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ゆめと心理と占いのはなし
Por donde, amor, he de ir?
 Rosalia de Castro

落雷と母の記憶ー 認知症の内側

2013-11-26 20:29:23 | 日記

2000年ごろから、一人暮らしをしていた母が同じ話を何回もするようになって、姉弟で「おかしいね」って話しをするようになった。具体的に生活の問題が生じていたわけではなかったし、パートの仕事もしていたので、その時はその後の展開を予想できなかったけど、とりあえず、次女家族が引き取り同居することになって、車で1時間ほどのところに住むぼくが週一くらいでお手伝いに行くということになった。まだ認知症への理解が浅かったので当時は気づかなかったけど、今思うと確実に認知症の初期段階にあったと思う。

1年もしないうちに、長女が「自分が引き取りたい」と言いだして、次女の家も子供が受験なので、「助かるわ」ってことで母を送りだした。しかし、その引っ越しは確実に母の認知症を進行させた。そして、認知症の症状をほとんど冷静に理解できない長女の家庭は、いわゆる高EEで、結果、2年くらいでまた次女のところに戻ることになった。当時の母は、まるで認知症に関する書物を台本にして主演女優を演じている感じで、「主たる介護者」の負担が急激に大きくなっていた。

この3回目の引っ越しは、母の症状を確実に進行させた。すぐに家事が全くできなくなり、食事もお箸が使えなくなり、トイレの場所もわからなくなることが多くなり、着替えも自分だけではできなくなった。デイサービスも週3通っていたけど、嫌いだったカラオケなんかの日程がある日とかは、早朝に体調の異変を訴えるなど、「わがまま」が多くなっていった。介護者は、被介護者がデイに行くときが自分の時間となるので、被介護者が急に「行きたくない」と言いだすと、せっかくの息抜きの予定が潰れてしまう。教師だった人は介護が大変になると言われるけど、母も独身時代は小学校教師だった。

だんだんと感情の表現が少なくなってきた。薬の副作用もあってパーキンソン病の症状が出始め、一日中座ったきりになることが多くなって、ある意味で介護は楽になったけど、入浴や下の世話をする次女の負担は大きくなっていったのは間違いない。そんなとき、施設への入所を姉と話したことがある。ぼくが4か所ほど見学させてもらって、姉に報告し、お金の工面とかもいろいろと考え、「もっと大変になったら仕方ないね」って、二人で覚悟を決めたこともあった。でも、大変になればなるほど、次女はだんだん最後まで自分の家で看るという気持ちが強くなってきたみたいだった。

そんなある夏の日の午後、母と二人きりでいたら、急激に雷雲が広がって、一気に暗くなって猛烈な雨と落雷が襲ってきたことがある。ベランダの方を向いてロッキングチェアに座っていた母の顔にものすごい光線が当たり、落雷の轟音がしたとき、彼女は背もたれから体を起こし、両手で肘掛の部分を力強く握り、「あれ、入れなあかん」「大変やで」と、急に育った関西の言葉で叫んだ。久しくぶりの母の大声にびっくりして彼女の顔を覗き込むと、不安と恐怖があふれていた。そのあとも洗濯物をどうするとか、いろんな指示をしてきたけど、落雷が彼女のかつての記憶を呼び覚ましたというより、彼女の回想がその雷を呼んだような気がして、こちらも少し恐怖に襲われた。

認知症の人が話をしなくなり、動かなくなり、表情を変えなくなったとき、いったい彼/彼女の内面では何が起こっているのだろうか。意識がぼんやりすると言われるが、意識がなくなるわけではない。雷が鳴ったり、急激に雨雲が広がると、今も母のあの時の顔が鮮明に浮かび上がってくる。


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