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ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

いくらやっても後悔するかも

2014-12-24 12:34:51 | 介護
今朝、お姑さんが「夢を見た」と話をしてくれた。

夢の中にお姑さんの父親が出てきたそうだ。

お姑さんのお父さんは、歳をとってから歩く時に身体を横に揺するようにしてゆっくりと歩いていたそうだ。

亡くなったお父さんが身体をゆすって歩いている夢だったそうだが、夢を見たあともずっと父親のことを思い出していると言った。

「父は優しい人でけっして怒らなかった。私が母親に叱られていると、よくかばってくれた。だから父が戦争から帰ってきた時は本当に嬉しかったぁ」

なつかしそうに父親の話をするお姑さんの顔は、もう87歳の老婆ではなく小さな女の子のようになっていた。

「私は父親の言う事はなんでも言うとおりにしたの。でもいなくなると、もっと色々なことをしてあげればよかったと後悔ばかりしている。だから、あなたもお父さんを大事にしてあげて」

そう言ってお姑さんは涙をぬぐった。

「お父さんを大事にしてあげて」とは、高齢者住宅にいる私の父の事だ。

私がたまに父の所に行くので、お姑さんはそのように言ってくれたのだ。

ところで先日は父を連れて、父が元気だった頃によく一人で行っていたというお寿司屋さんへ行った。

すっかり出不精になった父なので、もしかしたら行かないというかもしれないと思ったが、珍しく「行きたい」と言ったので連れて行った。

高齢者住宅に父を迎えに行くと、父はすでに身支度を整えて待っていてくれた。

「体調はどう?」と聞きながら、父の顔色を確認する。

顔色はまあまあかな。

とりあえずバッグの中にはビニールの袋を用意してきた。

最近、父は歩くと吐くようになった。

店までは車だが、それでも多少は歩かなければいけないので、父と一緒の時は必ずビニール袋を持つようにしている。

車の中でも「大丈夫?気分は悪くない?」と何度も聞きながら行ったが、「大丈夫だ」と言う父の顔色は悪くなかった。

途中で妹たちとも合流して、皆でお店に行ったのだが、最近、食が細くなってきた父が、お寿司を美味しそうに全部平らげていた。

みんなで食事をしながらしている会話を父もにこにこと聞いていた。

さて食後しばらく時間を置いてから、また父を高齢者住宅に送って行くことになったが、片道15分くらいの車中で父が歯をカチカチし始めた。

カチカチカチ・・・

これが始まるってことは、具合が悪いってことだ。

父の顔色がすこし悪くなってきたように見える。

「大丈夫だ」と父は言うが、あまり大丈夫ではないのかもしれない。

やっと高齢者住宅に着き、廊下を歩いて父の部屋の向かう途中から急に父の具合が悪くなってしまった。

食べ物は吐き出さないものの、時々吐き気がくるようで何度も立ち止まる。

身体を支えながらなんとか部屋の中に入ったが、もう限界だったようで食べ物を吐き出してしまった。

父が吐く前にビニール袋を用意していたので部屋は汚さずにすんだが、たべたお寿司は全部出してしまった。

「どうしてこうなるのかなぁ」と悔しそうに言う父に何と言ってあげたらよいのか分からなかった。

「ゆっくり休んで」と言ってベッドに寝かせた。

私は6歳で病気になり半年以上も学校を休んで入院していたが、中学生で完治するまで定期的に通院しなければいけなかった。

病院はいつも父が連れて行ってくれたが、病院帰りに街のレストランで食事をしてアイスクリームを食べさせてもらうのが楽しみだった。

そんな病弱だった私に父はいつもこう言った。

「なんだか顔色が悪いぞ。具合悪くないか?」

ヒョロヒョロのやせっぽっちで、いつも青白い顔をしていた私を心配してくれた父だったが、いつの間にか立場が反対になってしまった。

87歳のお姑さんが今も父親にしてあげたかったことを思って後悔しているように、きっといくらやっても親の死後に後悔することになるんだろうなぁ。

親孝行いくらやっても物足りず











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父の認知症は

2014-12-12 15:10:13 | 介護
父が一年半ぶりに認知症の再検査を受ける日、午後から妹と一緒に病院へ付き添う予定をしていた。

ところが当日の朝、用事があって車で出かけたところ、道路はツルツルのアイスリンク状態。

あちこちで事故が起きているとラジオで言っていた。

父の病院まではかなり距離がある。

慎重に行こう。

そう思っていたら、妹から「危険だから無理に来なくてもいいよ。私だけで大丈夫だから」と電話があった。

ここは妹の厚意に甘えることにした。

妹からは検査結果が出たら、すぐに知らせてくれることになっていた。

検査は午後2時からのはずだった。

遅くても2時間くらい、午後4時くらいには終るかなと思っていたのだが、妹から電話があったのは5時を過ぎてからだった。

「遅かったね。もう家?」と聞くと、なんとまだ病院にいるとのこと。

妹の話によると、父の住む高齢者施設から病院まで普通の速度で歩いて3分程度の近さなのだが、その間、父は何度も吐き気を訴えては立ち止まっていたので、かなり時間がかかったのだそうだ。

また病院内でもすこし歩いては休み、また歩いては休むため、こんな時間になってしまったということだった。

身体の大きな父なので、妹が一人で支えながら歩くのは大変だっただろう。

やはり私も行けばよかったかもしれない。

ところで父の検査結果だが、前回は聞いていなかったような事実が判明して驚いた。

父の脳には、過去に何度も出血を起こした跡があったのだそうだ。

そのひとつは、あと数センチずれていたなら半身麻痺にさえなるような場所だったとか。

今は画像の進歩で、以前は分からなかった「無症状の脳内出血」も分かるようになったそうで、知らず知らずに脳内出血を起こしているかもしれないというのは怖いと思った。

しかし、一番驚いたのが父の認知症の病名だった。

「レビー小体型認知症」

アルツハイマー認知症はよく聞くし、前回診て貰った時は、単に認知症としか言われていなかったので、父もてっきりそっちの方だと思っていたが、実は違っていたらしい。

レビー小体型認知症とは異常なたんぱく質が脳の神経細胞内にたまったことで起きるそうで、パーキンソン病と似ているそうだ。

なぜたんぱく質がたまるのか、その原因はよく分かっていないそうだが、糖尿病の人は罹り易いとも言われているとか。

父も軽度の糖尿病と診断され、現在は薬を服用しているが、ごく初期の軽い糖尿病だと言われていた。

しかし、今回一緒に検査をしたところ、しっかりと糖尿病の数値が現れていて「これはもう立派な糖尿病です」と医師から言われたそうだ。

さてレビー小体型認知症だが、その症状を調べてみて、今までの父の様子すべての辻褄が合った。

具体性があり生々しい幻視、幻覚症状がある。

これは父が自分の部屋に不審者が入ってきたとの訴えと合う。

日によって症状に変動がある。

これも全くその通りで、まったく昔の父と変わらないようにしっかりしている日もあれば、寝てばかりいて目の焦点が合っていないような日もある。

さらにパーキンソン症状と言われる運動機能の低下が見られる。

父の歩き方は、まるでパーキンソン病の人のようだと思ったことがあったが、やっぱりか・・・という感じだ。

ほかには自律神経の障害により起立性貧血を起こすことがあるなど、これは歩きながら吐き気を催すことからもその症状が出ていることが分かる。

ほかにもそうだったのかと合点がいく事が数多くあった。

ただしほかの認知症が完治しないように、レビー小体型も完治することはない。

「身体の機能が失われるのにあと5年でしょう。もっと若ければ糖尿病の方をしっかり治すように厳しい食事療法もするのですが、お父さんは高齢ですから、そこまでしなくてもいいのではないかと思います。
実は80歳を過ぎた自分の母も同じなのですが、母にはもう何でも好きな物を食べなさいと言っています。これはご家族の意思にお任せしますが」

妹はそのように医師から言われたそうだ。

妹も私も残り時間の少なくなった父に厳しい食事療法は望まない。

きっと弟も同じだと思う。

あまりたくさんではなければ、父には好きな甘い物を食べさせてあげたいと思う。

まだ自分で歩いて移動することはできるので、なるべく外へ連れ出したり、父の話をたくさん聞いてあげたいと思っている。

もう母の時のように後悔しないためにも。







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猛スピードで過ぎていく時間

2014-11-26 11:41:36 | 介護
最近、時間の流れがますます速くなった気がする。

例えるなら、まるで新幹線に乗って、過ぎ去っていく窓からの風景を見ているような感じ。

一週間、一ヶ月とびゅんびゅん過ぎていく。

本当に恐ろしいくらいの速さだ。

これは一体どうなっているのだろうか。

な~んてことは考えても仕方がないか。

ただ目の前のことを、黙々とやっていくのみ。

昨日、父の入っている高齢者施設から電話があった。

「認知症の症状が、最近進んだように思うので、また病院の診察に行ったほうがよいと思います」とのこと。

それは、私も思っていたことだった。

先日、父の所へ行くと、相変わらず布団から出てこなかったのだが、それでもおしゃべりはしてくれた。

またいつもと同じ話ばかりだったが、ふと気になることを口にした。

「この間、深夜に寝ていたら、突然へやに二人の男が入ってきたんだ。

だれだ?と聞いたら、男たちはにやにや笑っているだけで答えない。

どこから入ったのか?と聞くと、非常口から入ったと言うんだ」

非常口は父の部屋のすぐ近くにあり、普段はしっかりと内側から施錠されている。

「まさか~」と思ったが、父の話がけっこうリアルなので、これは本当の話?と一瞬思ったりした。

父は続けた。

「二人とも作業服みたいなのを着ている40代くらいの男だった。

さては泥棒か?と大声をあげたら逃げていった。」

ほ~、着ていた服や年齢まで憶えているの?

いやいや、まさかね。。。

そんなことがあったら、警察呼んで大騒ぎになっているはず。

家族にも何か連絡があるはずだよね。

「男たちが逃げていってすぐに、ここの職員たちがバタバタと走ってきたんだ。

大丈夫ですか?と聞かれたから、大丈夫だと答えた。

そして職員は、またあいつらかと言っていた」と父の話は続いた。

「またあいつらっていう事は、今までも入ってきているってこと?」

そう父に聞くと「そうらしい」と答えた。

う~ん、本当だとは思えないが、一応、職員さんに聞いてみよっ。

父の部屋からの帰りに、職員さんに父の話をしたところ、職員さんもその話は父から聞いて分かっていた。

「でも、現実の話ではないです。夢か妄想です」と職員さんがおっしゃった。

やっぱりそうか・・・と思った。

認知症の薬は飲んでいるが、やはり進むのは止められないのだ。

前回、一年以上まえだが、認知症の診察に行った時、医師から「これからもっと進んできます。進んだなと思ったら、すぐに来てください。その時は薬を変えますから」とおっしゃって頂いている。

やはり病院へ連れて行こう。

この時間の流れの速さと一緒に、父の認知症も義母の老化も進んでいくのだろうか。



 





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老親介護

2014-11-12 14:02:44 | 介護
久しぶりに関東に住んでいる友人から電話をもらった。

友人が言った。

「実はね、両親をこちらへ呼んで、今、家のすぐそばに住んでいるの。もう高齢だから、二人だけで置いておくのが心配で・・・両親がこちらに来たから、もう札幌へ帰ることがなくなっちゃった」

聞けば、両親を自宅近くに呼んで6年くらいになるそうだ。

80歳をかなり越えたご両親だが、最近お母さんの方に認知症ではないかという心配が出てきたそうだ。

何度も同じ事を聞く、今言ったことを忘れてしまう、いつも探し物をしている、近所の人が自分の悪口を言っているといった被害妄想。

友人は毎日両親の家に様子を見に行くのだが、最近それが非常に重荷に感じるようになってきたそうだ。

彼女は一人娘で、しかもとても優しい人なので、ご両親を一生懸命お世話をしているのだろうと思う。

でも、それが実の親であっても、認知症の高齢者の介護は大変なんだよね。

私も父が認知症と診断を受けているので、そばにいる人の大変さはわかる。

「今よい薬が出ているようだから、一度病院に連れて行ったほうがいいかもしれないね」としか言えなかったが、この電話を機にメールでやり取りをする約束をして電話を切った

それにしても、近頃、私の周囲は親の介護に奮闘している人たちが多い。

50代という年齢は、ちょうど高齢になった親の介護の時期と重なるのかもしれない。

ところで友人と電話で話をして数日後、同居のお姑さんを誘って庭仕事をしようと思った。

お姑さんは庭仕事をするのが好きなので、誘えば喜んでくれるだろうと思ったのだが、これが以外にもそうではなかった。

「そう、庭仕事するのね」と言ったが、どうもあまり乗り気ではない。

無理に誘ってもいけないと思い、私は一人で庭に出た。

しばらくしてお姑さんがやってきたのだが、家の中にいるような薄着のままで来てしまった。

「寒いから」と言って上着を着てもらい、一緒に庭の草木に肥料をあげたのだが、お姑さんとの普段の生活ではあまり感じていなかったことがあって、すこし動揺した。

同じ話、特に昔の話を何度も話すことは前からよくあったのだが、今回は同じフレーズが何度も繰り返された。

「この木を冬囲いしないといけないねぇ。ムシロをかけないと」とお姑さんが言うので「ムシロは無いから、縄で木を縛るだけでも大丈夫だよ」と言ったのだが、「この木を冬囲いしないといけないねぇ。ムシロをかけないと」というフレーズがその後何度もお姑さんの口から出てきた。

その度に私も「縛るだけで大丈夫」という同じ言葉を何度も繰り返した。

まるで映画のフィルムを何度も巻き戻して再生しているようだと思った。

その後、やっと理解してくれた(と思うが)お姑さんが、こんどは「漬物石が足りない」と言うので一緒に探すことになった。

漬物石は物置小屋のバケツの中に入っていたので「ほらあったよ」と見せたら、それを見たお姑さんが「それじゃなくて、ムシロを探している」と言うのでびっくりした。

確かに漬物石を探していたのに、少しの間に探していたものが別のものにすり替わってしまった。

多分お姑さんの頭の中に、さっきまでのムシロがずっと残っていたのだと思う。

「ムシロは無いから、縄で縛るだけで大丈夫」

あれっ、わたし、またさっきと同じことを言ってる!?

やれやれ・・・

それにしても、これはマズイかもしれない。

お姑さんが通っているデイサービスに、お姑さんの様子を聞いてみたところ「以前より認知症が進んでいると思います」との返事だった。

デイサービスでは、最近、お姑さんの意欲が低下してきているとも教えてくれた。

やはりそうだったかと思った。

友人に「病院へ連れて行ったほうがいいよ」と言ってる場合ではなかった。

しばらくお姑さんは認知症の検査をしていなかったので、近々病院へ連れて行ったほうがいいねと夫とも話をしているが、父が落ち着いたと思ったら、今度は義母か・・・と少々暗澹たる気持ちになっている。











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人生の秋に

2014-09-18 15:29:22 | 介護
三週間ぶりに父に会いに行って来た。

交代で父の様子を見に行ってくれていた妹が体調を崩し、しばらく父の所に行けなかったので、代わりに私が行っていたのだが、やっと妹の体調が良くなった。

「ずっと行ってなかったから、今度は私が行くから」と妹が言ってくれたので、妹に任せていたら三週間あいてしまった。

しかし、あまり長く父の顔を見ていないと非常に父の様子が気になる。

「次は私が行くよ」

そう妹に告げて、いそいそと父の元へ行った。

最近の父は「まだらボケ」が頻繁に起こるようになった。

この間は、いつも父を乗せている私の車が突然わからなくなってしまい、「あれか」と言って、全然違う型の車を指差していた。

車の次は、私のことがわからなくなっていないかとちょっと不安だった。

「あんたダレ?」な~んて言われちゃったらどうしようか・・・

そう思いながら父の部屋を覗くと、いつもは昼間でもベッドに横になっていることが多かった父なのに、珍しく椅子に腰かけて起きていた。

部屋を覗いた時、こちらの方を向いた父と目が合った。

父は何も言わず、こちらを見ている。

思わず「お父さん、私が誰かわかる?」と聞くと、父はにやっと笑って「わかるさぁ」と言った。

あ~よかった。忘れられていなかった。

それから父の部屋の中や冷蔵庫の中を整理しながら、父と話をした。

いつもの父なら自分がもっとも輝いていた時代の話を何度も繰り返すのだが、今日は珍しくその話ではなくて「今の話」をしてくれた。

「次のデイサービスでは誕生会を開いてくれるそうだ」と父は嬉しそうに教えてくれた。

その時、やっと父の誕生日が9月だったことを思い出したが、時すでに遅しで、父の誕生日はもう過ぎていて「あ~失敗した」と後悔してしまった。

そのあと、父が自宅に居たころ飼っていた二羽の小鳥の話をした。

現在も小鳥たちは妹の家で元気にしているので、小鳥の様子を教えてあげようと思ったのだ。

ところが、父は飼っていた二羽のうち一羽の小鳥の事しか覚えていなかった。

昨年、高齢者住宅に移るまで飼っていて、小鳥たちは父によく懐き、父もとても可愛がっていたのに、見事に忘れてしまっていた。

「ほら、く~ちゃん(小鳥の名前)いたでしょ?賢いインコのく~ちゃん。覚えていない?」と言うと、「そんなのいたかな?忘れたな」と答える父。

ペットのこともそうだが、三十年近く前に亡くなった母の名前も思い出せないと言った。

「色んなことを忘れちゃったね・・・」

思わず口からそんな言葉が出てしまい、まずいことを言ってしまったと一瞬思ったが、父は穏やかな口調で「いや、いいんだ。みんな忘れていった方がいいんだ」と答えた。

その言葉から、父が自分の老いを受け入れているのだと思えた。

父は昔から家庭で怒鳴り声をあげるような人ではなかったが、代わりに仕事となると、子どもから見ても非常にエネルギッシュな人だと思っていた。

母を相手に父が仕事の話をするのを聞いていると、他人には歯に衣着せずにズバズバと言いたいことを言うような人だと思っていた。

しかし、今はどんどん穏やかになっていってると思う。

エネルギッシュで元気の良かった父がだんだん穏やかになっていくのは、ちょっと寂しいような気持ちになるが、多分これはいい事なのだろうなぁ。

本を読んでいたら、とても心に残った詩があったので載せます。

上智大学の学長もつとめたヘルマン・ホイヴェルス牧師の晩年の詩だそう。

年をとることによって、できるようになる生き方が書かれています。

「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、

真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。


「人生の秋に ホイヴェルス随想選集」より


最近、自分の老いを少しずつ受け入れているかのように思える父。

その姿に詩の文章がなんとなく重なった。

私も老人になった時、この詩に書かれているような心境になっていたいものだと思う。










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検査はしない

2014-08-04 16:41:01 | 介護
先日、父がいつも診て頂いている病院の看護師さんから電話があった。

「お父さんが短期間で急激に体重が増えていたのですが、先生が念のために胃腸の検査をしてはいかがですか?と言っているのですが。
お父さん本人は、検査にはあまり乗り気ではないようなのですが、ご家族の方はいかがでしょうか」とおっしゃた。

胃腸の検査、つまり胃や大腸のカメラということだが、それを聞いて私は80歳を過ぎた父の身体には負担が大きすぎるのではないかと思った。

「今は元気で暮らしているので、検査はけっこうです」と答えると、「でもお年寄りですと、癌が見つかる場合もありますのでやっておかれた方がいいかと思います」と看護師さんはおっしゃった。

確かにもしや「癌」が見つかるかもしれないが、父の場合、逆に見つけてもらわなくてもいいと思った。

下手に「癌がありました」と言われて、手術なんてことになったら、たぶん父は認知症がさらに進み、今まで以上に足も弱り、最悪の場合は寝たきりになってしまうかもしれない。

だとしたら、たとえ何かが見つかっても、なるべくこのままそっとしておきたい。

「いえ、やはり検査はいいです。今、元気で暮らしていますから」と言ったが、看護師さんは「でも手遅れになったりしてはいけませんし・・・」となおもしつこく勧めてくる。

「癌でも手遅れでもいいんです。検査をして弱るより、そのほうがいいです」と、つい強く看護師さんに言ってしまった。

看護師さんは「では、そのことを直接先生に伝えてください」とおっしゃって、先生と面談の予約を取られてしまった。

まるで父が癌になっているかのような話になってしまったが、父はいたって元気で食欲もある。

食欲があるので、間食をし過ぎて体重が増えたのではないかと思っていた。

妹にそのことを伝えると、妹も私と同じ考えで検査をすることに反対だった。

先生との面談の日、今までの父の血液検査の結果を見せられて説明を受けた。

軽い貧血があるが、その他の数値はすべて良いとの事だった。

ただ若い人も年に一度くらい健診をした方がよいのと同じで、父も胃腸の検査をしてはどうか?と言うお話だった。

「だから高齢者の医療費が膨れ上がって、国の財政を一層きびしくしているんだなぁ」

それを聞いて、心の中でそう思う。

無駄な検査をして、たくさんの薬を出す病院。

家族がしっかり薬を見ていないと、老人本人も訳がわからなくなるくらいの薬を出されてしまう。

お姑さんも同居し始めた頃は、「こんなに飲んでるの!」と驚くくらいの量の薬を飲んでいたが、新しく移った病院の医師と相談をして必要がないと思われる薬はどんどん削ってもらった。

今はずっと薬の量が減ったが、何の問題もなく元気一杯で過ごしている。

ところで父の検査だが、やはり検査はしませんと医師にお伝えした。

そして、もしも父が癌などになった場合(たぶん父はならないと思うが)痛みや不快な症状を取るだけで良いですということもお伝えした。

父がもっと若ければ治療をお願いするところだが、もう83歳なので治療はしなくてもいいよね・・・と妹と相談をして決めた。

医師は「そうですか。それも良い考えだと思います」とおっしゃって、紙を出してそれらの事を書き始めた。

そして「この内容でよろしければ、ここにサインをしてください」とおっしゃった。

医師が書いた書類には「身体に負担のかかる検査は一切しない。癌になっても治療はせず、痛みを取るなどの対処療法をする・・・うんぬん」と書かれていた。

父も高齢でいつどうなるか分からないので、医師は家族の意見を聞いておきたかったらしい。

父の部屋へ戻り「検査は断ったよ」と父に伝えると、父はうなずいて「うん、それでいい」と言った。

今が機嫌よく暮らせたら、それで十分と、きっと父もそう思っているのではないだろうかと思う。

「甘いものは食べ過ぎないようにね~」

そこはしっかり父に釘をさして帰ってきた。






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父を公園に誘う

2014-07-15 15:29:06 | 介護
昨日は高齢者住宅に住む父を誘って、市内の大きな公園に行こうと思った。

父は、最近また寝てばかりいるようになり、私や妹が訪ねていっても起き上がろうとせずに、ベッドの中で横になったまま話しをする。

「病気じゃないんだから、たまには起きていないと、身体が弱っちゃうよ」

いつもそう言って、なんとか父を起き上がらせようとするのだけど、「いや、いいんだ、このほうが楽だ」と言って起きようとはしない。

確かに寝ているほうが楽に決まっているけど、寝ていると足は弱ってくるし、頭痛だってしてくるかもしれないし、なんとなく気分が優れないかもしれない。

そんな父を公園に誘っても、きっと行かないと言うかもしれないな~と思っていたが、案の定「今日は、なんだか頭が痛いから行かない」と言われた。

「そんなことを言わずに公園にいる山羊や馬を触ってこようよ。きっと可愛いよ~」と押してみたが、父は決して「行く」とは言わなかった。

父は動物が大好きで、とりあえず四足で毛が生えているものならなんでも好きだ。

動物に駆け寄っては「可愛い、可愛い」と言って撫で回しているので、今回は山羊や馬で釣ってみたのだが、父の答えは「いや、行かない」の一点張りだった。

そんなわけで動物作戦はあえなく失敗に終ってしまった。

「じゃあ公園に行かなくてもいいから、とりあえず起きようよ。食堂の椅子に座って話をしよう」

一緒に行った妹が、父に有無を言わせないような強い口調でそう言ったところ、父はやっと起き上がってくれた。

父と妹、そして私の3人で食堂に移動し色々な話をした。

と言っても、ほとんど父が一方的に話していたのだが・・・

今まで何十回と聞いた同じ話だが仕方がない。

「うんうん」と頷きながら、私は襲ってくる睡魔と必死に戦っていた。

眠気で半開きの目ながらも、とりあえず私と妹が聴く事に徹していたので、話好きの父の調子はどんどん上がっていった。

話はエンドレスに続いていく。

もうどうにも止まらない。。。

ふとある事を思いついた。

もう一度父を公園に誘ってみる。

今度は「公園に行こう。(歩かないと足が弱るよ)」ではなくて、このように言ってみた。

「お父さん、公園でアイスクリームが食べたい。アイスクリーム買って!」

驚いたことに、父は「そうか」と言って立ち上がると、お財布を取りに部屋へ戻り、公園に行く支度をしてくれた。

その後、車に乗って公園まで行き、父は売店で私たちにアイスクリームを買ってくれた。

年老いて体が弱ってきて、すこし認知症が進んでも、やはり父は「父親」なのだと思った。

私たち子供が父の面倒をみている・・・というまるで立場が逆転してしまったかのように、介護をする私たちは思っていたけれど、そうではなかった。

そのような保護者的な目線では、父にいくら公園に行こうと誘ってもダメだった。

父にはまだ「親」としてもプライドがあるのだと分かった。

そこを理解できずにいたので、「なんて頑固なんだ」とか思っていたが、これからはもっとうまく父のプライドを傷つけないように誘ってみようと思う。

ところで、公園にいた山羊さんたちもしっかり撫ぜてくることができた。

妹が採ってきたクローバーを父が山羊に食べさせてていると、たくさんの山羊が寄ってきて父は嬉しそうだった。

私は父のすぐ横で父のフォローをしていたが、寄って来た山羊が私のカバンをハミハミ、ペロペロしていることなど、ぜんぜん気づかなかったわ。

おかげでカバンがびしょびしょ・・・(泣)







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実はお茶菓子は・・・

2014-06-26 17:55:12 | 介護
お姑さんの通っている介護施設の方が介護サービスについて説明をする為に、うちに来ると連絡があった。

お姑さんに職員さんが来ることを伝えると、お姑さんは「お茶菓子は何にしようか」と心配をする。

「施設の方は仕事でいらっしゃるので、お茶だけでいいと思いますよ」と話すと、「そう、わかった。お茶だけでいいのね」と一応は納得してくれるのだが、後で部屋に行くと必ずお茶菓子を用意している。

昔の人なので、来客には必ずお茶とお菓子を出さなければいけないと思っているらしい。

今回も「わかった」と言いながら、多分お菓子の用意をしているんじゃないかなぁと思っていた。

さて約束の時間になり職員さんがいらっしゃって、お姑さんの部屋にお通しすると、やっぱりテーブルの上にはお皿に載った和菓子が用意されていた。

お姑さんの持っているお菓子に関しては、お姑さんが自分で購入しているので、私はどのようなお菓子があるのか把握をしていない。

私がお茶を入れて職員さんにお出しすると、横でお姑さんが「お菓子もどうぞ」と職員さんに勧めた。

若い女性の職員さんは「はい」と言いながらも遠慮してか、なかなかお菓子に手をつけない。

そこで、さらにお姑さんが「さあ、どうぞ食べて」と勧めた。

それは美味しそうな和菓子だった。

再びお姑さんがお菓子を勧めると、その職員さんは笑顔で、「では頂きます」とお菓子を手に取った。

「はい、どうぞ食べてください。供養になりますから・・・

お姑さんのその一言で、一瞬場は凍りつき、その場にいたお姑さん以外の誰もが固まった。

「くよう?供養って・・・?」

すでに職員さんの顔からは笑みが消え、怯えたような表情でそうつぶやいたが、そこはさすがプロ。

すぐに気を取り直して「頂きます」と言ってお菓子を食べ始めた。

その場にいた私は、すぐに理解できた。

つまり、そのお菓子は仏壇にお供えしていたものなのだ・・・

お姑さんの部屋にある仏壇には、お水、お花はもちろんのこと、毎朝炊いたご飯、果物、お菓子が豊富に供えられている。

お姑さんがお菓子や果物を買うのは自分で食べる為と言うよりも、お仏壇に供えるために買っているといっても過言ではない。

そして一週間程度供えると、新しいものを買いに行き、お下がりは我が家にまわってくる。

しかし途中で来客などがあると、それはお茶菓子として出されることにもなる。

一週間も仏壇に上げっぱなしになっていた果物は、熟れ過ぎていたり、時には腐っていたりして、けっして美味しいとは言いがたい。

またお菓子なども、下手をすると賞味期限が過ぎてしまっていたりする。

「仏壇にお供えしたものは、もう少し早く下げてください。せめて腐る前に・・・」

お姑さんにはそうお願いしたいのだが、それはなかなか言えずにいる。(一応、嫁なので遠慮してます)

きっと長年やってきた習慣は変えられないだろうとも思う。

仏壇型の冷蔵庫があればいいのに・・・

つくづくそう思う、今日この頃です。










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若返り

2014-06-12 10:24:35 | 介護
昨日は父の所へ行って来た。

サービスつき高齢者住宅の3階が父の部屋だ。

エレベーターを降りて食堂の横を通りかかった時、話し声が聞こえてきた。

誰かいるのかな?と思って食堂を覗いたら父がいた。

食堂のテーブル席で、同じ階に住むおじいちゃんとお茶を飲みながら話をしているようだった。

聞こえてきた会話の内容は、それぞれが仕事をしていた現役時代のことらしい。

父は83歳、話し相手の方は88歳という高齢にもかかわらず、さながら現役のように話し合っている。

男の人はいつまでも仕事の話ができるのだなぁ。

女性なら80過ぎて仕事の話はあまりしないな・・・きっと。

二人ともいきいきとした声で、会話も大いに盛り上がっているようにみえた。

話が盛り上がっているのに中断させてしまうのは悪いかな・・・と、父に声をかけるのを迷ったが、やはり一応声をかけておこうと思い「お父さん」と呼んだ。

すると父はすぐに私に気がつき「おぉ」と手をあげてから、「あとで行くから部屋に行っててくれ」と言った。

その仕草といい、反応の速さといい、一瞬、70代前半くらいの元気だった父かと思ってしまった。

父は最近、頻繁に理髪店に行き髪の毛を染めている。

「まだいいんじゃない?」と言っても、「いやいや、もう散髪してこないと」と言うので、その度ごとに車で父のお気に入りの理髪店に連れて行ってる。

歳の割にふさふさとした髪を黒々と染め上げているので若く見える。

昔からオシャレな父親で、いつも身なりには気を使っていた父だったが、認知症が進んでいると思われた頃は、髪も服装も気にしなくなり、ヨタヨタのくたびれた老人になってしまっていた。

このまま認知症の老人へまっしぐらかと思ったが、これはなんということだろうか。

若返っているではないの!?

脳神経外科で、初めて認知症の診察を受けてから一年以上が経過しているので、そろそろまた検査に連れて行かなければいけないと思っているのだが、父の脳の中は分からないが、少なくとも今の状況からは悪化しているようには見えない。

父の部屋で待っていると、まもなく父が戻ってきた。

ひとしきり世間話や近況を話しながら、途中、いくつか忘れている事はあったが、普通に会話が成立して、帰りは「車の運転に気をつけて帰りなさい」と言われて、父に見送られながら部屋を後にしてきた。

なんだか昔の元気だった頃の父と話しているような感覚。。。

もしかしたら一過性のことかもしれないが、また昔の父が戻ってきたようで嬉しいなぁと思いながら帰ってきた。







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いつもありがとう

2014-06-05 17:26:54 | 介護
もうすぐ87歳になるお姑さんだが身体はいたって元気で、週二回のデイサービスを楽しみにしている。

そのデイサービスを利用して長いせいか、何人か仲良しの友だちもできたとか。

お姑さんが、こんな話をしてくれた。

「最近、よくお友だちから電話がかかってくるの。

その人は息子夫婦と同居なんだけど、お嫁さんとうまくいってないらしくて、いつもお嫁さんの愚痴を話すの。

嫁が毎日食事を作って運んでくれるのだけど、持ってくるおかずが口に合わないんだって」

お姑さんはそう言いながらも、特に電話が来ることを嫌がっている風でもなかった。

私も「ふ~ん、そうなの」とか言いながら聞いていたのだが、お姑さんの言うとおり、どうも電話は頻繁にかかってきているようだった。

たまたまお姑さんの部屋の隣で洗濯物を畳んでいたら、その友だちから電話がかかってきたらしい。

隣の部屋で洗濯物を畳んでいた私のところまでお姑さんの会話する声が聞こえてくる。

「うん、うん」と言いながら友だちの話に耳を傾けているお姑さん。

時々「そうなの」と言う声がする。

相手の方の声はもちろん聞こえないが、お姑さんの会話からやはりお嫁さんの愚痴を聞かされているらしかった。

お嫁さんの愚痴を言うお友だちだが、うちのお姑さんに愚痴の電話をかけてくる前は、他の人にも同じような電話を頻繁にしていたのだとか。

ところがその相手が亡くなってしまったので、次に愚痴の電話をかける相手としてお姑さんが選ばれてしまったようだ。

多分そのような方だから、お嫁さんにもそれが伝わって嫌がられているのだと思う。

だからますます関係が悪くなって、ますます愚痴りたくなるのかもしれない。

ある程度の間、友だちの話を聞いていたお姑さんだったが、突然語りだした。

「私はね、いつもありがとうって言っておくの(私にですが・・・)

だって、生きている時間はもうそんなに長くはないでしょ。

死んでしまったらありがとうも言えないから、今のうちに言っておこうと思って。

だから、あなたもありがとうって言いながら死んでいきましょうよ」

多分そのお友だちもひとしきり話をして気分がすっきりしたのだと思うが、お姑さんの語る言葉で電話の会話は終了となった。

お姑さんの言う言葉通り、お姑さんは毎日必ず私に「ありがとう」と言う。

朝起きて「おはようございます」と挨拶をすると、「おはようございます」の挨拶に付け加えて「お世話になって、いつもありがとう」と言ってくれる。

部屋の掃除をしたり、作った料理を持って行くと「ありがとう」

「おやすみなさい」の挨拶の後にも「お世話になってありがとう」と言ってくれる。

とにかくちょっとしたことにもお礼を言ってくれるので、こちらの方が「いえいえ、私はそんな大そうな事は何もしていないですから」と恐縮してしまう。

でも「ありがとう」を言われて嫌な気持ちはしない。

むしろもっとやってあげようという気持ちになる。

最近、老人介護の仕事に加えて、実の父の介護も加わって、老人と接する機会が多くなったせいもあるが、お年寄りと接しながら自分の老後のシュミレーションをすることがある。

自分はどんな老人になろうかと・・・

やはりありがとう、ありがとうと周囲に感謝できる老人になっていたいなぁと思う。

そして身近で手本になってくれる姑を持ったことは、本当にありがたいことだったと思う。




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父の好きな話は・・・

2014-05-12 16:53:12 | 介護
高齢者住宅に入っている父に会いに行って来た。

部屋のドア横に付いているチャイムを押しても返事が無い。

これはいつものこと。

きっとまた寝ているのだろう・・・そう思いながらそお~っとドアを開けて中に入ると、やっぱり父はベッドに入って寝ていた。

「お父さん、来たよ」と声をかけるとパチリと目を開けた。

そもそも真剣に眠っているわけではないので、声をかけるとすぐに目を覚ます。

父曰く「部屋にいても何もすることがないから寝ている」そうだ。

「昼間はなるべく起きていたほうがいいよ。すこし歩くとかね」と話したが、父には「馬耳東風」・・・いや「馬の耳に念仏」と言うんだっけ?

とにかく自分がやりたくないことは、絶対にやらないので、どう説得しようが無駄なのだ。

無駄なことだとは分かっているが、父の顔を見るとついつい「起きて」「運動して」「甘いものはほどほどに」「出された食事はちゃんと食べなさいよ」など、父にとっては聞きたくないことを言ってしまう。

それにしても、最近の父はとても元気になった。

顔色も良く、つやつやしている。

毎日栄養バランスの取れた食事を食べて、お風呂に入ってヘルパーさんに綺麗に洗ってもらっているからだと思う。

ひとり暮らしの時は、食べる時間もばらばらだったし、好きなものばかりしか食べていなかったし、お風呂に関しては「面倒くさい」と言って何日も入っていなかった。

だから身体も頭も衰弱していたのだろう。

それに比べれば、今は家族としてはとても安心できるし、父にとっても良いことだったと思っている。

「ここは天国だ。至れり尽くせりで、本当にありがたい」

そう言って職員さんたちに感謝していた父だったが、元気になるにつれて、また至れり尽くせりの生活に慣れるにつれ、様子が変わってきてしまった。

父は6人兄弟の末っ子で生まれ、家が貧しかったため高校を卒業するとすぐに公務員になった。

しかし、どうしても大学へ行きたかった父は、昼間は公務員として働き、もらったお金で夜間の大学へ進んだそうだ。

そしてその頑張りもあって、公務員時代はそこそこの地位まで上った。

その後、民間会社に天下りをする。

今は天下りなんて時代ではないかもしれないが、昔は何社もの中から選ぶほど就職先があったそうだ。

いつも周囲から頭を下げられ、父は徐々に「自分は偉い」と勘違いをするようになった。

もちろん父のおかげで、私たちは食べさせてもらい学校にも行かせてもらったわけなので、私たちきょうだい一同、父にはとても感謝している。

・・・が、父の「大好きな」地位と名誉の話を延々と聞かされるのは嫌だった。

きょうだいはもちろん、母まで父のその話が始まると渋い顔をしていたことを覚えている。

そしてまた最近、父が元気になってきてからは以前にもまして、「地位と名誉の話」が父の口から延々と語られるようになった。

こんなにおしゃべりするのは元気になった証拠かも。

口数が少なくなって弱った父でいられるよりいい。

そう思って、話を聞くのは上の空で適当にうんうんと相槌を打ちながら、父が満足するまで話をさせてあげていたのだが、昨日は「うん?ちょっと待ってよ」という気になる話が聞こえてきた。

父が言う。

「私はこの施設で最高金額のお金を支払っているのだから、ちゃんと世話をしてもらうのは当たり前だと、ヘルパーに言ったんだ」

「ええーっ、お父さん、そんなこと言ったの!?それは違うよ、ここの家賃はみんな一緒なの!

だから、別にお父さんがたくさんお金を払っているとか、そういうことは無いんだよ」

すると父は「そうか、てっきり自分が一番高い家賃のところに入っているのかと思っていた」と言う。

「そんなことばかり言っていたら、何言ってんだ、このじじぃは・・って思われるよ」

父の話を聞くと、どうも部屋に来る職員さんたちに向かって、自分の過去の栄光の話を繰り返し繰り返し聞かせているらしい。

職員さんたちは父が認知症だと分かっているので、「そーですか、すごいですねー」と父をおだてて聞いてくれるようだが、おだてられると父は嬉しくなって、また話に力が入って同じような話を繰り返す。

本当に父の面倒を見てくださっている職員さんたちには、申し訳なさで一杯になるのと同時に、娘の私の方が恥ずかしさで穴が在ったら入りたくなる。

父がいまだに地位と名誉に執着してこだわるように、人間は年を取るとますます執着が強くなる人が多いと老人と接するヘルパーの仕事をしていると感じる。

私は年をとって何に執着を持つのだろうか?

長女チェリーかな?

障害のあるチェリーのことは、やはり最後まで心配だ。

あとはなんだろう。。。どちらにしろ何物にもとらわれず、花が散って葉が散って、そして幹が枯れて最期は土に帰るように静かに枯れて生きたいと思う。

父の事は周囲にはご迷惑をかけているが、元気になったのでよしとしよう。









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写真を見ながら認知症改善作戦

2014-04-18 16:58:55 | 介護
高齢者住宅にいる父が認知症と診断されてから一年。

「投薬は認知症を遅らせるだけであって治すことはできません。ゆっくりですが徐々に進行していくでしょう」

そう医師からは言われていた。

あれから一年がたち、父の認知症は「進んだかな」と感じる時と「良くなっている?」と思う時が混在している状態だ。

冬の間はボーっとした顔で反応が鈍く、認知症が進んでいるように思えたが、最近の父は話すことの辻褄が合っていて、けっこうしっかりとしている様に思える。

これは気候が良くなってきたせいか、最近やっているという自転車こぎマシーンの運動の成果か、はたまた職員さんたちの話しかけ等の手厚い介護のおかげか。

多分、そのどれもが良かったのだろう。

特に職員さんや看護師さんなど毎日必ず誰かと顔を合わせて会話をしているということが、よい刺激になっているのだろうと思う。

ひとり暮らしだった頃は、他人と会話をすることなどあまりなかった父だったので、あのままひとり暮らしを続けていたら、今頃はもっと認知症が進んでいたかもしれないと思う。

ところで、父の部屋にある冷蔵庫の扉には孫達や父のペットのオカメインコの写真がたくさん貼られている。

それらは父が寂しくないようにと、私や妹が貼った写真だ。

父が言うには、部屋に来る職員さんたちがよく写真を見て行くのだそうだ。

そして、それをきっかけに父と会話が弾むらしい。

それで思い出したことがあった。

以前、テレビでやっていたのだが、ある老人施設では認知症を改善させるために「写真」を使った取り組みをしているそうだ。

それは患者自身が写した写真でもよいし、患者の昔の写真でもよいのだが、それを見ながら他の人と話をするというものだった。

周囲の人がその写真について質問をして、認知症の患者さんが答えていた。

写真を見ながら、そのときの事を思い出して言葉に出すというのが、認知症の改善に効果があったという内容だったと思う。

妹にそのことを話したところ「じゃあ、写真付きの家系図を作って部屋に貼ってあげよう」と妹が言う。

「それはいい考え!」ということで、実家の古いアルバムから写真を持ってきたり、私たち子供の家族写真などを集めて家系図を作った。

家系図と言っても、父の方は私の祖父の時に北海道へ渡ってきたので、父も私たちも先祖のことはほとんど知らない。

私の祖父は20歳の時に家出をして来たそうで、その後ふるさとには帰らなかったため、本州にいる親戚とは付き合いもなく、今ではまったく分からなくなっている。

かろうじて父の祖父母に当たる方々の写真が一枚と、その息子達つまり父の二人の叔父の写真が一枚ずつ見つかった。

父にそれらの写真を見せると、父は祖父母には会ったことがないと言った。

これは祖父がふるさとに帰らなかったということから、父が忘れているのではなく本当の事だろうと思う。

祖父は故郷には帰らなかったが、両親が写ったたった一枚の写真は大切に持っていたのだろう。

父の話によると、祖父母は訪ねて来る事はなかったが、祖父の二人の弟である叔父達は遊びに来たそうだ。

父が子供だった頃、二人の叔父に会ったことを父はよく覚えていて話をしてくれた。

私と妹も初めて聞く話だった。

また父は叔父たちの名前もちゃんと覚えていて、叔父達の写真の下にその名を書き込むことができた。

出来上がった家系図を見ながら、父と妹、そして私の3人でしばらく話が盛り上がったのだが、「ところで・・・」と父が言った。

「ところで、○○(私の弟)の娘の名前は○子と言うんだったか?」

「違うよ、お父さん。それはお嫁さんの名前だよ」

どうやら父は昔1~2度しか会ったことのない叔父さんたちの名前は覚えているが、自分の孫の名前は忘れているようだ。

でも、これでしばらくは職員さんたちとも話題に事欠かないかな~

孫の名前も忘れないようにねと願いながら、出来上がった家系図を父の部屋の壁に貼った。








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仲直り

2014-04-10 17:48:55 | 介護
久しぶりに妹と二人で食事をした。

妹とは2月始めに父の介護をめぐって意見の相違があり、抑えていた怒りを私が妹にぶつけたことから、お互いになんとなく気まずい感じになり、それ以来ずっと会っていなかった。

その間まったく連絡はしていなかったのかというとそうではなかった。

このままの状態ではよくないと思った私は、なぜあの時、私が怒ったのかをきちんと話さなければと思っていた。

そこで2~3度電話をしたのだが、妹は用事があったのか分からないが、その時にすぐに電話に出ることは無く、いつもあとから電話がかかってきた。

しかも、いつも出先からかけてくる電話だった。

妹が自宅からの電話じゃないので、こちらも込み入った話などできない。

「もしかしたら妹は、この前のことを蒸し返されたくないのかもしれない。だから用事だけ話して電話を切りたいのかも・・」

そう思ったら、あえてそのことには触れなくてもいいか・・・と言う気持ちになり、父についての事務的な話だけをして電話を切った。

その後は、用事も無かったのでこちらから連絡をするということはせず、もちろん妹から連絡が来ることはなかった。

あれほど頻繁に長電話をし合っていたのに・・・と思うと、なんだか悲しかった。

しかし一方で、妹の言葉を思い出しては怒りの感情が湧きあがってくるのも事実だった。

自分はまだとても怒っているのだと分かった。

そして、この怒りの感情が湧きあがってくる間は、やはり妹と距離を置こうと思った。

姉妹や兄弟というのは、成人してお互いに家庭を持ったりすると、限りなく他人に近くなってしまうものなのだろうか。

一つ屋根の下に暮らしていた頃は、喧嘩をしてもしばらくするとなんとなく仲直りができたものだったが、お互いに家庭を持って離れて暮らすようになると、頻繁に顔を合わさない分、なかなか仲直りをするきっかけがつかめない。

こうして妹と距離をとるようになると、今までの妹との出来事などをよく考えるようになった。

そんな時は、喧嘩の原因となった妹との会話が思い出されてきて怒りの感情が湧いてきたり、悲しみの感情が湧いてきたりした。

また時には、今まで妹がしてくれたことを思い出して後悔する気持ちが湧いてきたりもした。

妹とぎくしゃくしてからしばらくは、妹のことを考えると怒り、悲しみ、後悔と言ったネガティブな感情が現れてきて苦しかったが、妹のこと以外では、普段の生活の中には喜びや嬉しさの感情も感じた。

日々、自分の中に色々な感情が湧いてきては消えていった。

人はこうして自らの中に色々な感情を作り上げて生きているものだったのかと、あらためて考えていた。

そうか、この感情を作り上げているのは他でもない自分自身だったのだ。

その出来事は出来事として起っただけのこと。

しかし、その出来事に対する私の感情や解釈の仕方で、自分の感情はこんなにくるくると変わるものなのだ。

昔、読んだ詩集の一遍が思い出された。

自分の感受性くらい

自分で守れよ

ばかものめ


詩人、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩の一文だが、ネガティブな感情が湧きあがってきそうになると、なぜかいつもこの詩が思い出された。

この前、本当に久しぶりに妹から父の事で電話があり、その時にゆっくりお互いの気持ちを話し合うことができた。

まるで冷たい氷が解けていくような気がした。

そして二人で食事に行った。

妹の話も聞き、妹に対する思いやりが私には足りなかったと反省した。

数ヶ月間の妹との関係は辛かったが、今回は自分自身を見つめるよい機会になったと思っている。







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歩こう

2014-01-14 15:50:43 | 介護
お正月に高齢者住宅にいる父には会ったが、また顔を見に行こうと思った。

妹の話では、相変わらず日中も寝てばかりで、ほとんど歩かずにいるので、足がさらに弱っていると言っていた。

それで私は、父の顔を見れば「廊下を歩いたほうがいいよ。歩かないでいたら、足が弱って歩けなくなるよ」といい続けていた。

このままでは寝たきりになってしまうかもしれないと言う危機感があった。

しかし、父には、そんな危機感も歩こうという気力も、ほとんどない。

内臓的には健康なのだが、気力のなさは認知症の症状なのかもしれない。

父の足を鍛えるべく、できるだけ父を外へ連れ出すようにしてきたが、今は雪が積もり、外での散歩は難しくなった。

しかし、先日「どう、たまに外出する?」と電話で聞くと、なんと父は「行きたい」と答えた。

そこで、一緒にスーパーで買い物をして、その帰りに、昔、父がよく行ったというおすし屋さんで食事をする計画を立てた。

ところが、父と出かける約束をした日は、なんと猛吹雪になってしまった。

吹雪の中、雪が積もった道を、父を歩かせるのは、駐車場からお店までの短い距離とはいえ大変だ。

そこで、スーパーは中止にして、お寿司を食べるだけにしたのだが、ここで事件が起こってしまった。

そのおすし屋さんは、父が高齢者住宅に入る前に、よく通っていたお店だったが、父はお店に来ると、必ずビールの中ジョッキを1~2杯飲んでいたそうだ。

今回も父は、いつものように中ジョッキーを頼み、そして美味しそうに最後まで飲み干したのだったが、帰り際、お店の出口で具合が悪くなってしまった。

顔面は蒼白で、とても帰れるような状況ではなく、しばらくお店で休ませて頂いた後、なんとか車に乗せて高齢者住宅へ帰ることができた。

当たり前だが、年を取り、もう昔のようにビールを飲むことはできないのだと思った。

その日の夕方、父の所から帰ってきた私は、すこし寡黙になっていた。

すると、夫が「お父さん、内臓は丈夫だから長生きするって」と、私を元気づけようとして、そう言ってくれた。

そんな夫の気持ちはとても嬉しかったが、実は別の事を考えていた。

父は会うたびに、弱っているように思えた。

一ヶ月と言ってられないくらい、あっという間にできないことが多くなっていく。

そんな父のお尻を叩くかのように「歩け、歩け」と言う事は、はたして良いのだろうかと考えていたのだった。

ずっと寝ていたいのなら、もうそうして好きなようにさせてあげたほうが、父の幸せなのかな・・・とか。

いやいや、でもやはり最後まで自分で動ける方がいいだろう。

今まで寝たきりになった老人を何人も見てきたが、手足の硬直や床ずれなど、本当にかわいそうだった。

「歩け、歩け、歩かないと足が弱るぞぉ~」

顔を見るたびにそう言う口うるさい娘が、一人くらい居てもいいだろうと思う。





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ふっかーつ!

2013-12-13 14:36:07 | 介護
朝方、夢を見た。

私は、ひとりで薄暗い部屋の中にいた。

部屋の扉は、はめ込みの曇りガラスになっていた。

突然、曇りガラスの向こう側に人の顔が映った。

曇りガラスなので、顔の細部などは分からない。

てっきり誰かが来たのかと思ったが、すぐにそれが違うことに気がついた。

なぜなら、人間にしては顔がずいぶん上の方に付いていたから。

それはとても不気味な感じで、なんだか宮崎映画に出てくる妖怪の「カオナシ」に似ていると思った。

その不気味なものを見ていたら、急に涙が出そうになった。

涙が出そうになったのは、恐ろしくて・・・ではない。

自分のふがいなさに腹が立ったからだ。

毎日、感謝想起をして、先祖供養をしているのに、まだこのようなものが寄って来て、それが見えてしまうとは・・・

そう思うと、自分が情けなくて泣きたくなってしまったのだ。

その不気味な顔は、私が見つめていると、すっと消えてしまった。

急いで扉を開けたが、やはりそこには誰も居らず、ただ暗い地下へと降りていく階段だけがあった。

思わず階段の先にある暗い地下に向かって感謝想起の言葉をつぶやいたが、思い直して「エイッ!!」と声を出した。

一刻も早く、あの不気味なものを払いたかったから。

それにしても、我ながら気合の入ったよい声がでたなぁと思ったら、突然耳元で「払ってくれたのか?」という声がした。

「父の声だ」

そう思った途端、目が覚めた。

なぜこんな変な夢を見たのだろう。

実は心当たりがあった。

先日、病院で検診を受けた父だったが、腎臓に異常が見つかってしまった。

医師からは、大きな病院でもう一度診てもらうように告げられた。

さっそく紹介された総合病院の中にある泌尿器科で、造影剤を入れて写真を撮ったところ、右側の腎臓から出ている管が、内部にできている何かによって、とても狭くなっている事が分かった。

父に付き添った妹によると、医師からは「このような場合、ほぼ腎臓の全摘出になります」と言われたそうだ。

驚いた妹が「薬でなんとかならないのですか?」と聞いたところ、「薬だけでは無理でしょう」とのことだった。

高齢で体力が落ちている父に手術とは・・・

手術なんてしたら、このまま寝たきりになってしまうかもしれない。

認知症の悪化も心配だ。

とりあえず後日カメラを入れて、さらに詳しく調べることになった。

「何かできてるって、それって癌のことかな・・・」

そういう妹の言葉に「そうかもしれない」と思った。

そして、父に全身麻酔をかけての検査が行われる日、私は夢を見たのだった。

「このままにしておくことはお勧めしません。手術したほうがいいです」という医師の言葉を、遠く離れている弟にも伝え、そして兄妹で相談した結果、それに従おうということになっていたので、腎臓摘出も覚悟していた。

高齢だから仕方がない。

医師におまかせするしかない。

そう腹をくくり、普段はなるべくそのことは考えていないつもりだったが、やはり心の中に父の事が鉛のように沈んでいた。

だから、あんな変な夢を見たのかもしれない。

ところが、結果はまさかの大どんでん返しだった。

詳しい検査の結果、腎臓の管の中にはナニもなかった。

ただ昔、炎症を起したような跡があったこと、隣に太い血管があることと、前立腺肥大もあって、それによって管が圧迫されて狭くなっていたことが分かった。

だから腎臓の手術はしなくてもよくなり、飲み薬だけで治療をすることになった。

もちろん、すぐに退院もできることになった。

麻酔から冷めた父が、病院のベッドの中で、ピースサインをしている写真が、付き添っていた妹から送られてきた。

「ふっかーつッ!!」

笑顔でピースサインをした父の写メに添えられた言葉が、嬉しくも可笑しかった。










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