





江戸後期の『甲越信戦録』には、武田別働隊の動きをこう記してあります。
「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂越(坂城日名の方へ出る道なり)に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかで(滋賀の伝説)の足卒苦して打ち通る。」
というわけで、武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いてみました。 先日の雨が鏡台山では雪だったようで、前回のように三滝から沢を登りましたが、積雪が思いの外多く、三滝山から上は40センチの。笹藪上のラッセルを強いられました。三滝山は登山道もなく、林道から作業道へあがり笹藪を山頂目指してひたすら登りました。なんとなくぼんやりした山頂から、倉科コース目指してまたまたラッセル。やっと登山道に出たと思ったら、踏み跡がまったくなく、やはりバージンスノー。
転げるように北峯を下り、鏡台山に着くと御婦人方がたくさん。お昼もそこそこに戻ると、また三滝山へ。尾根通しを強引に下り、大嵐山(杉山)への林道へ。林道が切れたらヤブ山を登って大嵐山、御姫山、母袋(深)山、鞍骨山、天城山、斎場山(妻女山)へと攻め込みましたが蛻の殻。すごすごと妻女山(赤坂山)展望台へ。長い一日が終わりました。
海津城を出発し、西条の唐木堂から坂城日名の方へ出る街道は、戸神山(三瀧山)で倉科へ下る傍陽(そえひ)街道とも繋がっています。尾根づたいもありますが、倉科に下れば、倉科坂を二本松峠から天城山へ登り、堂平から上杉の陣城があったといわれる陣場平へ攻め込むことも可能。倉科尾根に登って天城山西の鞍部から堂平経由で陣場平へ攻め込むことも可能です。倉科から生萱の山裾を巡り、土口笹崎から攻め上がることもできます。斎場山(妻女山)の上杉軍も各所に分かれて布陣しているわけですから、それに見合う部隊を各所へ攻撃に充てればいいわけです。ゲリラ戦ですね。
史実がどうかはともかく、父も子供の頃に妻女山から鏡台山へ遠足に行き、帰りは西条へ下りて松代経由で帰ってきたといってました。戦国時代の侍が歩けないわけがないですね。ただ、やはり人数の多さを考えると、複数のルートを使ったと考えるのが妥当かと思われます。それにしても長いコースです。1/10000の地形図とコンパス、土地勘、体力が必須のコースです。途中の鞍骨城跡で、遠くなった鏡台山を眺めながら、やはり遠い戦国時代に想いをはせました。人間はなぜ争い続けるのでしょうか。七度の飢饉よりも一度の戦の方がいやだと、当時の人も記しているのにです。戦争は人が死ぬだけでなく、生きながらえても多くの心の病も引き起こします。
倉科の節分草が数輪咲き始めたそうです。
■このトレッキングを、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしましました。ご覧ください。
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★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。