昨年の5月に妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと子檀嶺岳に登った帰りに参拝した天台宗一乗山大法寺の国宝三重塔を訪ねました。ちょうど三重塔の裏手の梅園が咲いているのではと思ったからです。塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。今回訪れた「国宝大法寺三重塔」は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔です。そのあまりの美しさに、誰もが思わず振り返ることから「見返りの塔」と呼ばれています。
その前にまず妻女山奥の拙書でも満開の写真を紹介している上杉謙信の陣城跡と伝わる陣馬平へ。女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと保護活動を行っている貝母(編笠百合)の生育状況を見に行きました。2週間も早かった昨年とは違い、今年は平年並み。蕾もたくさん見られます。ヨシやノイバラの根を除去した場所に、種や球根を植えたのですが、それも芽生えていました。昔畑だったところは周囲と土質が異なるので、そのエリアにだけ増えていくのです。数年後には今の倍ぐらいに群生地が広がると思われます。満開は20日頃からゴールデン・ウィークの前半まででしょう。4月の茶花であり慎ましやかな美しい花ですが、かなり強い毒草です。決して持ち帰らないようにお願いします。
「信州の鎌倉」といわれる塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。子檀嶺岳の山麓にある国保大法寺三重塔は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔であり、地元の宝です。
塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。
ここにこのような壮麗な塔が建ったのは、北条氏の庇護とともに、この麓を東山道が通り、浦野駅(うらのうまや)(古代に30里毎に置かれた人馬の施設)があったからなのです。大法寺はその駅寺(うまやでら)でした。
三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は二手先とし、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。
(左)大法寺の駐車場から望む夫神岳。初夏の妻女山SDPのトレッキングで登る予定です。(中)三重塔の初層にある「庭照」の額。「庭を照らす」という意。「我々は仏の子であり、皆仏の庭で遊んでいる。その庭を照らしているのが仏の慈悲である」というようなことなのでしょうか。この額は後世にかけられたものの様です。
(右)大正9年の解体修理の際には、これらの複雑な木組みを全て解体して元に戻したのでしょう。今現在その様なことができる宮大工はどれほどいるのでしょうか。
三重塔後背の梅園は咲き始めでした。4月の中旬過ぎからは桜も咲くでしょう。
美しいシルエットの屋根の向こうにそびえる夫神岳。遠い鎌倉時代の北条氏の栄華が想い起こされます。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。檜の樹皮を何層にも竹釘で止めていく非常に重厚で耐久性のある屋根です。檜皮を採取する技術者を『原皮師(もとかわし)』といい、樹齢50~60年の檜の樹皮を剥いで使います。その樹木を枯らさないように剥ぐのが高度な技術です。剥がれた樹皮は、8~10年で再生します。
(左)軒を支える肘木(ひじき)には 丹塗(にぬり)の赤い顔料が残っています。いずれも創建当時のものです(右上に見える)。つまり往時は、朱色の壮麗豪華な三重塔だったわけです。(中)塔の九輪とその上にある水煙。合わせて相輪といいます。釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされます。(右)軒下には地塗りに用いられた白い胡粉(ごふん)の顔料が見られます。
独特の鋭い曲線を描く屋根のライン。この反りについて、『日本美の特質』(鹿島出版会)の書の中で吉村卓司氏は、日本刀の反りと共通する日本人の独特な美意識について非常に深い洞察を述べておられる。
(左)大正9年の解体修理の大正9年の解体修理の石碑。(中)満開の白梅。(右)路傍の水仙。
参道にある羅漢石像。(左)酒を酌み交わす二人。(中)赤子をあやす母。(右)誰かな口の中にお賽銭入れたのは。他にもたくさん並んでいます。
(左・中)根元から株立ちした大きな榧(カヤ)の巨樹。古名はカエで、転訛してカヤとなったとか。榧の実は灰汁抜きして炒って食べられます。寺社に植えられているのも飢饉の備えという意味があったのかもしれません。また、碁盤や将棋盤といえば、榧材といわれるほど珍重されます。(右)桜が満開の頃や紅葉の秋にも訪れたいと思います。
「道の駅あおき」へ。拙書の表紙は、ここから撮影したものです。子檀嶺岳という山名は、ルビがふってなければ読めないでしょう。その山名の由来も拙書では紹介しています。山頂は真田関連の山城で、空堀なども見られます。
◉大法寺ホームページ
◉青木村の国宝大法寺三重塔のページ
◉大法寺ウィキペディア
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
その前にまず妻女山奥の拙書でも満開の写真を紹介している上杉謙信の陣城跡と伝わる陣馬平へ。女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと保護活動を行っている貝母(編笠百合)の生育状況を見に行きました。2週間も早かった昨年とは違い、今年は平年並み。蕾もたくさん見られます。ヨシやノイバラの根を除去した場所に、種や球根を植えたのですが、それも芽生えていました。昔畑だったところは周囲と土質が異なるので、そのエリアにだけ増えていくのです。数年後には今の倍ぐらいに群生地が広がると思われます。満開は20日頃からゴールデン・ウィークの前半まででしょう。4月の茶花であり慎ましやかな美しい花ですが、かなり強い毒草です。決して持ち帰らないようにお願いします。
「信州の鎌倉」といわれる塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。子檀嶺岳の山麓にある国保大法寺三重塔は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔であり、地元の宝です。
塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。
ここにこのような壮麗な塔が建ったのは、北条氏の庇護とともに、この麓を東山道が通り、浦野駅(うらのうまや)(古代に30里毎に置かれた人馬の施設)があったからなのです。大法寺はその駅寺(うまやでら)でした。
三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は二手先とし、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。
(左)大法寺の駐車場から望む夫神岳。初夏の妻女山SDPのトレッキングで登る予定です。(中)三重塔の初層にある「庭照」の額。「庭を照らす」という意。「我々は仏の子であり、皆仏の庭で遊んでいる。その庭を照らしているのが仏の慈悲である」というようなことなのでしょうか。この額は後世にかけられたものの様です。
(右)大正9年の解体修理の際には、これらの複雑な木組みを全て解体して元に戻したのでしょう。今現在その様なことができる宮大工はどれほどいるのでしょうか。
三重塔後背の梅園は咲き始めでした。4月の中旬過ぎからは桜も咲くでしょう。
美しいシルエットの屋根の向こうにそびえる夫神岳。遠い鎌倉時代の北条氏の栄華が想い起こされます。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。檜の樹皮を何層にも竹釘で止めていく非常に重厚で耐久性のある屋根です。檜皮を採取する技術者を『原皮師(もとかわし)』といい、樹齢50~60年の檜の樹皮を剥いで使います。その樹木を枯らさないように剥ぐのが高度な技術です。剥がれた樹皮は、8~10年で再生します。
(左)軒を支える肘木(ひじき)には 丹塗(にぬり)の赤い顔料が残っています。いずれも創建当時のものです(右上に見える)。つまり往時は、朱色の壮麗豪華な三重塔だったわけです。(中)塔の九輪とその上にある水煙。合わせて相輪といいます。釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされます。(右)軒下には地塗りに用いられた白い胡粉(ごふん)の顔料が見られます。
独特の鋭い曲線を描く屋根のライン。この反りについて、『日本美の特質』(鹿島出版会)の書の中で吉村卓司氏は、日本刀の反りと共通する日本人の独特な美意識について非常に深い洞察を述べておられる。
(左)大正9年の解体修理の大正9年の解体修理の石碑。(中)満開の白梅。(右)路傍の水仙。
参道にある羅漢石像。(左)酒を酌み交わす二人。(中)赤子をあやす母。(右)誰かな口の中にお賽銭入れたのは。他にもたくさん並んでいます。
(左・中)根元から株立ちした大きな榧(カヤ)の巨樹。古名はカエで、転訛してカヤとなったとか。榧の実は灰汁抜きして炒って食べられます。寺社に植えられているのも飢饉の備えという意味があったのかもしれません。また、碁盤や将棋盤といえば、榧材といわれるほど珍重されます。(右)桜が満開の頃や紅葉の秋にも訪れたいと思います。
「道の駅あおき」へ。拙書の表紙は、ここから撮影したものです。子檀嶺岳という山名は、ルビがふってなければ読めないでしょう。その山名の由来も拙書では紹介しています。山頂は真田関連の山城で、空堀なども見られます。
◉大法寺ホームページ
◉青木村の国宝大法寺三重塔のページ
◉大法寺ウィキペディア
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★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。