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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!(妻女山里山通信)

2009-03-24 | 歴史・地理・雑学
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 第四次川中島合戦を描いた、『川中島五箇度合戦之次第』(江戸時代に米沢藩が幕府に献上した上杉方のバイアスがかかった史料・作者は上杉景勝に仕えた清野長範とされる。)には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」と記されています。事実かはともかく、戸神山脈は武田別働隊が越えたとされる、鏡台山から象山、または妻女山(赤坂山)、薬師山(笹崎山)までの長い山脈ですが、その戸神山を三滝山(1185m)の別称であるとMORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)で、幾度となく書いてきたのですが、今回『埴科郡志(埴科郡史)』(明治43年刊)を改めて紐解いてみて、事実誤認があったと分かりました。さらによく読んでみると、この『埴科郡志』自体も間違っているのではないかと思うようになってきたのです。今回は、地理的な問題を解明しようと試みてみました。

『埴科郡志』より。
●三滝山については、下記の通り。(句読点は読みやすく修正)
 --三瀧山は高遠山の西北に連りて倉科村に在り、頂上を船ヶ入と云ふ。船ヶ入、西高遠二峰の中間に於て山脈屈折し、此屈折点より戸神山脈は北方に延ぶ。三瀧山は船ヶ入を除くの外林相をなせり方、今県有林及び村有林に属す。--

●上の文中の西高遠については、下記の通り。
 --高遠山は西條村に在りて地蔵峠の西に連る。山上樹木なく頂上二峰をなす。東高遠、西高遠の称あり。西條村の森野より此山に登り、倉科村の船ヶ入、森村の張合(坂城にては大洞と呼ぶ)を経て、坂城の日名に達する小径あり。之を猿飛越と云ふ。--

●肝心の戸神山脈については、下記の通り。
 --戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り、屈曲して西し、笹崎に至り千曲川に迫りて尽く。 一、戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部とし、西條村に在りては之を森野と呼ぶ貴船の神祠あるのみ。戸神山の称なし。本誌編纂に当り、山寺常山の『河中嶋合戦地理記』、高野莠叟の『古城考』明治三十五年五月廿一日松代町役場より、東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図写等により、永禄四年九月九日の夜甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山は森野の頂上なりと決定し、尚当地を踏査して命名したるものなり。(以下、大嵐山・御姫山・鞍骨山・坂山(天城山・手城山)・入山(月夜平・陣場平)・妻女山・赤坂山・笹崎と続く)--

 上の三つの文章で分かるように、三滝山と戸神山は別の山です。三滝山は、三滝の谷の最上部にあたり、サワグルミの木のある谷の上の山ですが、山頂といえるような頂上はなく、鏡台山北峯を北西に下りた肩といえる場所です。戸神山は、この三滝山と西高遠山(これは現在の高遠山が東峰で、その西にある1205mほどのピークが西高遠山と思われます)の間の山というと、更埴市史で三滝山と書かれた1185m峰が、戸神山ということになります。

 しかし、ここに疑問があります。戸神山とは三角の尖った山という意味です。1185mは丸く尾根の肩であって三角のピークではありません。つまり、このことから『埴科郡志』による戸神山の推定位置が間違っているのではという疑念が涌いてくるのです。では、この近くで三角の山とは、どの山でしょうか。

 ところが、この近辺に三角の尖った山というものがないのです。確かに高野莠叟が東宮殿下に献上したという絵図には、三滝川の源流の先に戸神山の記載があり、「戸神山ハ後役の時甲ノ十将ガ夜間越エタル所 倉科生萱土口ヨリ妻女山ヲ襲フ為メ」と書かれています。戸神山脈の尾根づたいに妻女山まで行ったのではなく、戸神山を超えて倉科に下りて生萱、土口から妻女山を攻めたと解釈できますが、図では位置的には鏡台山を指しているようにも見えますし、越えるということでは、1185mを指しているようにも見えます。絵図なので位置が大雑把ですから確定はできません。

 三角の山ですが、海津城から見ると鏡台山は見えず、1185mは三角に見えません。その北にある1042mがかろうじて三角に見えます。これが戸神山でしょうか。鏡台山は西の姥捨山から見ると頂上が弓状にたわんだ双耳峰なので曲出(まがりだし)、張出(はりだし)とか呼ばれますが、より北の篠ノ井の方から見ると北峯と南峯が重なって三角の山に見えるのです。そうすると、戸神山とは鏡台山の別名でしょうか。字森野の頂上と『埴科郡志(埴科郡史)』には記されているのですから、これは当てはまりません。そうすると、やはり1042mしかないということになります。

 「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」というのですから、結構範囲が広くて曖昧です。鏡台山塊の山中と考えればたいていの所は入ってしまいます。しかし、米沢藩の清野長範が鏡台山周辺の地理にどの程度詳しかったかも不明です。清野長範は、別に信濃の清野から移封に付いていった侍ではありません。景勝に名前をもらっただけです。ちなみに米沢藩には、戸神山という三角の山があります。

 西條の森野の最高地点は、1185mの山頂です。戸神山が三瀧山の東部ということであれば、この山が戸神山ということになるのですが、どこから見ても三角どころか山頂と呼ぶのもおこがましいような、鏡台山の単なる肩です。「戸神山は森野の頂上なりと決定し」と『埴科郡志』にはあるのですが、どうにも無理があるような気がしてなりません。実際に登ってみましたが、どこが山頂?というような山でした。前述したように森野の頂上で三角に見える山は、1042mしかありません。それも松代から見た場合に限るのですが。

 三角といえば、戸神山脈東の狼煙山が海津城から見ると三角に尖っていてピッタリなのですが、戸神山脈ではありません。向かいの山です。東西を間違えて最初に狼煙山に登ってしまったでは、あまりに間抜けな話で笑い話になってしまいます。
 だいたい、そもそも創作の疑いもある戸神山脈を実際の地理に当てはめようとした『埴科郡志』自体に問題があるのかもしれません。

 『埴科郡志』では、他に鏡台山脈、奇妙山脈、五里ケ峯山脈などを規定しています。

★武田別働隊のルートを訪ねて三滝山(戸神山?)から鏡台山、鏡台山から戸神山脈を妻女山まで辿ったトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。

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1 コメント

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姥捨山はどこ? (モリモリ)
2009-03-25 07:20:48
こんな例もあります。国土地理院の地形図では、冠着山(姥捨山)となっていますが、天保5年(1834)に完成した地誌『信濃奇勝録』の絵図では、冠山(冠着山)と姥捨山は別の山として描かれています。姥捨石の西側後背、冠着山の北側に位置する山で、恐らく猿ケ馬場峠(さるがばんばとうげ)南の三峯山(1131.3m)のことではないかと思われます。確かに冠着山では、姥石からいくらなんでも遠すぎるような気がしますし、千曲市の一重山辺りから見ると姥捨の後ろの三峯山に月が入るように見えるでしょう。

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