もく窓

~良い映画と究極の手抜き料理を探して~  

伊藤道朗

2007年01月23日 | 映画 TV・DVD
  伊藤道朗(1893~1961年) ↑似てなくてスミマセンm(__)m

 NHKスペシャルを観ての覚え書き
この番組を観るまで、道朗のことは全く知りませんでした。道朗は、むか~しザ・ピーナッツと共演していたジェリー伊藤さんのお父様だそうです。ダンサーとして欧米では有名だったそうで、イサム・ノグチがマスクを造っています。私はこのマスクを観てイサムノグチのことも知りたくなりました。素晴しいマスクです。
道朗は若き日、ドイツへオペラ留学しますが、現地の人の声量に圧倒され、身体の小さい日本人には向かないと悟り、同じくドイツへ留学していた山田耕筰の勧めもありダンスの道へ進みます。が、第一次大戦勃発のためドイツを離れイギリスへ渡ります。芸術家が集まる「カフェ・ロイヤル」で、たまたま披露させられたダンスで、時の首相アスキスなどから賞賛されて、一躍有名人になります。代表作「ピチカット」を完成させます。
当時無名の音楽教師だった組曲「惑星」の作曲者グスターヴ・ホルストは人気の道朗の舞台を見て感動し、舞台後すぐに道朗と会い、その後、日本組曲を作曲します。組曲の中の「桜の樹の下で」は「♪ねんねんころりよ~おころりよ~坊やは良い子だねんねしな~♪」のメロディでした。たぶん、道朗が歌って聞かせたのでしょうネ。
アイルランドの詩人W・B・イェーツは道朗から日本の能を学ぼうとしますが、道朗は能を退屈なものと捉えており知識が無かったので、イェーツと共に学び、「鷹の井戸」を共同制作します。
1916年、イギリスでの評判を引っさげて、戦時下の好景気に沸くアメリカへ渡ります。が、ミュージカルやコメディーが流行っていたアメリカではすぐには受け入れられなかったようです。アメリカで再び山田耕筰に出会い、支えてもらいます。「芸術は世界を変えることが出来る」と考えていた道朗は、ワシントン会議のためにアメリカへ来ていた幣原喜重郎に面会に行き「軍縮会議で決める戦艦の数を各国1艘ずつ減らして、その資金を芸術支援にまわして欲しい」と申し出ますが、幣原に「今回、日本はお客様としてこの会議に参加しているので、そういうことは言えない」と断られます。道朗はそれではと、ラシュモア山の彫刻を制作し大統領と親交のある芸術家ボーグラムと共に、大統領ハーディングに訴えに行きますが、ハーディングに「この会議はこれからのことを決めるのではなく、戦争の後始末をするのだから、今回、そんな提案をするのは筋違いだ」とテキトーにあしらわれます。
1927年アルベニス作曲の「タンゴ」で道朗独自のタンゴを完成させ、アメリカでも名声を得ます。が、日本の真珠湾攻撃により連行され、ミズーラ収容所へ入れられてしまいます。大川周明の米国の会社に関係したことでスパイ容疑が掛かったためでした。大川周明の商社は、アメリカの石油を日本が輸入し、満州のタングステンを日本がアメリカへ輸出して経済によって日米の親交を図り、戦争を回避する目的のための事業でした。が、上手くゆかず、また、中華民国による、日本の上海無差別爆撃等の残虐行為のプロパガンダが米国で反日感情を煽り、米国の太平洋戦争参戦へ向かわせます。道朗は戦争が終わると日本へ強制送還され杉並で暮らしますが、占領軍の慰安のための公演の責任者になり再びダンスの世界へ戻ります。東京オリンピック閉会式の総監督となり、聖火をシルクロードを通って運ぶという壮大な構想を立てますが、脳溢血の為、実現ならず逝去。68才でした。



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