質素な毎日☆ひとりごと

主婦 斜め上からみる雑感いろいろ。

昔ながらの引っ越しをしてみた

2017-01-25 13:38:33 | 日記
子供が東京から東京へ引っ越しました。

なにせお金もあまりないので、引っ越し業者を頼まない自力の引っ越しをしました。といっても 1人でというわけではなく、親動員です。(ノД`)

もともと、冷蔵庫洗濯機テレビ付きの部屋だったので、荷物も少なく。それでもミニバンで3回運びました。自転車とか余分だった。片道20キロくらい。

しかも、我が子といったら、全く荷造りもしてなくて、前日も遊んで深夜の2時にかえってくる始末。(~_~;)

ダンボールは近くのスーパーであらかじめ少しずつ用意しておきました。
あと引っ越しに役立つのは衣装ケース。衣装は入れずにキッチン用品は衣装ケースにいれてそのまま持ち運びました。
衣装は大きなショッピング袋やスーツケースにどさっと入れる。
布団は布団を買った時についている布団ケースを大事にとっておく。
ベッド カラーボックスは分解。机はそのまま。

今度は電化製品をいろいろ買ったし、ソファも買うとかいってるので、もう自力はむりですね。

かかった経費は高速代、ガソリン代、駐車場代
。愛知から遠征しているとはいえ、やはり断然安上がりでした。

自分が25年前に10キロくらいのところを引っ越すのに、たしかアリさんマークで20万近くかかりました。高すぎたのかなぁ。でも3人は来ていたような。電動ハシゴも使ったし。子供も小さかったので、おまかせパックだったのかなぁ。おもいだせません。

また、さらに40数年前に引っ越した時は たしかトラックは屋根のないタイプでしたね。そこに家財道具全部くくりつけて、自分たちはそのトラックのあとをついていった記憶があります。引っ越し業者みたいなものはなくて、運送屋だったのかもしれませんね。雨だったらどうしたのでしょうか?

また、父が京都から愛知へ就職で出て来た時の話は、驚きです。

京都駅までリヤカーで荷物を運び、鉄道輸送で荷物も本人も愛知入り。当時は運賃は荷物と人とふたつあったそうです。駅には荷物を運んでくれるポーターがいたそうです。赤帽っていうのかな。

そして、愛知の駅について、またリヤカーで住むところまで行ったそうです。昭和32年の話です。

そこから思うと、ずいぶん日本は変わりました。

さすがに引っ越しだけでは、私たちもつまらないと ちょいちょい観光もしてきました。


さった峠


足柄パーキング

日本の若者の食生活は大丈夫か?

2017-01-24 20:27:58 | 日記


大学生の息子にお弁当を作っています。といっても毎日ではなく(本当は毎日が良いのだけど)週の何度か。

大学生にもなって母親の作ったお弁当?と眉をひそめる人もいるかもしれないけど、本人は是非ともお弁当を作ってくださいというスタンス。

私のころは高校卒業したら 母親はもうお弁当作ってくれなくなりましたね。自分の作れと。大したものが作れず、卵焼きとウインナーとご飯ってのが多かったですね。

今から思うと悲惨なお弁当でした。それに、母の作ったお弁当が美味しかったという記憶もあまりありません。母は日の丸弁当の世代でしたので、おかずがあるだけマシという考えだったのかも。

私が クローン病などという炎症性腸疾患を患ってしまって、日々食生活にうるさいので、息子も啓蒙されて ちゃんとしたご飯を食べなければいけないと思っているようです。

息子と同じ研究室の子は何たべてるの?と聞くと

毎日パスタ食べてる子とか毎日カップラーメンの子とか…

そんなものしか食べてないの?学食とかは?

最近の学食はファストフードばかりらしいです。
もしかしたら、健康定食もあるかもしれないけど、たぶんお値段も高いのかもしれない。息子も学食でたべてたときは サンドイッチかラーメンといっていました。

息子はお弁当のない日は駅の近くの惣菜店で惣菜とご飯を買うそうです。私も日頃から 食べ物でお金をケチってはいけないと厳しく?言ってます。

ところが 東京で一人暮らししている娘は ヤバい食生活です。
コメを食べなさい、野菜、果物食べなさいとしょっちゅう言っているのに、私 何食べても大丈夫だからと聞く耳持ちません。夜ご飯がカップラーメンということもあるようです。

炎症性腸疾患は実は若い世代が好発発症年齢なんです。 これが何を意味しているか…
炎症性腸疾患は腸の老化ではないのです。アレルギーの一種とも言われています。

では なぜそんなにアレルギー性の病気が増えてしまったのでしょう。

そのことについては 私も前々に色々書きました。

ひとつは基本的食生活ができていないと思います。日本の食文化は世界一?すし?天ぷら?そば?ラーメン?とんでもないことです。

街にあふれる添加物てんこもりの食品。小麦食品の多さ。生野菜ならいいだろうと、コンビニのサラダを手にとれば、殺菌剤で洗った野菜。

それらの食品が腸内環境をじわじわと悪くしていっているのです。

娘は忙しくて、あまり自炊をしません。ご飯を炊いて 具沢山のお味噌汁と おかず納豆でいいから、と言っても面倒くさがります。

息子にいたっては 全く料理はしません。

本当に大丈夫かなぁ。

私の宗教感

2017-01-23 13:39:45 | 日記
自分はながらく、無宗教あるいはちょっとだけ仏教徒だと思ってきた。

日本には檀家制度があったが、夫の方も寺は遠方にあり、義母が亡くなったら縁は切れるだろうし、私の実家も寺は遠方にあり、これも後継者は居なくなるだろう。
まして、うちには仏壇もなく、神棚もない。
何宗ですか?と言われても夫のほうは、親の代までは浄土真宗でしたけど…という感じ。
夫の父も私の父も故郷を遠く離れて就職したので、地元そのものと疎遠になってしまった。その子供達の私たちはさらに離れてしまった。
もし、自分や夫が突然死んだら どんな葬儀をすればいいのか途方に暮れてしまう。

ところで、最近色々と旅にでるようになって、自分の内面も再発見するようになった。

昔の街道を歩けば、どこにでも神社や祠や寺があり、古い木にはしめ縄が巻いてある。出会った神社や寺はなるべく寄って旅の無事を祈る。

神社にはいろいろ由緒もあるが、それ以外にも 山や川 湖 木 道にも神がいると実感するほど、出会う光景は神々しく感じる。

私って神道を信仰しているんでは?

神道って言っても 国家神道ではなくて、古来からある古神道というか、英語で言えばアミニズム。

土地や場所に神がいたり、年のはじめには年神が居たり、目に見えない八百万の神がいると信じている自分。

そして、生まれてから死ぬまでは 仏の導きがあり、人生は修行で生き物は死ぬと仏陀になると信じているらしい。
死者にたいして、手を合わせ無事仏となることを願っている。食事をするときはいただきますと手を合わせ、できれば、同じ哺乳類の肉などは食べたくないと思っている。死んだら ありがたいお経をひとつだけでも唱えてもらって、あの世に旅立ちたい。

これは宗教といえるのではないだろうか。

I believe in both Shintoism(Shinto)and Buddhism.

ただ、この自分の宗教には教義も指導者も居ない。
なので、今まで無意識だったんだろうな。


思い出の味

2017-01-17 12:25:41 | 日記
子供の頃の味覚の思い出というのは強烈なものです。
私の思い出の料理のひとつに 京風お雑煮があります。

白味噌仕立てのお雑煮。
あとあと、色々調べてみると、八頭芋や大根、人参も入るそうな…でも、私がたべてたのは、お餅だけでかつお節削りをかけたものでした。多分 うちって貧乏だったんだな。おせち料理も少ない種類しかなかった。

記憶にあるのは 京都の祖父母 祖父母の子供家族全員 で 12月の30日か31日に石臼でお餅つき。小さな裏庭だったはずなのに、そんなに何人もはいれたのでしょうか。
丸餅をつくったり、なが餅といって うるち米を半量いれたお餅もつくっていました。あれはどうやって作るんだろう?あと 出来たてはあんこをいれて食べたりしました。

そしてもうひとつのお雑煮、私の母は三河の生まれなので、三河のお雑煮は全国一質素なお雑煮だそうです。
祖母が作ってくれたお雑煮をよく覚えているのですが、多分干し椎茸出汁 しょうゆ味 それに焼いた四角いお餅と 苦いもち菜 出汁でとったしいたけ。

子供の味覚では この苦いもち菜が食べられない。(今は改良されて 苦くないもち菜のようです)
なので、甘い白味噌のお雑煮のほうが好物でした。

結婚してからの福岡のお雑煮は かなりカルチャーショックでした。
肉が入ってる!鶏出汁、かつお 昆布出汁 かつお菜 かまぼこ しいたけ、そして柚子の皮 見た目も中身もとても豪華!そして 美味しい♪( ´▽`)
福岡のお雑煮というとブリが入ってるそうですが、うちのには入ってないなぁ。

お雑煮って 多分それぞれの家庭でちょっとずつ違うのでは ないでしょうか。

そんな今日のお昼ごはん。白味噌仕立ての具のないお雑煮が食べたくて作りました。



これを食べると京都の祖父母と子供の頃のお正月を思い出します。

子供の頃のお正月というと、お店なんて5日くらいまでお休みで、お年玉もらっても何も買えず、今は危険で侵入禁止になった山科川の堤防で たくさんの人が凧揚げをしていました。あとは羽根つき。百人一首。 ストーブのある部屋はひとつくらいしかなくて、火鉢があった。寒かったです。
初詣には行った記憶はなく、なぜか 明治天皇の御陵に行っていました。なぜだろう?

質素な暮らしを好んでいるけど、あの寒さはやっぱり嫌ですね。

三河国 国分寺跡 国分尼寺跡

2017-01-10 10:09:03 | 日記
ひと月ほど、趣味の歴史旅?をしてなかったので、もううずうずしていました。

でも、寒いので あまり長時間外にはいたくないし、寒いので1人では尚更寂しいので、今回も夫をうまく丸め込んで同行。

今年 一発目は 奈良平安時代に置かれた三河国の国府 国分寺 国分尼寺を探しに行ってみた。

愛知県豊川市にある。

まずは 国分尼寺の側に建つ 三河天平の里資料館へ。そこで、ざっくりと予習。

それから 国分尼寺跡と国分寺跡へ。




国分尼寺跡


国分寺跡

国分尼寺は 中門を復元してかなり整備されてますが、国分寺跡は 全く整備されていません。
それどころか、どうやら数年前までは 跡地には民家もたくさんあった模様。立退くタイミングで市が買い上げたと思われる土地も。

国府跡も 車でとおったのですが、こちらも住宅が立っていて、たぶん 発掘調査もあまりできてなさそう。

1300年前に国分寺 国分尼寺が建てられたとしても、その後の歴史のながれで、建物は焼失したり 国府も消滅して、その跡地には 別のお寺や住居が建ってしまうようです。

そんな歴史のながれのなかでも残るものは、神社と地名。

国分寺跡ちかくには 八幡神社があり、こちらの創建は白鵬年中 大分の宇佐神宮から招いたのだとか。

650年頃?八幡神社創建
701年 大宝律令
701年 三河国国司 許勢朝臣祖父 の初見
702年 持統天皇 三河行幸
730年頃?国府の整備進む
741年国分寺建立の詔

年表をみると、まず神社を持ってきて、その後大宝律令とほぼ同時期に国司がちゃんと赴任しているようです。
そして、その翌年に持統天皇が三河に。
ルートは 奈良→伊勢→伊勢湾を船で伊良湖岬を目指し、さらに三河湾を船で進み、国府近くの御津というところで下船したとか。帰りは陸路。

持統天皇が三河に来たということが 驚きでした。
そして、その目的は謎。ただの観光ではあるまい。なにか目的があったことは確か。何らかの軍事目的か?

もうひとつ驚きだったのは、三河の国というのは 三河ともうひとつ 穂の国 というのがあったらしく、古代の律令制度以後 三河に合併されたとか。

そうなると、ちょっと待ってください。今まで 三河の語源は 三河地方にある三本の川があるから三河という、本居宣長説が通説だったけど、それは間違いだったということ? なぜなら その一本の豊川は穂の国に流れている。

じゃぁ。何故三河? と 昨日気になって調べまくってました。そして、自分なりの結論。

三河 まず音の ミカワ とする。
例えば、美濃は かつて、三野や御野 と漢字があてがわれたことから、ミカワも 音を漢字で当てた。

古代の三河が、今の西三河地方ならば 川は矢作川。矢作川の名前は 日本武尊が矢作川で矢を一万本作ったことから矢作川になったという説が、矢作川になる前は川の名前はミカワ(御河)と呼ばれていたのではないか?

とすると 合点がいく。 でもどちらにしても、大和政権がつけた名前のようか気がする。たぶん。大和政権以前に 何とか国とかあったんじゃないかな。たぶん小国だろうけど。

などと、古代のことを考え出すと、楽しいけどなかなか答えが見つからなくていらいらします。

とにかく この豊川市の国府 国分寺 国分尼寺は 眺めていると、1300年前の情景が何となく浮かんでくる。

三河湾の御津という港がさかえ、田畑が広がり、国分寺や国分尼寺の壮大な寺院が誇らしげに建っていたのではないでしょうか。

そのイメージのイラストが 三河天平の館で購入した資料にあります。