徒然なるままに・・アメリカ、そして日本

二度のアメリカ生活。
ボストン・オハイオ州・フィラデルフィア郊外に住み、
2010年夏、日本に帰国しました。

ESL卒業

2009年06月07日 | アメリカ学校/教育事情
来年度から、末娘は、ESLのクラスらか抜ける事になりました。
アメリカの学校に通い始めて、ほぼ5年でESLを卒業出来たわけです。

5年前にアメリカに来た時、彼女はアルファベットすら読めなませんでした。そんな彼女にとって、現地校での生活は、苦痛以外の何ものでもなかったでしょう。学校からか帰ってきた時には、ちょっと口は開く物の、だんだん元気がなくなり、夕食前にはソファーの陰で「阿明日も学校・・・」とシクシクしていましたっけ。朝起きても口数が少なく、スクールバスを待つ間も無言。バスに乗り込む彼女の背中を見ながら、「日本に帰ろうか」と考えたりもしました。

上の二人も小学校低学年で、初めてアメリカの学校に入った時には、英語なんて全然分かりませんでした。でも、何とか二年半頑張り通せたので、末娘も英語が分からなくても、「なんとかなるさ」とアメリカにつれて来たのですが、「小さい頃から英語を勉強させておけば良かった」と、どれだけ後悔した事か。
子供によって、環境適応能力も、言語能力も違うのですよね。

長女は最初の駐在の期間、1年生の12月から3年生の間、ESLに在籍していましたが、二度目の駐在の時には、4月にミドルスクールに入り卒業するまでの2ヶ月間のみで、ハイスクールに上がってすぐにESLは出てしまいました。ハイスクールの間、4年間はレギュラーの英語のクラスに入っていました。
長男は、それより遅れる事2年。最初の駐在でキンダーの12月から2年生までESLに在籍し、二度目の駐在の時は、9年生までの2年間はESLで、最後の二年間はレギュラーの英語のクラスを取りました。

そんな姉と兄のもと、少々焦った事もありましたが、スタートがスタートだっただけに、英語を無理に覚えさせる事はしませんでした。「いずれ日本に帰るので家では日本語がメイン」と、図々しくも面接の時に、先生にはっきり言っていました。人によって能力の発達は違うのし、限界もあると思ったのです。
「なんて親なんだ」と先生には思われたかもしれませんが、ほとんどの先生が理解して下さったように思います。幸いオハイオは、日本からの駐在員が多い土地柄、こちらの状況もよく分かって下さっていたのかも知れません。
それでも矛盾しているようですが、そんな環境に甘える事なく、英語も上達出来る事は願ってはいました。ただ、日本語と英語のバランスをとりたかったと言うか、英語ばかりが先行し、日本語を忘れてしまう事を避けたかったのです。そして、末娘には栄庫に対するプレッシャーを与えてくなかったのです。うまく言えませんが。

去年、フィラデルフィア郊外に引っ越してからは、環境も変わりました。ESLのほとんどの子供達が永住家族です。
生活水準もあまり高いとは言えない家族もいます。そんな子供達と一緒に教わるので、末娘だけが手を抜いてもいいと言うわけにはなりません。そして、現在の学校のESLの先生は熱心で、英語をマスターすると言うよりは、バイリンガルになる事を強く勧めてくれます。英語も母国語もきちんと勉強しなさいと言うわけです。
先生自身、末娘に関しては、母国語である日本語が年齢並に発達していない末娘に、どうやって英語を教えるかずいぶん悩んだようです。そんな先生の頑張りもあってか、それとも末娘も頑張ったのか、日本語も英語も作文力や読解力がついて着たように感じます。

そんなこなで、やっとこさESLを出る事が出来る末娘。今まで末娘に関わって下さった先生方には、本当に感謝です。

上の二人がESLを卒業しレギュラーの英語のクラスに入った時には、授業に付いて行けるか心配しましたが、意外と平気でした。彼等が言うには、ESLは文法やスペリングをきっちりやるけれど、レギュラークラスは読解が多いのだそうです。英語の文章さえ読めて理解出来れば、それほど大変ではないと言っていました。
とはいう物の、先生や学区によって勉強の仕方も違うだろうし、末娘の場合はどうなる事でしょう・・・。
心配は突きませんが、とりあえず、頑張ってもらいたいと思います。頑張れ!
コメント (10)
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