突然涙があふれて言葉が出ないときがある。何年か前、母が病院で亡くなったとき、玄関口まで出て電話で叔父と叔母にそれを知らせようとしたとき、自分の名前を言ったあと、嗚咽で話しができなくなった。叔父と叔母がそれを察して、こちらが伝えたかったことを言ってくれて、ぼくはそれに「うん、うん・・・」と声を出すだけの状態になってしまった。
亡くなったベッドの脇では涙は流れたが嗚咽はなかった。覚悟していたからってこともあるけど、苦しがっていた母のやすらかな顔に少しホッとしたところもあったので、溢れるような感情は湧き上がってこなかった。でも、病院の玄関口で叔父、叔母の声を聞いたら突然、予期せぬ感情が溢れ返った。あのときのことは今も鮮明に覚えている。
10月に友人が亡くなったときも葬儀では嗚咽するようなことはなかったのに、出棺したあとに友人の元妻から声をかけられたとき、一瞬涙があふれて声が出なかった。向こうもつられたのか、数分の間、お互い見つめ合いながら泣いた。
情動のコントロールは難しい。基本的にその強さは数値で表示できないし、何億というシナプスの間を電気信号が一瞬にして駆け巡り、結果として涙腺が過敏になり、喉元が不随に痙攣してしまうのだ。たぶん、叔父叔母の声や元妻の顔がある懐かしいものを想起させ、それがきっかけとなって情動のコントロールが喪失するのだろう。その声や顔と、嗚咽までの何秒かの心的変化の解析ができるといいんだけど、振り返ってみるとそれは全く一瞬の出来事で一枚の画像できかないのだ。
亡くなったベッドの脇では涙は流れたが嗚咽はなかった。覚悟していたからってこともあるけど、苦しがっていた母のやすらかな顔に少しホッとしたところもあったので、溢れるような感情は湧き上がってこなかった。でも、病院の玄関口で叔父、叔母の声を聞いたら突然、予期せぬ感情が溢れ返った。あのときのことは今も鮮明に覚えている。
10月に友人が亡くなったときも葬儀では嗚咽するようなことはなかったのに、出棺したあとに友人の元妻から声をかけられたとき、一瞬涙があふれて声が出なかった。向こうもつられたのか、数分の間、お互い見つめ合いながら泣いた。
情動のコントロールは難しい。基本的にその強さは数値で表示できないし、何億というシナプスの間を電気信号が一瞬にして駆け巡り、結果として涙腺が過敏になり、喉元が不随に痙攣してしまうのだ。たぶん、叔父叔母の声や元妻の顔がある懐かしいものを想起させ、それがきっかけとなって情動のコントロールが喪失するのだろう。その声や顔と、嗚咽までの何秒かの心的変化の解析ができるといいんだけど、振り返ってみるとそれは全く一瞬の出来事で一枚の画像できかないのだ。
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