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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

『甲陽軍鑑』元和写本に注目!(妻女山里山通信)

2008-09-28 | 歴史・地理・雑学
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 調べものをしに森将軍塚古墳の麓にある長野県立歴史館へ行きました。まだ開館前だったので古墳に登ることにしました。この夏に息子達と登った2号墳への「森の小道」と書かれた綴れ折りの登山道を登ります。このところ朝晩冷え込んでいますが、それまで気温が高かったので、紅葉は遅めです。

 10分ほどで2号墳に到着。前方後円墳を目指します。朝日を浴びた古墳の上は風もなくおだやか。眼下には実った稲穂が黄金色に輝いています。古代科野の国の大王も、このような風景を目にしたのでしょうか。しばらく佇んで川柳将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、斎場山古墳、倉科将軍塚古墳などを眺めながら古代科野の国に想いをはせました。古墳の周りには、いち早く色付き始めたヌルデの木がたくさんあります。

 ここでメガネを忘れたことに気が付きました。これでは歴史館に行けません。出直しです。といっても中途半端な時間なので、有明山に登ることにしました。この夏も息子達と有明山将軍塚古墳には登ったのですが、有明山は子供の頃岡地側から登ったことがあるだけ。数十年ぶりの登山です。前回はバス停西の登山道を登ったのですが、バス停に出る手前で左に山道を見つけたので、それを登りました。急登でしたが、気温も高くないので快適に高度をかせぐことができました。

 コバノガマズミが赤い小さな実をつけています。大雨の直後だからかキノコはほとんど見かけません。15分ほどで、有明山将軍塚古墳の上にある高圧鉄塔のさらに30mほど上の尾根道に出ました。左へ辿れば10~15分ほどで有明山(615.7m)です。なだらかな山道は尾根上に一本なので迷うことはありません。ただ、この辺りまで月の輪熊が出没しているので気は抜けません。五感をフル動員して周囲に気を配ります。熊鈴は不携帯なので、太い枝を杖にして、時々大きな音を立てます。

 山頂は木々に囲まれて展望はありません。赤松林を散策して、帰りは有明山将軍塚古墳経由で下りました。森将軍塚古墳で、ガイドの方に古墳の説明をしていただきました。ダンプ200台分の砂利が敷き詰められているという説明には驚きました。全て千曲川から人海戦術で運び上げたものです。大王の権力の大きさだけでなく、皆に本当に崇拝されていたのだろうと推察されます。その方には、斎場山の研究をしている旨を伝え、サイトを見てくださるようお願いしました。古代科野の国の話は、尽きることがありません。

 午後、出直して長野県立歴史館の資料室にこもりました。妻女山麓の避病院の史料は見つかりませんでしたが、現在『甲陽軍鑑』の研究では最も注目されている国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院の第四次川中島合戦の記述がある本文篇上と研究篇の主要カ所をコピー。『新編信濃史料叢書』第15巻の真田家御事蹟稿の第四次川中島合戦の記述の部分をコピーしました。

 『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院の第四次川中島合戦の記述がある本文篇上と研究篇は、なかなか深く読み応えがあります。史料としての価値は低いという評価をくだされていたものは、主に何度も改変された木版本であり、酒井氏は小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという、いわゆる「元和写本」を研究対象としています。歴史学の立場からする『甲陽軍鑑』の本格的な研究は、まだまだ始まったばかりだそうですから、今後が楽しみです。さらに新たな第一級史料が見つかると面白いのですが。

 江戸後期に川中島で書かれた作者不詳の『甲越信戦録』などは、歴史学的には史料としての価値は認められていませんが、地元の口伝の中にも多くの事実が含まれているだろうことは、想像に難くありません。ただ、日本陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』川中島の戦 日本戦史学会編などになると、国威発揚、軍事利用の意図が強すぎて、さすがに真に受けることはできませんが…。

 明治35年の後の大正天皇の妻女山御遊覧に始まり、以降第二次世界大戦勃発まで、皇室や軍将校達の妻女山来訪が続き、松代町町長や清野小学校の教師や生徒は、その度に大変だったようです。実際に妻女山周辺を使って軍事演習も行われています。先の皇太子御遊覧の折には、妻女山(赤坂山)にわざわざ御遊覧所(四阿)を建設(事後真田邸庭に移設)し、川中島の史蹟には妻女山から見えるように大きな目印(旗か)を各所に立てたそうです。

 戦後も川中島の戦いの研究は、自衛隊にも引き継がれ、私が小学校の時は、確か双発のヘリコプターが来校し、中を見せてもらった記憶があります。今では考えられないですね。かように第四次川中島合戦は、国威発揚に軍事にと利用されてきた歴史があるのです。その中で、戦国時代ばかりに焦点が当てられ、古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山は、忘れられてしまったのです。

 古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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