子供の頃、どこかに出かけるとなると母に必ず言われたのが
「気ぃつけていってらっしゃい」だった。
あまりにも毎回毎回同じ台詞が繰り返されるため、
ひねくれモンのワタシは、
そないに「気ぃつけて」ってばかり言われてもまったくピンと来ず、
いったいなにに気ぃつけろ、と言うてるんやろ。
くらいにまで思っていた。
だってこっちがなんぼ気ぃつけてたって
どないしようもないこともあるし。
それに「気ぃつけて」って言われたからって、
実際その言葉が消えると同時に、そんな意識も消えてたし。
(↑当時のワタシ談)
ま、どうしようもない親の心子知らず状態だったわけだ。
年を重ねてオトナになって、
血の繋がった自分の子供はいないにしろ、
甥っ子や姪っ子のことを思うとき、
少しは「親疑似体験」みたいな気分になることがある。
おかしなことに、ワタシにとって大切な人がどこかへ行くとかいうときには
必ずと言っていいほど「気ぃつけてね」と言っている自分がいることに気づく。
それは繕いやその場しのぎではなく、
まるごと本心からの言葉であって、
なるべくならその「願い」のようなものが届いて欲しいと思うばかりで。
今更ながらにあの頃の母に対して、
心からちゃんと反応しなかった自分が情けないというか
申し訳ない思いでいっぱいで泣けそうになる。
年とったんやなぁー、と思う今日この頃である。
「気ぃつけていってらっしゃい」だった。
あまりにも毎回毎回同じ台詞が繰り返されるため、
ひねくれモンのワタシは、
そないに「気ぃつけて」ってばかり言われてもまったくピンと来ず、
いったいなにに気ぃつけろ、と言うてるんやろ。
くらいにまで思っていた。
だってこっちがなんぼ気ぃつけてたって
どないしようもないこともあるし。
それに「気ぃつけて」って言われたからって、
実際その言葉が消えると同時に、そんな意識も消えてたし。
(↑当時のワタシ談)
ま、どうしようもない親の心子知らず状態だったわけだ。
年を重ねてオトナになって、
血の繋がった自分の子供はいないにしろ、
甥っ子や姪っ子のことを思うとき、
少しは「親疑似体験」みたいな気分になることがある。
おかしなことに、ワタシにとって大切な人がどこかへ行くとかいうときには
必ずと言っていいほど「気ぃつけてね」と言っている自分がいることに気づく。
それは繕いやその場しのぎではなく、
まるごと本心からの言葉であって、
なるべくならその「願い」のようなものが届いて欲しいと思うばかりで。
今更ながらにあの頃の母に対して、
心からちゃんと反応しなかった自分が情けないというか
申し訳ない思いでいっぱいで泣けそうになる。
年とったんやなぁー、と思う今日この頃である。