雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史に学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 786 )

2016-04-03 16:41:26 | 小さな小さな物語 第十四部
「歴史に学ぶ」という言葉を、目にしたり耳にしたりすることが時々あります。
まあ、比較的耳触りがよく、美しい表現だとは思うのですが、使われ方によってはなかなか難しい面を持っているようにも思われます。
私たちには、個人としての歴史があり、あるいは家庭としての歴史があり、一族としての歴史もあるわけです。もっと大きく言えば、国家の歴史があり、民族としての歴史があり、さらに言えば、人類としての歴史や、生命体としての歴史さえもあるわけです。日頃、意識することがあるか否かは別にしてですが。
それらの歴史には、それぞれに学ぶべきこともあるはずで、極端に言えば、人間の知恵などというものは、その積み重ねかと思うのです。

ただ、「歴史に学ぶ」ということは、残念ながら昨今では、政治的な背景を背負いがちで、安易に使うことがためらわれる感じがするのです。
折から、ユネスコの世界記憶遺産への登録に関することが話題になっていますが、これなども過去の歴史のとらまえ方で難問が山ほど出てきてしまいます。
そもそも「歴史に学ぶ」と言っても、単に知恵の伝承に役立つものばかりではなく、過去の争いをさらに激しくする働きをするものも少なくないわけです。それに、その歴史と言っている起点を、十年前にするのか、百年前にするのか、あるいは千年前にするのかで大きく変わってきます。宗教などが関係する場合はそれより遥かに遡ることもあり、人類登場の頃まで遡る必要がある争点もあるかもしれません。

「極端に言えば、人間の知恵などというものは歴史から学ぶことの積み重ねだ」と上記しましたが、何も極端でも何でもありません。
私たちは、「歴史に学ぶ」つまり過去に学ぶしか、学ぶ方法などないのです。「先見の明がある」とか「先が読める」などという言葉があり、そのようなことが知恵としてあるように思ってしまいますが、それらは単なる予測であり、想像でしかありません。当たるも八卦当たらぬも八卦などと言ってしまえば、その道の方々のお叱りを受けそうですが、予測や未来を語ることは、夢想することと大した差はなく、あるとすれば、過去の歴史や経験をどう生かしているかによって差があるだけのことなのです。
私たちは、「歴史、つまり過去に学ぶ」しか、知恵を積み上げることは出来ないのではないでしょうか。

まあ、国家や民族の歴史となれば、多くの国家がそうであるように、わが国にも苦い経験も少なくありません。
いわんや、個人の歴史となれば、消え去ってほしいと思うことの方が多いほどです。しかし、自分の苦い思い出は、忘れ去ることは出来ないまでも薄れさせることは相当可能です。特に人に与えた苦痛などは、可能のようですが、与えられた苦痛は簡単に忘れ去ることは出来ないものです。これは、自分だけでなく、相手も同様というのが真理なのです。
天は、こんな私たちに、「忘れる」という実に素晴らしい素質を与えてくれているのですが、この素質も、効き目がばらばらで、必要な知識にはよく効き、恨みつらみにはあまり効かないようです。

( 2015.10.12 )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラグビー日本代表チームに感... | トップ | ノーベル賞は凄い ・ 小さ... »

コメントを投稿

小さな小さな物語 第十四部」カテゴリの最新記事