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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

2010-01-08 | 歴史・地理・雑学
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その1からの続きです。

●1731 (享保16)年、松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳』編纂されました。

●1742(寛保2)年、5代藩主真田信安の時の大洪水「戌の満水」の後の大規模な瀬直しでは、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。
1765(明和2)年、明和の洪水に見舞われます。
1770(明和7)年、花の丸に御殿を移します。
1783/84(天明3/4)年、浅間山大噴火。天明の大飢饉。天明山中騒動勃発。
1804(享和4/文化元)年、新堀普請。
1847(弘化4)年、善光寺御開帳の最中に善光寺大地震。犠牲者はおよそ8600人。妻女山展望台の後ろに慰霊碑があります。
1853(嘉永6)年、花の丸御殿焼失。1864(文久4/元治元)年、新御殿新築。

●幕末近くの8代藩主・真田幸貫(松平定信の次男で養子・幕府老中)は、佐久間象山などを起用して積極的な改革を行いました。黒船到来の折りには、小倉の小笠原とともに横浜の警護をまかされ、佐久間象山が赴いています。また、幕末の動乱期にはいちはやく勤皇方になり、奥州征伐などに奮戦。そのため新政府の受けがよく、明治政府で名をなした人が大勢出ました。信濃の士族で明治政府で成功した人が多いのは松代藩が第一で、次に高遠藩でした。

●1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、信濃国飯山にも起こりました。旧徳川幕府の歩兵差図役頭の古屋佐久左衛門が、降伏に納得できず、開城に先立ち400人程の部下を率いて江戸を脱走、飯山藩に籠城。松代藩、上田藩、須坂藩、松本藩などと千曲川を挟んで戦闘となりました。飯山城下は7割が焼失したそうです。その後、信濃連合軍は、高田(新潟県上越市)の長州奇兵隊を主力とする軍、新井(新潟県新井市)の信濃連合軍、西大滝(長野県飯山市)の信濃連合軍の、合わせて3方向から北へ進撃し、長岡城の攻撃、会津若松城の攻撃などにも参加していきました。 会津若松城を大砲で攻撃したのは松代藩で、「薩長真田に大砲無くば…」と会津藩士を嘆かせた強大な軍事力でした。
 江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は商人となって会津藩を支えました。会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。

●真田幸貫は、文武を奨励しました。佐久間象山等の進言に基づき、藩主の子弟に文武の道を奨励すべく藩校の建設を計画しましたが逝去しました。その意志を継ぎ、9代藩主幸教公が1855(安政2)年に開校したのが、この近くにある「文武学校」です。東序、西序、正堂、柔、剣、弓、槍術所などが備わり、 ここでは、武術のほか、西洋の軍学なども教えられており、極めて先進的な教育が行われていました。また、儒教を廃しており、そのため多くの藩校に見られるような孔子廟を設けていないのも特徴です。原形をとどめている藩校としては日本唯一であり、全国的にも稀に見る貴重な文化財です。

●戊辰戦争(1968年)当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。10代藩主・真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて 満照寺まで飛んで大騒動)。しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために民衆が決起して「松代騒動(午札騒動)」が勃発。幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。

●1872(明治5)年に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また御殿が存在した花の丸は、1873(明治6)年に焼失してしまいました。花街の人に買収された花の丸御殿が、貸座敷となるのを恥辱に思った藩士の放火ともいわれていますが不明です。松代城の建物で現存するのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)と、偶然にも放火前に町の有力者により移築された建物のみとなっています。
その後、本丸だけを真田家が買い取り、1904(明治37)年に公園となります。

●松代城と新御殿(真田邸)は、1981(昭和56)年4月11日に「史跡松代城跡附新御殿跡」として国史跡に指定されました。長野市では1995(平成7)年から松代城環境整備事業として、総合的な史跡環境の保全と活用を目指し、門の復元、石垣の修復、堀・土塁の再現等を実施しており、平成16年春より一般公開されています。また、新御殿も2004(平成16)年度から本格的な整備工事が開始されており、完成が待たれるところです。

●1926(昭和元)年に江戸時代に松代藩の藩庁となった建物が、神奈川県藤沢市の江ノ島の近く、龍口寺の大書院(通称:養蚕御殿)として移築されています。また、関東大震災にも無事であった江戸中屋敷が、長野県佐久市野沢の中島公園に移築されましたが、現在は県内丸子町のホテル天竜閣裏に移築されています。

●地元では、昔は松代城と呼ばずに長らく海津城と呼んでいました。城内にある大正10年建立の石碑にも「海津城址」と記されています。大正10年といえば、まだ幕末生まれの人もたくさんいました。もしかしたら、軍備増強に奔り、戊辰戦争への参戦で藩の財政は破綻寸前となり、結果として松代騒動の原因を作った真田幸教・幸民への反感もあったのかもしれません。今は、そんな慌ただしい明治維新が遠い幻のように思えるほど静かに佇んでいます。(『埴科郡誌』『清野小学校開校百年誌』等より引用編集)

 その1の前文とかぶる部分もありますが、もう少し詳しく。古名の海津の由来ですが、諸説あるそうです。津は港という意味ですが、海もないのになぜ海の港なのでしょうか。港はここが、千曲川の緩流域であり川船の港があったからということです。海は、大昔この善光寺平が海、あるいは大きな湖だったということからともいわれています。近隣の山には塩分を含んだ土や石を産するところがあります。
 また、別の説もあります。鎌倉時代に東條氏の御安御前が梅津という一女をもうけ、その梅津は須田氏の妻となり、須田氏が東條を継ぎました。その名にちなんで梅津の地名が生まれ、後に梅が転訛して海となり海津の地名となったともいわれています。近隣の寺社の縁起等に記されて伝承されているそうです。

 さらに古くは、「海津」という名称は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子で皆神神社の祭神・出速雄命(いづはやおのみこと)の「いづ」、あるいはその娘で、妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)の「あいづ」からきているという説があります。出速雄命の「いづ」は、当然出雲の「いづ」と関連があるのでしょうね。會津比賣命は、科野国造・建五百建命(たけいおたつのみこと)の妻です。『日本三代實錄』によると、會津比賣神は貞観八年(866)六月に従四位下を、出速雄神は貞観十四年(872)四月に従五位上を、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。娘の方が官位が高いのは、科野国造の妻となったからでしょう。父娘ともに、この地の産土神(うぶすながみ)といわれています。

 『松代町史』によると、貞観当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。その金刺舎人正長は、貞観四年(862)に、埴科郡大領外従七位を授かっています。
 しかし、その後平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式には、皆神神社、會津比賣神社共に載らない式外社となっています。金刺氏の権力の失墜や委譲に伴って神社の格式が落とされたのかもしれません。その後、戦国時代に皆神神社、會津比賣神社は上杉謙信の庇護の下にありましたが、本陣となった斎場山(御陵願平)にあったともいわれる會津比賣神社は、敵将武田信玄の兵火にあい、その後麓に小さく再建されたと伝わっています。

 松代という名称は、聖徳元年(1711)真田三代藩主幸道の時に松城が松代城と改名されてからですから、わずか300年ほど。それ以前に海津と呼ばれていた時代の方が、おそらくずっと長いのです。明治の廃藩置県の折には、町名を古名の海津に戻すべきだという意見もあったといいます。

 真田というと、世間ではいわゆる真田三代、幸隆、昌幸、幸村(信繁)を思い浮かべる人がほとんどだと思うのですが、昌幸の長男信之がいればこその真田松代藩といえるでしょう。今年は松代城開城450年祭が催されます。
 我が家の祖先は林太郎左衛門といい真田昌幸に使えた50騎ほどの騎馬隊を束ねる武将でした。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか(松本里山辺の林集落か。不明)。そのうちのひとり、林采女が真田の松代に移り住み帰農したと伝わっています。私がホームフィールドとしている川中島の戦いの舞台となった妻女山麓の集落は、そんな激動の戦乱を生き延びた家ばかりなのだろうと思います。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。戦争は絶対悪です。正しい戦争など絶対にありません。

★写真は、城内から見た戌亥隅櫓台と、櫓台の西向こうにそびえる上杉謙信の本陣と伝わる斎場山(旧妻女山:513m。現在の妻女山から右の林道を登って20分位)。妻女山(さいじょざん)は、本来は斎場山(さいじょうざん)といい、古代科野国の斎場(祭祀を行う神聖な場)であったといわれています。『信濃宝鑑』 には、妻女山を、まことは斎場山というと記されています。

武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。物好きしか登らない戸神山(三滝山)も登っています。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。

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