70年代中頃から80年代中頃は雑誌ブームで、それまで無かったコラムマガジンやカタログ雑誌、ファッション雑誌が次々と創刊された。そんな中から、私を南米放浪の旅へ誘(いざな)った70・80年代の雑誌と南米のガイドブックや地図を紹介します。
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『Made in U.S.A.』読売新聞社 1975年刊。銭湯が100円、昼飯が250〜350円で食べられた時代に1300円の豪華本。しかも、この本の出版は読売新聞社である。さらに、後援がアメリカ大使館経済商務部。読売新聞社といえ ば、「ポダム」というコードネームでCIAのスパイだった正力松太郎が社主だった。この本は、まさに米と日本の官民ぐるみで、若者にアメリカブームを起こし、アメリカ製品を売ろうという大プロジェクトのひとつだった。戦後、GHQが日本を占領するにあたり、3R・5D・3S政策(愚民化政策)を推進したが、その一環だった。
このムックは大好評で一週間で売り切れ増刷された。所ジョージはじめ我らの世代はアメリカ大好きおじさんが多いが、その先鞭をつける雑誌となった。皆がハワイやカリフォルニアに旅行する時代だったが、私は美大生時代にロンドンへ旅立ちフラットを借りて5週間暮らした。詳細は『国分寺・国立70sグラフィティ』を。
上の一番右下はレッドウィングのワークブーツの人気商品アイリッシュセッターNo.875。当時は3万弱、現在は51150円。美大生の頃は買えなかったが、83年に南米に旅立つ前に買った。アマゾンやアンデスを歩いた忘れられない靴。今も履けるが大事にとってある。バーボンは、村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」で初めて飲んではまった。好きだったのは4つの薔薇の素敵なエピソードのフォアローゼス。ナイフはカスタムナイフを制作した。南米から戻って原宿の編集デザイン事務所で働き始めたが、誘われてフライフィッシングを始めた。一番右下は、そのタックルボックス。渓流釣りは朝夕の薄暗い時にやるが、DTP作業が当時はブラウン管ディスプレイだったため目を悪くして止めざるを得なかった。
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『Made in U.S.A-2.』読売新聞社 1976年刊。評判がよかったので翌年続きが出た。バックパッカーやヒッチハイク、ヘビー・デューティー、アース・ムーブメント、ニュー・ライフスタイルなど、当時を表す言葉があちこちに見られる。リーバイス501ジーンズやレッド・ウィングの アイリッシュ・セッター、ダウンジャケット、ケッズやコンバースのスニーカーなどは、ここからブームが広まった。私も南米の旅に備えてプジョーのロードレーサーを買った。初めて買ったダウンジャケットはL.L.BEENだった。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。
友人の車に流れていたのはいつもVOA(Voice of America)だった。QUEENとかABBAとかが流れていた。福生の米軍基地で輸送機から戦死者の棺が降ろされるのも目撃した。米兵が起こす事件も多く、立川の街にはMPのパトカーがサイレンをけたたましく鳴らして走り回っていた。沖縄とそう変わらない光景が東京にもあった。
当時は、まだ米軍立川基地があった。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にも米軍の若い兵士が来たことが何度もあった。ある客の少ない昼間、バイトの女の子と二人でやっていた時だった。若い黒人が来た。珈琲を頼むと、しばらくしてサラヴォーンのあるアルバムをリクエストした。カウンター内で作業をしながら、ふと彼を見ると涙ぐんでいた。かあちゃんを思い出したのかな、と思った。ベトナム戦争のサイゴン陥落が、1975年の4月だから、まだ戦争真っ最中だった。
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『DO CATALOG.』サンケイ新聞出版局 1976年刊。グッズカタログではなくアメリカのライフスタイルに焦点を当てたムック。ナチュラルライフ、インドアプランツ、DIY、キルト、ハーブ、ビンテージジーンズなど、現在に通じるブームはこの頃生まれた。下の中央の右にケーブル・リール・テーブルがある。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にまさにこれと同じものがあった。米軍の払い下げ家具やウェアが流行り始めたのもこの頃。福生や立川の米軍ハウスに住んでいる友人の家に美大の皆でよく集まった。
自然指向が高まった時代であることが分かるが、実際は商業主義の大量消費社会へと日本は邁進していく。実は、後年私はこのムックを手がけた編集アダルトプロダクションに入り、デザイナーからアートディレクター、企画編集にまで手を染めるようになった。初めの頃は、事務所にVANの石津健介さんも度々遊びに来られた。
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『POPEYE』創刊第2号 平凡出版 1976年刊。創刊号は、都内重点配本で限定部数販売だったため、国分寺の小さな書店では手に入らなかった。サブタイトルは、「Magazine for City Boys」で、ライフ・スタイル・マガジン、あるいは、コラム・マガジンと名乗っていた。記事は、アメリカ西海岸のものが多く、所謂、ロサンゼルスやサンフランシスコを中心とした西海岸ブームを作った。但し、その先駆けを作ったのは、植草甚一氏の『宝島』だったわけだが・・。
記事には、スノビズム、ホット・クラシック、チープ・シック、ジョガー、サイクリスト等の言葉が見られる。そして、シティボーイ達がみな憧れたアグネス・ラムの広告。
出初めだった情報誌『ぴあ』も、映画を観に行く時やコンサートの情報を得るために買う、デートの必須ツールだった。『ビックリハウス』が 出たのも、ちょうどその頃。所謂、サブカル雑誌といわれるものだ。買ったことのある雑誌を列挙する。『ガロ』、『宝島』、『STUDIO VOICE』、『ロッキングオン』、『ローリングストーン』、『ウィークエンド・スーパー』、『UFO』、『面白半分』、『話の特集』、『噂の真相』、 『本の雑誌』、『遊』、『現代思想』、『ユリイカ』、『カイエ』、『批評空間』、『Switch』、『芸術倶楽部』、『美術手帳』、『新宿 PLAYMAP』、『FMレコパル』、『GORO』、陰部に墨が塗られた『月刊プレイボーイ』等々。その前に『you』という『面白半分』を過激にした雑誌があったのだが、覚えている人がほとんどいない。
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『BRUTUS』創刊号 平凡出版 1980年刊。『POPEYE』卒業生のビジネスマン向けの雑誌。ヘリで登場するなんとかクリニックみたいなイキった写真だが、実際はエコノミックアニマルと言われ「24時間働けますか」なんてCMが流れていた猛烈社員全盛時代。過労死も多かった。時代は日航123便、プラザ合意、バブル、バブル崩壊、30年に渡る不景気の時代へと進んでいく。その背後にはアメリカのジャパンハンドラーズの影が常にあった。
編集デザイン事務所の近くにBEAMSがあったのでウェアはそこで買うことが多かったが、デッドストックの店もあり利用した。スーツはワイズ・フォーメンを愛用していた。グルメの仕事も多く1年で2キロずつ太っていき最終的には15キロ太り色々なダイエットに失敗した最後にブックスダイエットでやっと痩せた。ダイエットも大変だったが、十数年後に発症した化学物質過敏症の方が致命的に大変だった。現在でも洗剤、シャンプー、石鹸、歯磨き、化粧品などは決まったものがありそれ以外は使えない。
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『HOT-DOG PRESS』創刊号 講談社 1979年刊。『POPEYE』に続けと講談社から出たコラムマガジン。微妙にテイストが違うのが面白い。ゼロハン特集など少し田舎臭いところが『POPEYE』について行けない若者の心を掴んだ。アンデスのインカ文明の特集が目を引く。バックパッカーの中にはアンデスに興味を持つものが少なからずいた。私もそのひとりだった。アメリカのハイスクール特集など、『POPEYE』より対象年齢が少し若いのも特徴。
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『BE-PAL』創刊号 小学館 1981年刊。それまで『山渓』、『岳人』などガチの登山雑誌しかなかったところに初めて出たアウトドア雑誌。アウトドアライフ・マガジンとある。本格的登山ではないトレッキングやハイキング、キャンプなどの特集が目新しかった。所謂アウトドアブームの先駆けとなった雑誌。野田知佑さんのコラムは好きだったが、電通社員とつるんで傍若無人のアウトドアもどきをする椎名誠はあまり好きではなかった。私がよく通った店だが、『さらば国分寺書店のオババ』は面白かったが。彼の様な目にあったことはなく、みすず書房とかのレアな本が手に入る私にとっては貴重な書店だった。
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『Olive』創刊号 平凡出版 1982年刊。なぜ女性誌と思われるかも知れないが、当時の私はビブリオマニア(bibliomania)だった。強迫神性障害の一種で、社会生活もしくは当人の健康に悪影響を及ぼすほどの書籍収集ないし本の強迫的ホーディングをおこなうもの。 蔵書癖、書籍狂、蔵書狂、愛書狂などといわれる。まあほどなく覚めたが。『anan』の読者より若い層向けの雑誌。ライターは女性だが、編集長はじめ編集者が男ばかりだからからかなんとなく男目線の記事が多い。男が知っていてとか男が喜ぶとか今ならボツになること間違いない気持ち悪い言葉が出てくる。ただ10代女子のコラム・マガジンはなかったので次第にファッションやライフスタイルの道筋をつけたことは間違いない。80年代後半に、私は女子大生起業家と女子高生を集めてシンクタンクを作ったことがあった。そう、当時のティーンの雑誌や流行を作っていたのは、30代のおじさんが主だった。
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『anan』さよならアンアン号 平凡出版 1982年刊。創刊は1970年。廃刊ではなくテンデイズ・マガジンとして1日11日21日と月3回発刊される雑誌に変わるというお知らせの号。金子リサ、大橋 歩、原田 治、堀切ミロ、マギー・ミネンコ、秋川リサ、結城アンナとか懐かしい。対象読者は今でも20、30代だろうけど最初の読者達はもう70、80代。今と違いモデルは皆外国人。
美大生時代に私は友人たちと集英社の『non-no』でアルバイトをしていた。スタジオにA子さんの部屋を作る作業。雑誌ブーム時代で時給は良かった。深夜まで作業が続くと国立までのタクシー代が出た。作業の終わりに編集長が編集者やスタイリストだけでなくアルバイトの我々も呼ばれて高級中華料理屋で打ち上げをした。いい時代だった。
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『MORE』創刊号 集英社 1977年刊。フランソワーズ・サガンのインタビューが巻頭に来るなど単なるファッション誌ではなく読み物も多かった。読者は、お洒落で知的好奇心が強い大人の女性というイメージ。ファッションページのモデルは皆外国人なのはこの時代の特徴。15ページに及ぶモロッコ特集も充実している。五木寛之と渡辺淳一の連載小説など相当力が入っている。後年、妻がイラストの打ち合わせで集英社に4歳の息子を連れて行ったら、紅茶とケーキを出してくれたそうだ。林真理子の子連れ出勤反対のアグネス論争なんてのもあった時代。この頃に比べればずいぶん良くなったが、それでも日本の女性の地位はまだまだ低い。
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『クロワッサン』anan famille 創刊号 平凡出版 1977年刊。ふたりで読むニュー・ファミリーの雑誌とある。ファッション雑誌やカタログ雑誌ではなく、ライフスタイル雑誌。読むところが多い。「ファッションショーに挑戦してみました」とか「男のための育児学」とか。読者目線の記事が多い。「クロワッサンとは?」というのが巻頭記事になるほどクロワッサンが一般的ではなかった。
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『South America on a Shoestring』lonely planet 1983年版。オーストラリアのバックパッカーのカップルが書いたガイドブック。1983年当時、南米の詳細なガイドブックは日本には無かった。銀座のイエナ書店だったか神保町の古書店だったか忘れたが見つけて買った。右4ページはアマゾンのマナウスのガイド。ホテルや旅行代理店の位置を書き込んだ。インターネットもない時代にこれは貴重な情報源だった。しかし、フレンドリーな宿主とあって行くととんでもない人種差別主義者で、中国人と間違われて追い出された。グリンゴの書いたガイドブックにはたまにこういうことがある。欧州だろうが南米だろうが一人旅をしていて人種差別に一度も遭わないということはまず無い。ただ南米の場合は、特にブラジルの場合は日系人のお陰で良く見られることの方が多い。
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『RIO DE JANEIRO』 観光案内所に行くと無料有料で色々なガイドブックや地図がある。この地図はジャバラ式になっていて、見たいところを下に折るとその地域だけ見ることができるという優れもの。凡例も直感的で分かり易い。右は投宿した高層アパートのあるコパカバーナ海岸と上にイパネマ海岸の地図。リオでの最大の思い出は、フラメンゴとサントスの試合をマラカナン・スタジアムに見に行ったこと。
1983年当時ブラジルは軍事政権だった。そこにおいて詳細な地図というのは軍事機密。詳細な天気予報もそう。テレビの天気予報が広大な国なのに実に大雑把だった。そのためアマゾンの詳しい地図を探して私が買ったのはアメリカの空軍のものだった。ガイドブックはブラジルに『GUIA QUATRO RODAS』というメジャーなものがあり買い求めた。現在は超高解像度のカメラが人工衛星に搭載されているので地図が機密情報とはいえなくなった。
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『São Paulo』 サンパウロはブラジル最大の都市で人口1200万人。セントロだけでも山手線の内側ぐらいあるので全体を把握するのは難しいが、ガルボンブエノ通りの東洋人街(旧日本人街)を中心に覚えるといい。ピンク色に塗ってあるのがそれ。投宿したペンション荒木もそこにあった。リオ同様に大都市は治安が非常に悪い。大通りの一本裏へ行くとストリートギャングがたむろしている。書き込みはホテルやペンション、ボアッチなど。旅行記に書いたがビエンナーレ美術展は非常に面白かった。
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『オーパ』日伯毎日新聞社 サンパウロのレジャー誌。イベント、ホテル、レストラン、ディスコ、ボアッチ(ボワッチ)、サッカークラブ、アウトドアなどの情報が掲載。ボアッチは自由恋愛ができるナイトクラブ。記事に「最近は働く女性に昼はセクレタリーや学生といった人達が増えているが、彼女達は実に明るく割り切っていて、すれていない」とある。「モーテル繁盛記」とあるがブラジルのモーテルは日本と同じ。友人がサンパウロに着いてタクシーの運転手に安いホテルを紹介してくれと。着いて部屋に入ったらシャンデリアと丸いベッドと大きな鏡が四方にあったという。ベッドはスイッチを押すとミラーランプと一緒に回ったそうだ。そこはモーテルだった。回転ベッドは日本製だったという。
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『アドベンチャー アマゾン』松坂 実 マリン企画 1983年刊。ナマズや熱帯魚の研究者でナマズ博士と呼ばれる。アマゾン探検家。本書はおそらく初めてのアマゾンのガイドブック。熱帯魚の専門家なので内容や写真はナマズなどが中心。熱帯の巨大魚を狙うアングラーにとっては待望の書であった。氏とは最初の南米帰国後にあるアウトドアライターを介して知り合った。あるプロジェクトのために人が集められ何度か会合を持った。残念ながらそれは実現しなかったが。今は天国の大河で巨大ナマズと闘っているだろう。
上の段の写真はアマゾンやパンタナルで捕れる大ナマズ。大ナマズは30センチのナマズを餌に釣る。1000種類以上のナマズがいる。下段はアマゾンの船旅と美しい小都市サンタレン。右は記事ではなくベレンの店の広告。私も全て訪れたことがある。ナイトクラブ赤坂には知っている顔がいて驚いた。
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南米だけではないが様々な紀行書など。色々な意味でアマゾンに魅せられた人は少なくない。紀行文は古くても面白いし、ガイドブックは古くなると歴史の記録にもなる。住んでいる人住んでいた人の書籍では、旅人では経験できない現地の生々しい情報が盛りだくさん。民俗学的にも文化人類学的にも興味が尽きない。
※この記事は、モリモリキッズ・スペシャルからの抜粋です。
★30数年前のアマゾン新婚旅行。妻が描いた某大手新聞の小学生新聞の記事画像。Saudade de meu amor.(妻女山里山通信):イラストルポ。スラップスティック・ハネムーン。
■モリモリキッズ メインブログ ー信州妻女山里山通信ー。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』:メッセージはこちらから。
■「国分寺・国立70sグラフィティ」ムサビの美大生時代に村上春樹さんのジャズ喫茶でアルバイトしていた当時のフォトエッセイ。世界中からアクセスがあります。ロンドンに5週間住んでいて、Queenのフレデイ・マーキュリーの恋人のメアリー・オースチンが勤めていたBIBAの店で当時の私の恋人が彼女からジャケットを買った話。70年代の美大生の赤裸々な生活が読めます。
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『Made in U.S.A.』読売新聞社 1975年刊。銭湯が100円、昼飯が250〜350円で食べられた時代に1300円の豪華本。しかも、この本の出版は読売新聞社である。さらに、後援がアメリカ大使館経済商務部。読売新聞社といえ ば、「ポダム」というコードネームでCIAのスパイだった正力松太郎が社主だった。この本は、まさに米と日本の官民ぐるみで、若者にアメリカブームを起こし、アメリカ製品を売ろうという大プロジェクトのひとつだった。戦後、GHQが日本を占領するにあたり、3R・5D・3S政策(愚民化政策)を推進したが、その一環だった。
このムックは大好評で一週間で売り切れ増刷された。所ジョージはじめ我らの世代はアメリカ大好きおじさんが多いが、その先鞭をつける雑誌となった。皆がハワイやカリフォルニアに旅行する時代だったが、私は美大生時代にロンドンへ旅立ちフラットを借りて5週間暮らした。詳細は『国分寺・国立70sグラフィティ』を。
上の一番右下はレッドウィングのワークブーツの人気商品アイリッシュセッターNo.875。当時は3万弱、現在は51150円。美大生の頃は買えなかったが、83年に南米に旅立つ前に買った。アマゾンやアンデスを歩いた忘れられない靴。今も履けるが大事にとってある。バーボンは、村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」で初めて飲んではまった。好きだったのは4つの薔薇の素敵なエピソードのフォアローゼス。ナイフはカスタムナイフを制作した。南米から戻って原宿の編集デザイン事務所で働き始めたが、誘われてフライフィッシングを始めた。一番右下は、そのタックルボックス。渓流釣りは朝夕の薄暗い時にやるが、DTP作業が当時はブラウン管ディスプレイだったため目を悪くして止めざるを得なかった。
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『Made in U.S.A-2.』読売新聞社 1976年刊。評判がよかったので翌年続きが出た。バックパッカーやヒッチハイク、ヘビー・デューティー、アース・ムーブメント、ニュー・ライフスタイルなど、当時を表す言葉があちこちに見られる。リーバイス501ジーンズやレッド・ウィングの アイリッシュ・セッター、ダウンジャケット、ケッズやコンバースのスニーカーなどは、ここからブームが広まった。私も南米の旅に備えてプジョーのロードレーサーを買った。初めて買ったダウンジャケットはL.L.BEENだった。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。アウトドアファッションにも火が付き、やがて全盛期を迎えることになる。
友人の車に流れていたのはいつもVOA(Voice of America)だった。QUEENとかABBAとかが流れていた。福生の米軍基地で輸送機から戦死者の棺が降ろされるのも目撃した。米兵が起こす事件も多く、立川の街にはMPのパトカーがサイレンをけたたましく鳴らして走り回っていた。沖縄とそう変わらない光景が東京にもあった。
当時は、まだ米軍立川基地があった。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にも米軍の若い兵士が来たことが何度もあった。ある客の少ない昼間、バイトの女の子と二人でやっていた時だった。若い黒人が来た。珈琲を頼むと、しばらくしてサラヴォーンのあるアルバムをリクエストした。カウンター内で作業をしながら、ふと彼を見ると涙ぐんでいた。かあちゃんを思い出したのかな、と思った。ベトナム戦争のサイゴン陥落が、1975年の4月だから、まだ戦争真っ最中だった。
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『DO CATALOG.』サンケイ新聞出版局 1976年刊。グッズカタログではなくアメリカのライフスタイルに焦点を当てたムック。ナチュラルライフ、インドアプランツ、DIY、キルト、ハーブ、ビンテージジーンズなど、現在に通じるブームはこの頃生まれた。下の中央の右にケーブル・リール・テーブルがある。村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」にまさにこれと同じものがあった。米軍の払い下げ家具やウェアが流行り始めたのもこの頃。福生や立川の米軍ハウスに住んでいる友人の家に美大の皆でよく集まった。
自然指向が高まった時代であることが分かるが、実際は商業主義の大量消費社会へと日本は邁進していく。実は、後年私はこのムックを手がけた編集アダルトプロダクションに入り、デザイナーからアートディレクター、企画編集にまで手を染めるようになった。初めの頃は、事務所にVANの石津健介さんも度々遊びに来られた。
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『POPEYE』創刊第2号 平凡出版 1976年刊。創刊号は、都内重点配本で限定部数販売だったため、国分寺の小さな書店では手に入らなかった。サブタイトルは、「Magazine for City Boys」で、ライフ・スタイル・マガジン、あるいは、コラム・マガジンと名乗っていた。記事は、アメリカ西海岸のものが多く、所謂、ロサンゼルスやサンフランシスコを中心とした西海岸ブームを作った。但し、その先駆けを作ったのは、植草甚一氏の『宝島』だったわけだが・・。
記事には、スノビズム、ホット・クラシック、チープ・シック、ジョガー、サイクリスト等の言葉が見られる。そして、シティボーイ達がみな憧れたアグネス・ラムの広告。
出初めだった情報誌『ぴあ』も、映画を観に行く時やコンサートの情報を得るために買う、デートの必須ツールだった。『ビックリハウス』が 出たのも、ちょうどその頃。所謂、サブカル雑誌といわれるものだ。買ったことのある雑誌を列挙する。『ガロ』、『宝島』、『STUDIO VOICE』、『ロッキングオン』、『ローリングストーン』、『ウィークエンド・スーパー』、『UFO』、『面白半分』、『話の特集』、『噂の真相』、 『本の雑誌』、『遊』、『現代思想』、『ユリイカ』、『カイエ』、『批評空間』、『Switch』、『芸術倶楽部』、『美術手帳』、『新宿 PLAYMAP』、『FMレコパル』、『GORO』、陰部に墨が塗られた『月刊プレイボーイ』等々。その前に『you』という『面白半分』を過激にした雑誌があったのだが、覚えている人がほとんどいない。
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『BRUTUS』創刊号 平凡出版 1980年刊。『POPEYE』卒業生のビジネスマン向けの雑誌。ヘリで登場するなんとかクリニックみたいなイキった写真だが、実際はエコノミックアニマルと言われ「24時間働けますか」なんてCMが流れていた猛烈社員全盛時代。過労死も多かった。時代は日航123便、プラザ合意、バブル、バブル崩壊、30年に渡る不景気の時代へと進んでいく。その背後にはアメリカのジャパンハンドラーズの影が常にあった。
編集デザイン事務所の近くにBEAMSがあったのでウェアはそこで買うことが多かったが、デッドストックの店もあり利用した。スーツはワイズ・フォーメンを愛用していた。グルメの仕事も多く1年で2キロずつ太っていき最終的には15キロ太り色々なダイエットに失敗した最後にブックスダイエットでやっと痩せた。ダイエットも大変だったが、十数年後に発症した化学物質過敏症の方が致命的に大変だった。現在でも洗剤、シャンプー、石鹸、歯磨き、化粧品などは決まったものがありそれ以外は使えない。
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『HOT-DOG PRESS』創刊号 講談社 1979年刊。『POPEYE』に続けと講談社から出たコラムマガジン。微妙にテイストが違うのが面白い。ゼロハン特集など少し田舎臭いところが『POPEYE』について行けない若者の心を掴んだ。アンデスのインカ文明の特集が目を引く。バックパッカーの中にはアンデスに興味を持つものが少なからずいた。私もそのひとりだった。アメリカのハイスクール特集など、『POPEYE』より対象年齢が少し若いのも特徴。
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『BE-PAL』創刊号 小学館 1981年刊。それまで『山渓』、『岳人』などガチの登山雑誌しかなかったところに初めて出たアウトドア雑誌。アウトドアライフ・マガジンとある。本格的登山ではないトレッキングやハイキング、キャンプなどの特集が目新しかった。所謂アウトドアブームの先駆けとなった雑誌。野田知佑さんのコラムは好きだったが、電通社員とつるんで傍若無人のアウトドアもどきをする椎名誠はあまり好きではなかった。私がよく通った店だが、『さらば国分寺書店のオババ』は面白かったが。彼の様な目にあったことはなく、みすず書房とかのレアな本が手に入る私にとっては貴重な書店だった。
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『Olive』創刊号 平凡出版 1982年刊。なぜ女性誌と思われるかも知れないが、当時の私はビブリオマニア(bibliomania)だった。強迫神性障害の一種で、社会生活もしくは当人の健康に悪影響を及ぼすほどの書籍収集ないし本の強迫的ホーディングをおこなうもの。 蔵書癖、書籍狂、蔵書狂、愛書狂などといわれる。まあほどなく覚めたが。『anan』の読者より若い層向けの雑誌。ライターは女性だが、編集長はじめ編集者が男ばかりだからからかなんとなく男目線の記事が多い。男が知っていてとか男が喜ぶとか今ならボツになること間違いない気持ち悪い言葉が出てくる。ただ10代女子のコラム・マガジンはなかったので次第にファッションやライフスタイルの道筋をつけたことは間違いない。80年代後半に、私は女子大生起業家と女子高生を集めてシンクタンクを作ったことがあった。そう、当時のティーンの雑誌や流行を作っていたのは、30代のおじさんが主だった。
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『anan』さよならアンアン号 平凡出版 1982年刊。創刊は1970年。廃刊ではなくテンデイズ・マガジンとして1日11日21日と月3回発刊される雑誌に変わるというお知らせの号。金子リサ、大橋 歩、原田 治、堀切ミロ、マギー・ミネンコ、秋川リサ、結城アンナとか懐かしい。対象読者は今でも20、30代だろうけど最初の読者達はもう70、80代。今と違いモデルは皆外国人。
美大生時代に私は友人たちと集英社の『non-no』でアルバイトをしていた。スタジオにA子さんの部屋を作る作業。雑誌ブーム時代で時給は良かった。深夜まで作業が続くと国立までのタクシー代が出た。作業の終わりに編集長が編集者やスタイリストだけでなくアルバイトの我々も呼ばれて高級中華料理屋で打ち上げをした。いい時代だった。
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『MORE』創刊号 集英社 1977年刊。フランソワーズ・サガンのインタビューが巻頭に来るなど単なるファッション誌ではなく読み物も多かった。読者は、お洒落で知的好奇心が強い大人の女性というイメージ。ファッションページのモデルは皆外国人なのはこの時代の特徴。15ページに及ぶモロッコ特集も充実している。五木寛之と渡辺淳一の連載小説など相当力が入っている。後年、妻がイラストの打ち合わせで集英社に4歳の息子を連れて行ったら、紅茶とケーキを出してくれたそうだ。林真理子の子連れ出勤反対のアグネス論争なんてのもあった時代。この頃に比べればずいぶん良くなったが、それでも日本の女性の地位はまだまだ低い。
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『クロワッサン』anan famille 創刊号 平凡出版 1977年刊。ふたりで読むニュー・ファミリーの雑誌とある。ファッション雑誌やカタログ雑誌ではなく、ライフスタイル雑誌。読むところが多い。「ファッションショーに挑戦してみました」とか「男のための育児学」とか。読者目線の記事が多い。「クロワッサンとは?」というのが巻頭記事になるほどクロワッサンが一般的ではなかった。
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『South America on a Shoestring』lonely planet 1983年版。オーストラリアのバックパッカーのカップルが書いたガイドブック。1983年当時、南米の詳細なガイドブックは日本には無かった。銀座のイエナ書店だったか神保町の古書店だったか忘れたが見つけて買った。右4ページはアマゾンのマナウスのガイド。ホテルや旅行代理店の位置を書き込んだ。インターネットもない時代にこれは貴重な情報源だった。しかし、フレンドリーな宿主とあって行くととんでもない人種差別主義者で、中国人と間違われて追い出された。グリンゴの書いたガイドブックにはたまにこういうことがある。欧州だろうが南米だろうが一人旅をしていて人種差別に一度も遭わないということはまず無い。ただ南米の場合は、特にブラジルの場合は日系人のお陰で良く見られることの方が多い。
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『RIO DE JANEIRO』 観光案内所に行くと無料有料で色々なガイドブックや地図がある。この地図はジャバラ式になっていて、見たいところを下に折るとその地域だけ見ることができるという優れもの。凡例も直感的で分かり易い。右は投宿した高層アパートのあるコパカバーナ海岸と上にイパネマ海岸の地図。リオでの最大の思い出は、フラメンゴとサントスの試合をマラカナン・スタジアムに見に行ったこと。
1983年当時ブラジルは軍事政権だった。そこにおいて詳細な地図というのは軍事機密。詳細な天気予報もそう。テレビの天気予報が広大な国なのに実に大雑把だった。そのためアマゾンの詳しい地図を探して私が買ったのはアメリカの空軍のものだった。ガイドブックはブラジルに『GUIA QUATRO RODAS』というメジャーなものがあり買い求めた。現在は超高解像度のカメラが人工衛星に搭載されているので地図が機密情報とはいえなくなった。
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『São Paulo』 サンパウロはブラジル最大の都市で人口1200万人。セントロだけでも山手線の内側ぐらいあるので全体を把握するのは難しいが、ガルボンブエノ通りの東洋人街(旧日本人街)を中心に覚えるといい。ピンク色に塗ってあるのがそれ。投宿したペンション荒木もそこにあった。リオ同様に大都市は治安が非常に悪い。大通りの一本裏へ行くとストリートギャングがたむろしている。書き込みはホテルやペンション、ボアッチなど。旅行記に書いたがビエンナーレ美術展は非常に面白かった。
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『オーパ』日伯毎日新聞社 サンパウロのレジャー誌。イベント、ホテル、レストラン、ディスコ、ボアッチ(ボワッチ)、サッカークラブ、アウトドアなどの情報が掲載。ボアッチは自由恋愛ができるナイトクラブ。記事に「最近は働く女性に昼はセクレタリーや学生といった人達が増えているが、彼女達は実に明るく割り切っていて、すれていない」とある。「モーテル繁盛記」とあるがブラジルのモーテルは日本と同じ。友人がサンパウロに着いてタクシーの運転手に安いホテルを紹介してくれと。着いて部屋に入ったらシャンデリアと丸いベッドと大きな鏡が四方にあったという。ベッドはスイッチを押すとミラーランプと一緒に回ったそうだ。そこはモーテルだった。回転ベッドは日本製だったという。
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『アドベンチャー アマゾン』松坂 実 マリン企画 1983年刊。ナマズや熱帯魚の研究者でナマズ博士と呼ばれる。アマゾン探検家。本書はおそらく初めてのアマゾンのガイドブック。熱帯魚の専門家なので内容や写真はナマズなどが中心。熱帯の巨大魚を狙うアングラーにとっては待望の書であった。氏とは最初の南米帰国後にあるアウトドアライターを介して知り合った。あるプロジェクトのために人が集められ何度か会合を持った。残念ながらそれは実現しなかったが。今は天国の大河で巨大ナマズと闘っているだろう。
上の段の写真はアマゾンやパンタナルで捕れる大ナマズ。大ナマズは30センチのナマズを餌に釣る。1000種類以上のナマズがいる。下段はアマゾンの船旅と美しい小都市サンタレン。右は記事ではなくベレンの店の広告。私も全て訪れたことがある。ナイトクラブ赤坂には知っている顔がいて驚いた。
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南米だけではないが様々な紀行書など。色々な意味でアマゾンに魅せられた人は少なくない。紀行文は古くても面白いし、ガイドブックは古くなると歴史の記録にもなる。住んでいる人住んでいた人の書籍では、旅人では経験できない現地の生々しい情報が盛りだくさん。民俗学的にも文化人類学的にも興味が尽きない。
※この記事は、モリモリキッズ・スペシャルからの抜粋です。
★30数年前のアマゾン新婚旅行。妻が描いた某大手新聞の小学生新聞の記事画像。Saudade de meu amor.(妻女山里山通信):イラストルポ。スラップスティック・ハネムーン。
■モリモリキッズ メインブログ ー信州妻女山里山通信ー。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』:メッセージはこちらから。
■「国分寺・国立70sグラフィティ」ムサビの美大生時代に村上春樹さんのジャズ喫茶でアルバイトしていた当時のフォトエッセイ。世界中からアクセスがあります。ロンドンに5週間住んでいて、Queenのフレデイ・マーキュリーの恋人のメアリー・オースチンが勤めていたBIBAの店で当時の私の恋人が彼女からジャケットを買った話。70年代の美大生の赤裸々な生活が読めます。
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