↑ナンドールと千代
「ドナウの叫び」 ~ワグナー・ナンドール物語~ 下村徹著 2008年
『2001年、ハンガリーの首都ブダペストにあるゲレルトの丘に、
日本人がつくった「哲学の庭」と名付けられた八体の彫刻が建立され、ハンガリー政財界の要人を含む千人近い人が集まり祝ったが、日本ではまったく報道されなかった。』~序章より抜粋~
1922年ワグナー・ナンドールは、第一次大戦でハンガリー領からルーマニア領へ変わったナヂュバラドの町で生まれる。オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の侍従武官長を務めた祖父から新渡戸稲造の「武士道」を、医師である父から「老子」の書を贈られて感銘を受け育つ。父の反対を押し切りブダペストの美術大学へ進む。第二次大戦に従軍。終戦後、美大へ戻りセオドーラという数学を専攻している女性と結婚。三子を儲ける。ハンガリー動乱(1956年革命)後、スウェーデンへ亡命。赤貧生活の中、妻セオドーラはスウェーデンの中学校の数学教師となり一定の収入を得るようになる。妻子と別居。1960年、千代と出会う。
千代は昭和5年(1930年)札幌で生まれる。日本女子大在学中に東大医学部出の医師権藤と見合いし、二年後結婚。千代の両親が用意してくれた東京本郷のお屋敷に住むが、権藤の母が断りなしに同居してしまう。ハーバード大学の医学研究室に留学する権藤に伴い渡米。2年後、権藤はスウェーデンのルンド大の研究室へ転職し、千代は暴力的な権藤との離婚を考え日本へ帰国。その年(1959年)の12月のノーベル賞授賞式に権藤が招待され、「二度とない機会なので二人揃って出席しよう。早くスウェーデンに来てほしい。」という権藤からのたび重なる手紙に、結婚生活をやり直そうとスウェーデンへ行く。ノーベル賞記念パーティーの舞踏会でスウェーデンの男爵と和服姿で踊りテレビや新聞に取り上げられる。1960年、知人の紹介で、ナンドールに絵を習い始める。こうして出会った二人だが互いに伴侶のある身ゆえ、まず離婚し、それから生涯を共にしようと誓い、1960年12月千代は権藤とともに日本へ帰国。1962年、千代は再びスウェーデンへ行きナンドールと暮らし始める。1965年、千代、権藤と離婚成立。ナンドール、スウェーデン国籍を許可される。亡命者は離婚の権利がなかったが、国籍を得たことでセオドーラと離婚する。1966年ナンドールと千代、結婚。1969年二人で日本に移住。本郷の千代の家は、権藤が再婚し新しい妻子と住んで居住権を主張し出て行かないので、姉夫婦の家に世話になる。1970年、益子へ引っ越す。1975年ナンドール、日本へ帰化する。日本名、和久奈・南都留。1987年タオ世界文化発展研究所を設立。1997年南都留、肝臓癌にて逝去。75歳。亡くなる前日の言葉「私の日本人への叫びは日本人に届かなかったようだ。それだけが心残りだ。」
南都留の没後、知人らの努力により1999年にハンガリアン・コープス像が、2001年に哲学の庭がハンガリーで建立される。
益子へドライブに行ったときに
タオ世界文化発展研究所と書かれたポスターを目にしたのですが新興宗教か何かと思い、訪れなかったことを悔やんでいます。タオって道教の道のことなんですネ。
年に二回、春と秋の一ヶ月ずつしか公開してないので、次回の秋季展は10月15日~11月15日だそうです。