ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

省エネタイプの幸せ感

2019-07-29 17:34:35 | 日記

骨折していた足は、数日後の診察が最後になる予定となり、やっと完治というゴールが目前になった。長かった・・・ホントに骨折すると長いものですね。

医師に「骨折部分がずれたら手術です」と脅されて、今まで恐る恐る歩いていたが、今は普通に歩けるようになり、夏になったら履こうと思って買っていた新しいサンダルも、この度、やっと履くことができた。新しいサンダルが早く履きたかったから、本当にうれしかった!

それにしても普通に歩けるって、なんて素晴らしい!!

ずっと行っていなかった温泉にも久しぶりに行ってきた。

温泉に浸りながら、今まで感じていた以上に、もう心から最高に幸せだなぁと思っていた。これは、「今まで生きてきて幸せに感じたことベスト10」には、間違いなく入ったと思う。

入浴料440円で、こんなにも幸せを感じられるなんて、これも骨折をしたお陰かな。

それから松葉杖なしで買い物をするのが、こんなに身軽で楽ちんで、軽やかだったとは思ってもいなかった。

松葉杖を持っていると、誰か介助者がいなければ買い物カートを押せない。

たとえ松葉杖を一本にして、片手でカートを押したとしても、カバンからお財布を出して代金を支払うのも、買った商品を買い物バックに入れるのも不自由だった。

だから、松葉杖を持たずに普通に歩けて、温泉や買い物以外にも、今までできなかった庭いじりをしたり、軽い運動をしたり、そんな何気ない日常が送れるようになったことが、心から嬉しい!

たかが片足にひびが入っただけで、こんなに不自由な想いをする。

普通に歩けることが、どれほど幸せなことだったのか、今回ばかりは本当に身に染みた。

そして、普段、当たり前にしていることが、本当はすごいことで、けっして当たり前のことではなかったということが、今よくわかる。

これは自分の健康だけに限らず、日常のあらゆることに当てはまる。

きっと、生きていて当たり前なんて、ひとつもないのではなかろうか。

当たり前だと思って暮らしていた色々な事、それは、実はものすごく幸せなことだった。

例えば、朝「行ってきます」と言って家を出て行った家族と、もしかしたらそれが最後の別れになるかもしれない。

そう考えると、毎日の「いってらっしゃい」にも自然と心が入る。さらに家族が無事に帰宅すると、「帰って来てくれてありがとう」と思う。

これは、友人知人にも当てはまる。あの時に会ったのが最後だったなんて後悔しないようにしたい。

失ってから気づくことも多いが(もしかして、ほとんどが失って初めて気づくのかもしれないが)、失う前に、すべてがありがたいことだったと気づければ、自分の周りは幸せなことばかりになる。

こんなことを書き綴ってふと思うことは、私は今まで何度、このように思って生きて来ただろうかということだ。

自分の書いた過去のブログ記事を読み返せば、きっと今と同じような気づきを書いているような気がする。

自分の書いたものを後から読み返すことは滅多にしないので何を書いたか憶えていないのだが、こうして当たり前だと思っていたことが、実はそうではなくて幸せな事だったと深く想うことを、今まで何度か経験してきた。

しかし、忙しい日常生活を送るうちに忘れてしまい、再び何かのきっかけに深く想うようになる。

「喉元すぎれば熱さを忘れる」ということわざがあるが、まさに私のことを言っていると思う。

しかし、ちょっとずつ、前回よりも確実に「当たり前は、当たり前ではない」ということが、心の中に刻まれている。

その証拠に、最近は以前にもまして、普通の何気ないことにとても大きな幸せや喜びをおぼえる。

特に何かラッキーなことが起こらなくても、ふだんの暮らしの中に多くの喜びや幸せを感じられるようになった。

省エネタイプの幸せ感とでも言ったらいいのだろうか。

特別なことをしなくても、日常の中に幸せがあふれて居ることに気づいた今、昔の自分よりずっと幸福感が高くなった。


 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする