みやまいの「ぷりてぃ~ウーマン」プロジェクト

カッコいい女を目指した私の奮闘記だったり、つぶやきだったり、愚痴だったり・・・

「亡くす」こと。

2006-11-20 23:59:17 | ちょっと論じる
仕事を定時であがらせていただき、お通夜に行って来ました。
同期のお父様が、先週末急逝されたのです。
前日まで普通に元気にされていたのに、突然・・・だそうです。

小学生のときに父方の祖父が亡くなって以来、
しばらくお葬式関連と関わることがなかった私ですが、
やはり会社に入った頃から、知人の親御様や、友人、恩師、
母方の祖父、と、それなりに様々な「お別れ」を見てきました。
が、「ある日突然」、最愛の存在が亡くなるという事態は
かなり数年ぶりであり、ショッキングだった。

もちろん、長患いをしていた人(例えば、私の祖父)を亡くすことも
十二分に淋しく悲しく、優劣をつけるような比較対象にはなり得ないが、
それでも、予期しない別れというのは、やはり格別の衝撃を伴うものだと
思われる。

今回お父様を亡くした我が同期も、第一報を受けた共通の先輩いわく、
「落ち込みようがすごい。あいつ、立ち直れるか心配だ」とのことだった。
いつも笑顔で冗談ばかり言ってる、明るいキャラの女性だったので、
落ち込んでいる姿というのが想像しがたく、それだけに、よほどの
落ち込みようなのだと推察された。

だがしかし、お通夜の場で偶然話す機会があった彼女は、
非常に落ち着いていて、5歳になるお子さんをあやしながら、
「この前(父親と)七五三したんだけど・・・」と、淡々と話していた。
聞いていた様子と随分違うことに、一瞬戸惑ったが、お通夜の会場で
泣き崩れているお母様とおぼしき方の姿を思い出すと、
彼女が立場的に冷静にならざるを得なくなったように思われ、
その健気さにかけるコトバが見つからなくなった。
多分、いまのバタバタが過ぎ去った頃、彼女はまた落ち込んでしまうのでは
ないだろうか。


自他共に認めるマザコンの私。
今回のように、自分に歳の近い方が父親(または母親)を亡くすという事態に
直面すると、「いつか私の親も・・・」という想像がはたらいてしまうが、
その想像を自らかき消したくなるくらい、考えたくない事態だし、
できれば永遠そんなことは自分に起こって欲しくないと思っている。
ただ同時に、同年代の友人を亡くしたときの、ご両親の姿を見たときから、
「親より先に死んではいけない」という、さだまさしさんの曲にも
歌われていることを信条とするようにもなった。
我が子を失った親の姿ほど、見るに耐えないものは、ない。
やや感情的に矛盾しているが、そういう意味では、やはり親には先に
逝ってもらうつもり・・・というか、常に、親を亡くす覚悟をしている
と同時に、その恐怖におびえているところはある。


こんなことを思うのは、決して私だけではなく、
どこの誰であろうと、「親」を亡くすことも、「子」を亡くすことも、
例え話にも挙げたくないくらい、あって欲しくないことだし、
あったときには耐え難いことだと思う。

昨今の、自殺騒動ってのは、何なのかね。
歪んだ報道が、変に煽る作用をしている感がなくはないが、
それを差し引いても、オトナもコドモも、簡単に命を絶ちすぎだと思う。
近しい人に先立たれ、悲しんでいる方の姿を見たり、
目にしなかったとしてもその悲しみを想像するだけでも、
そんな思いを自分の身の回りの方に、敢えてさせたいと思うだろうか?

「亡くす」ことってのは、「悲しい」とか、「淋しい」とか、「つらい」
なんてコトバで簡単に表せないくらい、壮絶で痛烈な感情を伴うんだと思う。
それも、刹那的なものではなく、ともすれば、一生続くほどの・・・。

事件・事故・病気という、一種不可避なもので「亡くし」ても、
どないもしようないくらいつらいんだ。
それを、自らヤッチマオウなんて気持ちは、この世から消し去って欲しいな。



ちょっと論点がズレてしまいましたが、ひとつの命がなくなるの場に
接するたびに、命の尊さ・大切さを、本当に、心の底から実感するのです。


この教訓は、絶対ムダにしてはいけないですよね。