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「自然死」のすすめ(中村仁一著)読後感想

2014年12月29日 | やがて訪れる死に備えて

「自然死」のすすめ(中村仁一著)読後感想

 この本の表題は、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」でして、見出しに掲げたものは副題で小さな文字で書き添えられているだけです。本の表題というものは、えてしてこうしたもので、この本も著者が言いたいのは「自然死のすすめ」でして、全編にわたりこれが貫かれています。たぶん出版社が、これでは余りに暗くて売れないから、なにかいいキャッチフレーズはないかと考えて、そうしたことでしょう。

 この方、小生より8歳上の昭和15年生まれで、この本を書かれたのは3年前、71歳のときのものですが、語り口めいた文調やその内容からすると、80歳を超えた御仁の手によるような感がしました。これは、きっと特別養護老人ホームの常勤医師になって12年にもなり、年配者と日常的に接してこられたからかも。小生には、そのように思えました。

 中村氏に共感した点が、本題とは直接関係ないことで2つありました。
 一つは「認知症」という言葉が好きになれないという点。氏曰く、

 私は、本書の中で、「認知症」という言葉は一度も使わず、“ぼけ”とか…と表現しています。…介護現場では、「認知が進んで」などと使われる場合があります。「おいおい、それだとよくなっているんじゃないか」と突っ込みたくなります。いずれにしても、「認知症」はわけのわからない言葉です。

 小生も全く同意見でして、滅多に「認知症」という言葉は使わず、「ボケ」でなんで悪い、これで通しています。
 もう一つは「生活習慣病」です。氏曰く、

 …この生活習慣病という呼び方には問題があります。よく、糖尿病になったのは甘い物を食べすぎたせいなどといわれるように、悪い生活習慣が原因のすべてであるかのような錯覚を与えます。しかし、いくら食べても素質のない人間は、糖尿病にはなりません。このように、病気の原因が個人の責任に転嫁されやすい側面を考えると、以前の「成人病」(老人病)という呼称の方が、年寄りへの圧力のかかり方は、少なくすんでいたのではないかという気がします。

(※)これについても全く同意見でして、小生は、「生活習慣病」というよりか“高度文明病”と呼ぶべきと思っていますが、そんなことを言う人はだれもおらず、「生活習慣病」という呼び名を、止むを得ず妥協して使っているところです。
 なお、蛇足になりますが、「生活習慣病」では生ぬるい、“自己管理欠陥病”と呼ぶべきで、これは非常に厳しい言葉ではあるが、自分できちんと管理すれば未然に防ぐことができる、とまでおっしゃる新谷弘実医師(内視鏡手術の世界的権威者:中村氏より5歳年長)のような方もいらっしゃることを申し添えておきます。
(※)この段落は2015.2.7に、“高度文明病”と“自己管理欠陥病”について書き添えました。

 いずれにしましても、こうして中村氏とは何だか脈が合い、「自然死」の考え方に引き込まれてしまいました。加えて、最後のほうで、氏は、自分も「断食往生」を希望していると書かれていますから、たまったものではありません。実を言う小生、8年前の58歳のとき、それを強く思い、今もその気持ちに変わりはないからです。

 前置きが長くなってしまい、申し訳ありません。
 さて、これより本に書かれている内容について、以下、引用要約します。

(豊かになった日本社会においては)これまで医者たちは「年をとっても健康でなければ何にもなりません。健康ほど大切なものはありません。だから、健やかに老いましょう。」と脅迫し続けてきました。年寄りも若さにこだわり、近代医療に過度の期待を持ち、「年のせい」を嫌って、これを認めようとせず、「老い」を「病」にすり替えています。
 「病」には回復の可能性があるのに対し、「老い」は一方通行で、その先には「死」が待ち構えています。「死」を認めようとしない、「死」を恐れるという風潮です。
 考えてみてください。この世に生まれ出た者は、全員がいずれは死ぬ運命にある「死刑囚」なのです。年寄りの不具合は、全て老化が原因です。今さら医者にかかって薬を飲んでみたところで若返らせることは不可能ですから、どうなるものでもありません。
  故障箇所 全部老化で 片がつき
 年をとればこんなもの、年をとればどこか具合の悪いのが正常、というものです。
 「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がけることです。
 医療に頼りきりになっている今日は“長寿地獄社会”になっています。
 死に際の苦しみには医療による“虐待”があるばかりでなく、それに先立つ介護による“拷問”もあるのです。
医療は、死にゆく人間にいたずらに薬を投与したりして無用の苦痛を与えますし、介護は、食いたくもないのに無理やり口の中に食べ物を放り込みますから、これも苦痛以外の何ものでもないです。
 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」ことになってしまうのです。

 正しくこのとおりでしょうね。小生の自論として、まだまだ若くどこも悪くないと思っている40歳でどこか1か所悪くなり、50歳で2か所、60歳で4箇所、70歳で8箇所、というふうに10年経つと倍々で故障箇所が増えていき、80歳で16箇所、90歳で32箇所、100歳で64箇所となり、あまりの故障箇所の多さでこの年代になると順次命が絶えていく、そのように思っています。よって、110歳まで生きる方はオバケであり、120歳ともなると、さばを読まないことには生存は有り得ないことでしょう。
 じゃあ、何も治療せず放っておいたら、人は何歳で死ぬか。これは個人差が有りすぎて何とも言えないというしかないです。
 でも、今まで元気だった、かなり高齢の人がだんだんと動きが鈍くなり、とうとう寝込んでしまったとなると、死期は近いと皆が感ずるようになりましょう。小生のお祖母さんは97歳でそうなり、自宅にて老衰死であの世へ旅立ちました。自然死です。
 そのような自然死の予兆、つまり“枯れる”時期を正確に判断できるかどうかですが、中村氏は次のようにおっしゃっておられます。以下、再び引用要約します。

 当施設でたくさんの自然死の年寄りを見てきますと、何となくわかるように思います。枯れかけているように見えても“肥料”をやったら持ち直すことが間々あるではないか、たしかに見当を付けにくいことは事実です。
 でも、
病院などで使われている栄養評価方法の主観的包括的評価法の中の高度栄養障害の部分が充分に利用可能です。例えば、食が細って食事量が減り、1か月に5%以上といった体重減少があり、歩けなくなったり、立つことができなくなったり、といった日常の生活動作に障害が現れてくることなどです。
 このようなことが見受けられた場合、“
枯れ始めた”と考えて、あまりはずれることはありません。私は、この時点で家族に話をすることにしています。私は勧めないけれども、今は「胃瘻(いろう)」という“強制人工延命装置”があり、家族で話し合って結論を出すように伝えます。なぜこの話をするかといいますと、この手続きを踏んでおかないと、後で家族からどうして教えてくれなかったのかと大変な騒動に巻き込まれることがあるからです。

 中村氏が携わっておられる施設では、こうして自然死で亡くなられる方が他の施設に比べて圧倒的に多いようです。そして、自然死の場合、皆さん「とても穏やかそうな死に際である」ことが氏の脳裏に焼き付いているとのことです。
 なぜに自然死の場合、かくも穏やかなのか、これについて、中村氏は次のようにおっしゃっておられます。以下、少々長くなりますが引用します。

 「自然死」のしくみとは
 自然死の実態は…「餓死」(「飢餓」「脱水」)です。一般に、「飢餓」「脱水」といえば、非常に悲惨に響きます。空腹なのに食べ物がない、のどが渇いているのに飲み水がない。例えば、砂漠をさまよったり、海を漂流したりする状況は、非常に辛いものと想像されます。
 しかし、同じ「飢餓」「脱水」といっても、死に際のそれは違うのです。いのちの火が消えかかっていますから、腹もへらない、のども乾かないのです。
 人間は、生きていくためには飲み食いしなくてはなりません。これはあたりまえのことです。ところが、生命力が衰えてくると、その必要がなくなるのです。
 「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされるといいます。
 また、「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりとした状態になります。
 以前、病院勤務の頃、独身の息子のところに身を寄せていた寝たきりの母の様子がおかしいと、病院に運び込まれてきたことがあります。会社員の息子が、朝の出がけに老母の枕元にお茶と握り飯を置いて出かけていたのですが、夏の暑い盛りで老母が充分に飲み食いしなかったため、3日目には昏睡の一歩手前まで意識レベルが落ちていました。
 そこで、薄い(浸透圧の低い)食塩水をじゃんじゃん点滴して、濃くなった血液を薄めたところ、3日目に意識が戻りました。
 意識が普通になったところで尋ねると、直近の数日間のことは何も覚えていないとのことでした。つまり、苦痛を全く感じていなかったということになります。
 もし、あのまま手当をしなければ、何の苦痛も感じないままあの世に移行していたということになります。
 それから死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に溜まることを意味します。
 酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態ではモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。
 一方、炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれています。
 このように、死というのは自然の営みですから、そんなに苛酷ではないのです。痛みや苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちに、この世からあの世へ移行することだと思うのです。
 年寄りの“老衰死”には、このような特権が与えられているのです。
 だから、無理をして傍についている必要はありません。大声で呼びかけたり、身体をゆすったり、手を握っているなど無用です。たとえ傍にいたとしても、何もせずに、じっと見守るだけで充分。“そっとしておく”のが一番の思いやりです。
 “看取る”とは“見とる”ことなのです。

 いかがでしたでしょうか。小生の親父(数え78歳で死亡)は死期が近づいた頃に、肺が弱くなって酸素交換能力が落ち、ずっと酸素吸入をしていたのですが、あるとき酸素濃度が高すぎたがために血液中に炭酸ガスが溜まって意識を失うということがありました。その時は救急車を呼んでから、吸入装置を外し、何とか着替えを終わらせたところで、突然目を覚まして“気分良かった”と言っていましたから、やはりこれは酸欠による“効果”であったことでしょう。なお、救急車には理由書を書いて帰ってもらいました。その1か月ほど後、親父は検査入院3日目の朝、痰が喉に詰まっての窒息死。そのときは、のたうち回る苦しさであっただろうなあ、と思っていましたが、この本を読んで、夢うつつの気持ちいい、穏やかな死であったと知ったところです。

 次に、いよいよお迎えが来たという状態になって何日であの世へ逝くかですが、中村氏は次のようにおっしゃっておられます。以下、引用します。

 点滴注射や酸素吸入は、本人が幸せに死ねる過程を妨害する以外の何ものでもないと考えていますので、私は原則として、行いません。…
 では、点滴注射もせず、口から1滴の水も入らなくなった場合、亡くなるまでの日数がどれくらいかといいますと、7日から10日ぐらいまで(最長で14日間)が多いようです。排尿は、亡くなるまでの日数が短ければ当日まである場合もありますが、少なくとも2~3日前まではあるようです。…
 また、「脱水」の状況下では、38度前後の、時には39度5分くらいの体温上昇をみることがあります。…
 この時点で、本人はスヤスヤ状態なので、何ら苦痛はありません。…
 よく「点滴注射のおかげで1か月生かしてもらった」などという話を耳にします。しかし、良く考えてみてください。点滴注射の中身はブドウ糖がわずかばかり入った、スポーツドリンクより薄いミネラルウオーターです。「水だけ与えるから、自分の体を溶かしながら生きろ」というのは、あまりに残酷というものではないでしょうか。…
 「脱水」は、意識レベルが落ちてぼんやりした状態になり、不安や寂しさや恐ろしさから守ってくれる働きをすることは、すでに述べたとおりです。
 それなのに、たとえ善意にしろ、せめて水だけでも、と無理に与えることは、この自然のしくみに反し、邪魔することになるのです。赤ん坊が、眠いのにいろいろちょっかいを出されて、眠らせてもらえないのに似ています。ひどい仕打ちだとは思いませんか。
 たしかに、見殺しにするようで辛い、何もしないで見ているだけなんてことはできないという気持ちも、わからないではありません。しかし、こちら側の都合だけで、何かをするというのは、「エゴ」といっていいと思います。その行為は誰のため、何のためなのか、やった結果、どうなるのかを考える必要があります。
 本人は嬉しがるか、幸せに感じるか、感謝してくれるか、あるいは自分だったらしてほしいことなのかなど吟味してみなくてはいけません。
 たしかに私たちは、何もせずに見守ることになれていません。辛いことです。
 だからといって、自分が苦しさや辛さから免れるために、相手に無用な苦痛を与えてもいいという道理はありません。「そっとしておく思いやり」もあるのです。
 また、たとえ延命したとしても、悲しみはなくなりも減りもしません。ただ先送りするだけなのです。
 フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下でき
なくなったら、医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」といわれているそうです。…
 もっとも、かくいう私も病院勤務時代に、…何とかしてほしいと頼まれ、いろいろ工作し…た経験が、いくたびもあります。
 片棒を担いで、死にゆく人間を無用に痛みつけたわけですから、もし地獄というものがあるなら、当然地獄行きでしょう。皆さんの中にも、身に覚えのある方が結構おられると思います。地獄行き、ご一緒しましょうね。

 いかがでしょうか。中村氏は、ここでフランスの例を持ち出しておられますが、これはフランスに限らず、欧米諸国皆ほとんど同じ対応が取られており、点滴注射も胃瘻も原則として行っていないのが実情であることは、このブログで先日「寝たきり老人をなくす術(三宅薬品・生涯現役新聞N0.239)」で記事にしたとおりで、欧米諸国の考え方によると、延命措置を取ることは倫理的に問題であるし、老人虐待であるとさえ言われているのです。
 日本人は、やれ点滴注射だ、やれ胃瘻だと、なぜに利己主義的対応を取るのでしょうかねえ。日本人ならば、仏教の教えにより、ちゃんとした「死生観」を持ち合わせていて良いように思うのですが、残念でなりません。

 最後に、中村氏が望んでおられ、小生もそう願っている「断食往生」について、氏の見解を紹介しておきます。

 …現在の、死に際に医療が濃厚に介入する「医療死」ではなく、子どもの頃に接した年寄りの死に方、何百万年と続いていたご先祖様の死に方、「自然死」が希望です。…
 そこで、タイミングがむずかしいのですが、完全にぼけ切る前に、…「断食往生」ができないかを考えています。
 …西行さんのように「死に時」が察知できれば、非常に楽だと思います。できるだけ体内サインに敏感になれるよう、できるだけ自然に任せて様子をみるというトレーニングを積むようにしています。
 中村流「断食往生」の具体的工程
 一、五穀絶ち 7日間
 二、十穀絶ち 7日間
 三、木食    7日間(木食は木の実だけを食べること)
 四、水絶ち  7日間

(注) 西行(さいぎょう):平安時代末期に武家に生まれ、出家して歌人となり、鎌倉時代初期に断食往生。中村流のそれは、これを模したもののようです。

 ところで、「断食往生」、それは自殺と捉えられてしまいますが、中村氏は、自殺とは「いっそひと思いに」といった形のもので、このように1か月もかけてというものは、よほど強靭な精神力が必要となり、自殺の範疇に入らないのではないかといっておられます。
 なお、留意点として、これは自然死も同様ですが、医師の往診を受けずに自宅で死亡した場合は、検死が行われ、場合によっては家族が「保護責任者遺棄致死の罪」で取調べを受けることにもなります。その対処法についても本書で具体的に書かれています。

 高度成長期以前は日本でも主流であった「自然死」、今でも欧米諸国はしっかりと「自然死」へ導いていること、これらを踏まえ、人間の尊厳についてよーく考えたいものです。


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