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上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)

2008-09-26 | 歴史・地理・雑学
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 第四次川中島合戦において上杉謙信が斎場山に布陣した際に、謙信が槍尻で突いたら水が出て陣用水としたといういわれがある「上杉謙信槍尻之泉」ですが、これは江戸後期の川中島合戦ブームに便乗して作られた作り話だと思われます。あそこの地形を見ると、別に槍で突かなくても自然に何カ所かで水が湧き出ていたことは充分に想像できるからです。

 江戸後期、1802~9(享和2~文化6)年にかけて十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』がベストセラーになると、旅ブームが起きます。続いて信州では、作者不詳の『甲越信戦録』がヒットします。信玄と謙信の一騎討ち、啄木鳥戦法、信玄の茶臼山布陣、勘助討ち死にの胴合橋などは、すべてこの本が初出です。史実に創作もかなり含まれている読み物です。続いて1823(文政6)年、松代藩八代藩主に真田幸貫(松平定信次男)が就任。この頃江戸歌舞伎が全盛期を迎え、庶民の旅も盛んになります。

 そして、1831(天保2)年、この頃らしいのですが、松代藩士月岡万里嘉知が、江戸詰中の父に宛てた書状の中で、妻女山湧き水ブームの大騒ぎについて記述しています。日付は4月14日。まもなく松代城でも桜が咲く頃でしょうか。主文では、日々暖かくなってきたことや花の丸御殿「御茶部屋」の茶坊主に病人が多く出て迷惑している様などが書かれていますが、追記として妻女山湧き水ブームのことを書いています。

 「尚々岩野村妻女山より霊水出 毎日貴餞群集御大さハぎニ御座候 右之水諸病或はでき物色々之病気効能御座候由 右之池は昔謙信公川中島御陣之節妻女山二御陣有之其節石突二而御掘被成候跡卜申伝ハ利 今度何れより申出候哉 御城下近在ハ申不及善光寺下越後よりもまへり候由 毎日大さハぎニ御座候以上」(真田宝物館だより第20号より)

 要約すると「岩野村妻女山より霊水が出て、毎日貴賤群衆で大騒ぎになっています。この水は諸病・でき物など、色々な病気効くという噂がたったためです。この池(泉)は、むかし謙信公が川中島に出陣の時、妻女山に御陣なされたおり、槍の石突きで堀られた跡といい伝えられています。この度は、どこから噂が出たのでしょうか。城下近在はいうまでもなく、善光寺町、下越後よりも人が押しかけ、毎日大騒ぎです。」というようなことです。昔も今も大衆の空騒ぎは同じようにあったということですが、この謙信槍尻之泉、どうも江戸時代と現在では、その位置が違うようなのです。

 現在の妻女山が、戦国時代は赤坂山で、本当の妻女山は斎場山といい斎場山古墳の頂であるということは、このブログでも再三再四記していますが、謙信槍尻之泉も別の場所だったというのは、今回初出であると思います。

 それに気が付いたのは、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」、別ページの上杉謙信斎場山布陣想像図の一番下にある江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』を見ていた時のことです。現在は、会津比売神社下から妻女山へ登る道の途中に泉があるのですが、図会では左下に分かれて小径が延びていて、その先に小さなお堂があり、どうもそれが謙信槍尻之泉らしいのです。この図会が描かれたのは、同じ頃ですから泉は既に有名だったはずです。不思議に思って調べると、意外な事実が判明しました。

 父によると、江戸時代に泉と池があったとされる場所に、明治22年清野村に岩野村が合併したときに、その場所に伝染病患者を収容する清野村避病院が建てられたというのです。当時の写真は、当時村役場に勤めていたKさんの家に残っています。場所は、妻女山へ登る高速道路のトンネルをくぐった上の平地です。現在の道は、今の泉から登って右へ曲がっていますが、舗装される前は図会のように左へ曲がっていました。右手は谷で蕗がたくさん生えていました。どちらかというと地形的には、こちらの方が泉が出そうな感じです。

 清野村避病院は、水を必要としたので謙信槍尻之泉の上に建設したようです。霊水伝説も関係あるかも知れません。その時に、江戸時代からの泉と池は消滅し、現在の泉に取って代わられたらしいのです。この病院は、明治45年9月、一町五か村組合立伝染病院の開院に伴って閉鎖されたようです。

 ということで、現在の上杉謙信槍尻之泉はオリジナルではないということが、ほぼ判明したといえるのですが、引き続き清野村誌などで確認したいと思います。ちなみに会津比売神社の参道には、謙信槍先之泉なるものがありますが、あれは昭和の作で上の泉の水を下へひいただけのものです。かように人はいつの時代も都合良く逸話を作り出していくものなのでしょう。

 ところで、この時に岩野村の名主をやっていたのは、実は我が家の祖先の林逸作なのです。ひょっとしたらこの騒動は、彼が村興しのために一計を案じて仕掛けたのではなどと思ってしまいます。親友に松代藩の御用絵師、青木雪卿がいました。二人による発案かもしれません。

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