関東に多い雷電神社の総本宮だそうだ。聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良(いなら)の沼に浮かぶ小島に祠(ほこら)を設け、天の神をお祀(まつ)りしたのが最初とされている。


雷電神社
撫でると地震を除けて自信が湧き出る「なまずさん」としても親しまれており、なまず料理の店が参道にみえる。


雷電神社本社
天保6年(1835)の造営。江戸時代神社装飾建築の粋を集めた華麗な二間社権現造(にけんしゃごんげんづくり)の社殿。彫物(ほりもの)は左甚五郎(ひだりじんごろう)10代目の親方、石原常八(いしはらつねはち)の作とか。見事な彫り物が覗ける。


本殿の彫刻1


本殿の彫刻2


本殿の彫刻3


絵馬


末社・八幡宮稲荷神社(国指定重要文化財)
室町時代の天文16年(1547)、飯野城主(いいのじょうしゅ)篠崎三河守(しのざきみかわのかみ)が造営。
扉が2組あり、その真ん中に一本の柱が立っているという、全国に7か所あるのみの二間社入母屋造(にけんしゃいりもやづくり)という珍しい造り。力を封じ込める意図が感じられる。
真横から見る屋根の曲線美が見事。群馬県内に現存する最古の神社建築。

ここから埼玉県行田市へ向かう。
さきたま古墳に到着 9時40分。 

<さきたま古墳>
大規模な古墳が9基も並ぶ珍しい公園。5世紀末から6世紀末の100年間にわたって、狭い地域に大型古墳が周濠を接するような近さで、一貫した計画性をもって次々と築造された。


さきたま古墳群全景(さきたま古墳資料より)


さきたま史跡の博物館
なんといったも国宝金錯銘鉄剣が展示されている。金象嵌で刻まれていることが発見されたのは、昭和53年(1978)9月のことだった。


国宝金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)(稲荷山古墳出土)
刀身の両面に115文字の金錯銘が施されており、獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)の文字がみえる。
この大王は雄略天皇のことで、5世紀後半には、大和政権の勢力が、東の武蔵まで及んでいたことがわかる。


博物館を出ると、さきたま古墳のひとつがみえる。


移築民家もある。
旧遠藤家住宅で江戸時代末期の建築であり、茅葺き寄せ棟作りの平屋。

<前玉神社>
さきたま古墳群に隣接する神社で、高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚古墳上に建てられている。ご祭神は前玉彦命(サキタマヒコノミコト)・前玉姫命(サキタマヒメノミコト)の二柱。前玉(さきたま)神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われている。700年代の古代において当神社よりつけられた前玉郡が後に埼玉郡へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながったようだ。


前玉神社石鳥居


前玉神社全景


石灯籠
前玉神社本社に登る階段をはさむように、元禄10年(1697年)10月15日、当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した2つの燈籠がある。高さは180センチメートル。それぞれの燈籠の側面に、この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれている。江戸時代初期に万葉集を理解していた東国の住民たちが存在していたのである。ただ知らないと通り過ぎてしまう程、わかりにくかった。

正面右側の石灯籠側面が『佐吉多万能・・・』

『佐吉多万能 津爾乎流布禰乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽禰』(巻14-3380)
(埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね)

『前玉之 小埼乃沼爾 鴨曽翼霧 己尾爾 零置流霜乎 掃等爾有欺』(巻9-1744)
(埼玉の 小埼の沼に 鴨そ翼(はね)霧(き)る 己(おの)が尾に 降りおける霜(しも)を 払(はら)ふとにあらし)
    →詳細は万葉アルバム


本社
女神と男神が一緒に祀られていることから、恋愛成就を祈願する参拝者の方が多いとのこと。


西行の歌碑(右手の石灯籠となりに)
『和らぐる 光を花にかざされて 名をあらはせる さきたまの宮』
全国を漫遊した歌を残した西行がこの地にも訪れていたのだ。

ここから近くの小埼沼に向かう。

<小埼沼>
さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置し、水田の一角にぽつんとその姿が現れた。沼というより松林といった感じだ。


小埼沼全景
古墳時代の頃には小埼沼の周辺は、東京湾の入り江だったと云われているが、今では水も涸れ、沼の面影はまったく感じられない。


案内板、正面奥が沼跡


「武蔵小埼沼碑」
宝暦3年(1753)に忍城主、阿部正因によって建立された。左側面にはこの地が小埼沼に違いないとの、講釈が記されている。前玉神社の石灯籠歌碑より60年後にあたるが、これも古いものだ。


沼跡
わずかに残る沼の跡、脇には水神社が祀られている。この数メートルたらずの窪みが東京湾の入り江のなごりというのか?、この関東平野の内陸まで東京湾が入りくんでいたというのにはびっくり。


碑裏の万葉歌碑
武蔵小埼沼の碑の背面には、万葉集に詠われた埼玉に関する歌2首が万葉仮名(漢字)で刻まれている。
『埼玉の津に居る船の風をいたみ 綱は絶ゆとも言な絶えそね』
『埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽根きる 己が尾にふり置ける霜を払ふとにあらし』
  これらの歌は前玉神社の石灯篭(元禄10年(1697)建立)にも刻まれている歌と同じ歌。
      →詳細は万葉アルバム

ここより、今回の旅のラストになる八幡山古墳に行く。

<八幡山古墳>
行田工業団地の中に残った、7世紀中頃に築造された直径約80mの円墳と推定されている。若小玉古墳群に属し、その中でもかなり大型の円墳。
発掘された石室の復元整備が行われ、その姿から「関東の石舞台」とも呼ばれている。


八幡山古墳全景


八幡山古墳入口
きれいに公園化されて整備されている。


八幡山古墳内部
東国では珍しい夾紵棺という漆塗りの棺が出土した。高貴な人物の埋葬が考えられ、聖徳太子の家来で武蔵国造に任命された物部連兄麿の墓ではないかと言われる。
中は飛鳥の石舞台より広いくらいで、なかなかの感動ものだ。 


八幡山古墳のそばに立つ万葉歌碑
行田市周辺から徴用される防人と、その家族の別れをしのばせる歌だ。
『足柄の御坂に立して袖ふらば家なる妹はさやに見もかも』
(足柄の坂に立って袖を振れば、家にいる妻ははっきりと見るだろうか)
『色深く背なが衣は染めましを御坂立ばらばまさやかに見む』(巻20-4423、4424)
(あなたの衣を色深く染めるのだった、そうすれば足柄の坂に立つ姿がはっきり見えるだろうに)
      →詳細は万葉アルバム
 
これで今日予定の散策故地を全て終え、昼食タイム 12時ちょっと前。


蕎旬彩「ふく田」で、十割そばを食す。
そばにこしがあり、つゆにこくがあり、なかなか美味しかった。
生ビール(運転するSさんのみノンアルコールビール)で乾杯!

加須ICから東北自動車道を走り、松戸へ帰還。

松戸市二十世紀が丘萩町のバーミヤンで”ごくろうさん会”。
自宅に車を置いて戻ってきたSさんは、生ビールをしこたま飲んでいた。
旅程の途中で事故やけがにも会わず、無事旅を終えることができたのも、
旅行中に神社仏閣に何回も参拝を済ませた賜物ではないかと、感謝!

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